大都市からの逃亡者である中年男性と別れたあと、駿と関口の二人は、そのまま静まり返った中都市の荒れ果てた大通りを歩いていた。
シャッターの閉まりきった古びた商店街を抜けると、目の前に現れたのは大きなスーパーの建物だった。関口は足を止め、手元の大まかな地図を睨みつけながら言った。
「物資の補給は予定通り行う」
その言葉に、衣服のシワを完璧に正した執事ゾンビが音もなく深く一礼した。それを無言の合図にしたかのように、別荘から同行してきたゾンビたちが自然にそれぞれの持ち場へと散っていった。
執事、総料理長、副料理長、メイドたち、指示を受けた運転手兄弟の面々が、迷いのない足取りで一斉にスーパーの自動ドアへと突入していった。
彼らの目的は、これからの長期の旅を維持していくための生活物資の調達だった。缶詰、調味料、小麦粉、ペットボトルの飲料水、日用品。さらには大型バスやヴィンテージカーのためのガソリン携行缶、整理された予備パーツ、そして良質なドッグフード。
しかし、その集団の中にいたドッグトレーナーゾンビだけはスーパーの自動ドアを潜る直前、その動きを完全に鈍らせていた。
その視線の先にあるのは道路を挟んだ向かい側に輝く、色鮮やかなペットショップの看板。
(若旦那様の護衛に付くと言って……いや、犬用フードの選別も私の大切な任務……しかし、あのペットショップ……。いや、子犬に適したフードの選別は大事なことだ……!!)
脳内で凄まじい欲望の葛藤を繰り広げた結果、彼の身体は義務感によってスーパーへと引っ張られているのに、顔だけは未練たらたらで何度も何度もペットショップの方を振り返っていた。
一方、その頃、スーパーの入り口に残された関口は「俺たちは、念のため周辺の安全確認だ」そう言って、隣の駿へと声を掛けようとした──まさにその時、駿の瞳が道路の向こう側の看板を捉えて、嬉しそうに輝いた。
「ペットショップだ!」
*
「(食料班、行くぞ)」
総料理長ゾンビの合図のもと、副料理長ゾンビ、メイド数名がスーパーへ突入していく。ドッグトレーナーゾンビもその後を数分遅れて付いていった。
しかし、スーパーの入り口の真正面。道路を挟んだ真向かいには、ガラス張りの明るいペットショップの店内が広がっている。
「…………」
ドッグトレーナーゾンビの身体だけは、実務のためにスーパーの中へと入っていく。だが、その顔だけは真後ろのペットショップへと完全に向けられたままだった。
総料理長ゾンビが無言のまま、そのあからさまな様子を一瞥した。
「……」
「…………」
台車を押しながら、ドッグトレーナーゾンビはまたしても未練たらたらで振り返った。
総料理長ゾンビは、その止まった脳の底で深く溜息をつくように視線を落とした。
(気になるんだな……)
それでも、ドッグトレーナーゾンビはプロだった。
スーパーの棚に並ぶ「犬用フード!」「保存食!」「缶詰!」「ペットシーツ!」といった自らの担当エリアの物資だけは、猛烈な、それこそ恐ろしいほどの神速で台車の上へと集めていく。
だが、仕分けの合間にふと前方のガラス窓を見ると、どうしても道路の向こうのペットショップが視界に飛び込んでくる。
そして、また振り返り。
(まだ見てる)
総料理長ゾンビは、もはや呆れを通り越して感心するような目でその執念深い背中を見つめていた。
やがて、大量のドッグフードの段ボールをすべて台車へ綺麗に積み終えると、ドッグトレーナーゾンビは台車の陰からじーっと外を見つめたまま、少しだけ肩を落としてうつむいた。
また見た。
総料理長ゾンビは重い息を吐き出すようにして、短く、一言だけうめいた。
「(……行け)」
その言葉にならない合図が落ちた、まさに次の刹那だった。
「(!!)」
ドッグトレーナーゾンビの瞳がかつてないほど鋭く見開かれ、弾かれたような猛ダッシュでスーパーの自動ドアを飛び出していった。言葉通りの脱兎のごとき速度で、道路を一直線に横切っていく。
近くの棚で包帯や消毒液を仕分けていたメイドゾンビたちが、その凄まじい風圧を背中に受けて振り返り、その背中をぽつりと見送った。
「(あっ)」
「(ズルい……)」
実は彼女たちの脳内でも、ミナトのための新しい極上のブラシだとか、お揃いの可愛らしいリードだとか、あそこへ行って色々とお買い物がしたいという欲望が渦巻いていた。けれど彼女たちには生活空間を維持するという、絶対に妥協できない仕事がある。
そのそわそわとしたメイドたちの視線の動きを察して、横から副料理長ゾンビが氷柱のような眼差しを無言のままスッと向けた。
「……」
メイドゾンビたちは新人だった頃のように少しだけ決まり悪そうに肩を落としうつむく。
(……お仕事、お仕事)
すぐに首を横へ振り、慣れた手際で再び駿たちのための日用品の仕分け作業へと実直に戻っていった。
*
一方、道路の向こう側。
「わぁーー!!」
駿は風雨に晒されて薄汚れたドアを潜り抜けるなり、そこにあった犬用品天国のような光景を見つめてその瞳をかつてないほどに輝かせた。
首輪、ハーネス、ブラシ、フカフカのベッド、そして小さな服まで。子供のように楽しそうにすべての棚を見始めだした。
駿の後ろからは、ハヤテ、シグレ、ミナト、子犬の四匹も当然の権利であるかのように一緒になって店内へと足を踏み入れていく。
「見て見て。犬のおもちゃがいっぱいある。首輪もあるし、服もこんなにたくさん残ってる」
駿が楽しそうに声を弾ませる中、四匹の犬たちの三者三様の性格が現れ始めていた。
黒い毛並みを持つ不動の相棒、ハヤテ。
ハヤテは、周囲に並ぶどれほど魅力的な玩具の数々にも、おやつにもほんの少しの興味すら示さなかった。
ただ、自らの世界の起点である駿のすぐ真横にぴたりと寄り添い、主人が楽しそうに棚を見つめるその横顔だけを深い忠誠を湛えた瞳でじっと見つめ続けている。
対照的に、まだ名前のない一番小さな子犬は完全に野生の無邪気さを爆発させていた。
一番下の棚のおもちゃにかじりつき、その衝撃で隙間から転がり落ちてきた小さなゴム製のボールを見つけると、短い四肢を一生懸命に動かしてころころと鼻先で転がし始める。夢中になってそれを自分で追いかけ、勢いが余って店内のフローリングで派手にコロンと転び、それでもすぐに起き上がってまた短い尻尾を振りながら嬉そうにボールを追いかけていく。
その様子を、いつもメイドたちに可愛がられているレトリバー系のミナトが、大きな耳を揺らしながらじっと見つめていた。
そして、小さな弟の愛くるしい姿に耐えかねたかのようにミナトもまた、その生前の人懐っこさを隠しきれない足取りで子犬の輪へと滑り込み一緒になって楽しそうにボールを追いかけ回して遊び始めた。
そして大型犬であるシェパード系のシグレだけは。
そんな賑やかな犬たちのじゃれ合いの輪には一切加わることなくペットショップの開け放たれた入り口の真正面へと、どっしりとそのたくましい身体を下ろして座り込んでいた。
シグレの瞳は外の荒れ果てた道路へと真っ直ぐに向けられている。遊ぶわけでもなく、油断するわけでもない。いつどこから他の動物や、飢えた略奪者の脅威が主人を脅かしにやってくるか分からないからだ。ただ一頭、ピリッとした厳格な空気を肌に纏わせたまま、シグレは入り口の門番として完璧な護衛の任務を真面目に継続し続けていた。
関口はというと、少し離れた壁際に背中をもたれさせたまま腕を組んで興味なさそうにその様子を眺めていた。
駿が棚から色鮮やかなハーネスを手に取り、関口の方へと楽しそうに歩み寄ってくる。
「ねぇ、関口さん、これ良くない?!」
関口は組んでいた腕を解くこともなく、興味のなさそうな声を返した。
「……そうか?」
「うん。…………楽しくない?」
「そんなことはないが……」
関口は、なおも興味がなさそうな姿勢を崩そうとはしなかった。シェルターにいた頃の生存マニュアルには犬の玩具の有用性など一行も記されていなかったし、世界がこうなる前も関口は犬を飼ったことはなかった。
駿は関口の芳しくない反応に、少しだけ物足りなそうな顔をした。
そこへ、凄まじい風圧と共にドッグトレーナーゾンビが息を切らすような勢いで滑り込んできた。
「あっ!」
駿は乱入してきたトレーナーの姿を見つけるなり、これ以上ないほどに嬉しそうな笑みを浮かべて声を弾ませた。
関口の反応が冷ややかだった直後だからこその歓喜だった。
「ちょうどよかった!ねぇ、これどう思う?!」
「これ可愛いくない?!見て、ハヤテこれ似合うと思う!」
駿が女子高生のようなテンポのノリで両手に抱えて差し出したのは、新調しようと選んだ首輪やハーネス、ブラシ、フカフカのベッド、そしてレインコートの数々だった。
トレーナーの反応も実に良かった。
駿が「え?」「じゃあ下のは?」と次々に棚から犬用品を取り出しては突き出し、それに対してドッグトレーナーゾンビが「(素晴らしい! 実に良い選美眼です!)」とばかりに激しく深く首を縦に振って同意してみせる。
駿はさらにテンションを上げて、二人は一緒になって目を輝かせながらすべての棚を見始めだした。
関口は二人の勢いにあっけにとられ、置いてきぼりにされていた。
それに気づいた駿が別の棚から新しい首輪を取り出し、再び関口の元へと歩み寄った。
「関口さん、これどう思う?」
関口は、差し出されたその首輪をじっと見つめ、感触を確かめると表情を少しだけ和らげた。
「……悪くない」
数分後。
関口は組んでいた腕を解くと、自ら棚の前に立ちいくつかのハーネスをその大きな手で直接触って確かめ始めた。
「いや、こっちの方が丈夫そうだ。ステッチの縫製もしっかりしている」
さらに数分後。
関口は棚の最奥から一瞬にして見抜いた、最もハヤテの精悍さに似合うであろう一本の青い首輪を迷いなく引き抜いてみせた。
「その青だ。ハヤテのあの黒い毛並みに合わせるなら、赤じゃない。ハヤテには青が似合う」
「!!」
駿は関口の的確な指摘に、瞳を輝かせた。
「そうだよね!絶対に青が一番似合うと思った!」
二人の会話に、背後に控えていたドッグトレーナーゾンビはもはや感動を禁じ得ないといった様子で、千切れんばかりに激しく首を縦に振りまくっていた。
(よし、旦那様が乗ってきたぞ……!)
(気になってきたのかな……?)
駿が心の中でそう思ったのも束の間、そこからの関口は完全にノリノリだった。
元管理官としての圧倒的な観察力がすべて犬用品の鑑定眼へと一瞬にして転用され、最後は完全に三人でショッピングの時間を共有し始めていた。
駿が別の棚からフリルが付いた可愛らしい服を引っ張り出してくる。
「これは?」
関口は、その実用性を重視した冷静なツッコミを迷いなく入れた。
「いや、それは歩きにくい。彼らはオスだし、実戦向きではないな」
横からドッグトレーナーゾンビも、真面目な顔でシンクロするようにして大きく首を横へと振った。
「(左様でございます、若旦那様。これでは足元が安定いたしません)」
「えー!」
駿は少しだけ不満そうに声をあげるものの、その表情はこれ以上ないほどに穏やかだった。
代わりにマリンカラーの水兵服をカゴに突っ込んだ。
一方その頃、スーパー班の調達作業がすべて終了していた。
「(終わった)」
総料理長ゾンビが、積み上がった物資の段ボールを見据えて短くうめく。
「(搬入開始)」
副料理長ゾンビがそれに続き、台車を滑らかに押し始めた。
「(在庫確認)」
執事ゾンビが手元のリストと照らし合わせ、運転手兄弟が手際よく大型バスの荷台へと荷積みを始める。
その一連の流れは、相変わらず無駄のない完璧なプロの仕事だった。
すると一人のメイドゾンビがバスの窓硝子に自分の姿を映すフリをしながら、ちらりと道路の向こう側へ視線を向けた。その視線の先にあるのは、色鮮やかなペットショップの看板。
総料理長ゾンビは、彼女の微かな視線の動きを無言のまま一瞥した。
「……」
少しだけ考えるようにして、自らの大きな顎を一度だけ引いてみせる。
「(行ってこい)」
その一言が落ちた瞬間だった。
「!」
メイドゾンビ達の瞳がパッと輝き、先に走っていったドッグトレーナーの後を追うようにして弾かれたような猛ダッシュで道路を横切っていった。
それを見送っていた副料理長ゾンビの動きが、不自然にピタリと止まる。
「…………」
台車を握ったまま、動かない。ただ、その顔だけが、ゆっくりと道路の向こう側へと向けられていく。
総料理長ゾンビは、その相棒の分かりやすすぎる背中に、冷ややかな視線をスッと向けた。
「……」
重い息を吐き出すようにして、うめき声を落とす。
「……ウァ(……お前も行け)」
副料理長ゾンビは、完璧な営業用の満面の笑顔を浮かべると、台車をその場に放り出して信じられない軽やかさでペットショップへと走っていった。
最後に残されたのは、リストを抱えた執事ゾンビだった。
彼はみだれのない燕尾服の襟元を一度だけ正すると、総料理長ゾンビの前へ進み出て極上の角度で深く一礼した。
「(若旦那様たちのために、犬用食器の耐久性も今一度確認して参ります)」
そのまま競歩のような優雅さでその姿はペットショップに消えて行った。
総料理長ゾンビの濁った目が、限界まで細くなった。
「…………」
結局大型バスの荷台の前には、大量の食料を積んだ重い台車と総料理長ゾンビだけがポツンと取り残されることになった。
道路の向こう側のガラス張りの店舗には、先ほど突入した全員がキャッキャと楽しそうに駿たちの周りを取り囲んでいる姿が克明に映し出されている。
スーパー班は一人以外全員、ペットショップへと大集合していた。
(………クソ、俺も行きたいのに)
総料理長は悔し気にペットショップを見つめた。
*
「見て、みんな!」
ショップのドアが激しく開くたびに振り返り、駿は新しく集まってきた使用人たちの姿を見つけてこれ以上ないほどに嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ハヤテの新しい首輪!ミナトのブラシ!シグレの新しいリード!」
「子犬のおもちゃだってこんなにたくさん見つかったよ!」
集まったゾンビたちは全員、若旦那様の混じり気のない笑顔を正面から受け止め、言葉もなく喜びの気配を店内に満ち溢れさせていた。
メイドたちはミナトの毛並みを優しくブラッシングし、ドッグトレーナーはシグレの新しい頑丈なリードの感触を確かめ、副料理長はボールを転がす子犬を微笑ましそうに目で追っている。
ただ一人、大量の食料を積んだ重い台車を自らの怪力でまとめて押し、遅れて店内に現れた総料理長ゾンビだけがその賑やかな調和の前に立ち尽くしていた。
「…………」
広い肩を落とし、長いため息を一つだけ漏らす。
(まったく、役に立たん奴らだ……)
駿が振り返る。
「料理長!」
総料理長ゾンビが立ち止まる。
「料理長も一緒に選ぼ?」
「子犬のご飯、料理長が決めて」
総料理長ゾンビがゆっくりと周りを見ると、店内では全員が料理長を見ていた。ドッグトレーナーが場所を空け、メイドたちも笑顔で場所を空けた。
「…………」
総料理長ゾンビは静かに歩き出す。
(仕方ない)
そう言いたげな顔で。
だが、歩幅だけは少しだけ速かった。
その後、一行は予定よりもずっと長い時間をペットショップで過ごしたが、総料理長ゾンビを含めこの家の誰一人として駿の楽しい時間を止めようとする者はいなかった。
若旦那様がこうして笑っていてくれる。
それだけで十分だった。
それこそが、彼らの誇りであり、この家を支える絶対の規律だった。
夕暮れ時。
中都市の荒れ果てた大通りに、大型バスの重厚なエンジン音が心地よく響き渡った。
ハヤテの首元には、関口が一瞬で見抜いた漆黒の毛並みを最高に引き立てる鮮やかな青い首輪が誇らしげに光っていた。
大型バスへ戻る途中、関口はハヤテの首輪を見て小さく頷いた。
「……やはり、青で正解だったな」
駿は嬉しそうに笑う。
「でしょ?」
関口も珍しく口元だけ少し緩めた。
子犬は新しく買ってもらったゴム製のボールを小さな口で大切そうにくわえたまま、駿の足元で丸くなっていた。
ミナトはメイドたちの手によって見違えるほど美しくブラッシングされ、シグレの首元からはプロの仕様に耐えうる頑丈な新しいリードがまっすぐに伸びている。
過保護すぎるゾンビたちは新しく手に入れたお土産の数々を車内に積み込み。
大型バスは次の目的地へと静かに、そしてどこまでも自由に走り出した。
(第41話・完)
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