ゾンビ公認:この人間は食べられません   作:めぇ

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第35話:帰る場所

 

朝の山の空気は、痛いほどに澄み切っていた。

 

大きく開け放たれた窓からは、初夏の木々を激しく揺らす風が、朝の湿り気を帯びたまま静かにリビングの奥へと流れ込んでくる。昨夜まで蔦に覆われた薄汚れた廃墟だったとはおよそ思えないほど、別荘の中は徹底して整えられていた。

 

チリ一つなく磨き上げられた木の床。

元の位置へと綺麗に整えられた調度品や家具。

そして、シミ一つない白いクロスが掛けられたテーブル。

 

賑やかな朝食の時間はとっくに終わり、今はただ、それぞれが静かな時間を楽しむ贅沢なティータイムだった。テーブルの上には、パティシエゾンビが今朝の仕込みの合間に焼き上げたという小さな焼き菓子が端正に皿へと並び、香り高い紅茶と、深いコクのコーヒーが優しく湯気を立てている。

 

烏丸は革張りのソファへと深く腰掛け、クッキーを一枚、細い指先で口へ運んだ。

 

「美味しい」

 

その混じり気のない一言だけで、少し離れた廊下の隅に控えていたパティシエゾンビは、生前の誇りをすべて満たされたかのように小さく胸を張った。

(お気に召して何よりでございます、若旦那様。今日という日も、完璧な甘美から始まりました)

 

関口は手の中で心地よい熱を放つコーヒーカップを片手に窓の外の景色をじっと眺めていた。

手入れの施された広い庭では、ハヤテたち三匹のゾンビ犬が新しく加わった子犬の小さな歩調に合わせるようにして、静かにじゃれ合いながら遊んでいる。ドッグトレーナーゾンビは、少し離れた木陰から、その犬たちの不器用な調和を満足そうに見守っていた。

 

絵に描いたような平和だった。

耳が痛くなるほどに、静かだった。

あまりにも、静かすぎた。

 

関口は真っ直ぐに広がる森の奥を見たまま、肺の底の声を小さく呟く。

 

「……静かすぎる」

 

その瞬間、リビングや廊下の薄暗がりに控えていたゾンビたち全員が誰に合図されたわけでもなく、ほぼ同時に関口の方へとその視線を向けた。

 

―――そして、全員が静かにそして完全に呼吸を合わせるようにして、

 

コクリ。

 

と、一斉に深く首を縦に振って同意してみせた。

かつて同じ資産家一族のために何十年も汗を流し、その生活の安全を守り続けてきた者たちの完璧な連帯だった。

関口はゾンビたちのあまりにも完璧な危機管理の同期に、思わず小さく苦笑する。

 

「……どうやら、静寂に違和感を覚えていたのは私だけではなかったらしい」

 

烏丸だけが、その一糸乱れぬ大人たちの気配の切り替わりに、きょとんとした目を向けた。

 

「みんなどうしたの?」

 

関口は、冷めかけたコーヒーカップを静かにテーブルへと戻した。

 

「いや」

「ここにいる全員が、同じ『違和感』を計算していただけだ」

 

烏丸は促されるように、窓の外の景色を見渡した。

視界に映るのは、どこまでも深く連なる山並みだけだ。聞こえてくるのも、遠い鳥の鳴き声。木々を揺らす夏の風。そして、さやさやと擦れ合う葉の音。

 

「静かで、いい所だけど」

「そうだな。それは間違いない」

 

関口は深く頷いた。

 

「だからこそ、今のうちにすべてを確認しておきたい」

「確認?」

「この家だ」

 

関口は、テラスの向こうの深い森へと鋭い視線を移す。

 

「まだ昨夜の時点では、生活できる状態にすることを優先したからな。俺たちの目で直接見ていない箇所がまだ多すぎる」

 

烏丸も「ああ」と、その元管理官の論理的な言葉の重みを納得したように頷く。

 

「確認だね」

 

「そういうことだ」

 

関口が最後のクッキーを烏丸の口に押し込む。咀嚼が終わったことを確認すると迷いなく立ち上がる。

その動きに合わせるようにして、部屋中のゾンビたちも、それぞれの持ち場から音もなく静かに動き出した。

 

烏丸も、足元の子犬を優しく促すようにして立ち上がる。

 

「じゃあ行こう」

 

関口は軽く頷いた。

「まずは、この別荘の安全確認から始めよう」

 

関口と烏丸がリビングを離れて廊下へ出ると、そのすぐ後ろを執事ゾンビが音もなく静かに続いた。

 

さらに、その後ろから、工具箱を持った設備管理担当。

レンチをポケットに入れた自動車整備士。

真っ白なコック帽を直した総料理長に副料理長、パティシエ。

犬たちの手綱を握るドッグトレーナーに白衣の獣医、そして胸元にバッジを付けた警備員。

別荘を瞬く間に蘇らせた面々が誰に呼ばれるでもなく自然と集まり、二人の少し後ろへと整然と並び立った。

 

関口は埃一つなく掃き清められた廊下を改めて見回す。

 

「昨夜は最低限しか見ていないからな」

「地下、設備、倉庫……その辺りを重点的に確認したい」

 

関口がそう呟いた瞬間、一歩前に出たのは、設備管理担当ゾンビだった。

視線を向けると、彼は迷いのない実直な動作で廊下の突き当たり奥を指差した。その先には、外壁のコンクリートに埋め込まれるようにして、頑丈な一枚の鉄製の扉が沈黙している。

 

関口が足元を確かめながら近付く。

 

「ここか」

 

設備管理担当ゾンビは、その硬い問いかけに深く頷いた。

ノブを回して扉を開く。向こう側に広がっていたのは、ひんやりとした冷気と薄暗がりが支配する、地下へとまっすぐに続くコンクリート階段だった。

 

「地下設備だな」

 

設備管理担当ゾンビは再び静かに頷く。

すると、その横を油の染み込んだ作業着を着た整備士ゾンビが通り過ぎ、今度は階段とは全く別の方向を指差した。

その指の先には、重厚な大型シャッター。

 

関口はそちらに目を向ける。

 

「……車庫か」

 

整備士ゾンビは、その言葉に満足そうに頷いた。

烏丸は、そんなゾンビたちの様子を少し嬉しそうに見つめていた。

 

「ちゃんと役割があるんだね」

「らしいな」

 

その頃、ドッグトレーナーゾンビは開け放たれた勝手口から再び広い庭へと向かっていた。

その足元を、生身の小さな子犬が嬉しそうにトコトコとついて行く。ハヤテも、寡黙なシェパードも、人懐っこいレトリバーも、当然のようにその不器用な歩みの後ろへと続いていった。白衣を着た獣医ゾンビも、犬たちの体調をいつでも見守れるようその集団へ静かに加わる。

 

警備員ゾンビは、敷地の防衛線を確実なものにするために別荘の外周へと消えていき、残された設備担当ゾンビと執事ゾンビだけが、二人の真横へと控えていた。

 

「……」

 

関口は、それぞれが蜘蛛の子を散らすように自分の職場へと消えていく周囲を改めて見渡す。

誰一人として、大きな声で命令なんてされていない。互いに言葉を交わす相談も、作戦会議もない。

それなのに、彼ら全員が自分のやるべき仕事だけを完璧に理解して一ミリの迷いもなく始めている。

 

烏丸は、そんな生前と変わらぬプロとしての意地を見せる彼らの様子を見て、静かに笑う。

「みんな、楽しそう」

 

関口も、その青年の無垢な言葉に静かに頷いた。

「ああ」

 

「これだけ自分の培ってきた仕事が完璧に出来る場所は……今のこの滅び去った世界では、もうここ以外にはほとんど残っていないんだろうな」

 

思わず感嘆混じりに漏れたその一言に。真横にいた執事ゾンビが、かつて資産家一族を支えていた頃の誇りを取り戻したかのように、ほんの少しだけ嬉しそうに胸を張った。

(お褒めに預かり光栄でございます、旦那様。我らの技術は、世界がどうなろうとも衰えはいたしません)

 

 

 

 

 

 

 

 

設備管理担当ゾンビの案内で、二人は地下へと続く階段をゆっくりと降りていく。

一段降りるごとに、外の夏のぬるい日差しとは対照的な、ひんやりとした無機質な空気が頬を優しく撫でた。

階段を降りきった先に広がっていたのは、コンクリート打ちっぱなしの広大な地下空間だった。設備管理担当が先回りして繋いだおかげで、天井の古い蛍光灯はすでに一本のチラつきもなく点灯している。

 

設備管理担当ゾンビが静かな足取りで壁際へ歩き、鉄製の巨大な配電盤の前で立ち止まった。

そのすぐ横には、何年間も油を絶やさずに維持されてきたであろう、頑丈な非常用大型発電機。さらにその奥の暗がりには、別荘全体の生命線を握る巨大な貯水タンクが沈黙し、天井一面には太い鉄製の配管が血管のように縦横無尽に走っていた。

 

関口はそのあまりにも手入れの行き届いた地下の全景を前にして、思わず足を止める。

 

「……これは」

 

設備管理担当ゾンビは大きな配電盤の蓋を、指先で軽く叩いてみせた。

 

コン。

 

続いて、大きな発電機のスチール製の外装へと歩み寄り手のひらで触れる。

 

ポン。

 

さらに、貯水タンクの頑丈なバルブの根元を優しく叩く。

 

コン。

 

そうして一つ一つの設備に触れることで、「(若旦那様、旦那様。電気も、水も、すべて問題ありません。我らが完璧に維持しております)」と、そう誇らしげに報告しているかのようだった。

 

関口は、その職人が見せる実直な所作を受け止め静かに頷いた。

 

「電気と水」

「どちらも生きているのか。」

 

設備管理担当ゾンビは、濁った瞳を細めながら、深くうなずいた。

 

烏丸は、頭上で幾重にも交差して天井へ伸びる太い配管を見上げた。

 

「すごい」

「家って、本当はこんな所で動いてるんだね」

 

「普段は見る機会がないからな。大抵は壁の裏や、地面の下に隠されているものだ」

 

関口も烏丸に並んで天井の配管を見上げる。

 

「……ここまで整備していたのか。屋敷だけだと思っていた」

 

常識を揺さぶられる関口の前で、設備管理担当ゾンビは少しだけ嬉しそうに胸を張った。

 

その横では、いつの間にか工具箱を両手で抱えた自動車整備士ゾンビが滑り込んできており、重厚な発電機の周囲を無言のまま一周しているところだった。

指先でボルトの緩みを確認し、配線の被膜の劣化を見る。オイルの量、残された燃料の質。

それらすべてをプロの目で厳しく点検し終えると、最後に軽く外装をレンチで叩いた。

 

カン。

 

金属の乾いた音が地下室に響き、整備士ゾンビは満足そうに深く一度だけ頷いた。

 

「……完璧だな」

関口は、その一分の隙もない職人たちの手際に、思わず呟いた。

 

地下のライフラインを一通り確認し終えると、整備士ゾンビはそのまま二人をさらに奥の車庫へと案内した。

重い金属製の大型シャッターが、スイッチを押すとゆっくりと静かに上へと開いていく。

 

その先に広がっていたのは、驚くほど整然と工具が並べられた、プロフェッショナル仕様のガレージだった。

壁一面に整頓されたスチール製の工具棚、サイズごとに積み上げられた交換用の予備タイヤ、頑丈な油圧ジャッキ、いくつかのドラム缶に入ったオイルや予備の燃料缶、そして完全に充電された新しいバッテリー。

普通の一軒家には決して置かれない、大型バスの重整備にすら対応できる本格的な整備機材のすべてが塵一つなく揃えられていた。

 

整備士ゾンビは、ガレージの中央に鎮座する大型バスの前まで歩くとそのままその場へ静かにしゃがみ込んだ。

大きなタイヤを、その安全靴の先で軽く蹴ってみせる。

 

コン。

 

足に伝わる反動で空気圧を確かめ、ホイールのナットを指で触り、車体の下回りを覗き込んでオイルの漏れがないかを確認する。

それから静かに立ち上がり、頷いて真っ直ぐ関口の目を見つめた。

 

「……こちらも、今すぐに発車して問題なし、か」

 

整備士ゾンビが、深く一度だけ頷いた。

 

 

烏丸は、そんな大人の秘密基地のような車庫をぐるりと見回して、嬉しそうに笑った。

「何でもあるね。本当に、秘密基地みたいだ」

 

関口も思わず笑う。

「秘密基地にしては、設備が本格的過ぎるがな」

 

ここなら大都市での激しい移動を支えるための、大型バスのあらゆる整備ができる。冷たい闇を遠ざけるための、非常用発電機も永久に維持できる。そして、自分たちの生活を何一つ不自由なくそのまま続けられる。

 

ほんの数日凌ぐための避難所ではない。数週間、あるいはそれ以上の歳月を、安全に過ごすことができる。

この山奥にひっそりと佇んでいた別荘は、もう烏丸と関口にとって二人が帰る場所だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

地下から一階へ戻る頃には、別荘のあちこちからそれぞれの持ち場を守る静かな足音が響き、どこか懐かしい生活の気配が家中に満ち始めていた。

 

総料理長ゾンビたちは、昼食のさらなる仕込みを行うために慣れた足取りで厨房へ。

設備管理担当ゾンビは地下のボイラー室へと引き返し、まだ何やら不快な水圧の揺らぎがないかを念入りに確認している。

そして玄関の扉が静かに開くと、ちょうど屋敷の外周の索敵を終えたばかりの警備員ゾンビが音もなく戻ってきたところだった。彼らはそれぞれが自分の仕事を終えると、言葉を交わすこともなくただ廊下のすれ違いざまに小さく頷き合っていた。

 

関口はその無言の統率を視界の端に収めながら、烏丸と並んで廊下を歩いた。

 

「声を出さずとも、互いの状況を報告し合っているんだな」

 

その呟きに、二人の真横に寄り添う執事ゾンビが、主人の意図を正確に代弁するように静かに頷いた。

 

 

 

廊下の突き当たり。

そこには、他の部屋とは一線を画す重厚な木製の扉が静かに佇んでいた。

執事ゾンビが真鍮のノブに手を掛け、音もなく扉を開ける。

 

開かれた先は、落ち着いた深い琥珀色の光が満ちる書斎だった。

壁一面を埋め尽くす立派な本棚。

中央には大きな一枚板の机。

使い込まれた革張りの椅子。

そして、大きく取られた窓からは、初夏の青々とした山々が一望できた。

机の上には、何年も前に放置されたはずの古びた地図や文房具が、塵一つなく完璧な配置で綺麗に並べ直されていた。

 

烏丸は物珍しそうに、天井近くまで届く本棚を見上げる。

 

「本がいっぱい」

 

背表紙を指でなぞり、一冊の古い装丁の本を棚から抜き取ろうとした時だった。

 

すぐ横から伸びてきた執事ゾンビの手が、驚くほど滑らかな動作でその本を一度受け取った。そして、白い手袋の先で表紙に浮いたわずかな埃を軽く払ってから恭しく両手で烏丸へと差し出した。

 

「ありがとう」

 

烏丸がそれを受け取る。

執事ゾンビは、自分の仕え方になんの不備もなかったことを確信したように満足そうに深く一礼した。

 

関口は、そのあまりにも行き届いた過保護な光景に小さく苦笑する。

 

「完全に世話を焼かれているな、駿?」

「?」

 

烏丸は言葉の意味が分からず、本を胸に抱えたまま不思議そうに首を傾げた。

 

「そう?」

「本人にその自覚が全くないところが、周囲にとって一番厄介なんだ」

 

関口は、その無自覚な静けさに少しだけ目を細めた。

 

書斎を出ると、今度は廊下の向こうにある客室の扉が開かれた。

室内の様子は、昨夜二人が眠りについた時よりもさらに徹底して整えられていた。

シワ一つなくピンと張られた真っ白なシーツ。

日差しを吸ってふっくらとした清潔な布団。

そして、窓際の小さな棚の上にはガラスの花瓶が置かれていた。

どこで摘んできたのか、初夏の山の花が一輪だけ静かに可憐な色彩を添えている。

 

「……」

 

関口はゆっくりと客室を見回した。

長年主を失っていた空間に、生活感はまだない。しかし、ここにあるのはただ”人を迎える”そのためだけの完璧な準備と執念だった。

 

「ここまでやるか」

 

関口が思わず漏らしたその感嘆の視線の先。

後ろの廊下では、数人のメイドゾンビたちが少しだけ緊張した様子で二人の反応をじっと伺っていた。

それはまるで、初めての完璧なおもてなしを終え主人からの評価を固唾を呑んで待つ新人のようでもあった。

 

若旦那様の好みは分かってきたが、旦那様の好みは未知数だった。メイドゾンビは緊張していた。

 

関口は、その健気なプロの意地を受け止め静かに頷いてみせた。

 

「十分だ。これ以上ないほどに、完璧な部屋だ」

 

その一言が落ちただけで、張り詰めていたメイドゾンビたちが一斉に小さく肩の力を抜いた。

烏丸は部屋の真ん中まで歩みを進め、山の風を吸い込みながら部屋を見回した。

 

「落ち着く」

 

ふわりと、心からの小さな笑みが烏丸の唇にこぼれた。

その言葉が廊下の奥まで響いた瞬間、今度は少し離れた場所で床にモップをかけていた別のメイドゾンビまでが、生前のプライドをすべて満たされたかのように嬉しそうに誇らしげに胸を張った。

(若旦那様が、落ち着くと仰ってくださった。旦那様も、お気に召してくださった。これ以上の誉れはない)

 

関口は、別荘のあらゆる場所から一斉に湧き上がったような誇り高い空気感に思わず小さく笑う。

 

「……どうやら、お前のそのなんの気なしの褒め言葉一つで、この家の全員のやる気が跳ね上がるらしいな」

 

烏丸は、周囲のゾンビたちの喜びの波を感じながら、ただ不思議そうに、穏やかに笑い返した。

 

 

 

 

 

 

一通り別荘を見て回り二人が再びリビングへと戻る頃には、屋敷全体の確認作業もほぼ終わりを迎えていた。

 

設備管理担当ゾンビが執事ゾンビへ向けて静かに頷く。

続いて自動車整備士ゾンビも、ガシャリと金属音を立てて工具箱の蓋を閉じて深く小さく一礼した。

総料理長ゾンビたちはこれからの仕込みを終えたのか堂々とした足取りで厨房から姿を現し、副料理長とパティシエもその後に続いて静かに出てくる。そして、敷地周囲の不穏な気配をすべて潰した警備員ゾンビも、外周の巡回を終えたらしく玄関脇の薄暗がりの中で沈黙したまま待機していた。

 

老紳士ゾンビと実務を仕切る執事ゾンビは全員の張り詰めた表情を一度見渡しただけで、すべてを正確に察して小さく頷き合った。

 

すべて、終了。

おもてなしの舞台は、一分の隙もなく完璧に整った。そう判断したらしい。

関口はその無言の神速のやり取りを見ながら、感嘆混じりの重い息を漏らした。

 

「……本当に、口頭の報告もなしで全てが済むんだな」

 

その言葉に、執事ゾンビが「当然でございます」とでも言うように静かに深く頷く。老紳士ゾンビも、かつての生活がここに完全に蘇ったことを確信したように満足そうに気品ある笑みを浮かべて頷いた。

 

烏丸は、先ほど執事ゾンビから受け取った古い本を机に置き、革張りのソファへとゆっくり腰を下ろした。

 

「これなら、安心だね」

「そうだな」

 

関口も、烏丸の向かいの座席へとどっかと腰掛けた。

 

「建物自体に構造上の問題は一切ない。水も、電気も、非常用の発電設備も、大型バスの重整備ができる車庫も、数ヶ月は持つ食料庫も、そして俺たちが暮らす居住区も……どれも十分に、それこそシェルターより遥かに快適に使えるレベルだ」

 

「よかった」

 

ソファの背もたれへ深く腰掛けた烏丸はパティシエゾンビが再び淹れてくれた湯気の立つ紅茶を、温もりを確かめるように両手で優しく包み込むように持ちながら、小さく息をついた。

向かいでは関口が、手の中で心地よい熱を放つコーヒーカップを片手に、静かに身体を休めている。

 

この空間には、穏やかな束の間の時間だけが、ただ優しく流れていた。

 

 

 

 

突然――――ピコン。

 

 

リビングの空気を鋭く引き裂くように、小さな、けれどあまりにも聞き覚えのある電子音が響き渡った。

 

 

部屋のなかにいたゾンビたち全員の動きが、一瞬でピタリと止まる。

そして、他ならぬ関口の身体が一番激しく硬直した。

大停電以来、ずっと忘れていたはずの、かつて人間社会の日常の象徴であったはずの「音」だったからだ。

 

 

烏丸も固まっていたが、ふと顔を上げた。

 

「あ」

 

烏丸はポケットの奥へと静かに手を伸ばし、一台の古いスマートフォンを取り出した。

何ヶ月も沈黙していた液晶画面が、青白い光を放ちながらゆっくりと点灯していく。

 

関口も気になり、ついそちらへ視線を向けた。

画面の隅。ずっと圏外を示し続けていたのに、大都市の電波塔に近いこの山奥の標高のせいか、一瞬だけ、本当に気まぐれのように。

一本だけ、かすかに電波が立っていた。

 

 

そして、ポップアップの通知が画面の中央へ滑り込んできた。

烏丸は、その青白い光を映した濁りのない瞳のまま、画面を見つめたまま彫刻のように動かない。

 

緑色のライム通知の画面に表示されていた、そのメッセージの送り主は──。

 

 

 

 

 

 

 

『家族』

 

未読メッセージ 3件。

 

 

(第35話・完)

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