中都市の幹線道路沿いに佇むその大型ショッピングモールは、初夏のまぶしい陽射しを浴びてがらんとした沈黙を保っていた。
頑丈な鉄筋コンクリートで覆われた巨大な建物は風雨を未だ遮断し続けており、内部の密閉された空間は驚くほど良好な保存状態で保たれていた。衣服の替えや防寒具の調達という最低限の目的を持って、駿と関口の二人はホコリの積まったエントランスへと足を踏み入れる。だが、二人のモチベーションは地の底を這うように低かった。
「服はまだ着られるし……。そこまで必死に集めなくてもいいと思うんだけどな」
「同感だ。私たちの分の補給は最低限で済ませて、バスの燃料や情報の精査を優先すべきだ」
二人は完全に乗り気ではなかった。世界が変わった日より、生き残るための実利にのみ従って動いてきた関口にとっても、駿にとっても、ファッションなどという概念はとっくに意識の外側へと放逐された無駄なものの一つに過ぎなかった。
しかし、その背後にそびえ立つ老紳士ゾンビがモールの高い天井を一度だけ見上げた。
そしてその瞳を隣に控える執事ゾンビへと、無言でスッと向ける。
執事ゾンビが、完璧な角度で深く一礼した。
その刹那だった。
「(夏服)」
執事ゾンビから号令が飛ぶ。
「(冬服)」
総料理長ゾンビの巨体が揺れる。
「(礼服)」
副料理長ゾンビの瞳がギラリと光る。
「(部屋着)」
メイドゾンビたちが一斉に動き出す。
「(作業着)」
自動車整備士が工具箱を放り出す。
「(散歩用)」
ドッグトレーナーゾンビまでもが拳を握りしめる。
使用人たち全員による凄まじい暴走が幕を開けた。
彼らは誰一人として指示を待つことなく、まるで最初からこのモールの見取り図を把握していた突撃部隊のように、四方八方のテナントへと恐ろしい神速で散っていった。
関口と駿はその異様な気配の切り替わりと地鳴りのような足音を前にして、その場に硬直した。
「……おい、一体何が始まったんだ」
「さあ?」
駿も分からず首を傾げた。
この家を支えてきたゾンビたちの価値観は、いつでも恐ろしいほどに純粋で、苛烈だった。
若旦那様が夏に暑い思いをされる。
(……決して許せない)
若旦那様が冬に寒い思いをされる。
(……もっと許せない。当家の恥辱である)
だからこそ彼らにとってこの密閉されたモールに残された衣服のすべては、今すぐにでも回収すべき絶対的な命のインフラだった。夏服、秋服、冬服、春服。すべての四季の彩りが必要だった。
それだけにとどまらず、メイドゾンビたちは棚から駿の体格よりも遥かに大きな、ぶかぶかの冬物コートやセーターまでを猛烈な勢いで抱え込み、台車へと積み上げ始めた。
(若旦那様がこの先、さらに大きく成長されるかもしれませんので……!)
そんな妄想が暴走を加速させる。
駿はさすがに慌てて、差し出される2サイズ以上デカい防寒着を「いや、もう成人してるから!」と必死になって元の棚へと戻しに走った。
暴走の矛先は駿だけにとどまらず、完全に巻き込まれる形となった関口の元へと牙を剥いた。
「おい、待て。私はいい。私の服はいらんと言っているだろう」
関口は目の前に両手で山積みのジャケットを掲げて迫ってくるメイドゾンビたちを威圧感で制止しようとした。
「(ダメです。旦那様がそんな薄汚れた上着のままでは、若旦那様の格式が下がります)」
メイドゾンビたちは一歩も引かない。さらに横から執事ゾンビが上品な所作のままスッと立ちはだかる。
「(旦那様も、今や当家の立派な主人であらせられます。みすぼらしい身なりなど、我らが絶対に認めはいたしません)」
追い打ちをかけるように総料理長ゾンビがその巨体で関口の退路を完璧に塞ぎ、大きなスチール製のハンガーを突き出してきた。
「(これからの移動で我らの料理を口にされ栄養状態が劇的に改善されれば、旦那様の体格も確実に二回りは大きくなります。今のうちに大きめの仕立てを揃えるのがプロの仕事です)」
「いや、待て……!これはデカすぎる!」
「私の体格の話を何故お前たちが決める!」
誰も聞かなかった。
彼らは無言のまま圧倒的な分業体制で関口の衣服を判別し、次から次へと真新しいジャケットやシャツを合わせにいった。
そして最も凄惨な被害を受けていたのは、他ならぬ老紳士ゾンビだった。
「(大旦那様、こちらを!)」
ゾンビたち全員が中央のフィッティングルームの前に老紳士ゾンビを立たせ、まるで精巧な着せ替え人形を扱うかのように一分の狂いもなくコーディネートを試していた。
高級なシルクのネクタイ。
端正なハット。
仕立ての良いブリティッシュジャケット。
そして、毛皮のついた重厚な冬物ロングコートまで。
老紳士ゾンビは四方八方から伸びてくる使用人たちの手を前にして、アロハシャツの上から何重ものコートを着せられながらもただ静かに瞳を細めていた。
(……いつものことながら)
(家令たちのこの執念は世界が変わろうとも、変わることはないな)
完全に諦めきった瞳で、なすがままにフィッティングルームの鏡の前で沈黙を保っていた。
関口と駿は服に埋もれた老紳士ゾンビの姿に戦慄する。
逃げだそうと一歩足を踏み出した関口が瞬時に執事ゾンビに肩を掴まれた。それを見た駿は賢くその場に留まる。
駿と関口、そして老紳士ゾンビの三人はモールの試着室という名の領域から完全に解放される気配を失っていた。
そのうち、駿だけは何度もカーテンを開け閉めされて新しい服を見せられているうちに、鏡に映る自分の姿を見つめてふと指先で襟元を触った。
「え、これ……。ちょっといいね」
駿の唇に小さな、本当に何気ない笑みが浮かんだ。
その一言が、モール中に鳴り響くいくつもの足音をピタリと止めさせた。
(駿……!!!)
関口が目を見開く。
廊下の薄暗がり、あるいはエスカレーターの陰から様子を窺っていた使用人ゾンビたち全員の脳裏に、一筋の衝撃の稲妻が走った。
(若旦那様が……お気に召された……!!)
(あの一着と同系統の色彩、仕立て、デザインのすべてを今すぐにこのモールの全フロアから根こそぎ回収せよ!!)
「ま、待て!」
関口の静止は遅すぎた。
次の瞬間、スーパー班を凌駕するほどの凄まじい風圧と共に彼らは駿が「いいね」と呟いた服とまったく同じ系統のカジュアルウェアを、サイズ違い、色違いも含めて、山のように抱えて一斉にフィッティングルームへと押し寄せてきた後だった。
*
じっと犬たちは主人の着せ替え大戦争を見ていた。
そしてついに足元で待機していたハヤテたちまでもが参戦し始めた。
「え?みんな、どうしたの?」
試着室のカーテンを引いた駿のズボンが軽く引っ張られた。
足元を見下ろすと、そこには四匹の犬たちがそれぞれの個性を爆発させた「衣服」をその口にしっかりとくわえて、綺麗に一列に並んで待機していた。
まず、不動の相棒である黒い毛並みのハヤテ。
ハヤテがくわえてきたのは、駿の瞳の色彩を最も美しく引き立てるであろう、目の覚めるような鮮やかな青いシャツだった。
一切の無駄な装飾のない、シンプルで洗練された一着。ハヤテはそれを駿の足元へそっと置くと、じっ……と真っ直ぐに主人を見つめて無言の圧をかけてきた。
(若旦那様、私の選んだこの服を今すぐお召しになってください)
続いて、寡黙なシェパード犬のシグレ。
シグレがその大きな顎でくわえてきたのは実戦向きの極めて頑丈な、厚手のミリタリーパーカーだった。
どんな過酷な外の世界の脅威からも主人の肌を守り抜くための、完璧な防衛の服。シグレはそれを置くと、フンスと鼻息を鳴らし、「早く着ろ」と言わんばかりの圧力をその佇まいから放って見つめてきた。
そして、人懐っこいレトリバー系のミナト。
ミナトがくわえてきたのは触り心地の良さそうな、驚くほどふわふわとした白いセーターだった。
ミナトはそれを駿の膝の元へと差し出すと、生前の甘えん坊な気配を隠しきれない様子で尻尾をトントンと床へ激しく振り乱した。
(若旦那様、これを着たら絶対に温かいです! 撫で心地も最高になります!)
極めつけは、一番小さな子犬だった。
子犬は自分の小さな身体よりも大きな可愛らしいぬいぐるみが胸元についたパーカーを一生懸命にくわえて、トコトコと短い足を動かしてやってきた。そして駿の足首に小さな身体をぴったりと寄り添わせた後、ぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねてみせる。
(お兄ちゃん、これ着て! これとお揃いみたいで可愛いよ!)
「え? これも全部着るの?」
駿が困惑混じりに笑うと、背後に控えていたドッグトレーナーゾンビやメイドゾンビたちは激しく頷いて同意した。
*
夕暮れ時。中都市のショッピングモールの駐車場に、大型バスの重厚なエンジン音が心地よく響き渡った。
バスの側面に設けられた巨大な荷室の扉が開け放たれているが、その内部の光景はおよそ元管理官の常識を遥かに超越したものに書き換えられていた。
昼間にスーパー班が集めてきた大量の食料や缶詰の段ボールよりも、今しがたモールから回収されてきた関口たちの衣服の束のほうが、圧倒的な体積を持って荷室の天井まで隙間なく埋め尽くしていた。
関口は新調されたYシャツの裾をつまみながら、重たいため息を一つだけ漏らした。
「……おい。いくらなんでも荷物がこれでは増えすぎだ。旅の積載バランスというものを少しは考えろ」
その小言に対して、前に並んだ使用人ゾンビたちの全員が申し訳なさそうな顔をするどころか、全く悪びれる様子もなく無言でスッと首を横に振った。
「(いいえ、旦那様。これでもまだ足りないくらいです)」
その仕草には頑ななまでのプロとしての規律がそこにあった。
「いや、多い」
関口は諦めずに、隣にある別の荷室の大きな扉をガラリと開け放った。
そこに詰め込まれていたのは、さらに輪をかけて季節外れな山積みの防寒具の束だった。
冬用の重厚なロングコート。
格式高い礼服。
色違いのカーディガン。
日差しを弾くほど分厚いダウンジャケット。
何本もの色鮮やかなマフラー。
編み込まれた手袋。
薄手と厚手の毛布。
大小さまざまなブランケット。
初夏の駐車場に広げられたあまりにも過剰な冬の備えを前にして、関口の低い声が引きつるようにして漏れた。
「……私たちは、これから北海道にでも行くのか?」
誰も否定しなかった。
それどころか、メイドゾンビたちまでもが(いいえ。若旦那様が極寒の地に赴かれるのであれば地の果てであろうとお供しますし、この装備では足りません。こちらは必要最低限です)とでも言うように、至極真面目な顔で誇らしげに胸を張ってみせた。
それを見ていた駿が、小さく笑う。
「みんな心配性なんだね」
何気なく零された、ただそれだけの一言が夕暮れの駐車場に響いた瞬間。
それまで頑なに積載の正当性を主張していた使用人ゾンビたち全員が、一斉に深く満足そうに頷き合った。
(若旦那様に、我らの心配りが伝わった。これ以上の誉れはない)
「…………」
その調和の前に関口だけがただ一人、静かに頭を抱えた。
「……帰る前に薬局に寄りたいんだが」
使用人ゾンビたちの目がギラリと光った。
(医療品も新調できますね)
(根こそぎ持っていきましょう)
使用人ゾンビたちの燃え盛る目に、関口と駿は帰りが更に遅くなることを悟った。
(第42話・完)
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