「ハヤテ、運転手さん、中へ……っ!」
烏丸は血の気が引いた顔で指示を出すと、ゾンビたちに手伝って貰いながら総重量100キロを超える大型台車を渾身の力で押し入れた。そして大慌てで重厚な黒鉄の正門をくぐり抜けた。背後でギギギ、と門が閉まり、複数の鍵がガチャンと冷たい音を立てて強固にロックされる。
その瞬間を待っていたかのように、外の通りでパチパチと乾いたスパーク音が鳴り響き、無人の家から煌々と漏れていた明かりや、遠くの街頭の光も、すべてが一斉に掻き消えた。
大停電だ。
世界から文明の灯りが失われ、音のない完全な闇が豪邸を包み込む。烏丸はいつ停電になってもいいように腰につけていた懐中電灯を点け、暗闇に包まれた広大なリビングへ滑り込んだ。そしてコストゴから運んできたばかりのインバーター発電機を床に据え置く。
心許ない明かりの中、なんとか金属製の携行缶からガソリンを注ぎ、スターターの紐を力一杯に引き絞る。
――ブルルルン!
低く力強いエンジン音が静かな邸宅内に響き渡り、自家発電による電気がリビングのコンセントへと供給された。烏丸はすぐさま、まだ予備電源で生きていたルーターのWi-Fiを拾い、デスクトップPCの電源ボタンを押した。
大停電によって世界中のネットサーバーが完全に落ちる、まさに数分前のことだった。
画面に映し出されたのは、ネットの巨大匿名掲示板「ちゃんねる」の最後のスレッド。そこには、まさに今、世界が完全な闇に落ちようとしている阿鼻叫喚のログが、秒単位で画面を埋め尽くしていた。
『終わった、こっちの街も電気が消えた』
『サーバーが死ぬぞ! ネットが繋がっているのもあと数分だ!』
『みんな、今までありがとうな。あばよ――』
烏丸は、震える指でキーボードを叩いた。
最初に情報収集をしたときに迷った。これを書くべきか。今まで、身の危険を案じて保留していた疑問。
だが、これが世界への最後の通信になるかもしれない。
答えは今聞かなければ、永遠に分からないかもしれない。
烏丸は、IPアドレスが辿られないことを祈りながら、これまでずっと心の奥底に抱えていた、あの奇妙な「自分の体質」について書き込んだ。
『一週間40度の熱で寝込んだ後、外に出たらゾンビがみんな道を譲ってくれた。薬局やデパ地下でも、まるでお客様を迎えるような神対応をされた。体調が万全になった今も襲われない。これって何? 誰か理由が分かる人いない?』
世界の崩壊を前にした最後の数分間。
ネットの向こう側にいる、名前も知らない有識者たちから怒涛の勢いでレスが返ってきた。
『おい嘘だろ……それって数日前に海外の医療研究機関がリークしてた【タイプ・オメガ抗体保持者】じゃねえか!?』
『マジかよ! ウイルスの真相がそれだぞ!!』
『ゾンビ化した奴らはな、ウイルスのせいで脳が激しい炎症を起こし続けてるんだ。常に狂暴な飢餓感と焼き付くような神経痛に苛まれてる』
『その熱病を奇跡的に自力で乗り越えたごく一部の人間だけが、その炎症を抑える特殊抗体を作るらしい』
『ゾンビからすれば、お前は苦痛を和らげてくれる唯一の存在だ』
『要するに歩くマイナスイオンだよ』
『傷つけたら二度と手に入らない究極の癒やし』
『だから守る』
『だから襲わない』
『おまえどこにいる』
『俺らの避難所きて!!』
『うらやましい……』
『人類の希望がそんなところでのんきに生き残ってるなんて……』
液晶画面の冷たい光を見つめながら、烏丸は血の気の失せた顔でぽつりと呟いた。
「……あ、なるほど。だからみんな、あんなに親切だったんだ」
少し考えて。
「俺、歩くマイナスイオンなんだな」
なんだか執念を感じる書き込みへの現実逃避だった。
自分がなぜゾンビたちに特別扱いされていたのか。
あの日、満員電車の乗客のように道を譲ってくれたうめき声。お会計を免除し、エプロンの裾を握らせてくれた薬局の佐藤さん。自分を気遣って横へ退いてくれた、あのゾンビ警官のバツの悪そうな顔。
そして、最高級の肉を台車で配送してくれたシェフゾンビや、今まさに塀の外で家を守ってくれているメイドさんたち、足元で丸くなっているハヤテ。
すべては、彼が「ゾンビたちの苦痛を癒やす存在」だったから。
彼らが自分を襲わない理由が、恐怖でも嫌悪でもなく、本能的な感謝と庇護欲だったと分かっただけで、今は十分だった。
――その直後だった。
画面の向こうで、
『サーバーが落ちる』
『世界が消える』
という書き込みが表示されたのを最後に、ブラウザの更新マークが虚しく回り始めた。
次の瞬間。
PCの右下に、『インターネットアクセスなし』という冷たい文字が浮かび上がる。
ブツッ、と。
世界中のネットワークが、完全に死亡した瞬間だった。
ネットの最期。
世界が本当の孤独と静寂に包まれる中、烏丸は暗い画面を見つめたまま、ゆっくりとキーボードから手を離した。
手元に残されたのは、悪意を囁く人間の無線機と、彼を命がけで守ろうとする優しい異形たちの気配。
そして――ハヤテが拾ってきた、血痕のついたIDカード。
烏丸は机の上に置かれた『生還者地下シェルター・管理区域入場証』を見つめ、じわりと嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
「……これ、本当にまずいな」
ネットの最後の書き込みで判明した、自分の体質の真実。
もし、この事実が生きた人間にバレたらどうなるか。
自分たちだけが助かりたい暴徒や、生存者グループのリーダーからすれば、烏丸は「ゾンビを安全化できる最高級の希少資源」だ。
研究者に見つかれば、監禁されて血液を採取され続ける可能性だってある。
(外の人間たちが何者なのか。どんな規模で、何を狙っているのか)
(それを知らなきゃ、この家も守れない)
烏丸は机の上のIDカードを見つめた。
ネットは死んだ。
もう外の情報は手に入らない。
だが、このカードだけは違う。
ここには、生きた人間たちの居場所が書かれている。
烏丸は静かに立ち上がると、黒のパーカーのフードを深く被り、スニーカーの紐を結び直した。
戦うための武器は持たない。
下手に武装すれば、相手の警戒心を刺激する。
自分の特異体質を隠し通し、ただの運の良い一般生存者として潜り込む。
それしかない。
烏丸は玄関の重い扉を開け、前庭へと出た。
正門の前には運転手ゾンビ。
長い塀の向こうにはメイドや執事のゾンビたち。
烏丸の姿を見たハヤテが、トトトッと足元へ駆け寄ってくる。烏丸はしゃがみ込み、優しく頭を撫でた。
「ハヤテ、運転手さん。……みんな。俺、ちょっと外の避難所の様子を見てくるよ」
ゾンビたちは無言で主人を見つめた。
その濁った瞳には、どこか心配そうな色が浮かんでいる。
烏丸はできる限り落ち着いた声で言った。
「俺が留守の間、この家を頼んだ」
少しだけ間を置く。
「……絶対に、誰もこの敷地に入れないで」
新しい主人の命令が、私設警備隊の脳へと刻み込まれる。
運転手ゾンビは恭しく頭を下げた。
「ウアァ……」
まるで、(御意に、若旦那様)と言うかのように。
勝手口が静かに開かれる。
ハヤテは短く喉を鳴らし、主人の背中を見送った。
敷地の外へ一歩踏み出す。
そこで烏丸は、ふと足を止めた。
(正直……)
夜の闇を見つめる。
(ゾンビの群れの中を歩くより、人間の避難所に入る方が怖い……)
その事実に気づいてしまった自分に、小さく苦笑した。
楽しい調達生活は終わった。
これから向かうのは、生きた人間たちの世界。
エゴと疑心暗鬼と欲望が渦巻く、生存者シェルター。
こうして、烏丸による命がけの潜入調査が静かに幕を開けるのだった。
(第8話・完)