駅前の雑居ビルに作られた、生存者たちのコミュニティ。
まだライフラインが生きており、蛇口をひねれば水が出て、天井の蛍光灯が明かりを灯している。そして、まだギリギリ繋がっているネット回線が、この場の地獄をさらに加速させていた。
「おい、お前! さっき配られたお湯、俺のより多くないか!?」
「うるさい、こっちは子供の分なんだよ!」
「関係ねえよ! この非常時にガキも大人もあるか!」
狭いフロアに何十人もの人間が押し込められ、部屋の隅では奪い合いに敗れた老人が冷たい床に転がっている。
男たちは血眼になってスマホの画面を凝視し、ネット上の絶望的な書き込みを貪るように見つめていた。
『【速報】政府機能、完全に停止』
『自衛隊の防衛線突破される。救助の予定はなし』
『噛まれた奴の動画。マジで一瞬でバケモノになる』
「おい、自衛隊も全滅だってよ……!」
「嘘だろ!? じゃあ俺たちは見捨てられたのか!?」
「おい、このSNSの動画見ろよ! 隣の街の避難所、ゾンビに全滅させられてるぞ!」
次々と更新される最悪のニュースや凄惨な動画が、人々の恐怖と疑心暗鬼を限界まで煽り立てる。画面の光に照らされた男たちの顔は、どれも狂気じみて歪んでいた。
「……静かにしろ」
リーダーの男が金属バットで床を激しく叩くと、部屋が一瞬で静まり返る。ただし、それは統率が取れているからではなく、ただ「逆らったら力でねじ伏せられる」という恐怖による支配だった。
リーダーは中央のテーブルに置かれた、数個の乾パンの袋を睨みつけながら吐き捨てた。
「いいか。ネットの情報を見りゃ分かるだろ。世界はもう終わりだ。水や電気が通ってるのも今のうちだけだ」
「じゃ、じゃあ、外へ食料を探しに――」
一人の若い男が怯えながら口にすると、リーダーは狂気じみた鋭い眼光で男を睨みつけた。
「死にたい奴は勝手に行け! ネットの動画を見たろ! 外に出たら、あのバケモノどもに一秒で食い殺されるんだよ! 武器も持たねえ一般人が生き残れる世界じゃねえんだ! ここで他人の分を奪ってでも生き延びる。それが今の世界の『現実』だ!!」
誰の心にも救いはなく、生きているネット回線は絶望を運んでくるだけ。
人々は互いを「いつ自分を裏切るか分からない敵」として睨み合い、ただただ荒みきった夜を過ごしていた。
しかし、ネットに溢れるデマや絶望的な動画に踊らされ、多くの生存者がコミュニティごと自滅していく中――あえてその逆をいく、マシなコミュニティや、賢明な判断で生き残っている家族もいた。
駅前から少し離れた住宅街。一軒家のカーテンを隙間なく閉め切り、静かに籠城を続けているのが、あの「肉をもらったお父さん」の家だった。この家はお母さんが非常にしっかり者で、「大きなコミュニティはエゴが剥き出しになって真っ先に崩壊するから避けるべき」という冷徹な防衛戦略のもと、テキパキと家族だけの安全圏を確保していた。
「ただいま……。今、戻ったよ」
お父さんが玄関の鍵をいくつも開けて滑り込むと、リビングから包丁を握りしめた妻が鋭い目つきで飛び出してきた。だが、夫の無事な姿を確認した瞬間、その硬い表情がフッと和らぐ。
「あなた……! 遅いから、ネットの『ゾンビ犬目撃情報』の地域と被ったのかと本当に心配したのよ。……怪我はない?」
「ああ、大丈夫だ。それより、これを見てくれ……」
お父さんがエコバッグから取り出したのは、あり得ないほど見事な霜降りのA5ランク和牛の塊と、ずっしりとした岩塩の袋だった。
「な、何これ!? あなた、どこかの避難所から盗んできたの!?」
「違う、違うよ!……ちょっと、もの凄くプロ意識の高いデリバリースタッフに分けてもらったんだ」
お父さんは黒いパーカーの青年との無言の約束を守り、詳細については頑なに口を閉ざした。お母さんは夫の必死な目を見て、それ以上深く追求するのをやめた。
「……分かったわ。詮索はしない。でも…。いえ、ありがとう、あなた。私たちはこの家で、家族だけで生き残りましょう」
ライフラインがまだ生きている幸運を無駄にはしない。
お母さんはすぐさまガスコンロに火をつけ、肉の半分を贅沢にフライパンへと滑らせた。ジュー、という極上の音と香ばしい匂いがリビングに広がり、怯えて寝室にこもっていた幼い子供たちが、目を輝かせて起きてくる。
「うわぁ、お肉だ!」
「お父さん、すごい!」
「ハハ、たくさん食べなさい」
お母さんは残りの肉を、貰った大量の岩塩を使って手際よく丁寧な『塩漬け肉(保存食)』へと加工していく。
外のネットがどれだけ絶望を囁こうとも、この一軒家の中だけには、確かに温かい家族の絆と、ささやかな希望が満ちていた。
お父さんは一切れのお肉を口に運び、そのあまりの美味さに涙を浮かべながら、どこかにいる「黒いパーカーの青年」に心の中で感謝した。
*
他グループの生存者が絶望に震え、お父さん家族がささやかな和牛の味に感動している頃。
烏丸のいる大豪邸では、完全に別次元の「圧倒的な格差」が展開されていた。
「ふぅ……やっぱり、買い出しの後は風呂に限るな」
まだ生きているインフラの恩恵をフルに受け、烏丸は広大な大理石のバスルームで、勢いよくバブルが噴き出す「ジャグジー風呂」を満喫していた。老紳士のクローゼットから拝借した高級ブランドのバスソルト(後でちゃんと弁償しようと思っている)の香りが、浴室いっぱいに広がっていた。
風呂上がり、これまた広い脱衣所にあったシルクのガウンを羽織った烏丸は、広いキッチンへと向かった。
デパ地下のシェフゾンビがくれた、見事な厚みの最高級シャトーブリアン。それを、荷出しゾンビが食欲にも負けずに運んでくれた高級ハーブソルトと岩塩で、ジューシーに焼き上げていく。
ジュワァァァ……と、ただ事ではない極上の音が静かな屋敷に響き渡る。
お皿に移し、烏丸はふと思った。
これだけのお肉だ。地下に眠るワインマニア(?)の老紳士への差し入れが思い浮かんだ。だが、真面目な烏丸は即座にその考えを打ち消した。
(いや、ダメだ。あそこはおじいさんの聖域だ。安心して眠ってもらうためにも、俺が勝手に荒らしちゃいけない)
老紳士への深い敬意からセラーに一切近づかず、烏丸はキッチンにあった冷えた麦茶をせめてもとワイングラスへと注いだ。そして、一人で優雅な「最高級ステーキ祭り」を開催する。
一口食べた瞬間、脳がとろけるような美味さが広がった。
「うっま……。やっぱり、プロ厳選のオススメお肉は一味違うわ…」
麦茶を上品に口に含みながら、烏丸はステーキの余韻の中で、ふと大事なことを思い出した。
(そういえば……うちの家族、どうしてるかな。一週間くらい連絡取ってないや)
ゾンビパニックという世界滅亡の危機を前にして、あまりにも軽すぎる「そういえば」だった。
烏丸はテーブルの上のスマホを手に取り、まだ繋がっているWi-Fiの電波を使って、家族のグループLINEを開いた。
母:『なんか外に血まみれの人いっぱい歩いてるわー』
妹:『ウケる、ゾンビじゃん。お父さんが「噛まれたら痛そうだから外行かない」って言って、今あつ森やってる』
父:『とりあえず畑の野菜全部収穫したから、当分引きこもるね。家族全員、風邪に気をつけてなー』
並んでいたのは、烏丸の心配を1秒で粉砕するのんきなメッセージだった。
少し上層の家庭である実家は、地方にある広大な敷地と別邸を所有しているため、家庭菜園の枠を超えた大量の備蓄があり、彼らもまた100%安全な引きこもりを確定させていた。
「……うん。実家、いつも通りだな。元気そうでよかった」
烏丸の持つあの圧倒的な「思考放棄フィルター」は、間違いなく烏丸家代々の強力なDNAだった。
スマホをテーブルへ置き、烏丸は残っていたステーキをもう一口頬張る。
「うま……」
ネットでは世界滅亡。 外ではゾンビパニック。
それなのに、実家は畑で野菜を収穫し、妹はゲームをし、お父さんは引きこもりを決め込んでいる。
(まあ、実家なら大丈夫か)
そう結論づけると、烏丸は肩の力を抜いた。
だが――。
烏丸がそんな平和な時間を過ごしている頃。
塀の向こうでは、全く別の世界が広がっていた。
ずーーーーーーーっと続く高い石塀。
その外側では、元・メイド、元・執事、元・運転手たちによって構成された「最強の私設警備隊」が、今日も黙々と持ち場を守っていた。
そして、その防衛網に。
「いたぞ!! あの屋敷だ!!」
数人の暴徒たちが近づいてきていた。
ネット上で流れていた噂。
『高級住宅街の奥に、誰かが住んでいる』
『夜になると明かりが見える』
『食料を大量に持ち込んでいるらしい』
真偽不明の情報を信じた連中だった。
飢えと焦りで目が濁った男たちは、金属バットや包丁を握りしめながら塀へ近づく。
「中に食料があるぞ!」
「どうせ一人だ!」
「乗り込め!」
その瞬間。
正門前に立っていた元・お抱え運転手のゾンビが、ゆっくりと顔を上げた。
「ガァ……」
低いうなり声。
それは警告だった。
だが暴徒たちは止まらない。
男の一人が鉄門へ手をかけた瞬間――運転手ゾンビの姿が消えた。次の瞬間には男の胸ぐらを掴み上げ、数メートル先の地面へ叩きつけていた。
「えっ」
男が理解するより早く。
「ガアァァァァァッ!!!」
周囲のメイドたちが一斉に咆哮を上げる。
それは普段の丁寧な所作からは想像もできない、本物の怪物の声だった。
暴徒たちは悲鳴を上げて逃げ出した。
しかし遅い。塀沿いに並んでいた元・メイド、元・執事たちが無言で包囲し、あっという間に制圧する。
さらに、騒ぎに引き寄せられた野良ゾンビの群れまで突っ込んできた。だが私設警備隊にとっては、それもまた侵入者だった。
「ガァッ!!」
「グルルルルッ!!」
戦線中央ではハヤテが鋭く吠え、近隣の犬ゾンビたちへ指示を飛ばす。
犬たちは連携して野良ゾンビへ飛びかかり、私設警備隊は暴徒とゾンビをまとめて塀の外で排除していく。
血飛沫が舞う。
悲鳴が響く。
雨が赤く染まる。
そこは完全な戦場だった。
だが。
塀の内側では。
「うま……」
烏丸が麦茶を飲みながらステーキを食べていた。
もちろん何も知らない。
お腹も心もいっぱいになった烏丸は、贅沢な夜の余韻に浸りながら、リビングの大きな窓の外を眺めた。
外はバケツをひっくり返したような、猛烈なゲリラ豪雨になっていた。激しい雨風のせいで外の景色は真っ白に染まり、塀の向こう側がどうなっているのかは全く見えない。
だが。その「見えない塀の向こう」では、今まさに凄惨な地獄が繰り起こされていた。
「ガアァァァッ!!」
「ぎゃああああああああ!!」
物資を略奪しようと武器を持って近づいてきた不審な生存者(暴徒)たちとそれらに惹かれて押し寄せてきた凶暴な野良ゾンビの群れ。
それらを、ずーーーーーーーっと続く塀の外側に並んだ「最強の私設警備隊(メイドさんたちや運転手のゾンビたち)」が、容赦なく食い殺し、野良ゾンビを片手でなぎ倒しながら、凄惨な防衛戦でフルボッコにしていた。
防衛線の中心では、犬ゾンビのハヤテが激しい雨を浴びながら「ガルルルゥッ!」と鋭く吠え、他のノラ犬ゾンビたちの完璧な指揮を執っている。
外側は、血と肉が飛び散る完全なR-15指定の修羅場。
しかし、激しい雨の遮音壁と真っ白な視界のせいで、烏丸には悲鳴も肉の裂ける音も届かず、ただ大豪雨の中で微動だにせず直立不動で立っている警備員たちのシルエットだけがぼんやり見えていた。
烏丸は、彼らのあまりの生真面目さに、少し申し訳ない気持ちになった。
「……うちの警備員さんたち、この大豪雨の中でも交代なしで直立不動か。この警備会社、マジでブラックすぎない……?」
世界が滅んだディストピアの片隅で、生存者が飢えに苦しみ、お父さん家族がささやかな幸せを噛み締める中――
烏丸だけが「我が家の労働環境」を本気で心配しながら、「明日はお肉の残りを差し入れしてあげよう」と決意し、ふかふかの高級ベッドへと潜り込むのだった。
(第6話・完)