大都市の手前に位置するその中都市は、初夏のまぶしい陽射しを浴びながら不気味なほどにひっそりと静まり返っていた。
かつて人々が行き交っていたであろう大通りのアスファルトには、何本もの細い雑草がひび割れを押し広げるようにして生い茂っている。周囲を見渡しても生きている生身の人影はほとんどなく、徘徊するゾンビたちの数もこれまで通り過ぎてきた地方の町と大差ない程度だった。
大型バスの巨体を邪魔にならない広場の片隅へと滑り込ませて停車させると、一行は少人数の最小限の布陣で崩れかけた市街地の散策へと繰り出した。
「待て」
シャッターの閉まりきった古びた商店街の片隅へと差し掛かったその時、関口の低く抑えられた声音が駿の足を止めさせた。
衣服の擦れる音すら立てずに、関口は鋭い視線を一本の電柱の陰へと向ける。
そこには埃と泥にまみれたボロボロの服をまとい、壁に背中をもたれさせるようにして力なく座り込んでいる痩せ細った中年男性の姿があった。
関口の元管理官としての論理的な危機管理が、瞬時に最悪の選択肢をいくつも弾き出した。
(……行き倒れを装った略奪者の囮か。あるいは、別の集団から放逐された凶暴な残党か。そうでなくとも、隔離措置の必要な未知の病原体に侵されている可能性がある)
だからこそ関口はそれ以上一歩も近付こうとはせず、いつでも駿へ手を伸ばせる体勢のまま身を硬くした。
しかし、駿はそんな関口の張り詰めた緊張など気にする様子もなく、まるで近所を散歩しているかのような足取りで、そのくたびれた男の元へと普通に歩いて行ってしまった。
「こんにちは」
あまりにも場違いなほどに穏やかな声が、静まり返った商店街の通路に響く。
「これ、よかったらどうぞ」
駿は、出発の際に見送ってくれたメイドゾンビが「(若旦那様、道中で小腹が空きましたらお食べください)」とでも言うようにそっと持たせてくれた、まだ温かみの残るパンと冷えた水のペットボトルをなんの衒いもなく男の前へと差し出した。
後ろで見守る関口の額に、思わずじっとりとした汗が浮かぶ。
(……まただ)
(なんでこの状況で、あれほど無防備に境界線を緩められる。少しは警戒心というものを持てないのか)
ハラハラとしながらも、関口は駿の背中を強引に引っ張ろうとはしなかった。
これまで、駿の放つその無意識の『安全判定』を信頼して動き、一度として予測を外したことがなかったからだ。自分の論理よりも、目の前の青年の本能のほうが、世界の真実を正しく捉えている。
関口はもどかしい思いを抱えながらその背中を見守り続けた。
電柱の陰の男は、目の前に差し出されたパンと陽の光を反射してきらめく水のボトルを、信じられないものを見るように凝視した。それから、薄汚れた両手を少しだけ震わせながら、それらを壊れ物を扱うようにして抱え込む。
「……久しぶりだ」
男の掠れた喉から、押し殺したような震える声が漏れた。
「こんな世界になってから……誰かに、そんなふうに普通に話しかけられたのなんて、本当に、いつ以来か分からない」
男の濁った瞳からは、関口が警戒していたような略奪者の敵意や何かの罠を仕掛けるような狡猾さを数ミリも感じられなかった。そこにあるのは、ただ生きていくことに疲れ果てた一人の人間の、ありのままの脆弱さだけだった。
「……」
その様子に関口はここでようやく張り詰めていた肩の力を抜き、二人のすぐ側へと静かに近付いた。周囲への索敵を怠らないまま、その行き倒れの男へと不器用に少しだけ事情を尋ねる。
すると男はパンを大切そうに少しずつちぎって口へ運びながら、周囲の廃墟を怯えるように見回して、ぽつりと告白した。
「俺、あの大都市から……命がけで逃げてきたんだ」
その一言に、関口の顔色が一瞬で変わった。
双眼鏡のレンズ越しに見たあの巨大な防壁で囲まれた管理社会の内情が、目の前の逃亡者の口から生々しく溢れ出そうとしていた。
「あそこを出るまでに、半年以上もかかった……」
「そもそも、外へ出るための許可なんて、上は絶対にだしゃしないんだ。勝手に防壁の外へ足を踏み出せば、その時点で犯罪者として扱われる」
「……毎日毎日、配られた最低限の食料配給のために、決められた強制労働をこなして。四六時中、誰とも知れない奴らに監視される日々だ……」
「外の世界へ行きたいなんて口にしただけで、その場で『危険思想の持ち主』として隔離されちまう」
ぽつぽつと、時折震えながら話す男の言葉を、関口は沈黙したまま胃の奥へと落とし込んだ。
心の中で隣の青年の横顔にそっと語りかけた。
(駿……また、お前のその直感に助けられたな)
(人をインフラの一部として消費し尽くす……俺が居たシェルターより酷いな)
その過酷な内情を聞きながら、駿はどこか遠い目をして、ただ静かに呟いた。
「やっぱり、あそこは息苦しかったんだね」
説明などできない。
明確な論理的な根拠もない。
けれど、駿は昨日あの街を遠くから見つめた瞬間から、そこに流れる冷たい空気の異常さを、本能の肌感覚だけで確かに感じ取っていた。
関口は自分の論理だけに固執してあの大都市へと大型バスを突っ込ませずにいたことに安堵した。そうしていたら今頃はあの息苦しい防壁の中に囚われ、邸宅のゾンビたちやなにより駿を『便利なインフラ』として取り上げられていたかもしれないことに心底ぞっとした。
「一つだけ、最後にこれだけは報せておく」
男は、抱えていたボトルの水を一口飲み、真剣な目を関口へと向けた。
「もし、どうしてもあの大都市へ行くっていうんなら、北側にある古い搬入口だけは絶対に使うな。あそこは……入ったら最後、二度と生きては帰って来られない場所だ」
それは逃亡者が命を賭して持ち帰った、あまりにも重い重要な情報だった。
*
男は何度も、何度も何度も深く頭を下げながら、残ったパンと水のボトルを大切そうに何かのシミの汚れのついた荷物の中へと抱え直した。
「本当に助かった。ありがとう」
駿はその真っ直ぐな感謝の言葉に、少しだけ照れくさそうに笑う。
「ううん。お気になさらず」
関口の後に続くようにして、駿は一度中都市の散策へと少しだけ歩き出しかけた。
だが数歩進んだところで、ふと何かに引かれるようにしてその足を止めた。
ゆっくりと振り返る。
電柱の陰でまだこちらを見つめていたおじさんの姿を、真っ直ぐに見つめ返した。そして何かを考えるようにして、少しだけその首を傾げる。
「……おじさん」
「ん?」
「色々と、教えてくれてありがとう」
駿は少しだけ考えるようにして、初夏のまぶしい青空をぼんやりと見上げた。
そう告げるための明確な理由なんて駿には何一つ存在しなかった。
けれど彼の胸の奥がいま、この男に対してだけは伝えるべきだと告げていた。
「……たぶん」
「多分なんだけど。ここ、いい場所になる気がする」
駿が指差したのは、自分たちが今しがた通り過ぎてきた街の方向だった。
おじさんはその何の根拠もない唐突な青年の言葉に、狐につままれたかのようにきょとんとした顔のまま固まっている。
駿は、自らの発言に少しだけ決まり悪そうな照れ笑いを浮かべると、
「行った方がいいよ、きっと」
それだけを静かに残して、今度こそ迷いのない足取りで関口の隣へと歩き出して行った。
商店街の薄暗がりに残されたおじさんはその人間二人と、遠くで待機しているであろう不気味なほど大人しいゾンビたちの車列の背中を、しばらくの間呆然と見送っていた。
「……変な子だ。だが…」
おじさんは小さくそう呟き、手元のパンへと視線を落とす。
そしてもう一度、小さくなっていく駿の背中を見つめた。
あの青年が、なんの気負いもなく残していった助言。
その言葉が不思議と、冷え切った男の胸の奥深くへと、いつまでも、いつまでも温かい残響となって残った。
袋からパンを一口だけちぎって、ゆっくり噛む。
温かかった。
「……久しぶりだ。」
誰かが、自分のために用意してくれた食べ物なんて。
おじさんはゆっくりと立ち上がる。
――そして、歩き出した。
すこし離れた森の中で小さく望遠鏡の光が瞬いたのを、ハヤテとシグレだけが気づいていた。
(第39話・完)
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