大豪邸での快適なサバイバル生活が始まって数日。
烏丸は広大なリビングで、冷たい麦茶を口に運んでいた。
快晴の空から差し込む光が、大理石の床を美しく照らしている。だがその時、天井のシャンデリアの明かりが一瞬だけ「パチパチ」と不穏に瞬いた。同時に、快適に動いていたエアコンの室外機から、プスンと力なく停止する音が聞こえる。そして点いたり、消えたりを繰り返す。
「……やはり、来たか」
烏丸はグラスをテーブルに置き、顔を引き締めた。
ネットの書き込みの通り、ついにライフラインの自動供給システムが限界を迎えつつあるのだ。電気が完全に止まる前に、大容量のインバーター発電機と燃料を確保しなければならない。普通のホームセンターの在庫じゃ足りないか、既に無くなってるな、と烏丸は即座に次の計画を立てた。
あのガレージに並ぶフェラーリやロールスロイスを使う勇気は、やはり烏丸にはない。
探したが自転車はなかった。彼は結局、目的地へと徒歩で向かうことにした。
目指すは、ここから数キロ離れた場所にある、アメリカンサイズの会員制巨大倉庫型スーパー「コストゴ」だ。
到着したコストゴの敷地内は、ゾンビに溢れ、電気が半分消え、不気味なほど静まり返っていた。烏丸は大型の台車を押し進め、超高重量のインバーター発電機が山積みにされた棚の前で足を止めた。
「うーん、さすがにこれだけの重量物を、一人でカートに載せるのは腰を痛めそうだな……」
彼がポツリと呟いた、その時だった。
生者の気配を嗅ぎつけたのか通路の奥から、赤いエプロンとキャップを身につけた、元・コストゴのスタッフゾンビたちがワラワラと姿を現した。彼らは「お客様」を認識するやいなや唸り声を徐々に小さくした。
「(あ、ごめんね…間違えちゃった…)」と言わんばかりにそそくさと通路の向こうへ消えようとしたが、烏丸の困り顔を見るや否や、生前の凄まじいチームワークを発揮し始めた。
「ウアァ……(お困りですね…お荷物お乗せしますね)」
巨漢のスタッフゾンビが、重たいインバーター発電機を緩慢な身のこなしで「よっこらしょ」とカートへと綺麗に積み込んでいく。さらには、近くのガレージコーナーから、ガソリン用の頑丈な金属製携行缶を何本も抱えて戻ってきて、それらも隙間なく一緒に持ってきた台車へと美しく並べてくれた。
お肉や燃料の重みで、台車は総重量100キロを超える大荷物になっていた。烏丸が「お、重すぎて引くのが大変そうだな……」とハンドルを握り直すと、後ろから別のスタッフゾンビたちがすっと手を伸ばし、台車の後ろを優しく両手で支えた。
そして、烏丸が歩き出すのに合わせて、後ろから「ゆっくり、安全第一で」と言いたげな丁寧な動作で、ノロノロと、しかし確実に台車とカートを押してサポートしてくれたのだ。
烏丸は、そのあまりのホスピタリティに今回も深く感動していた。
「(……素晴らしい。コストゴは高い年会費を取るだけあって、非常時における会員への待遇が徹底しているんだな。後ろから押して配送をサポートしてくれるなんて、至れり尽くせりだわ……)」
当然、お会計は今回も完全無料。
「重いのにすみません、本当にありがとうございます。世界が落ち着いたら、更新の年会費、多めに払っておきますね」
烏丸がスタッフゾンビたちに挨拶すると、彼らは「ウアァ……」とにこやかに「お客様」を送り出した。
こうして、狙い通りの最高峰の発電機と大量のガソリンを無事に確保し、烏丸は台車を後ろから押してもらいながら、ホクホク顔でコストゴを出たのだった。
*
ずーーーーーーーっと続く長い塀が見えてくる。
門の前では、元・お抱え運転手ゾンビがいつものように直立不動で立っている。だが、その足元で、お留守番をしていたハヤテが、何やら地面の一点を見つめて小さく「グルル……」と喉を鳴らしていた。
「ただいま、ハヤテ。お留守番ありがとう」
烏丸が台車を止め、ハヤテの元へと歩み寄る。ハヤテは烏丸の顔を見ると、フッと警戒を解いて「(お帰りなさい)」とばかりにお座りをした。だが、そのハヤテの前足の間に、奇妙なものが転がっているのが烏丸の目に留まった。
「……ん? なんだこれ」
烏丸はしゃがみ込み、それを拾い上げた。
一つは、プラスチック製の頑丈な「IDカード」。そこには『生還者地下シェルター・管理区域入場証』という文字が印刷されていた。
そしてもう一つは、軍用規格とおぼしき、頑丈な黒い「特殊無線機」だ。ボリュームが最小に絞られたスピーカーから、ザーザーというノイズに混じって、低く冷酷な人間の声が微かに漏れ聞こえていた。
『――こちら斥候。ターゲットの豪邸に到着……。塀の周りに多数のゾンビを確認。だが、防衛設備(ゾンビ)の隙を突けば侵入は容易と判断する。本隊の突入は明後日の――』
ノイズと共に声が途切れる。
それを聞いた瞬間、烏丸の背筋に、氷水を浴びせられたかのような激しい戦慄が走った。
「……え? ええ??『ターゲットの豪邸』って……ここ、のこと……!?」
脳裏に、数日前のあの記憶がフラッシュバックする。
デパートへ向かう途中、ハヤテが急に足を止め、どこか遠くをじっと睨みつけたあと、猛然とこの大豪邸の方向へと引き返していった、あの不可解な行動。
(そうか……。ハヤテが引き返したのは、ゲリラ豪雨の洗濯物なんかじゃなかったんだ……!)
ハヤテはあの時、この大豪邸を奪おうと偵察(斥候)に来ていた「生きた人間」の気配を察知し、我が家を守るために、先回りして追い返しに走ってくれていたのだ。
「……え?」
烏丸はもう一度、無線機を見た。
『ターゲットの豪邸』
『本隊の突入は明後日の――』
何度聞いても意味は変わらない。
つまり。
「……強盗?」
思わず口から出た言葉は、どこか間抜けだった。
世界はとっくに終わっている。
だが、だからといって他人の家に押し入っていい理由にはならない。
ましてや。
烏丸は豪邸の方を振り返った。
広い庭。
綺麗な石塀。
大切に管理されている屋敷。
地下では今も老紳士がワインを抱えて眠っている。
「……いや、それはダメだろ……」
老紳士から正式に譲ってもらったばかりなのに。
勝手に荒らされたら申し訳なさすぎる。
烏丸は急に胃が痛くなった。
ハヤテの足元をよく見ると、アスファルトには微かに、人間が慌てて逃げ惑ったような靴の擦れ跡と、点々とした血痕が残っていた。ハヤテと、門の前の運転手ゾンビたちによって、その人間の斥候は手痛い撃退(物理)を食らい、このIDカードと無線機を落として逃げ出したのだろう。
ゴクリ、と烏丸は生唾を飲み込んだ。
手の中にある、冷たい無線機を見つめる。
今まで、薬局の店員も、街の警察官も、デパ地下のシェフも、コストゴのスタッフも、みんな彼を温かく、過保護なまでに気遣ってくれた。ゾンビパニックの世界だというのに、烏丸の周りだけは、ずっとおかしなほど優しい世界が広がっていた。だからすっかり、忘れていたのだ。
ネットの掲示板に書かれていた、あの阿鼻叫喚の現実を。
世界は完全に崩壊しており、外にいる生身の人間たちは、生き残るために他人の物資を、そしてこの頑丈な大豪邸を、本気で強奪しようと狙っているという、ガチの悪意を。
「……狙われてる」
烏丸は無線機を握りしめた。
今まで出会ったゾンビたちは皆優しかった。
薬局の店員。
警察官。
デパ地下のシェフ。
コストゴのスタッフ。
みんな過剰なくらい親切だった。
だから忘れていた。
この世界で本当に怖いのは。
もしかするとゾンビではなく――
生きている人間の方なのかもしれない。
「……ハヤテ」
烏丸はしゃがみ込み、犬ゾンビの頭を撫でた。
「守ってくれてたんだな」
ハヤテは嬉しそうに尻尾を振った。
その向こうでは、運転手ゾンビが相変わらず直立不動で門番を続けている。
烏丸は二人を見て、少しだけ安心した。
そして。
「……とりあえず、差し入れのステーキ増やそう」
そう決意した。
(第7話・完)