翌朝、リビングの大きな窓からは初夏の柔らかい木漏れ日が白いテーブルクロスの端を静かに照らしていた。
駿はいつもと変わらない静かな足取りで部屋へ現れ、ソファへと腰を下ろした。
メイドゾンビたちは普段通りに朝食の皿を並べていく。総料理長ゾンビ、副料理長ゾンビたちもまた、昨日までと何一つ変わらない湯気の立ち上る完璧な朝食を美しくテーブルへと配置していった。
しかし。
駿は目の前に並べられた色鮮やかな料理をしばらくの間眺めるばかりで、一切手を付けようとはしなかった。
ただ、その瞳を静かに執事ゾンビへと向けた。
「珈琲ある?」
駿の求めに執事ゾンビは音もなく一礼すると、細心の注意を払って一杯の深いコクのあるコーヒーを淹れテーブルへと置いた。
運ばれてきたコーヒーを一口、静かに口に含む。
苦味が舌の上に広がったその瞬間。
昨日見た画面が、ふいに脳裏をよぎった。
『いい珈琲豆が手に入った!』
かつての父親の嬉そうな顔。
駿はそれ以上何も言わず、残りのコーヒーをゆっくりと、最後の一滴まで静かに飲み干した。
「オレンジジュースもある?」
空になったカップを見つめたまま、駿がぽつりと尋ねる。
執事ゾンビは戸惑う様子もなくすぐに冷えた果汁のグラスを運んできた。
普段の彼であれば、朝の目覚めには温かいお茶だけを好んで口にしていた。だからこそ、その場に控えていたゾンビたちはほんの少しだけ驚いたようにその背中を見つめた。だが、皆黙って傍に控えていた。
結露するグラスを手に取り、喉へと流し込む。
冷たい甘酸っぱさが広がるのと同時に、今度は妹の賑やかな文字が胸の奥をかすめていった。
『お兄ちゃん、大学の帰りオレンジジュース買ってきてー!』
最後に。
駿の視線はテーブルの隅に置かれた、まだ誰も手を付けていない陶器のティーポットへと向けられた。
立ち上る細い湯気の向こう側で、母の日の少し前に交わした他愛のないやり取りが綺麗に浮かんでは消えていった。
『お兄ちゃん、今年何あげる?』
『紅茶とか好きそう』
『それいい!』
駿はやはり、料理には一口も箸を付けなかった。
何ひとつ食べないまま、ただグラスを置くと、廊下へと向かう間際に眉を落として申し訳なさそうに小さく言葉を落とした。
「ごめん。今日はお昼いらない」
その一言に、厨房の奥にいた料理長たちの肩が一瞬だけ力なく落ちる。それでも、彼らは誰も青年の進路を止めようとはしなかった。
ただ一人、窓際に佇む関口だけがその光景を静かに見つめていた。
関口は白いクロスの上に残されたままの二人分の朝食を見つめ、何も言わないまま自分の席へと腰を下ろした。そして彼の残した料理を、一つひとつ静かに自分の口へと運んでいく。
「食べろ」と彼に押し付けるつもりはなかった。ただ料理長達が死力を尽くして作った料理を、誰の胃袋にも収まらないまま無残に捨てさせたくはなかった。それだけだった。
*
朝食が終わると、駿は一人で静かに裏庭の広大な敷地へと出た。
その背中を追うようにして、黒い毛並みのハヤテが当然のように付き従う。さらにその一歩後ろからは、シェパード系のゾンビ犬と、レトリバー系のゾンビ犬、そしてまだ名前のない小さな子犬の四匹が自然と綺麗に並んでついていった。
それを関口はリビングの大きな窓際から見守っていた。ただ、その不器用な視線の温度だけを、青年の背中へと送り続けていた。
庭の木漏れ日の中、黒い相棒であるハヤテは、呼ばれずとも常に彼のすぐ横を歩いていた。
駿が足元に転がっていた小さなボールを拾い、遠くの草むらへと軽く投げる。
ハヤテは俊敏にそれを追いかけ、器用に口にくわえて戻ってきた。だが、ハヤテは褒めてもらうために尾を振るわけではない。ただ、ボールを置くと、当然の権利であるかのようにその足元へそっと寄り添い深く伏せた。
その時、それまで背後で沈黙していたシェパード犬が一切の足音も立てず、無音のまま凄まじい速度で駿の前へと回り込んだ。
低い姿勢のまま、そのたくましい身体で主人の進路を完璧に塞ぐ。
吠えもせず、ただその太い鼻先で駿の膝を拒むようにして制止させた。そのまま、数秒間だけ前方の草むらを鋭い目のままじっと凝視する。
その直後だった。
激しく揺れた草むらの奥から音を立てて、一匹の野生のウサギが不意に飛び出してきた。
シェパード犬はその小さな命がこちらに危害を加える存在ではないか、あるいはウイルスの媒介者ではないかを、プロの護衛として最後まで見極めていた。ウサギがそのまま何事もなく森の奥へと消え去るのを完全に見届けると、シェパードは力みを抜き、何事もなかったかのように元の位置へと静かに退いていった。
それを見た駿がそっとシェパード犬を撫でた。
「ありがとう、シグレ」
主人の安全確認を最優先にする護衛担当としてのその誇り高い佇まいが、駿の心に確かに伝わっていた。
少し歩いた先で、駿はポケットから取り出そうとした小さなハンカチを不意に地面の草むらへと落とした。
すると、その様子をすぐ横で見ていたレトリバー犬が当然の仕事であるかのように滑らかに頭を下げ、それを優しく口にくわえて拾い上げた。それだけにとどまらず、生前の人懐っこさと健気さを全面に出すようにして駿が肩に下げていた他の荷物の紐までを、自分が持ちますと言わんばかりに健気にくわえようとする。
「ありがとう、ミナト」
烏丸がその柔らかい頭を撫でながら名前を呼ぶと、レトリバー系のゾンビ犬は嬉しそうに喉を鳴らした。
そんな偉大な先輩犬たちの完璧なプロの仕事を、まだ名前のない小さな子犬は大きな耳を揺らしながら一生懸命に真似しようとしていた。
子犬は、ミナトの真似をして地面に落ちていた少し大きめの木の枝を小さな口で一生懸命にくわえようとする。だが、まだ成長途中の幼い身体にはその枝は重すぎたのか、くわえた瞬間にバランスを崩しゴロンと派手に芝生の上で転がってしまった。
駿はそれにかすかに笑みを浮かべた。
それに周囲で様子を伺っていたゾンビたちや、窓から見守る関口の視線が一斉に駿に注がれた。
すかさず近寄ったのは、兄貴分のハヤテだった。ハヤテは転がった子犬の首元を大きな鼻先で優しく突き、大丈夫か、と促すようにして起き上がらせるのを手伝った。子犬はハヤテに甘えるように身体を擦り付け、再びその後に従って歩き出す。そこには、歪で温かい犬たちの兄弟関係が確かに築かれつつあった。
*
駿が四匹の犬たちを連れて庭を歩き、関口が室内の窓から一日中その姿を静かに見守る中。
別荘の屋敷の中は、どうしようもないほどのそわそわとした空気に包まれていた。
庭の掃除など、今朝の時点で完璧に終わっているはずだった。それなのに、大柄な総料理長ゾンビは何故かもう一度立派な箒をその大きな手で握り締め、わざわざ駿が視界に入る場所へ進み出て二度目の庭掃除を黙々と始めだした。
客室の窓辺からは、メイドゾンビがすでに完璧に乾いているはずの真っ白な洗濯物をわざわざ一枚だけ追加で干し直すために、何度も何度も庭の物物干し竿へと足を運んでいる。
実務を仕切る執事ゾンビにいたっては、手元にクロスを持ったまま、リビングの同じ大きな窓の前を「窓の点検を行う」とでも言うように不自然に三回も往復して通り過ぎていった。
さらに、車庫の奥からは運転手兄弟が用もないのに何度もエンジンの始動確認を繰り返し、その重低音を山林に響かせている。
地下の薄暗がりでは、設備管理担当ゾンビが不必要にスパナを握り直し、すでに完璧なはずの給水配管をトントンと何度も叩いて点検を繰り返していた。
彼らはどうしても駿が気になって仕方がなくて、全員がそれぞれに異なる不器用な用事を作り出しては静かに庭の横を通り過ぎ、あるいは気配を探り続けていた。
(若旦那様、何か食べてくださらないだろうか……)
そんな本音を完璧に覆い隠したまま、彼らはただそれぞれの仕事に没頭するフリを続けていた。
厨房の中では、総料理長ゾンビたちがすでに夜に向けて動き出していた。
烏丸は朝の時点で「昼はいらない」と、彼らの仕事を尊重してちゃんと言ってくれている。だからこそ、料理長たちは昼食の準備をきっぱりと諦める代わりに、一つの強固な意志を脳の底で共有していた。
(夜だけは、何があっても、絶対に全てを美味しく食べてもらおう)
若旦那様の傷ついた心に寄り添うために、自分たちにできる唯一の仕事。料理長たちはいつも以上に、それこそ生前をも凌駕するほどの恐ろしい執念を込めて夜のディナーのための静かな仕込みを進め始めていた。
*
やがて、深く連なる山並みの向こうへとゆっくりと陽が落ち、別荘の周囲に静かな夜の帳が下りる頃。
一日中、庭の緑の中に身を置いていた駿が、四匹の犬たちを従えて、ようやく屋敷の玄関へと戻ってきた。
執事ゾンビが、その足音を察して完璧なタイミングで重厚な扉を開け放つ。
冷たい夜風と共に玄関ホールへと足を踏み入れる駿の唇から不意に、なんの衒いもない一言が零れ落ちた。
「ただいま」
それは本人の自覚すら全くない、無意識のなかに宿った言葉だった。
その響きがホールを満たした刹那。
出迎えた執事の細い手が、ピタリと止まった。
出入りしていたメイドたちの足取りも、完全に止まる。
厨房の奥から様子を窺っていた料理長たちの視線も、硬直した。
誰も動かない。誰も声を発しない。
ほんの、数秒の、濃密な静寂。
何かが、今この場所に、確かに静かに流れ込んできた。
それからだった。
まるで最初からすべてが示し合わされていたかのように、屋敷中のゾンビたちが一斉に深く、美しくその頭を下げてみせた。
その瞳に、生前の一生をかけても届かないほどの心からの嬉しさを湛えながら。
(お帰りなさいませ、若旦那様。我らの、かけがえのない我が家へ)
それは、言葉にならない最大級の祝福だった。
その波のなか。
窓際に立つ関口だけはそれまで張り詰めていた表情を静かに、優しく和らげた。
そして、リビングの中央に佇む老紳士ゾンビだけは、周囲のゾンビたちのように頭を下げることはしなかった。
自らの世界を歩き通し、一つの結論を抱えて戻ってきた愛しい孫の姿をその瞳で真っ直ぐに見つめ返す。
そして小さく、重厚に一度だけ深く頷いてみせた。
駿はその視線を正面から受け止め、小さく、ほんの少しだけ頷き返した。
(第37話・完)
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