深い山林の峠道を滑り降りるキャンピングカーのフロントガラスの向こう、初夏の強い陽射しに色褪せた巨大な看板が不意に姿を現した。
『大型スーパー銭湯 ○○の湯』
案内の古い標識を眺めていた駿が、シートから身を乗り出すようにしてその瞳を弾ませた。
「お風呂!!」
その無邪気な一言に、駿のすぐ真横に腰を下ろしていた准は眉を寄せた。
「……営業している訳ないだろう」
「それに、……確かここのグループは経営不振だったはずだ」
「……潰れてるだろうが、行ってみるか?」
到着した敷地は、准の言葉通りに荒れ果てていた。
あの日を迎える何年も前から潰れ、完全に放置されていた建物は入り口が蔦まみれになり、看板も半分が崩れ落ちている。駐車場のアスファルトはひび割れて夏草が伸び放題になっており、ガラスの割れたエントランスの奥には長年の埃と泥に塗れた暗がりの空間が広がるだけだった。
ボイラーは停止し、配管は死亡し、浴槽は泥。脱衣所は分厚い埃。普通の人間であれば、ただの不気味な廃墟として見向きもせずに通り過ぎる建物だった。
しかし…。
残念そうな駿をちらっと見やった准は、運転席に座る選抜大戦争を勝ち抜いた整備士ゾンビへ静かに視線を向けた。
「その…使えるだろうか?」
(……!!)
キャンピングカーは即座に廃業したスーパー銭湯の敷地へ滑り込んだ。
整備士ゾンビは車から降り、入り口を見た瞬間その場に立ち止まった。そして、彼の濁った瞳の奥にかつてない職人としての猛烈な情熱が灯った。
「(これは……遣り甲斐があるな!!)」
普通なら一目で復旧は無理だと諦める状況だからこそ、プロの整備士である彼の執念が最高に燃え立っていた。配管を見つめ、ボイラーの構造を確かめ、電源の系統を追い、給水ラインを一つずつ手探りで手繰り寄せていく。完全に職人モードに入った彼は、難解な修繕作業の楽しさに魂を歓喜させながら、暗がりの地下室へと迷いなく直行していった。
響き渡るレンチ等の爆音を合図に、今度は後部座席から一人のメイドゾンビが一歩中へと足を踏み入れた。
埃の積まった床を見つめ、汚れた壁を這い、泥の溜まった浴槽を見下ろした瞬間、彼女の脳内にはこれ以上ないほどの至福の衝動が走った。
(……好き放題にできる……!)
普段は旅館や屋敷、ホテルのように、最初からある程度きれいに管理された場所を「維持する」ことしかできなかった彼女にとって、この完璧な廃墟は最高のご馳走だった。ゼロから自分の好きなように、自らのスキルだけで完璧な空間を創り上げられる。逆に楽しくて仕方がなかった。
彼女はエプロンをきつく締め直すと、助手席から降りて黙って雑巾を持った執事ゾンビと無言の連携を組み、淡々と、凄まじい勢いで掃除を開始した。
彼らが汗を流してインフラを叩き直している間、駿はロビーの片隅で静かに待っていた。
例のごとく制止された駿は、とりあえず犬達のお世話を開始した。キャンピングカーのステップに腰掛け、ホームセンターで買ったばかりのブラシを手に取ると、同じく川遊びで毛が少々もつれていたハヤテやシグレたちの身体を、楽しそうに一本ずつ丁寧にブラッシングする。肉球も確認し、水を替えてやり、「順番ね」と優しく声をかける。
准はシートから身を起こしてキャンピングカーのドアの陰からその様子を見て、ふと苦笑を漏らした。
(……待てるんだよな、この子は)
*
数時間後。
地下室から、全身を真っ黒な煤だらけにした整備士ゾンビがのっそりと上がってきた。
その背後からは、ゴォォォ……という重厚で力強い点火の駆動音が地鳴りのように建物全体へと響き渡っていた。配管は劇的な熱量を帯びて見事に復活し、蛇口からは信じられないほど熱いお湯が勢いよく吹き出している。整備士は、自らの手で完璧に蘇らせたインフラを前にして、深く満足そうに顎を引いた。
それとほぼ同時に、浴場からはメイドゾンビが静かに通路へと姿を現した。
磨き上げられた大浴場のタイルは白く輝き、鏡には一筋の曇りもない。湯気で白く煙る空間には、プラスチックの桶がきれいに一列に並べられていた。分厚い埃に覆われていた脱衣所も、まるで今朝建てられた新品のように清らかに整えられている。
執事ゾンビが全ての状況を確認しがてら、その完璧な仕上がりを前にして無言で深く頷いてみせた。
「(整いました。旦那様、若旦那様)」
執事ゾンビの綺麗な角度の一礼に促され、駿は目を輝かせて大浴場へ足を踏み入れた。
「うわーーーーー!!!すごい!!プロって凄いね!!」
駿は歓声を上げて自分の服を丁寧に畳んで棚へ置き、執事に渡されたタオルを揃え、まずは丁寧に掛け湯をしてから身体を洗った。自分の身体を隅々まできれいに洗い流し、犬たちも順番にシャワーで洗ってやってから、一番最後に、なみなみと注がれた巨大な湯船の中へとその身を静かに沈めた。
(メイドにも知らせなければなりませんね…)
背後で執事がプライドをすべて満たされたかのように、満足そうに小さく誇らしげに胸を張った。
准は、駿のその一連の動線を横目で見ながら(ちゃんと、躾けられているな)と感心していた。
「「あぁ~~~~~~……」」
完全におじさんのような二人分の深い感嘆の息が、白い湯気の中に消えていく。
二人は静かに肩を並べて、温かい湯の熱を肌へと受け止めた。世界がどれほど無残になろうとも、今肌を包み込む清潔なお湯の温もりは最高だった。
そこには沈黙だけがあった。だが気まずい気配は一切無かった。
ただ、二人だけの静かで優しい時間が流れていた。
*
翌朝、真夏のまぶしい朝陽が差し込む頃。駿たちは何も深いことは考えないままキャンピングカーへと乗り込んだ。
そして次の目的地に向かって出発していった。
それから、数日後のことだった。
飢えと渇き、そして屋外のゾンビに追われて山の中を命からがら逃げてきた年老いた夫婦が、偶然にもこの廃墟へと辿り着いた。
老夫婦の他には誰もいない。ただ二人で、必死に励ましあいながら歩いてきたおじいさんとおばあちゃんが割れたガラスの隙間から恐る恐る中へ足を踏み入れた。
「……?」
「……なんか、綺麗ねぇ? 外観はあんなにボロボロなのに」
おばあさんが、ホコリ一つ落ちていないピカピカの床を見つめて不思議そうに声を漏らした。綺麗さになんとなく靴を脱ぐ。
脱衣所も、休憩所も、すべてが信じられないほど清潔に維持されていた。そして大浴場の重い扉を開けた瞬間、彼らの老いた身体を包み込んだのは、滾々と沸き立つ、白く清らかな湯気の熱だった。
おじいさんは信じられない光景に絶句し、大浴場の湯船の前に立つと、震えるシワだらけの手をそっとお湯の中へと入れた。
温かい。適温のお湯の熱だった。
さらに食堂のスペースには、彼らが数ヶ月は飢えを凌げるであろう大量の缶詰や保存食までが美しく補充されていた。
おばあさんの目に、大粒の涙が溢れ出した。
「……ありがたいねぇ、ありがたいねぇ」
二人は湯船の隣にしゃがみ込み、誰もいない静まり返った銭湯の空間に向かって何度も、何度も涙を流して手を合わせた。
ここにはもう誰もいない。
けれど、この過酷な世界の片隅で。確かに誰かが、このお湯を楽しみ次の誰かのために整えてから去っていったということだけは、残された温かいお湯の熱が何よりも確かな真実として雄弁に物語っていた。
(どんなに辛くても、優しさを忘れてはいけないわね…)
この夫婦の発見をきっかけにして「あの山奥に、いつでも使える風呂がある」という噂は、周辺の生存者たちの間で少しずつ、静かに広まり始めていった。
いつしかそこは、訪れた誰かが新しく脱衣所を掃除し、誰かがボイラーの薪を足し、誰もが次の誰かのために感謝だけを残して去っていく拠点へと育っていくことになる。
(第50話・完)
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