最高のセキュリティーを誇る大豪邸を手に入れた翌朝。烏丸は、広いキッチンで浄水器から出した水を飲みながら、今日一日の調達計画を練っていた。
「さすが豪邸……水がうまい……」
冷たくて雑味のない水が、五臓六腑に染み渡っていく。
だが同時に、烏丸はコップを見つめながらふと表情を引き締めた。
この美味しい水が蛇口から出るのも、電気が通って浄水器が動いているのも、すべてはまだライフラインが生きているおかげだ。ネットの書き込みの通りなら、インフラはあと数日から数週間で確実に止まる。
(インフラが生きている今のうちに、電気が消えたらすぐにダメになる『足の早い高級食材』を確保し、消費しなきゃいけない。缶詰やレトルトは後回しだ)
目指すは、ここから数キロ離れた場所にある駅前の高級デパート。その地下食料品売り場、通りの誰もが憧れる「デパ地下」だ。
そこそこの距離があるため、烏丸は邸宅の鍵を開けて広大なガレージへと足を運んだ。なにか移動手段になる乗り物があれば、と思ったのだ。
しかし、電動シャッターを開けた烏丸は、そこに並ぶラインナップに絶句した。
「……フェラーリに、ロールスロイス。こっちは……博物館に置いてあるレベルのヴィンテージカーじゃん……」
どれもこれも、億単位の価値がありそうな超高級車ばかりだった。
世界が滅びた今なら乗り回しても誰にも文句は言われないだろう。だが、あの気高き老紳士ゾンビから「家を譲られた」ばかりの烏丸は、そのあまりの高級っぷりに冷や汗を流した。
(いや、無理だな。こんなの傷つけたら老紳士に申し訳なさすぎる。万が一暴徒に襲われてボコボコにでもされたら悲しむかも……)
あの優しさにすっかり老紳士に情が湧いてしまった。基本的に善良で真面目な烏丸は、そっとシャッターを閉めて使用を断念した。結局、大きな登山用リュックを背負い、徒歩でデパ地下へと向かうことにする。
「よし、行ってくるか」
重厚な正門を開けて外に出ると、門の前で直立不動で警備に就いていた元・お抱え運転手のゾンビが「(お出かけですか、いってらっしゃいませ)」と深く一礼してくれた。
さらにその足元から、文字通りハヤテの如く飛び出してきた影があった。
ゾンビ犬のハヤテだ。ハヤテは腐敗した尾をブンブンと全力で振りながら、烏丸の周りを嬉しそうにぐるぐると回り、そのまま「(僕もお供します!)」と言いたげに烏丸の少し前をトコトコと歩き始めた。
「あ、ハヤテ。ついてきてくれるのか。頼もしいな」
烏丸は微笑み、最強の護衛犬(?)を伴って焦げ臭い街を進んでいく。道中、徘徊しているゾンビたちは、烏丸とハヤテのコンビを見ると「(あ、お散歩ですか、お気をつけて……)」と、やはり緩やかに道を譲ってくれた。
だが、デパートまであと数百メートルという交差点に差し掛かったときだった。
ハヤテがピタッと足を止め、耳をピンと立てて、どこか遠くの路地裏をじっと睨みつけた。
その濁った瞳に、かすかな警戒の光が宿る。
「ハヤテ? どうした?」
烏丸が声をかけるが、ハヤテはクゥ、と低く喉を鳴らしたあと、烏丸の顔を一度見上げ、「(旦那様、ちょっと不審な気配を察知したので、僕はここで離脱します。先に行っててください)」とでも言うように短く「ウアゥ」と鳴いた。
そして、そのまま猛然とダッシュして、元来た道を――つまり、自分たちの「我が家」の方向へと引き返していってしまった。
「え、帰っちゃうの!?……まあ、お留守番してくれるなら安心か……」
勝手に家に戻っていく賢いハヤテを見送り、烏丸は一人でデパートの入り口へと滑り込んだ。
エスカレーターを降り、薄暗いデパ地下へと足を踏み入れ、目的の高級精肉コーナーの前に立つ。
すでに電気が弱まり、BGMも流れていない静まり返ったフロア。しかし、そこには烏丸の予想通り、まだ冷蔵機能が生きていて冷え切ったガラスケースの中に、見事な霜降りのA5ランク和牛の塊や、厳選された高級熟成ハムが並んでいた。
「うわぁ……これが全部タダか。どれから持っていこう……」
烏丸がリュックを開けようとした、その時。ケースの向こう側、厨房へと続く扉がゆっくりと開き、白いコックコートを着た、大柄な元・シェフのゾンビが姿を現した。その手には、鈍く光る大きな包丁が握られている。
(ひっ……!)
検証済みとはいえ、やはり血まみれの巨漢ゾンビが包丁を持って近づいてくるのは心臓に悪い。烏丸は思わず息を呑み、体を硬直させた。
だが、シェフゾンビは烏丸の姿と、彼が背負った大きなリュックを見るなり、その濁った目を「おや」と丸くした。そして、包丁を調理台へと優しく置くと、まるで開店直後に常連の美食家を迎えるかのような、プロフェッショナルな笑みを(腐敗した顔で)浮かべたのだ。
「(いらっしゃいませ! よくぞ我がデパ地下へ。電気が消えてこれが腐ってしまう前に、一番良いお肉を全部持っていってください!)」
そんな幻聴が聞こえてきそうな手際で、シェフゾンビはケースの鍵を開けると、中にあった最高級のシャトーブリアンや塊肉を次々と取り出した。さらには、近くの棚から「保冷剤」を大量にかき集め、お肉が傷まないように丁寧に保冷袋へと詰め込んでいく。
それだけではなかった。
烏丸が「あ、お肉を長期保存するために、塩とかスパイスも探さないとな……」と呟くと、シェフゾンビは「ウアァ……(任せとけ)」と頼もしく喉を鳴らし、厨房の奥からベーコン作りに最適な大量の岩塩と、最高級のハーブソルトの袋をドサドサと抱えて戻ってきた。
「あ、ありがとうございます……!」
烏丸が恐縮しながら受け取ったものの、リュックに詰め込んだ塊肉と、ドサドサと渡された大量の岩塩の重みで、病み上がりの膝がガクガクと笑い始めた。あまりにも重すぎる。これを背負って徒歩で大豪邸まで帰るのは、物理的に不可能なレベルだった。
(やばい、ありがたいけど重すぎて一歩も動けない……どうしよう……)
烏丸が冷や汗を流しながら固まっていると、シェフゾンビは顎に手を当てた。
考える。
そして。
「ウア(そうだ)」
厨房の奥へ消えた。
数秒後。
ガラガラガラガラ。
業務用台車を押して戻ってきた。
それだけではなかった。
シェフゾンビは近くを徘徊していた元・荷出し担当のゾンビたちを「(おい、ちょっと手伝え)」と呼び寄せると、彼らに岩塩や保冷袋に入った肉を台車へと丁寧に積ませたのだ。
そして、荷出しゾンビの一匹が、台車のハンドルをゆっくりと握り、烏丸に向けて「(やることないし、お家まで僕が押していきますよ)」と言いたげにコクリと頷いた。
「え、あ……配送までしてくれるんですか……?」
な、なんなんだろう、本当に。烏丸が混乱しながら再度礼を言うと、シェフゾンビは「(若いんだからたくさん食べなさい。プロの味を頼んだよ)」と言いたげに、親指をグッと立ててウインク(片目が少し濁っているが)をしてみせた。
こうして、世にも奇妙な「無料の配送サービス」が始まった。
ガラガラと小気味よい音を立ててアスファルトを進む業務用台車。それを、血まみれのエプロンを着た荷出しゾンビがせっせと押し、その横を黒のパーカー姿の烏丸が並んで歩く。
烏丸の心臓は、デパ地下を出て外の通りに出た瞬間からバクバクと激しく鳴り響いていた。
(あれ、待てよ、今は良くても、もし途中で他の生存者に見つかったら終わりじゃないか……!? ゾンビと人間が仲良く配送サービスしてるなんて異常事態、絶対に怪しまれるし狙われる……!)
病み上がりで思考が遅れていた烏丸は、外に出てからその「最悪のリスク」に気づいて冷や汗を流した。もし途中で生きた人間に遭遇したら、この荷出しゾンビが本能を剥き出しにして襲いかかるかもしれない。そんなサスペンスに冷や汗を流しながら、烏丸は周囲をビクビクと警戒し続けた。
しかし、その懸念は別の意味で裏切られることになる。
デパートから数キロ離れた大通りに差し掛かったとき、通りの物陰から、家族のために命がけで物資を探しにきたらしい、一人の男性生存者がひょっこり姿を現した。
その手には、お世辞にも頼りない金属バットが握られている。家に幼い子供と妻を残してきたお父さんだった。
(あ…あ…うそでしょ。やばい、出た……!ちょ、これどうするの?!襲うなよ、絶対に襲うなよ……!)
烏丸が息を止めて身構えた、その瞬間。生存者の気配に気づいた荷出しゾンビの喉が「ガアァ……」と一瞬だけ鳴りかけた。
だが、ゾンビは自分の手元――台車の上に山積みにされた、最高級の塊肉と大量の岩塩の袋をじっと見つめた。
「(いや、ダメだ……。今俺は『業務中(配送中)』だ。私情(食欲)で仕事を放り出すわけにはいかない……。他の人間に構ってる暇はないんだ……!)」
生前の社畜精神(プロ意識)がゾンビとしての飢餓本能に完全勝利した瞬間だった。荷出しゾンビは男を完全に無視し、ひたすら前だけを見据えて生真面目に台車を押し続けた。
一方、物陰からその光景を目撃したお父さんは、恐怖を通り越して顎が外れそうなほど驚愕していた。血まみれのバケモノが、ちょっとやつれた男のために最高級の肉と塩をせっせと運んでいる謎の光景。
「え……? なにあれ……デパートの配送サービスって、世界が滅んでもまだ営業してるの……?」
お父さんは大混乱に陥り、あまりの異常事態にバットを構えることも忘れて呆然と立ち尽くす。
烏丸は、ここで男に大騒ぎされて他のゾンビや暴徒が集まってくるのを恐れた。それに、男の服の隙間からチラリと覗いた、家族の写真が入ったキーホルダーが目に入る。
(……この人、家族がいるのかな。こんな世界で、必死に食べ物を探してるんだな……)
烏丸は、台車の上にある最高級のA5ランク和牛の塊を一つ手に取ると、物陰のお父さんに向けてすっと差し出した。
「あの、これ……口止め料、というか。……何も見なかったことにしてください」
お父さんは、差し出された見事な霜降り肉と、烏丸の必死な顔を見比べた。
【ゾンビパニックの世界で、まさかの最高級肉による買収】
普通なら罠を疑うところだが、家で飢えている妻子の顔が脳裏をよぎる。これを持ち帰れば、間違いなく家族全員が生き延びられる。
お父さんは和牛を見る。
荷出しゾンビを見る。
烏丸を見る。
もう一度和牛を見る。
「……」
「……」
「……」
脳が状況の理解を拒否していた。
血まみれのゾンビ。
最高級のA5和牛。
そして、それを口止め料として差し出してくる謎の青年。
どこからツッコめばいいのか分からない。
お父さんは数秒ほど真剣に考えた。
彼は人生で最も賢明な判断を下した。
見なかったことにしよう。
何もかも。
「……分かりました」
何一つ分かっていなかった。
お父さんと烏丸の視線が、静かに交錯した。
「(……なんか、よく分からんが……黙っとくか)」
「(……うん、黙っといてくれ……)」
双方の利害が一致し、無言のテレパシーが通じ合った瞬間だった。
お父さんはバットを脇に抱え、震える手で烏丸から和牛の塊を受け取ると、奥さんに持たされただろうデカいエコバッグに大事に仕舞い込んだ。そして、深く深く烏丸に一礼すると、そのまま何事もなかったかのように静かに物陰の奥へと消えていった。
烏丸は胃が痛くなるような緊張感を味わいながらも、ゾンビのプロ意識とお父さんの現実的な割り切りのおかげで、一度もトラブルを起こすことなく目的の大豪邸へと辿り着いた。
(第5話・完)