鬱蒼と生い茂る夏の木々の隙間から、レンズの剥げかけた双眼鏡の筒先が、じっと眼下の商店街を見下ろしていた。
距離は肉眼では表情すら判別できないほどで、十分すぎるほど離れている。
遮るもののない山の中腹からは、駿たちの姿が陽光に晒されて克明に映し出されていた。
女性リーダーは微動だにせず、双眼鏡の倍率リングをミリ単位で微調整した。
口の動きは、確かに見える。
今誰が唇を動かして言葉を発しているかも、正確に視認できる。
しかしこれだけの距離があれば、彼らの交わす声までは。
「……内容までは分からない」
風に溶けて消える彼らの会話。彼らが何を話しどんな情報を交換しているのかは、レンズのガラスを透過することはない。
女性リーダーは薄い唇を噛み、少しだけ眉を寄せた。
(仕方ない…)
「会話の推測は排除する。目に見える『行動』の事実だけを拾いなさい」
その冷徹な指示の先、レンズの円の中では電柱の陰へと青年がまっすぐに歩み寄っていくところだった。
彼はなんの躊躇もなくその場へしゃがみ込み、痩せ細った中年男性へとまだ新しそうなパンと、水のペットボトルを優しく手渡す。
遅れて、あの男が周囲を警戒しながら近付いていった。やがて、中年男性が子供のように顔をクシャクシャにして泣き始める。
「接触」
女性リーダーは手元の煤けたノートへ、感情を交えない平坦な文字でその事実を箇条書きにしていった。
「あの行き倒れの中年男性、どうしますか」
隣に伏せる男が、声を低く抑えて尋ねる。
「こちらの知らない情報を知っている可能性が」
「……回収は不要」
女性リーダーは、その提案を合理的に切り捨てた。
「衣服の汚れから見て不衛生。あの痩せ方は重度の栄養不足か、あるいは未知の感染症を患っている可能性が高い」
「これ以上、集団生活へ適応できるか分からない人間を抱える余裕は、私たちのコミュニティにはない」
「余計に食料消費を増やすだけよ。残酷だけど、人数にも備蓄にも余裕がない」
悪意はない。ただ、二十数人の仲間をこの極限状態で死なせずに生かすための、これ以上ないほどに正しい判断だった。
だが、だからこそ。
女性リーダーの脳内には強烈な違和感があった。
(利益がない)
双眼鏡の先で、青年たちはなおも中年男性と親しげに話し続けている。
(あの餓死しかけた中年男性を助けたところで、彼らに戻ってくる実利は何一つない)
(食料も水も、この世界では命そのもののはず)
(なぜ惜しげもなく分け与えた?)
彼女は思考を止めることなく、手元のノートへ『仮説』のインクを走らせていった。
『仮説1:対象は困窮者へ無条件に援助する行動傾向あり』
『仮説2:保有する食料資源に圧倒的な余剰あり、または損失を惜しまない』
『仮説3:既知の人間に対して強い共感性を有する人格であると推測』
(だが、)
ペンの先端が、紙の表面で一瞬だけ強く止まる。
(もしそうなら、なぜ、最初に遭遇した『私たち』には一切接触してこなかった?)
あの時の自分たちは今の中年男性よりも遥かに清潔で、脅威度も低く、極めて安全な生存者として映っていたはずなのに。対象は自分たちには距離を置き、今の中年男性には自ら境界線を緩めて歩み寄った。
(理由が、分からない)
(……何かが決定的に違っている…?)
(彼らが人間に接触を許可するのには、明確な『条件』があるはず)
女性リーダーは、その論理のノートを執念深く進めていく。
彼女の目は、彼らの行動の事実を恐ろしいほどの精度で正確に捉えていた。けれど、会話の聞こえないガラスの向こう側では、それが『青年の本能が察知した、安心できる生身の人間かどうか』という、あまりにも曖昧な心の境界線であることまでは、どうしても読み解くことができなかった。
さらに彼女のペンは、彼らの『主導権』の在処へと進む。
商店街の通路。あの男は一度進むのを止め周囲を警戒していた。
けれど青年が歩き出すと、男はそれを制止することなく少し時間を置いて後から追うようにして付いていった。
手帳の余白へ、鋭いチェックが入れられた。
『集団の主導権:男 ✕ ・ 青年 〇』
実務を仕切っているのはあの男に見える。
だが進路の決定権と絶対的な行動の起点を持っているのは、間違いなくあの青年の側だった。
*
その時、女性リーダーの双眼鏡の視界が不自然にピタリと固定された。
「……子犬?」
思わず、声を漏らすようにして呟く。
隣にいた男が驚いたようにこちらを見たが、彼女はなおも倍率の限界までレンズを押し広げてその影を凝視し続けた。
大型車の影の近く。
三頭のゾンビ犬の足元を、短い四肢を一生懸命に動かして跳ね回る小さな塊。
「違う。あれは……ゾンビ犬じゃない。生きてる。…血の通った、子犬よ」
女性リーダーは自身の網膜が捉えた信じられない現実に、肌が粟立つのを感じていた。
(……なぜ)
(なぜ、生きた人間に襲い掛かるはずのあの獣たちが、生身の、一番脆弱なはずの幼い命を、あんなに当然のように群れの中に受け入れている?)
レンズの向こうでは小さな子犬の耳の裏を優しく突き、三匹ともその子犬を食い殺そうとはせず遊んでいる。
それどころか、まるで新しい家族を護るようにして当然のように周囲を取り囲んでいた。
(やはり、あれはただの生存者なんかじゃない)
(なにか、圧倒的な『異常』が、あの二人の周りには渦巻いている)
女性リーダーはかすかに震える指先を意識して抑え込みながら、ノートの次のページへとペンを走らせた。
彼らを取り込むための、冷徹な『弱点分析』。
『対象:青年』
『・人間への高い友好的な傾向』
『・極めて低い警戒心』
『・食料、物資を無償で分け与える利他性』
『・犬型生物への強い愛着』
『・同行者(男)への絶対的な信頼』
『↓ 弱点候補』
『・子供 、 老人 、 犬 、 同行者の身の安全』
その箇条書きにされたノートの文字は、行動の事実としては何一つとして間違っていなかった。
けれどそのすべての仮説の核が、本質から致命的にズレてしまっていたことには気づけない。
そんなズレを抱えたまま、有能な指導者は、彼らをこのグループへ取り込むための具体的な『方法』の案を積み上げてしていく。
『取込み案①:困窮者を装った保護の要請』
『取込み案②:老人を用いた誘導』
『取込み案③:子供を用いた境界線の緩和』
『取込み案④:未知の犬種を利用した接触』
『取込み案⑤:同行者(男)への論理的な交渉』
女性リーダーはしばらくの間その並べられた選択肢を凝視し、最後に、最も確実だと思われる一列にチェックをつけた。
『取込み案⑤:同行者(男)への論理的な交渉』✓
「……まず、あの男を説得する」
「青年が主導権を握っているとはいえ、あれほど警戒心の低い駒なら後ろにいる男の論理を動かす方が確実」
ひとまずの観察は終わった。
彼女はノートを閉じた。
双眼鏡をケースへと収め、薄暗い森の暗がりのなかで静かに立ち上がる。
「まだ判断材料が足りない」
「彼らの次の補給地点を予測して、もう一度、徹底的に観察」
彼女は自らの正しさとコミュニティの生存率だけを天秤にかけ、冷たい森の奥へと静かに去って行った。
(第40話・完)
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