中都市を離れたキャンピングカーは、傾斜の急な山道を驚くほどなめらかに登り続けていた。大型バスの巨体では到底潜り抜けられなかったであろう狭いトンネルも、緑の生い茂る古い峠道もこの車だと軽やかに轍を刻んでいく。
車内の空気は、どこまでも穏やかだった。
選抜大戦争を勝ち抜いた整備担当の整備士ゾンビが運転席に座り、黙々と前を見据えてハンドルを握っている。その助手席には、家長としての格式を守る老紳士ゾンビの意図を汲むために背筋を正した選ばれし執事ゾンビが静かに腰掛けていた。
執事はフロントガラスの向こうの道を見つめながら必要に応じて、隣の整備士へと進路や停車の合図を短い仕草で送っている。
「『渓流』だって。行ってみよう!」
駿が山道に立っていた看板を見つけて、楽しそうに瞳を輝かせた。その瞳が夏の陽射しを浴びてきらきらと輝く。
後ろのダイネットシートに座る関口は、少しだけ手元の大まかな地図へと視線を落とした。
「……寄り道するか」
助手席のさらに奥から、アロハシャツに身を包んだ老紳士ゾンビが静かに深く頷く。それを無言の許可として、キャンピングカーは進路をさらに深い山奥へと切り替えていった。
人の気配が完全に途絶えた山奥。そこには、透明な水が美しい木陰のなかに広がっていた。絶好の休憩ポイントだった。
車が停車すると同時に、四匹の犬たちが真っ先に川辺へと飛び込んでいった。
ハヤテが水面を割って主人の真横をキープし、シグレがピシッと周囲の警戒に就く。ミナトが水しぶきを上げて尻尾を激しく振り乱し、子犬がころころと浅瀬で転がり回る。完全に夏休みそのものの景色だった。
駿は全力で遊び、犬たちも全力で跳ね回っていた。
手には、ホームセンターで楽しそうに買い込んでいた水鉄砲と大きな浮き輪が握られている。あの日、棚の隅で見つけて「これ便利そう」と眺めていた夏グッズのすべてが、今この真夏の清流のなかで完璧に活躍していた。
一方関口は川べりの岩に腰を掛け、自身が水に入ることはなかった。
その視線は、一時も駿の細い背中から離れることはない。
・岩は滑らないか
・流れは速くないか
・犬たちの位置は安全か
・草むらに蛇はいないか
・日差しを遮る木陰はあるか
・水分補給は十分にさせたか
関口は、そのすべてをシグレと共に厳しい目で監視し続けていた。関口本人はそれを単なる「警護」のつもりでこなしている。だが、駿の動線をすべて先回りして守るその佇まいは、客観的に見ればどう見ても父親のそれだった。
その横では、熾烈な選抜を勝ち抜いた一人のメイドゾンビが、完璧なタイミングで冷たい麦茶や清潔なタオル、着替えの衣服を並べていた。駿はメイドからタオルを受け取り、濡れた髪を拭きながらふと関口の方へと振り向いた。
「おとうさん」
「なんだ」
関口は、普通に返事をした。あまりにも自然な生返事が口から漏れていた。
そのまま、何事もないように歩きながら会話が続いていく。
「~だったんだよね」
「そうか」
「おとうさん」
「なんだ」
「これ浮き輪もう一個——」
そこで。
関口の足が止まった。
数秒。
水のせせらぎだけが響く、奇妙な静寂が二人の間に落ちた。
関口の動きが、凍りついたようにピタリと止まった。
「……待て」
「?」
駿が、不思議そうに首を傾げる。
「今、なんと言った」
「?」
駿は本当に分かっていなかった。ただ妹やハヤテを呼ぶのと同じ、何の計算もない自然な言葉として口から出ただけだった。
駿は、もう一度だけ聞き返すようにその四文字を繰り返した。
「?浮き輪」
「違う」
「どれのこと?……おとうさん?」
静寂。
駿は「違った?」くらいの、何の気負いもない顔で首を傾げている。
「……いや」
そこで会話は終了した。関口がそれ以上何も言わないのを見て、駿はすぐに忘れたように、犬たちの後を追いかけて再び川の方へと行ってしまった。
*
夕方、山路に深い夜の帳が下りる頃、帰り支度を終えた一行はキャンピングカーの車内へと戻っていた。
整備士ゾンビが黙々と前を見据えてキャンピングカーを運転し、助手席の執事ゾンビが前方の状況を確認している。
後ろの座席で准は駿のすぐ真横の席に腰を落ち着けていた。
車が静かに走り出す。
窓の外に遠ざかっていく緑の影を眺めながら、一日中全力で遊び疲れた駿の首が、こくん、こくんと眠そうに船を漕ぎ始めた。やがて、小さな寝息が車内に静かに響きだす。
准は何も考えずに、素早くメイドに差し出されたフカフカのタオルケットを眠る駿へと掛けた。
髪に小さく引っかかっていた川べりの葉っぱを優しく取り除き、投げ出されていた靴の向きをそっと揃え、寝苦しくないように駿の側の窓をほんの数センチだけ静かに開ける。
その様子を横から見ていた老紳士ゾンビは、何も言わずにただ優しく少しだけ目を細めて微笑んでいた。
メイドゾンビも「若旦那様が健やかにお休みで嬉しい」とでも言いたげに、嬉そうに少しだけ口元を和らげている。ドッグトレーナーゾンビの足元では、川から上がった四匹の犬たちまでもが、主人の眠りを妨げないように静かに身を丸めていた。キャンピングカーには穏やかな時間が流れていた。
眠る駿の寝顔を見つめながら、准の胸の奥には、ずっと蓋をしていた古いセピア色の記憶が唐突に溢れ出していた。
世界が崩壊するより前の、穏やかだったある夜のリビング。
『あともうひとり欲しかったなぁ』
妻が、愛おしそうに小さな幼子を抱きながら、何気なく呟いた言葉。
『……
自分がそう返した時の、妻の悪戯っぽい笑顔。
『そうじゃなくて。一人っ子じゃなくて、きょうだいがいたら助け合えるでしょ?』
笑っていた。本当に何気ない会話だった。
准はふと思う。
駿。
瞬。
「しゅん」。
(……ああ。どうして)
あの日。
准の世界が死んだ日。
瞬が死んだ日。
駿が、この世界で一人になった日。
たった一日。
その違いだけだった。
年齢だって、たった一つしか違わない。
もし生きていたなら。
今頃は、駿と同じように笑っていたのだろうか。
あの子は、名前のように。
あまりにも一瞬で、この世界からいなくなってしまった。
(……瞬)
今でも昨日のことのように思い出せる。忘れることなど、一生ない。忘れたいとも思わない。
あの子を忘れたわけではなかった。そして、この子を代わりに選んだわけでもなかった。
瞬は瞬として胸のなかに一生生き続ける。
その上で、今、自分の服の裾にぎゅっとしがみついてくれたこの駿もまた、もう一人の息子として准の命のすべてを賭して守り抜く。
(これからは二人分、ちゃんと守る)
一人増えたのではない。二人分。瞬を消さず、駿もその腕のなかに加える。
それこそが、この不器用な男が胸の奥で刻み込んだ、父親としての絶対的な規律だった。
(美咲、息子が増えたぞ)
准は、眠っている駿の耳元へ届くか届かないかの静かな聲音で、そっと呼びかけた。
「しゅん」
深く眠り込んでいる駿からの返事はない。
准は、少しだけ困ったように優しく笑った。
「忘れ物はないか」
愛おしそうに、もう一度だけタオルケットを駿の肩へと優しく掛け直した。そして、そのまま静かに流れていく夜の窓の外の景色へと視線を向けた。
(第47話・完)
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