緑に囲まれた穏やかな山道を越えた先でキャンピングカーが滑り込んだのは、かつて周辺の住民たちが憩いの場として利用していた少しだけ広めの総合公園のロータリーだった。
車が停車するなり、駿は真っ先にステップを駆け下りて色褪せたアスレチック遊具の方向へと一直線に走っていった。
そのすぐ後ろを、ハヤテ、シグレ、ミナト、子犬が付き従っていく。
駿が錆びついたブランコの手前まで差し掛かったその時だった。
ザザッ、と生い茂る夏草の影が大きく揺れた。
草むらの奥から音もなく現れたのは十匹ほどの犬の集団だった。どの一頭も痩せており、泥に汚れた毛並みは決して良いとは言えない。けれどその鋭い目だけは、厳しい世界を自らの力だけで逞しく生き抜いてきた叩き上げの凄みを放っていた。
「ウゥ……」
即座に、シグレが強靭な肉体を前に突き出して低く唸り声を上げた。ハヤテもまた、一切の迷いなく主人の身体を庇うようにして最前線へと立ちはだかる。対する野良犬集団も、尾を水平に保ったまま、鋭い牙を剥き出しにして低く地鳴りのような警告の音を響かせた。
一触即発の、ピリッとした重い緊張感が真夏の公園の芝生の上に立ち込めた。
隣へと歩み寄った准が駿の肩へとそっと手を置く。
「待とう」
准の低く短い言葉に、駿も静かに頷いた。
*
睨み合いが始まってから数分が経ち、互いの出方を探り合う空気が、ほんの少しだけ緩んだその瞬間だった。
駿が、自らの大きなバッグをごそごそと探り始めた。
「これ使う?」
取り出されたのは、前々話のホームセンターで大量に買ったばかりの、大小さまざまな色とりどりのゴムボールだった。
駿はそのなかの一球を選び、夏空へと向かって思い切り放り投げた。
ころころ、と乾いた音を立てて芝生の上を転がっていく緑色のボール。
まず、相棒ハヤテがその影を追って真っ直ぐにダッシュした。ハヤテが素早くボールをくわえて戻ってくると、駿は「ありがと」と優しくその頭を撫で回す。
周囲にハヤテの尻尾による風圧が起きた。
続いて二投目。
「あ」
駿が放った別のボールを、今度は野良犬の集団のなかの一頭が弾かれたように飛び出して横から綺麗に横取りした。
普通なら、ここで激しい
けれど、駿はメゲなかった。
おもむろにバッグから別のボールを引っ張り出しては、笑顔で次々と放り投げる。
「じゃあこっち!」
「これは?」
「どの固さが好き?」
野良犬たちもハヤテたちも、一歩を踏み出した状態で完全に虚を突かれたように動きを止めた。
(あ)
(あれ?)
(あれ?なんかいっぱいボールある)
ボールは、投げても投げても、すべての犬の行き渡るだけの無敵の数が詰め込まれていたからだ。
気付けば、今度は「誰が一番最初に駿の元へボールを持っていけるか」という、犬たちのプライドを懸けた大競争へと発展していた。
駿は、くわえて戻ってきた野良犬に対しても「ありがと!」と一切の分け隔てなく優しくその頭を撫で回した。
撫でられた野良犬は一瞬だけ身体を硬くしたものの、その掌の温もりに(……悪くないな)とまんざらでもない顔をする。さらに別の野良犬が持ってきても、駿は「ありがと!」と同じように優しく撫でた。
その光景を目撃したハヤテたち、過保護犬の導火線に一気に火が付いた。
「(ご主人!俺!早いよ!!)」
「(僕が一番なの!)」
「(僕!僕も!撫でて!!!)」
ハヤテやミナト、小さな子犬が広大な芝生の上を狂ったように爆走し始める。
そして、シグレ。
さっきまで「警戒対象」として駿の傍にどっかりと腰を下ろし、冷徹なプロの威圧感を放っていたはずの大型犬が、誰にも気づかれないような平然とした顔をして、しれっとボールをくわえて駿の元へと戻ってきていた。
駿は思わず笑みをこぼした。
「シグレいつの間に?凄いねぇ!」
大きな頭をよしよしとなでなでされると、シグレは内心で深く(満足)と頷いた。
後ろに控えて様子を見守っていたドッグトレーナーゾンビが、その分かりやすすぎる背中を見つめ(あの一分の隙もない護衛犬のあなたが、結局参加するんですね……)と、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
*
遊びが一段落するたびに、准は「足見せろ」とハヤテたちの肉球を真剣な目で確認していた。
草むらのなかで棘が刺さっていないか、怪我をしていないか。泥に汚れた身体を清潔なタオルで丁寧に拭き上げ、キャンピングカーから持ってきた新鮮な飲み水を新しい器へと並々と注ぎ、初夏の強い陽射しを避けるように一番居心地の良い日陰のなかへと誘導してやる。
駿もまた、当たり前のような動作で「順番ね」と、野良犬たちの前にも同じように新鮮な水とドッグフード(ノミ取りのチュアブルもついでにその中へ投入した)を置いていった。誰が飼い犬で、誰が野良犬かなんて、彼らは最初から区別していなかった。
野良犬の集団は最初(なんだこいつら、お高くとまりやがって)と、お坊ちゃま犬たちをどこか蔑むような眼差しで睨んでいた。けれど准も駿も自分たちを追い払おうとも、捕まえようとも、飼い犬たちと比べて特別扱いもしない。ただ、対等な「犬」という命として、全く同じように優しく接してくる。
その裏表のない温かい境界線のなかに包まれるうちに、野良犬のリーダーである大きな雄犬がふっと肩の力を抜いた。
(……もう、いいか)
ただ生存するためだけに他者を排斥し、敵意を尖らせている自分たちのほうがなんだか馬鹿らしく思えてしまっていた。
夕方になった。
准と駿には、野良犬たちを「保護する」とか「自分たちの家で飼う」という発想は最初から存在しなかった。
ただ、世界の終わりを逞しく生き抜いていく彼らのために「帰る前に身だしなみを整えてやる」それだけだった。
メイドゾンビがどこからか大きなタライを用意し、整備士ゾンビはキャンピングカーの外部シャワーホースを手際よく引き出し、冷たい水を勢いよくタライへと注ぎ始めた。ドッグトレーナーゾンビはプロのブラシを両手に持って静かに待機し、駿はバスタオルを抱えて手際よくタオル係に就いた。
当然、最初の瞬間野良犬たちは一斉に後退して逃げ出した。
「何する気だ!」とでも言うように、野生の警戒心を剥き出しにして目を丸くしている。
だが目の前で、お坊ちゃま犬たちがごく普通に、実になじみ深い様子で洗われ始めた。
冷たい水しぶきのなかで気持ち良さそうに目を細め、極上のブラシで毛並みを整えられ、耳掃除を受け、肉球の手入れをされていく。最後に駿のバスタオルで優しく包み込まれる一連の完璧なルーティン。
そのとろけきった幸せそうな姿をじっと見つめていた野良犬の集団のなかから、ついにリーダー犬が「まあお世話されてやろう」とでも言うように、のっそりと自らタライの側へと近付いていった。
内心は(そんなに気持ちいいのか……?)と期待していた。
准は、その大きな背中にホースの水を向けた。
「暴れるなよ」
そのまま、ごしごしと力強い手で泥を落としていく。洗浄が終わり、ブラシをかけられてもリーダー犬は逃げなかった。それどころか、その圧倒的な心地よさを肌で理解した瞬間、顔が信じられない程にとろけていた。
衝撃の顔の締まりのなさに、次、また次、その次と、気付けば十匹近くの野良犬たちがタライの前に一列に綺麗に並んで順番を待っていた。「俺も」「次」「次は俺だ」とでも言うように、お互いの背中を押し合っている。
駿は「はい、おつかれさま」と、一匹ずつ真新しいバスタオルで優しく水分を拭き上げていった。
犬種も、飼い犬も、野良犬も、そこには何の区別もなかった。
子犬は自分よりも遥かに大きな野良犬のお腹の下へとトコトコと潜り込み、小さな前足で一生懸命にタオルを動かしてお腹を拭こうとしていた。拭かれた野良犬のほうが少しだけ決まり悪そうに(そこはいい……)と困ったような顔をして固まっていた。
押しのけるには、子犬はあまりにも小さすぎた。
全員の洗浄が終わると、准は最後に全員の肉球を一つずつその大きな手で確かめた。
「怪我なし。よし、終わりだ」
それだけだった。
帰る時。
野良犬たちはキャンピングカーのステップの手前まで、静かに一列に並んで見送りにやってきた。
だが彼らがそのまま車内へと付いてくることはなかった。彼らには彼らの、この厳しい外の世界を自らの足で生き抜いていくという野生の誇りがあった。お互いの生き方のすべてを認め合った、命としての心地よい距離感がそこには敷かれていた。
キャンピングカーの重厚な扉が閉まり、エンジンが心地よく鳴り響く。
窓の向こう側、泥を綺麗に洗い流され見違えるほど美しい毛並みに生まれ変わった野良犬たちが、夏のまぶしい夕日に照らされながら佇んでいた。
ハヤテたちが窓から顔を出し、彼らと互いに一度だけ静かに視線を交わした。
「またどこかで会ったら、その時は遊ぼう」
犬同士の、男同士の約束なら、その程度のささやかな余韻だけで十分だった。
(第49話・完)
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