重厚な鉄錆の臭いと冷え切ったコンクリートの威圧感が、その境界線を支配していた。
大都市の入り口に築かれた巨大な防壁。
その前には軍の装甲車が数台、銃身を外側へ向けたまま不気味に沈黙している。要所に設置された監視塔からは自動小銃を抱えた兵士たちが常に眼下を睨みつけ、道路には何重もの鉄条網とバリケードが隙間なく敷き詰められていた。
防壁の遥か外側では、初夏のぬるい陽射しを浴びながら何十体ものゾンビたちがあてもなくうろうろと彷徨っている。引き千切られたり血に染まった衣服をまとい、乾いたアスファルトの上をただ足を引きずって歩く死体たちの群れ。だが、監視塔の兵士たちが動く死体へ銃口を開くことはない。防壁さえ頑強であれば、あいつらはただの無害な背景に過ぎなかった。
本当に恐れるべきは、防壁の『内側』に入り込もうとする飢えた人間だった。
頑強な門の手前、一人の痩せ細った男が外へ出ようと懇願していた。
だが、無機質な防弾ベストを着込んだ兵士が銃床で男を遮るようにして立ちはだかる。
「許可証は」
「いや、その、許可証はまだ申請中で……でも、中に残った子どものために食料を探しに……」
「却下だ。下がれ」
男が絶望に顔を歪める間もなく、重い鉄の門は容赦なく閉じられた。
そのすぐ脇では、別の女性が兵士の腕にすがりつこうとしていた。
「外に家族がいるんです!あの日からずっと連絡がつかなくて。お願い、一日だけでも捜しに行かせて!」
兵士は感情を完全に削ぎ落とした目で、静かに首を振るだけだった。
「規則です。中へ戻りなさい」
門が開くことは、ついになかった。
この街では外の世界へ踏み出すことは命懸けの蛮勇ではなく、厳格な許可制のシステムに縛られていた。軍は感染防止と秩序の維持を大義名分に、街のすべてを完全に封鎖している。勝手な出入りは一切禁止。
だからこそ、人々は『安全』という名の檻と引き換えに自らの『自由』を失っていた。
*
一方、その頃。
向かう予定の大都市でそんな冷酷な管理が行われているなど知る由もない深い山奥の別荘では、驚くほど穏やかで贅沢な朝の時間が流れていた。
リビングの大きな机の上に、広大な一枚の地図が広げられている。
それを囲むようにして立っていたのは、運転手兄弟だった。彼らは息の合った滑らかな動作で地図の境界線を指し示していく。
ヴィンテージカーを駆る兄が、これから進むべき主要な道路の亀裂や斜面の崩落リスクを整理し、大型バスのハンドルを握る弟が、巨体でも無理なく通行できる安全な迂回ルートを無言のまま手際よく説明していた。
その実務的な段取りを見届け、向かいに立つ関口が腕を組んだ。
「次はこの大都市へ向かいたい」
関口は、指先で地図の中心に位置する最大の市街地をトントンと叩く。
「あの規模の都市部なら、大型バスの燃費を支えるための燃料や潤沢な物資がまだ残っている可能性が極めて高い。それに、生き残った人と接触ができれば、今後の外の世界の戦況や情報も手に入るからな。旅を続ける以上、ここは避けて通れない」
元管理官としての論理的で完璧な状況分析だった。現場判断能力に長けた関口の経験則が、巨大な人口密集地こそが最善の補給地だと告げていた。
それを、淹れたての珈琲の温もりを手の中で確かめながら聞いていた駿は、ゆっくりと窓の外へ視線を向けた。
山の木々が風に揺れている。
その穏やかな景色とは裏腹に、胸の奥がなぜか落ち着かなかった。
少しだけ眉を寄せ――――やがて、ぽつりと呟く。
「……大都市には行かなきゃ駄目?」
そのなんの衒いもない不器用な言葉に、リビングに控えていた執事ゾンビや老紳士ゾンビたちの視線が一斉に駿へと注がれた。駿は、困惑を隠さない瞳のまま関口を見つめた。
「危なくない?人も多いし」
「ゾンビも多そうだし、疲れそう」
「それに……なんか息が詰まりそう」
なんの根拠もない言葉の数々。
だが関口の思考はそこで一度止まり、再度考え出した。
関口は、駿自身よりも、駿の放つ本能的な反応を誰よりも信頼していた。
駿は「なんとなく」でいつも危険を回避してきた。
そして今、彼の瞳は、地図の上の大都市を明確に拒んでいた。
(また駿が反応した)
(前もそうだった)
(理由は説明できない……だが、外したことは一度もない)
(ここも、何かあるな)
関口の中で、安全判定が静かに補正された。
(……あの大都市はやめるか。…だが、)
関口は少しだけ声音を和げて言葉を重ねた。
「駿、あそこには確実に物資がある。何より、生存者からの確かな情報がある。今後の俺たちの生活圏を維持していくことを考えると長期的にはどうしても避けられない場所だが、どうする」
駿は少しだけ考え込むようにして視線を落とした。
それから、机上に広げられた大きな地図の一点を、細い指先で静かに指し差してみせる。それは、関口が提示した巨大な大都市の手前。少し外れた場所に位置する、地方の中都市だった。
「ここじゃ駄目?必要なもの、これくらいの規模でも揃いそうだし」
「泊まる場所も探しやすそう」
「人も、少なそうだしね」
無意識に自らの安全圏を本能で察知する青年の、それは一切の淀みのない本質的な合意だった。
その突拍子もない、けれどこれ以上ないほどに合理的な選択を前にして、大人たちは一斉に沈黙した。関口も、運転手兄弟も、じっと地図のその中都市の印を見つめて思考を巡らせる。
沈黙が落ちたそこへ、それまでソファの横で物言わぬ彫刻のように佇んでいたハヤテが音もなく静かに歩み寄ってきた。
ハヤテは当然の権利であるかのように机のすぐ横へと背筋を伸ばして座り込み、まるで会議の重要な出席者であるかのような真面目な顔で地図をじっと見つめ始める。すると、そのハヤテの堂々とした佇まいを見ていた子犬が自分も負けじと短い足を一生懸命に動かして机の縁へとしがみついた。そして、前足をペタリと地図の端へと乗せてみせる。
空気だけは、完全に会議に参加する一員そのものだった。
その微笑ましい犬たちの行動を前にして、それまで張り詰めていた運転手弟ゾンビの喉から思わずククッと吹き出すようなうめき声が漏れた。リビングを満たしていた重苦しい空気の境界線が、その一瞬で優しく穏やかに和らいでいく。
関口は足元で尻尾を小さく振るミナトの頭を無意識に優しく撫でながら、運転手兄弟と視線を交わして短くルートを再検討した。
「……確かに、な」
関口は、自らの論理的な危険察知に、駿の持つ本能的な安全察知の反応を補正した。
「いきなり防衛ラインの構築された巨大な大都市へと不用意に突っ込むよりも、まずは手前の中都市で大型バスの本格的な補給と足回りの整備を済ませる。その上で周囲の人から情報を安全に収集した方が、長期的に見ても遥かにリスクが低い。……よし、そうしよう」
決定だった。
駿は、空になったカップをもう一人の執事へと手渡しながら、穏やかに笑った。
「じゃあ、次の街に行こう」
広げられていた大きな地図は、使用人たちの手によって手際よく畳まれていく。
運転手兄弟は静かに頷き合い、明日の出発へ向けて車庫へと向かった。
メイドたちも、それぞれ荷造りの準備へ散っていく。
屋敷が、少しだけ忙しくなった。
(第38話・完)
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