リビングは、冷たく静まりかえっていた。
スマートフォンの青白い光だけが、烏丸の横顔を淡く照らしている。
誰も動かない。
執事も。料理人も。設備管理担当も。警備員も。
四匹の犬たちでさえ毛並みを揺らすことすらなく、物音ひとつ立てずにその場で静かに息を潜めていた。
ゾンビたちの中に、そこに何が映し出されているのかという事情を知る者はいない。それでも、いまこの瞬間の沈黙だけは、世界がどうなろうとも決して壊してはいけないものなのだと、彼らはその止まった脳の底で本能のように理解していた。
ただ一人。
関口だけが、衣服の擦れる音すら立てずにゆっくりと歩み寄った。
烏丸のすぐ隣まで来ると、立ったまま、低い声をさらに落として静かに問い掛けた。
「……傍に座ってもいいか」
烏丸は、青白い液晶画面から目を離さない。
長い、静かな間があってから、掠れた声が小さく返事をした。
「………いいよ」
関口は何も言わず、その隣へ深く腰を下ろした。
それ以上は、内容を覗き込もうとも、理由を尋ねようともしない。
二人の間には、ただ夏の山風が窓を叩く、静かな空気だけが流れていた。
烏丸は、ゆっくりと震えることのない指先で画面へ触れた。
未読メッセージ 三件。
その文字の上で、一瞬だけ指先が止まる。
そして、そのまま静かに通知のロックを開いた。
一瞬だけ一本立ち上がった電波を伝って、画面いっぱいに、これまで未受信だったメッセージの束が一斉に流れ込んできた。
母。
父。
妹。
何ヶ月もの間、阻まれて届くことのなかった、ありふれた言葉たち。
『今日は何時に帰る?』
『夕飯いる?』
『講義お疲れ!』
『また今度みんなで出掛けよう』
何気ない日常の確認。なんの衒いもない家族の会話。
烏丸はその一つ一つを、立ち止まって読み返そうとはしない。
ただ、指先だけが吸い込まれるように静かに画面を滑っていく。
下へ。
もっと下へ。
もっと。
時間が崩壊へと加速していくその境目へと、スクロールの手は止まらない。
最後まで。
画面の一番下。
すべてが途切れたその場所で、指が完全に止まった。
父。
振り返るな
母。
駿、生きて
妹。
お兄ちゃん逃げて!!
液晶の最下層、その三件の短い叫びを最後に、言葉は完全に終わっていた。
そこから先、既読が付くことはついになかった。
それに対する、自らの返信もない。
無機質な画面の端に静かに表示されているのは、とっくに通り過ぎてしまった、何ヶ月も前の日付だけだった。
その画面を、烏丸は静かに見つめ続けた。
指はもう動かない。
ただ、呼吸の微かな震えだけが、ゆっくりと胸を上下させていた。
部屋の中には、誰一人として声を発する者はいなかった。
窓の外では夏の風が木々を大きく揺らし、ざわざわとした葉擦れの音だけが遠くから響いている。その誰もいない山林の静かな音だけが、この世界の時間がまだ止まらずに流れていることを教えていた。
烏丸の瞳は、液晶の光から離れない。
もう届かない。
もう、どれほど待っても返事は来ない。
あの日。
自分の知らない世界の片隅で、家族の時間は完全に止まった。
そして。
自分だけが、何一つ理由を知らないまま今日まで歩いてきた。
その残酷なまでの事実だけが、誰にも届かない胸の奥へと、時間をかけてゆっくりと深く沈んでいく。
*
関口は、その画面を覗き込もうとはしなかった。
そこに何が書かれているのかを、大人の、そして他人の論理で知ろうともしなかった。
ただ、視界の端に、青白く発光する送信日時だけが、静かに目へ入る。
その日付を網膜が捉えた瞬間。
関口は、自らの肺の息が、完全に止まりそうになった。
(……一日違い)
自分が、変わり果てた世界で、妻と子どもを目の前で失った日。
その、わずか翌日の日付だった。
崩れ落ちた瓦礫の街。
絶叫を上げて逃げ惑う人々。
どれほど全力で伸ばしても、どうしても届かなかった手。
血に濡れて冷たくなっていく、黒いアスファルト。
脳の底に蓋をしていたあの日のあまりにも生々しい景色が、一瞬だけ、鋭い刃物のように脳裏を掠めていく。
(……そうか)
関口は心の中で、隣に座る青年の横顔にそっと語りかけた。
(駿、君も、あの日だったのか)
だが、関口は目を閉じることも、耐えかねたように大きな息を吐くこともしなかった。
言葉では絶対に届かない領域の痛みを、男は誰よりも深く知っていたから。
ただ。
何も言わずに、隣に座り続けた。
いま、自分にできることのすべてとして、それだけを静かに全うしていた。
*
長い沈黙のあと。
烏丸は、ゆっくりと画面を閉じた。
液晶の青白い光が消える。
部屋が一段、暗くなったように感じた。
烏丸は膝の上へスマートフォンを置き、小さく息を吐く。
そして。
「………ああ」
それだけだった。
悲鳴も。涙も。怒りもない。
ただ、その一言だけで、もう二度とあの日常へは帰れないという現実を、全て受け入れた。
関口は、何も言わなかった。
安易な慰めの言葉も、前を向かせるための励ましも、そんなものが今この瞬間の青年にとって何一つ役に立たないことを、かつての自分自身の経験から知っていた。
だから。
ほんの少しだけ、肩を寄せた。
『ここにいる』
言葉の代わりに、その確かな体温だけを伝えるように。
すると、それまで彫刻のように沈黙していたハヤテが、静かに立ち上がった。
主人の前まで迷いのない足取りで歩いてくると、その足元へそっと静かに伏せる。
続いて、シェパード。レトリバー。そして、一番小さな子犬も。
まだ短い足を一生懸命に動かして歩み寄り、烏丸の足先へ自らの小さな身体をぴったりと寄り添わせた。
誰も鳴かなかった。
ただ、失くした場所の代わりに生まれた温もりだけが、青年の足元へ静かに集まっていく。
烏丸は、自分を取り囲む四匹を見下ろした。
ゆっくりと、ハヤテの黒ずんだ頭の毛並みを優しく撫でた。そして小さな、けれど確かな命の熱へと、そっと指先を伸ばす。
それから、再び窓の外へと視線を向ける。
山の木々が、夜の風にざわざわと揺れている。
しばらくして。
烏丸は誰に言うでもなく、小さく呟いた。
「もう帰れないんだね」
誰も返事をしなかった。
その一言は、誰かに向けられたものでも、答えを求めた言葉でもなかったからだ。
ただ、青年の胸の奥から静かに零れ落ちた、剥き出しの本音だった。
部屋の中には、開け放たれた窓から差し込む、山を吹き抜ける夜風の音だけが寂しげに流れている。
その長い沈黙を破ったのは、微かな、本当に微かな陶器の触れ合う音だった。
コト……。
執事ゾンビが音を立てないよう細心の注意を払いながら、温かい紅茶のカップをテーブルへとそっと置いた。白く細い湯気が、暗いリビングの中へ細く立ち上っていく。
続いて、パティシエゾンビが小さな焼き菓子を一つだけ、まるで傷つきやすい硝子細工を扱うかのように皿へ添えた。
彼らは何も言わなかった。何一つ。
ただ。
そこに置く。
ただそれだけのことだった。
総料理長も、副料理長も。その他のゾンビたち全員が。
部屋の隅々、影の濃い場所に静かに立ったまま誰一人として動こうとはしなかった。
駿は、目の前に置かれた紅茶の水面をしばらくの間じっと見つめていた。
それから、ゆっくりとカップを両手でそっと包み込む。掌へとじんわり伝わってくるその確かな温もりを、一つ一つ確かめるように。
小さく、本当に小さく息を吐いた。
その少しだけ肩の荷を下ろした青年の姿を見て、執事ゾンビは胸の前で静かに両手を重ねた。
誰にも気付かれないほど、小さく。
安堵したように、微かに顎を引いてみせた。
烏丸は紅茶を口に運んだ。
誰も何も言わない。
外では山の風が吹いていた。
(第36話・完)
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