中都市の海岸線にほど近い埋立地に佇むその大型水族館は、巨大な硝子とコンクリートの塊として静かに海風を浴びていた。
かつて駿と関口が足を踏み入れたあの廃水族館は、世界の終わりそのものだった。
割れたアクリルに、干からびて異臭を放つ魚たちの死骸。
踏み荒らされた館内。
そして生存者たちが残していった生活の傷跡。
あの日二人の網膜に焼き付いたのは、救いのない滅びの景色だけだった。
だからこそ、自動ドアが自動で開いた瞬間。驚いた関口と駿はその場に立ち尽くした。
「……営業中?電気、通ってる…」
駿がぽかんとした顔のまま掠れた声を漏らす。関口もまた、かけるべき言葉を完全に見失っていた。
静まり返ったエントランスには、しかし確かな人の気配があった。
そこには色褪せた紺色の制服を綺麗に着こなした案内係ゾンビが立っていた。受付の奥には発券機に手を添えているスタッフゾンビがいる。通路の向こう側では、お揃いのロゴが入ったポロシャツを着た飼育員ゾンビやモップを握り締めた清掃員ゾンビたちが、ごく普通に、当たり前の所作のまま通路を往復していた。
受付ゾンビが駿たちの姿を捉えた瞬間、その上半身を滑らかに傾け、深く一礼してみせた。
「(いらっしゃいませ。当館へようこそ)」
そこには世界が崩壊する前の平穏な時間が人間以外、何一つ形を変えずにそのまま息づいていた。
薄暗い順路を進んだ先、駿は巨大な大水槽の前に辿り着くなりその場に釘付けになった。
生きている。魚たちが、確かに生きていた。
どこまでも澄み切った濾過水の中を、何万匹ものイワシの群れが銀色の鱗をきらめかせながら巨大な渦を巻いて泳いでいる。その頭上を、優雅に翼を広げるようにして大きなエイが通り過ぎ、大きなサメが砂地に影を落としていく。
別の水槽では淡い光を浴びたクラゲたちが拍動を繰り返しながら漂い、岩場ではペンギンたちが愛らしく毛づくろいをしていた。
世界がどれほど無残になろうとも彼らは毎日、毎日欠かすことなく、役割だけに従って動き続けていた。
餌をやり、掃除をし、水質を管理し、巨大な循環ポンプのレバーを無言のまま動かし続ける。それが彼らの仕事だったからだ。人格を忘れても、その身体に刻まれた誇り高き仕事だけは、決して世界を裏切らなかった。
駿はアクリルの表面へそっと両手を押し当てた。
水槽の感触が掌へと伝わってくる。分厚いアクリルで水の温度は分からない。
けれど。
その瞳に銀色の光を反射させながら、ただ一言、震える唇から言葉を零した。
「……生きてる」
悲鳴も涙もなかった。ただ世界が終わってから、子犬以来直面した「守られ、維持されてきた命」のまぶしさが、駿の胸の奥へとゆっくり深く沈んでいった。
関口はその隣で水面を見上げたまま、吐き出すようにして小さく呟いた。
「……ここだけ、時間が止まっている」
元国家公務員として幾つもの崩壊した都市や機能停止したインフラを見届けてきた関口の経験のなかに、こんな場所は一箇所として存在しなかった。
世界はまだ完全には終わりきっていない。
静かな希望が、男の胸の中に灯った瞬間だった。
*
四匹の犬たちもまた、それぞれ異なる眼差しでこの青い空間に対峙していた。
ハヤテはペットショップと変わらず、周囲を泳ぎ回る色鮮やかな魚たちの群れにも興味すら示さなかった。駿のすぐ真横にぴたりと寄り添い、主人が水槽を見つめるその横顔だけを深い忠誠を湛えた瞳でじっと見つめ続けている。
そしてシグレも同様に、水槽の美しさなど端から視界に入れていなかった。彼は開け放たれた薄暗い通路の境界線へとどっかりとそのたくましい身体を下ろし、外からやってくるかもしれない脅威の気配を鋭い感覚で警戒し続けていた。
ミナトは、ガラスの向こう側でコミカルに跳ね回るペンギンたちの姿を見つけるなり、生前の人懐っこさを隠しきれない様子で大きな耳を揺らした。そして、尻尾を床へとトントンと激しく振り乱して喜びを表現していた。
そして子犬は完全に無邪気さそのものだった。目の前のアクリルを素早い速度で横切っていく小さな熱帯魚の影を見つけると、短い四肢を一生懸命に動かして、それを捕まえようとガラスに向かってトコトコと突撃していく。勢い余ってアクリルに小さな鼻先をぶつけ、コロンと転び、それでもすぐに起き上がってまた楽しそうに魚たちの影を追いかけ回していた。
思い思いに鑑賞していると、通路の影から一人の飼育員ゾンビが音もなく歩み寄ってきた。
飼育員ゾンビは駿の前まで来ると、その手にある鍵の束を静かにジャラリと鳴らし、壁に設けられた重厚な鉄の扉をスッと指差してみせた。
「(こちらへ。特別な御方をお連れする場所です)」
無言の案内のまま、駿たちは一般の客にはめったに公開されることのない、水族館の心臓部であるバックヤードへと招待された。
頭上に広がる巨大な濾過装置の規則正しい駆動音。
ひんやりとした冷気が立ち上る、魚たちのための広大な餌の冷凍庫。
そして通路の足元に設けられた硝子のキャットウォークを恐る恐る進むと、すぐ真下では滑らかな肌をしたサメたちの背びれが静かに水面を割って回遊しているのが克明に見下ろせた。彼らの影を察して、大きなウミガメがすぐ足元まで息を吸いに上がってくる。
「こんなの、初めて見た!」
駿はこれ以上ないほどに濁りのない瞳を輝かせ、キャットウォークの手すりにしがみついた。
その隣で関口も表情を少しだけ和らげ、どこか楽しそうに巨大な生命維持装置のシステムへと視線を巡らせていた。
*
やがて深く連なる海岸線の向こうへとゆっくりと陽が落ち、中都市に夜の帳が下りる頃、水族館の館内からは日中の一般照明が一つずつ静かに落とされていった。
一般客など誰一人としていない貸切の空間。
照明の落ちた館内には、アクリルの奥から発せられるどこまでも深い青いライトの光だけが幻想的に立ち上っている。水槽のなかを漂う無数のクラゲたちがその青い光を透過させて、まるで夜空に浮かぶ星々のように静かにまたたいていた。
すると、順路の要所に佇んでいた飼育員ゾンビたちが駿たちの歩みに合わせるようにして、夜間限定の特別な演出照明を一つ、また一つと手際よく点灯させていった。
それは、かつて特別な夜のイベントのためだけに用意されていた、光と水のスペクタクルだった。
駿と関口の二人、あるいは犬たちの周囲を、青と緑の美しい光のベールが優しく包み込んでいく。
同行してきた別荘の使用人ゾンビたち全員がその美しい大水槽の後方、影の濃い場所に静かに座ったまま誰一人として動こうとはしなかった。若旦那様が手に入れた静かな時間を一邪魔してはならないと分かっていたからだ。彼らは主人の背中を静かに見守り続けていた。
やがてすべての演出が終わり、閉館の時間がやってくる。
館内の光がゆっくりと落とされ、巨大な水槽だけが深い海の底のような青い光を放ち続けていた。
駿はエントランスの重い扉の手前でゆっくりと振り返ると、見送るために整列した職員ゾンビたちの姿を真っ直ぐに見つめた。
駿の心は感動と喜びで満たされていた。
「今日は、ありがとう」
純粋な、心からの感謝の一言だった。
飼育員ゾンビたちはその言葉を正面から受け止めると、手を胸の前へ重ねた。そして誇りと喜びをその瞳に湛えながら、綺麗な角度で、深く、美しく一礼してみせた。
「(御無事で、お客様。我らが命を賭して守り抜いた、この水の記憶と共に)」
夜の闇のなか、大型バスの重厚なエンジン音が心地よく響き渡り、中都市の駐車場を静かに出発していった。
走り出すバスの窓硝子の向こう側、遠ざかっていく水族館の建物の奥からは、彼らが丁寧に管理し続けたあの夜の青い光だけが、暗がりのなかにいつまでも温かい残響のように残り続けていた。
(第43話・完)
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