大総統がオラリオにいるのは間違っているだろうか 作:みずぎの
大総統キング・ブラッドレイ。
アメストリス軍の最高指導者にして、軍事独裁国家アメストリスの頂点へ君臨した男。国内外から畏怖と憎悪を一身に集め、“最強の眼”を持つ
幾千幾万の戦場を渡り歩き、無数の死線を越え、裏切りと陰謀の渦中を生き抜いてきた怪物。
国家の象徴であり、軍そのものと恐れられた存在。
その男をもってしてもなお、現状を正確に把握することはできなかった。
神を捨てた傷の男――スカーとの死闘。
瓦礫舞う地下道。
互いに満身創痍。
もはや策も政治もなく、ただ純粋な暴力と技量だけをぶつけ合う戦いだった。
血沸き、心躍る、名無し同士の戦場。
あの瞬間だけは、大総統でも
ただ、一人の戦士だった。
己を殺し得る敵との死闘。
技が噛み合い、読みが交差し、命を削り合う極限。
人造人間として、戦士として、あれほど愉快な戦場はそうなかった。
敗北したことに悔いはある。
だが、最期には確かな満足があった。
だからこそ、理解できない。
死を受け入れたはずだった。
終焉を認めたはずだった。
だというのに。
記憶が途切れたその後、自分が目覚めたのは地下の冷たい瓦礫の上ではなく、木漏れ日差し込む森の中だった。
鼻を抜ける青々しい草木の香り。
湿った土の匂い。
頬を撫でる風。
遠くで鳴く鳥の声。
葉擦れが奏でる静かな音色。
あまりにも穏やかで、あまりにも生の気配に満ちていた。
ブラッドレイは静かに身を起こす。
その動作に一切の無駄はない。
長年染み付いた軍人としての習性が、思考より先に肉体を動かしていた。
まず周囲を確認。
視界。遮蔽物。逃走経路。伏兵の有無。
耳を澄ませ、風の流れすら読む。
そして次に、自身の身体を確認した。
腹部にあったはずの致命傷がない。
執念の一撃で血を撒き散らした傷跡が、綺麗さっぱり消えていた。
それどころか。
視線を左へ向ける。
本来なら失われているはずの左腕が、そこにあった。
指を動かす。
握る。
開く。
違和感はない。
筋肉も、神経も、血流も、完全に繋がっている。
あり得ない。
ブラッドレイは
彼は“不完全な王”だ。
無数の魂を内包する他のホムンクルスとは異なり、ただ一つの魂だけで構成された存在。無数の魂を喰らい尽くし残った最強の魂を持つが、人間のように成長し朽ちる。
故に老い、故に傷つき、故に死ぬ。
一つの魂。
一つの肉体。
それだけだ。
だからこそ理解不能だった。
仮に生き延びたとしても、失った左腕が戻るはずがない。
まして、あの致命傷が癒えるなど有り得ない。
武器はない。
愛用のサーベルも、軍刀も、拳銃も。
身に纏うのは深い青の軍服のみ。
左肩から胸へ渡る黄金の装飾帯。
胸元に整然と並ぶ勲章の数々。
それらは彼が歩んできた血塗られた戦歴を、無言のまま物語っていた。
イシュヴァール殲滅戦。
国境紛争。
反乱鎮圧。
政敵の粛清。
積み上げてきたのは栄光ではない。
死体だ。
絶対的権力と暴力の象徴。
もっとも、ブラッドレイ自身にとって、それらに大した価値はない。
勲章も地位も、所詮は父より与えられた役割に過ぎない。
王を演じるための装飾。
“キング・ブラッドレイ”という存在を完成させるための舞台衣装。
だが、その姿にはなお、人を威圧するだけの覇気があった。
六十という年齢を感じさせぬ鋭利な肉体。
静かに佇むだけで周囲を制圧する圧力。
猛獣が牙を隠しているような危うさが、彼にはあった。
(父上の仕業か……?)
脳裏に浮かぶのは、白き地下空間。
巨大な国土錬成陣。
“完全なる存在”――神へ至ろうとした父の姿。
その余波か。
あるいは、計画の成就によって発生した何かなのか。
だが、わからない。
何一つ。
理解できぬまま状況に放り込まれているという事実が、静かに彼の内側を灼いていく。
もしこれが父上の御業ならば、歓喜すべきことなのだろう。
父上の目的のために生み出され、父上の計画のために生きた。
それが自分の存在意義なのだから。
だが、そうでないなら――。
死を受け入れた自分への、冒涜だ。
怒りが湧く。
静かに。
だが確実に。
心の奥底で燻っていた熱が、ゆっくりと燃え広がっていく。
理性で押さえ込まれてなお消えぬ激情。
憤怒は熱となって胸中を満たし、やがて獰猛な炎へと姿を変える。
やはり、自分は
その時だった。
「あなた、何をそんなに怒っているの?」
不意に、女の声がした。
「妙な気配がしたから来てみたんだけど……ふふ、面白いわね。てっきり
ブラッドレイはすでに接近に気づいていた。
風の流れ。
草を踏む音。
気配。
殺気はない。
敵意も薄い。
だからこそ接近を許した。
そして何より、この不可解な状況について何らかの情報を持つ可能性を考慮したためだ。
ブラッドレイは静かに視線を向ける。
白いドレス。
肩や胸元を大胆に晒した、奇妙に露出の多い服装。
アメストリスでは到底見ない意匠だ。
陽光を受けて輝く朱色の髪。
紅玉を思わせる瞳。
雪のように白い肌。
森の中だというのに妙に場違いで、それでいて不思議と風景に溶け込んでいた。
まるで、最初からこの世界に存在していた神話の一部のように。
「あなた、神じゃないわね。人間種――ヒューマンかしら?」
アメストリス軍服を前にしても、女はまるで怯えない。
それどころか、珍獣でも観察するような好奇心を隠そうともしない。
普通の人間ならば、ブラッドレイと対峙した時点で萎縮する。
無意識にでも圧倒される。
だが目の前の女には、それがない。
ブラッドレイは警戒を強めつつ、言葉を選んだ。
「確かに私は神ではない。こんな森にいるお嬢さんの方こそ何者かね?」
「んー? ただの女神よ」
軽い。
あまりにも軽い。
まるで道端で世間話でもするような口調だった。
「オラリオに降りようとして座標を間違えちゃってね。ほんと、あの
ぶつぶつと愚痴を零す女。
神。
オラリオ。
座標。
聞き慣れぬ単語ばかりだ。
ブラッドレイが内心の困惑を表に出さぬよう沈黙していると、女はくすりと笑った。
「あなた、外見通りの人間じゃないわね」
「面白い冗談だ。では何に見える?」
「神の前で嘘は通じないわよ?」
「随分と可憐な神がいたものだ」
その返答に、女は楽しそうに目を細めた。
「ふふっ。面白い人。しかも神威を感じてない。やっぱり異世界人かしら」
次の瞬間。
ぞわり、と。
ブラッドレイの全身を悪寒が駆け抜けた。
空気が変わる。
圧力。
存在感。
理解不能な“何か”。
生物としての格が違う。
そう本能が警鐘を鳴らしていた。
猛獣でもない。
軍人でもない。
ホムンクルスですらない。
もっと別種の存在。
目の前の女が、本当に神であると、本能が告げていた。
「どう? 少し解放したら感じたでしょ?」
女――エリスは愉快そうに笑う。
その笑みには悪意も敵意もない。
ただ純粋な好奇心だけがあった。
まるで珍しい玩具を見つけた子供のように。
「私は争いと不和を司る女神エリス。で、あなたは多分、異世界から来た転移者」
“異世界”。
また聞き慣れぬ単語だった。
だが今のブラッドレイには、それを即座に否定できるだけの根拠がない。
少なくとも、自分が知る世界ではないことだけは理解できていた。
その瞬間だった。
森の奥。
複数の気配。
枝を踏み砕く音。
獣の唸り声。
湿った殺意。
ブラッドレイは即座に眼帯へ手を伸ばした。
外される黒布。
顕になる“最強の眼”。
左目に刻まれたウロボロスが、常人では捉えられぬ速度で周囲を走査する。
木々の隙間。
草陰。
獲物を包囲するように移動する影。
狼型。
四体。
ただし、通常の狼ではない。
牙は剣のように鋭く、全身を覆う黒灰色の体毛は不気味に逆立ち、黄色い瞳が飢えた獣の光を宿していた。
ブラッドレイは即座に分析する。
統率の取られた野生の狼もどき。
筋力と速度は常人を遥かに超え、低空攻撃は多少は厄介。
ただ、多少だ。
武器なしの一般兵ならば、一瞬で喉を食い破られるだろう。
「そんな睨まないでよ。私が呼んだわけじゃないし?」
エリスは肩を竦めながら言う。
その様子には緊張感が薄い。
だが、だからこそブラッドレイは違和感を覚えた。
この女は恐れていない。
つまり、“この程度では死なない”と理解しているのだ。
エリスはゆっくりと右手を差し出した。
白魚のような指。
戦いとは無縁に見える華奢な手。
「この世界の普通の人間じゃ、アレには勝てない。でもね――神の恩恵《ファルナ》があれば話は別」
紅い瞳が妖しく細められる。
「私と死ぬか。私と生きるか。選びなさい、異邦人」
まるで契約の誘いだった。
ブラッドレイは鼻で笑う。
「神を名乗るなら、その程度自力でどうにかしたらどうだ」
「下界の神は万能じゃないの。神力は禁止されてるし」
「随分と不便なものだな、神とは」
「だから面白いんじゃない」
エリスは笑う。
未知を楽しむように。
混沌そのものを愛するように。
ブラッドレイは答えない。
代わりに地を蹴った。
瞬間。
巨狼の視界からブラッドレイの姿が消える。
次の瞬間には、懐へ潜り込まれていた。
膝撃。
轟音。
加速を乗せた一撃が下顎を砕き、巨体を宙へ跳ね上げる。
狼が絶命を理解するより早く、ブラッドレイは着地していた。
そして。
手刀。
空中で無防備になった首へ、寸分違わず叩き込まれる。
骨が砕ける感触。
巨狼は地面へ落ちる前に絶命した。
しかしブラッドレイが訝しげに目を細めたのは、その後だった。
死体が灰のように崩れ、霧散していく。
血も肉も残らない。
代わりに残されたのは、魔石と牙だけ。
(ほう……)
未知の生態。
未知の法則。
興味はない。
だが、分析はする。
ブラッドレイは落ちた牙を拾い上げた。
重量。
硬度。
鋭さ。
即席の短剣としては悪くない。
残る三体が同時に襲い掛かる。
左右から二体。
正面から一体。
司令塔を失った獣らしい単純な包囲。
ブラッドレイの左目には、攻撃の軌道も筋肉の動きも、全て予測線として映っていた。
半歩だけ身体をずらす。
それだけで牙が空を切る。
すれ違いざま、牙の短剣が狼の眼球を貫いた。
絶叫。
そのまま身体を回転。
背後から飛び掛かった個体の喉へ、肘打ちを叩き込む。
喉骨陥没。
最後の一体。
恐怖を覚えたのか、一瞬だけ動きが止まる。
だが、その逡巡こそ致命的だった。
ブラッドレイの踏み込みは雷光のようだった。
牙が閃く。
首筋を断たれた狼は、声を上げることもできず崩れ落ちる。
数秒後。
森には静寂だけが残っていた。
ブラッドレイは無言で立っている。
呼吸は乱れていない。
心拍も変わらない。
彼にとって今の戦闘は、準備運動にも満たなかった。
エリスは震えていた。
恐怖ではない。
歓喜だった。
未知に対する歓喜。
紅い瞳が爛々と輝いている。
「……すごい」
その声には、隠しきれぬ興奮が混じっていた。
「あなた、本当にファルナなしなの?」
「助けられた礼が先ではないかね」
「あ、そうだった」
エリスは慌てて咳払いをし、ぺこりと頭を下げる。
「ありがとう。助かったわ」
そう言った次の瞬間には、もう顔を上げていた。
「で、名前は?」
「名はない」
即答だった。
それは嘘ではない。
キング・ブラッドレイという名は、父より与えられた役割に過ぎない。
“王”を演じるための記号。
彼自身の名前ではない。
「じゃあ、なんて呼ばれてたの?」
ブラッドレイは僅かに目を細める。
この女は、気に食わない。
父上が長い年月をかけ、人間五千万を贄にして引き摺り下ろそうとした“神”。
その存在が、こんな軽薄な小娘だというのか。
神を自称しながら、まるで俗物のように笑い、愚痴を零し、未知に目を輝かせる。
腹立たしい。
しかし。
怒りながらも、ブラッドレイは常に冷静だった。
感情と判断は別だ。
「条件がある」
「なぁに?」
「ここがどこで、どういう世界なのか。君の知る限り説明してもらおう」
「そんなの、最初から全部話すつもりだったわよ?」
エリスはくるりと回り、芝居がかった仕草で両手を広げた。
「確かなのは一つ。ここは、あなたの世界じゃない」
そして彼女は語った。
神々の降臨。
地下迷宮ダンジョン。
都市オラリオ。
冒険者。
神の恩恵《ファルナ》。
神々は下界へ降り、人間に力を与え、その成長を娯楽として楽しんでいる。
ブラッドレイは黙って聞いていた。
表情は変わらない。
だが内心では、冷たい怒りが積み上がっていく。
この世界でもまた、“神”は人間を見下ろしている。
人を導くなどと称しながら、実際には盤上の駒のように眺め、競わせ、楽しんでいるだけだ。
そして。
オラリオへ行き、生きるためにエリスと契約し冒険者になるということは。
レールから解放されたはずの自分が、また新たなレールへ乗せられるということだった。
神々が敷いた、“未知を見せるための舞台”へ。
死んでもなお。
世界を越えてなお。
まだ、自分は誰かの掌の上なのか。
父上の敷いた道ならばいい。
父上の目的のために生まれ、父上の理想のために戦う。
それがブラッドレイの存在意義だった。
だが。
父以外の存在に。
ましてや、娯楽のために人間を弄ぶ神如きに利用されるなど。
考えるだけで、胸の奥に黒い炎が燃え広がる。
「神というのは、随分と悪趣味なのだな」
低く漏れた声に、エリスは肩を竦めた。
「全知全能なのよ? みんなどこか狂ってるわよ」
あっけらかんと言い放つ。
「でも、WIN-WINだと思うけどね。黒龍やモンスターを倒さないと人間は滅ぶ。人間は力を求めてる。神はその成長を楽しむ。冒険者になるかどうかだって自由なんだし」
「だとしても気に入らんな」
ブラッドレイは即答した。
エリスが片眉を上げる。
「何が気に入らないのよ」
「人類を救済したいのであれば、神がその権能をもって黒龍を討てばいい」
淡々と。
だが、その言葉には明確な苛立ちが滲んでいた。
「あるいは、人類そのものをより強い種として創り変える方法もあるだろう。わざわざ弱者のまま競わせ、足掻かせ、命を賭けさせる必要がどこにある?」
エリスは少しだけ目を丸くする。
それは、この世界の神々には薄い発想だった。
神々は“可能性”を愛している。
未完成な存在が、苦悩し、成長し、限界を越える瞬間を愛している。
だがブラッドレイは違った。
彼は国家を統べる側の人間だ。
効率を求める。
結果を求める。
最短で目的へ至る道を考える。
だからこそ、この世界の神々の思想は理解できない。——もっとも、下等種族5000万の命を弄んだ側の人物であるブラッドレイが怒るのは傲慢なのだが。
エリスは少し考え込み、それから苦笑した。
「……水掛論ね」
そう言って前を向く。
木々の隙間から、遠く平原が見え始めていた。
「ま、オラリオを実際に見てから話しましょ」
エリスは笑う。
その笑みはどこか楽しげで。
まるで、これから始まる混沌を期待しているようだった。
父からもらった名前以外、ブラッドレイは何も話していない。
目の前の未知に満ちた男との出会いにエリスは感謝の念すら覚えていた。
ブラッドレイは自身のことを多くは語らない。
エリスも信頼されてない今、聞くことが得策ではないと理解している。
そんな二人は、数日後オラリオに到着した。
一通り街を見て回ることで、エリスの話が真実であったことを確信した。
「私の話が本当だったって分かった感想は?」
「変わらんな。腹立たしい」
死闘の末、受け入れた死を冒涜された事実が。
神の好奇心のためにある冒険者たちが。
その仕組みを受け入れ、運営しているこの迷宮都市が。
怒りを隠しもしないブラッドレイを前にして、エリスは笑う。
自分たちを非難している男を前に、ただ笑う。
「ブラッドレイ。君とは仲良くできそうだ。私も嫌いなんだよねぇ。私のいないところで盛り上がってる
紅玉の瞳が妖しく光る。
「そんな
およそうら若き女性のして良い目ではなかった。
初めて、ブラッドレイは彼女に関心を持った。
「ま、それはさておき。ブラッドレイ、あなた
悪戯じみた笑みを浮かべたエリスがにじり寄る。
「でもダメよ?ギルドが
その日、【エリス・ファミリア】が誕生した。