かつて中都市と呼ばれた荒れ果てた街並みの境界線を越えたその先。深い山林のふもとに拓かれた開拓集落には、初夏のまぶしい陽射しを浴びて力強い生活の音が響き渡っていた。
世界が崩壊して以来、生き残った人々はシェルターにこもり、ただ絶望の底で怯えていたわけではなかった。
割れたガラスを片付け、焼けた車を引き剥がし、腐敗臭の漂っていたがれきを更地にして、彼らは自分たちの手で新しい畑を耕し、雨水を貯めるシステムを作り上げていった。物資はバラバラで、食器の形も揃わず、電気は夜の数時間しか点かない不便な土地。けれど、そこには人間が人間として明日を生きるための、泥臭くも圧倒的な「暮らし」の活気があふれかえっていた。
「この町も、少しずつ良くなってきたな」
がれきの隙間に共同で植えた大輪のひまわりが夏の日差しを浴びて咲き誇る中、集落の古参メンバーの男がはためく洗濯物の白さを見上げて何気なく呟いた。古参の男が初めてこの場所に辿り着いた頃の、生きるために他者を罵り合う怒号と、略奪者の残党に荒らされ放題だった初期の荒涼とした景色は、もうどこにもなかった。
この開拓集落の人々は、ただ生存を維持するだけでなく、明日をより良く生きるための「学び」に対して途轍もなく貪欲だった。
「はい、それじゃあ次の数式にいくぞ」
屋根の抜けた崩れかけた建物の下、元教師の老人がベニヤ板で作った即席の黒板に向かってチョークを走らせていた。
青空教室に集まっているのは小さな子どもたちだけではない。世界が終わったことで学ぶ機会を奪われていた若者も、今日を生きるために必死だった大人も、お年寄りも、誰もが同じ地べたに座って真剣にベニヤ板を見つめていた。世界が終わっても、人が学ぶことは終わらなかった。
そこへ──カラン、カラン、と突如として見張り台の鐘が乾いた音を鳴らした。
その瞬間子どもたちは日頃の訓練で教わった通りの手順で、素早く遮蔽物のある建物の中へと身を隠していく。大人たちは畑を耕していた手を止め、迷いなく手作りの槍や盾を握り締めてそれぞれの防衛配置についた。
元教師の老人も、黒板を慣れた手つきで片付けながら、
「はい、避難」
と、まるで夕立をやり過ごすかのように穏やかに声を掛けるだけだった。
しばらくして、見張り役の男が自前の得物を肩に担ぎ、いなすように笑いながら戻ってきた。
「鹿だった!」
その一言が響いた瞬間、張り詰めていた緊張の糸が一気に緩んだ。
「またか!」
「紛らわしいなぁ、もう」
あちこちから安堵の苦笑が漏れ、子どもたちも笑いながら再び地べたの教室へと戻っていく。数分もすれば何事もなかったかのようにベニヤ板の前の授業はそのまま再開された。
いつどこから脅威がやってきても「いつでも逃げられる、いつでも戦える」という強固な自立の規律が、彼らの生活のなかに「慣れ」として完全に溶け込んでいた。
授業が終わると、今度は木陰の下でささやかな工作教室が始まった。
かつての時代を生き抜いた老人たちが、拾ってきた廃材や竹を削って、子どもたちのために竹とんぼや竹笛を作っていた。カロリーを生み出すわけでもなく、外の脅威を防ぐ壁になるわけでもない、生きるためには一見「不要」なはずのそのささやかな娯楽が子どもたちの輝く瞳を取り戻していく。
老人が食べ終わった空き缶に紐を通し、缶ぽっくりを作っている隣で、一人の子どもがその手元を覗き込んで聞いた。
「なんで缶ぽっくりの紐、こんなに長いの?」
老人は、竹を削るナイフを止めて優しく笑った。
「いざって時に、紐もって振り回せるようにだ」
「へぇ!」
子どもは何の疑問もなく素直に頷くと、また夢中になって自分の缶ぽっくりを作り始め、完成したおもちゃを足元に敷いて嬉しそうに跳ね回りだした。老人はその小さく弾む背中を見つめながら、誇らしげに小さく笑った。
「遊びも、生きる知恵だからな」
生き延びるためだけの訓練だけではなく、心の潤いを取り戻すためのおもちゃの構造のなかにも生き抜くための生存の知恵がひっそり溶け込んでいる。遊ぶことも、笑うことも、この世界ではすべてが立派な「生きる技術」だからだ。
*
そんな賑やかな営みの輪のなかに、『おじさん』もまた、一人の職人として自然に溶け込んでいた。
以前大都市でただのサラリーマンだった彼は、昔から好きだった細かい物を見る才能を活かして、集落の壊れた時計、ラジオ、ランタン、懐中電灯といった精密な機材の修理をしていた。修理担当になってからは、毎日が驚くほど楽しかった。
「コイツを見てくれ」
「発電機を頼む」
「荷物運べる?」
ただ一人の人間として、我流の技術を「お願い」という温かい言葉で必要とされる。
その一言が、おじさんには泣きたくなるほどに嬉しかった。大都市の檻のなかでは決して得られなかった「生き残ってよかった」という言葉が、壊れたラジオのネジを回す指先から静かに胸の奥へと染み渡っていった。
やがて大鍋の炊き出しから漂う湯気の向こうで、全員が集まっての質素な昼食の時間が始まった。決して豪華な食事ではない。けれど、そこには確かな笑顔が満ちていた。
「最近、ほんと良くなったよな」
誰かが、手作りの木製のお椀を持ち上げながら言った。
「子どもも増えたし」
「畑も育ってきたな」
「あとは、無事に冬を越せるかどうかか」
「明日、何する?」
「暇なら廃材拾ってきてよ」
「……はぁ~い」
そんな、かつてなら当たり前すぎて気にも留めなかったはずの普通の会話が、おじさんにはたまらなく愛おしかった。
彼は箸を止め、ふと初夏の青空を見上げた。
脳裏を過ったのは、あの日電柱の陰で出会った信じられないほど無防備で不思議な青年の顔だった。
『……たぶん。多分なんだけど。ここ、いい場所になる気がする。行った方がいいよ、きっと』
名前も知らない青年。
当時は「そんな綺麗事」と半信半疑で受け止めるしかなかったあの言葉。
それでも、信じられるものがもう他に何一つ残されていなかったからこそ、その綺麗事だけを唯一の羅針盤のようにして縋るようにこの町へと向かって歩き出した。
それを彼は自分の心に大事に仕舞って、時折思い出していた。
*
夕暮れ時、中都市の山林のふもとに長い影が伸びていく。
子どもたちが竹とんぼを夕空へと高く飛ばして笑い転げ、大人たちが手作りの槍を片付けて畑から戻ってくる。それぞれの煙突から夕飯の煙が立ち上り、あちこちから何かを修理する金槌の音が響いていた。
おじさんは、新しく集落の広場へと運ばれてきた薪を自らの両手でしっかりと抱え直し、黄金色に染まり始めた町全体をゆっくりと見渡した。
最初から用意された安全な楽園があったわけではない。
この町の人々が、自らの手で必死に手探りで営みへと育て上げていったのだ。
おじさんはまぶしい夕日に照らされた共同体の美しい景色に、ゆっくりと優しく笑った。
「――――ああ。本当に、いい場所になった」
その掠れた一言だけを静かに残して、彼は薪を抱えて待っている仲間たちの元へと歩み出していった。
(第45話・完)
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