人は後世へ何かを託したいと願っている。
絵でも、字でも、音でも。
残したいと願ったものは、きっと誰かへ届く。
駿の希望で大型バスが滑り込んだのは区立中央図書館のロータリーだった。
静謐なレンガ造りの意匠を持つ建物は、規模が大きく外観も洒落た意匠だった。
自動ドアを潜り抜けた瞬間、そこには静まり返ったレンガ造りのフロアが広がっていた。誰一人として騒ぐ者はなく、かつて館内を満たしていたはずの定時の案内放送もとっくに途絶えている。しかし、その広大な空間には、確かにそこに生きる役割の気配が息づいていた。
受付カウンターには、仕立ての良いベストをまとった司書ゾンビが端然と立ち尽くしている。返却カウンター、貸出カウンターそして検索端末の画面にいたるまで、何一つ形を変えずにそのまま残されていた。
さらにその奥の、幾重にも重なる本棚の迷宮のなか。
衣服の擦れる音すら立てず、数人の司書ゾンビたちが台車に積まれた本を黙々と元の棚へと戻し続けていた。世界が変わったあの日から、彼らはただの一日も欠かすことなく傷ついたページの修繕作業と本の返却作業だけを規律に従って繰り返していた。
だからか、並べられた書物のすべてが異常なまでに美しかった。
館内には埃一つとして落ちていない。紙にとって最大の敵である湿気を防ぐため、彼らは毎日、毎日欠かすことなく、窓を開けて換気を行い、除湿と清掃のルーティンを頑ななまでに守り続けていた。この区立図書館は時間が完全に止まったまま、訪れるはずのない誰かのために紙の束をただ綺麗に保護し続けていた。
「何読もうかな」
広大なロビーの中央で駿がぽつりと、誰に言うでもなく呟いた。
その声音が静寂を揺らした瞬間、周囲に控えていた司書ゾンビたちの瞳が一斉に、魂を吹き込まれたかのように輝いた。彼らはただ、本を愛する者に最高の物語を紹介するというその唯一無二の瞬間をただひたすらに待ち続けていた。
次の瞬間、駿の周囲にはそれぞれのジャンルに執念を燃やす四人の専門司書ゾンビたちが音もなく滑り込んできた。
一人目の絵本担当司書が両手で壊れ物を扱うようにして、駿の前に何冊もの懐かしい色彩を差し出した。
『ぐりとぐら』、『14ひきシリーズ』、『スイミー』、『はらぺこあおむし』、『おおきなかぶ』。
かつて幼い頃に駿も夢中でページを捲り、世界の優しさを教えてくれた絵本たちのすべてが新品同様の輝きを放って並べられていく。
二人目の図鑑担当司書は駿の視線に合わせるようにして、昆虫、恐竜、宇宙、深海魚、植物、動物、あらゆる世界の姿を閉じ込めた、装丁が豪華な大判の図鑑を抱えきれないほどの熱量で次々と目の前へ積み上げていった。
三人目の児童文学担当司書が、色褪せない想像力の詰まった本をそっと差し出してゆく。
『銀河鉄道の夜』、『ナルニア国物語』、『マチルダは小さな大天才』、『魔女図鑑』、『星の王子さま』、『精霊の守り人』。
大人になる過程のどこかで誰もが通り過ぎ、忘れていってしまった大切な物語たちがそこにはわくわくを詰めたまま眠っていた。
そして四人のなかでも最も慎重な面持ちをした推理小説担当の司書は、駿の年齢と佇まいをプロの目でじっと見つめると、
「(この辺りのレベルから、お客様の知的好奇心を少しずつ満たしていくのが最善の順序でしょう)」とでも言うように、まずは児童向けのミステリーから始めて、一冊ずつ段階的に難易度を上げた名作の数々を静かに差し出してみせた。
『怪盗紳士リュパン』、『シャーロック・ホームズの冒険』、『三つの棺』、『アクロイド殺し』、『厳寒の明智館』、『ギリシャ棺の秘密』。
駿は差し出される一冊、一冊の重みを両手で受け止めながら、その瞳を穏やかに緩めた。
「――懐かしい。ありがとう」
その純粋な一言を受け取るたびに司書ゾンビたちは胸の前で細くうめき声を漏らし、感無量といった様子で深く頭を下げていた。
司書ゾンビの猛威は駿だけにとどまらず、彼と少し離れた一般書エリアで索敵を続けていた関口の元へと迫った。
「おい、待て。私はいい」
「私はそんなに多くの本は読まないと言っているだろう」
関口は目の前に音もなく立ちはだかり、両手でうず高く積み上げられた専門書の山を突き出してきた年配の司書ゾンビを、厳しく制止しようとした。
その佇まいから関口の経歴は図書館のプロにとって極めて明白だったのだろう。
司書ゾンビが関口の前に並べ立てたのは、法律、犯罪心理、戦史、危機管理、応急処置、詳細な道路地図、さらには大型車両を維持するための建築、電気、機械の技術書にいたるまで、この先の移動を完璧に支えるための実用的な書籍のすべてだった。
司書ゾンビは、関口の拒絶をまったく聞き入れようとはしなかった。ただ、その瞳に絶対的なプロの執念を宿しながら
「(旅の移動中、バスの特等席でお読みください。お客様であればこれほどの実用書、瞬時に網羅できるはずです)」
と言わんばかりの滑らかな動作で本の山を関口の腕の中へと静かに、けれど力強く押し付けていった。
「強制なのか?!」
関口は腕の中にずっしりと収まった紙の重みと、そこに並ぶ歪なまでの実用的なタイトルの数々を見つめ、頑固で融通のきかない司書ゾンビに(まるでかつての同僚と一緒だな…)と苦笑を噛み殺しながらため息をつくしかなかった。
さらにクラシック文学の棚の前に佇んでいたアロハシャツ姿の老紳士ゾンビ前には、一際格式の高いベテラン司書ゾンビが直属として付き従っていた。
かつての資産家一族の長としての気品を察知したのか、差し出されたセレクションは純文学、詩集、古代哲学、中世の歴史書、さらには美術、園芸、ヴィンテージワイン、紅茶の製法、と老紳士ゾンビの嗜好をまるで秘書ゾンビのように熟知したような書物だった。
「(な!!…大旦那様の嗜好ピッタリ……?!)」
老紳士ゾンビの後ろで執事ゾンビが慄いた。
老紳士ゾンビは軽く頷く。それを受けたベテラン司書ゾンビがどんどん差し出す本を執事ゾンビが次々受け取っていった。
そしてついにもてなしの波は、ロビーの絨毯の上でドッグトレーナーゾンビと静かに待機していた四匹の犬たちの元へと飛び火した。
「(全員、動くな)」
入り口の真正面に座り込み、外の中都市の荒れ果てた道路への警戒を継続していたシグレや、主人のすぐ真横に寄り添いたいハヤテ達の前に、一頭につき一人ずつ司書ゾンビたちが膝をついた。
ハヤテたちの目の前に美しいカラー写真で彩られた『犬種大図鑑』や、犬の生態を専門的に解き明かした飼育本が丁寧に床へと広げられる。
さらには警察犬の訓練記録、災害救助犬の活動ドキュメンタリー。そして、レトリバーやシェパードの歴史から、子犬の離乳食テキストにいたるまで、犬たちのための本が綺麗に並べられていった。
ドッグトレーナーゾンビの瞳が鋭く見開かれた。
「(!!)」
プロドッグトレーナーとしての本能が、そのラインナップを前にして一瞬にして爆発した。
彼は喜びの気配を喉の奥で激しく鳴らしながら千切れんばかりに首を縦に振り、司書ゾンビたちからその専門書をひったくるようにして大喜びで受け取っていた。
その足元では、子犬が広げられた図鑑のなかの自分とよく似た犬の写真を不思議そうに覗き込み、司書ゾンビに撫でられたミナトが嬉しそうに尻尾を絨毯へ振り乱していた。
*
やがて閉館の時間がやってくる。
駿たちの腕のなかには選ばれたたくさんの懐かしい物語や未読の本が、大切そうに抱えられていた。
ロビーのエントランスにある貸出カウンターの前で、司書ゾンビたちがふと立ち止まる。
だが、司書ゾンビたちは誰一人として使い古された「返却期限」のスタンプを押そうとはしなかった。
彼らはただ、駿たちが抱えた本の上へとその両手をそっと優しく添えた。
そして自らの胸の前に手を当てると、生前の誇りと至福をその瞳に湛えながら、深く一礼してみせた。
その沈黙の所作だけが、駿たちの胸の奥へ温かいメッセージとなって伝わった気がした。
「(読み終わったら、またいつでもこちらへ返しに来てください。私たちはいつまででも、次の物語を用意してお客様をお待ちしております)」
駿は司書たちの美しい一礼を真っ直ぐに見つめ返し、小さく、ほんの少しだけ頷いてみせた。
夜の闇のなか大型バスの重厚なエンジン音が心地よく響き渡り、区立中央図書館のロータリーを静かに出発していった。
館内の光がゆっくりと落とされる。
巨大な建物の奥では、静かな書架の森に眠る無数の言葉たちが、世界の美しい記憶をセピア色のページのなかへ閉じ込めたまま、深い夜のなかへ溶けていった。
(第44話・完)
・