いつも、同じ夢を見る。
惰性で過ごす日常の中、家に帰ると居間の机には一枚の手紙が置いてある。
貧乏な我が家には似つかわしくない高級な便箋。
インクをふんだんに使って書かれた文字は母のもの。
『母さんはもう限界が来てしまいました。ごめんなさい。ずっと応援しています。シェイルへ』
手紙に記されていたのは、簡素な謝罪とエール。
俺は何度もその文字を読み返すのだけれど、遺された言葉に変化は無い。
ただ、張り付くように睨んだ文字が揺らいで、滲んで、やがてそれが自分の涙だと気付く。
机にポツリと残された遺書から目を離して、恐る恐る顔を上げると。
そこには、
天井から吊るされた麻縄と、
その輪っかに首を通して、
宙吊りになった、
母さんが、
光の消えた眼球で、俺を――――
「――――っ!」
衝動的に布団を跳ね飛ばす。
飛び上がるようにして起き上がった体には、冷や汗がべったりと張り付いていた。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
周りを見渡して呼吸を落ち着ける。
俺が寝ていたのは宿屋の一室。少し値の張る広めの個室。
大丈夫。いつもの悪夢だ。いつも通り。大丈夫。大丈夫。
あれから三年も経っただろう。
今の俺は目標だった騎士にもなった。しかも、十代にして一級騎士だ。
失い過ぎた分、成し遂げたはずだ。天国の母さんにも顔向けできるような自分になっているはずだ。
本当に?
今の俺は本当に、子供の頃に思い描いた憧れの騎士なのか?
「うっ、ぅえぇ……」
吐き気が込み上げる。
ダメだ。考えるな。これ以上考えたら吐く。
十八歳にして一級騎士にまで上り詰めた秀才。王立騎士団内でも優秀と評価される腕前の騎士。国王直々に王女様の護衛を任されるほどの手練れ。
大丈夫。俺はちゃんと強い。ちゃんと優れている。
だから、もう良いだろう。これで良いはずだ。
思考に厳重な封をして、込み上げた吐き気を抑え込む。
こういう時、一番有効なのは思考を放棄することだと、今までの経験から知っていた。
そうして、何とか吐き気も落ち着いて来た時、ノックも無しに部屋の扉が開いた。
「おはよー! 昨日は元気無かったみたいだけど、調子どう?」
目を背けたくなるほど輝いた笑顔で、レナーテットは声をかけてきた。
それはまるで、御伽噺の主人公のような煌びやかな笑顔で、もしも娘がこんな風に笑ってくれたなら、きっと母親も自ら命を絶つことは無く――――
「っぅ、ぅうええぇえ」
俺は飲み込みかけた吐瀉物をぶちまけた。
***
部屋で盛大に吐いた俺は宿屋の店主にブチギレられかけた。
かけた、というのも最初は「どうしてくれんだ!」と物凄い剣幕で迫ってきた店主が、俺の顔を見るや否や表情を変え、諭すように言ったのだ。
――――兄ちゃん、どっかで少し休んできな。掃除はこっちでやっとくからよ。……人にはそういう時間も必要さ
店主の瞳に映った哀れみに、こっちが叫びたくなった。
俺は騎士だ。誰もが羨む王立騎士団の一員だ。金も地位も名誉も、全て持ち合わせている。
そんな目で見下ろされる道理はどこにも無い。哀れみを向けられる道理なんでどこにも無い。
こんなにも劣等感を掻き立てられる道理なんて、どこにも無いのに。
店主の前で、俺は惨めに蹲ることしかできなかった。
今日から王女様の護衛に行かなくてはいけない。
俺に休んでいる暇は無い。
集合時刻にはまだかなり余裕があるが、剣の朝練をすることを思えば丁度良いだろう。
俺は汚れた口元を濯いで、宿屋を出た。
「ねえ? 本当に大丈夫? まだ時間あるし、ちょっと休んだ方が良いんじゃない?」
隣を歩くレナーテットは心配げに言葉をかけてくる。
俺が吐く瞬間を見てしまったのだから無理も無い。
「大丈夫。……少し剣を振ってれば治る」
「治らないよ!? 絶対に休まないとダメだって!」
本当に大したことないのだ。
こんなこと、母さんが自殺したばかりの頃はしょっちゅうだった。
この体調不良が精神的な所から来ていることくらいは、俺も自覚している。
体はどこも悪くない。吐き気が止まないなら、吐きながら剣を振れば良い話だ。
「大丈夫だって」
大丈夫。胃の中が空っぽになれば吐き気は止む。
そうやって、強くなってきたはずだろう。
「ダメ! 絶っ対行かせない! 言っても聞かないなら拘束魔術使うからね!」
だというのに、レナーテットは俺の腕を強く掴んで離さない。
なんて見上げた主人公気質。弱者を見捨てない精神には天晴れだ。
その善意がどれだけ俺の心を抉るかなんて知らないくせに。
「俺は……あんたとは違うんだよ、レナーテット。休んだらすぐに取り残される。多少無理してでも、努力し続けなきゃダメなんだ」
レナーテットに俺の何が分かるというのか。
いや、こんな天才に分かってたまるものか。
天才だって努力してる?
そりゃそうだろうさ。世の才人達がみんな才能に胡坐をかいてくれれば、俺だってこんなに苦労しなかった。
努力した分だけ結果がついてくることが、どれだけ恵まれていることか。
努力は報われる、なんて綺麗事の中で生きている人間が、俺のなけなしの努力を否定しないでくれ。
「でも……流石に度が過ぎてるよ。こんなの、苦しいだけじゃ――――」
「じゃあっ!」
思わず、叫んでいた。
暴れ出す感情は収集がつかず、俺の喉はそれを無遠慮に吐き出していた。
「じゃあ、どうすれば良かったんだよ……?」
頭の中で嫉妬が膨れ上がって、自分でも抑えきれなくなる。
すぐ隣の少女が羨ましくて、妬ましくて、憎らしくて、たまらない。
「身の程を弁えて、分不相応な夢なんて諦めろって言うのか? 苦しいだけの努力なんて無意味だからやめろって言うのか?」
自分で言っていて、多分その通りなんだろうと思った。
どこかで諦めるべきだったのだ。
夢を諦めて、仕事見つけて、親孝行して、いつか大人になったら、自分にもあんな時期があったなと笑い話にする。
そういう人生にどこかでシフトするべきだったのに、俺はその判断が遅くて、気付いたら母が死んでいた。
後に引けなくなった俺は狂ったように剣を振り続けて、無理して騎士になった。
今更やめられない。俺の夢のせいで母さんは死んだんだ。
その夢を今更諦めろなんて、そんなのは――――
「俺には無理だ。無理なんだよ、レナーテット。……俺のせいで母さんは自殺した。負担をかけてるって分かってたのに、俺は母さんの優しさに甘えて騎士を目指し続けたんだ。これだけ犠牲にしたのに、今更引き返せない。……苦しくても、止まれない」
俺はレナーテットの手を振り払って歩き出した。
向かうは遠く。遥か遠く。少女の形をした現実が、追いつけないほど遠くまで。
嫉妬と自己嫌悪に押し潰れそうな身体を引きずって、俺は歩き出したのだ。