メモリのムダ使い♡ 作:野菜丼
早朝。私は汗ばんだ身体を起こし、いつものように冷たいシャワーを頭から浴びる。
「ふぅ……」
私は一般的なパドキア共和国人とは違う。アフリカにも似た気候には滅法弱く、生まれはロシアっぽい雰囲気のオチマ連邦の近くに浮かぶ島だ。
「気分はエジプト在住シベリアンハスキー」
密漁者によって同胞と故郷を滅ぼされた少年を人里に送り届け、言語学習の学費と生活費を与えてくれたハンターには感謝している。ただ、せめてもう少し選びようがあったのではないだろうか。流氷が浮かぶ海の中で一日の半分を潜水して暮らす、ほぼ海獣のような民族であるぞ。
「安価で高品質な上下水道が無ければ、住所欄には海域名を記載する事になっていただろう」
民族的な特徴として、我々は髪が異質だ。密漁を招いた要因の一つであり、水に触れると高級トリートメントも凌駕する最高のヘアケア・スキンケア効果を有する粘液が分泌される。一切泡立たず、水にも強く、洗い流す必要も0という優れものだ。また、千切れた髪の毛も栄養さえ与えれば最長3年合計11倍程度には成長する。
「この美しい伝統的ロングヘアの手入れが簡単極まりないというのは、助かるがね」
タオルでサッと水分を取り除き、カジュアルな服に着替える。ドライヤーもせず、髪はここから自然乾燥だ。キューティクルの損傷なんてものは全く無く、5分もすればサラッサラ。世の女達よ、存分に羨むが良い。これが滅海の民の特権というものだ。悔しかったら、お前たちも密漁される事だな。
私は荷物を纏め、食堂のある1階に降りる。若女将にして共通の大恩人を有するジェーンが、丁度いつものテーブルに朝食を並べている所であった。そのメニューは明らかに豪華であった。
「おはよう」
「……おはようっ! サーシャ」
この宿での食事は、今日が最後だ。最後の就寝も、最後の水浴びも終わった。この朝食で、私の長い長い連泊は最後となる。
「ご飯、一緒に食べよ?」
「そうだな、それが良い」
私を密漁者から助けてくれたハンターに連れて来られてから、早3年。ジェーンはこの国の言葉をまるで知らなかった私の面倒をよく見てくれた。時に笑い、時に泣き、時に諭され、時には半端なワインよりも酔わせてくれた。件のハンターは各地を飛び回っているという事もあり、彼女には並々ならぬ感情を抱くようになった。尻の青い少年と名乗るには憚られる合計年齢ではあるが、私がグレなかったのは彼女のおかげだ。
「本当に、行くのね」
「覚悟は決まっている」
「散々、話し合ったものね。もう行かないでなんて言わない。まだ12歳だからって、縛り付けない。でも……気が向いたら、いつでも帰って来なさい」
「…………ありがとう」
タオルドライが足りなかったようだ。机に落ちた一つの雫を袖でこっそりと拭い、最後の一切れのロブスターを噛み締める。
「ご馳走様でした」
「美味しかった?」
「あぁ……美味しかった」
私には、力が必要だ。武力も、資金力も、権力も、今の私には全てが欠けている。もう二度と、私と同じような境遇の民族を生み出してはいけない。人体収集家と、その走狗に、正しく、美しく、法の鉄槌を振り下ろさねばならない。
「もう行くよ」
「……そう」
「今が、旅立ちの時だ」
ジェーンと暮らすのが、幸せというものなのだろう。だが、男にはそれができない。男という生き物は、花園で眠れないこともある。一度腹を括ってしまえば、尚更だ。花束は、ただ心の中で飾れば十分だ。
目一杯背伸びをし、少しでも身長差を縮めながら抱き締める。このままキスでもしてやりたいが、そうすれば旅立ちが一日延びてしまうだろう。私は、行かねばならないのだ。
「……また会おう、ジェーン!」
「行ってらっしゃい、サーシャ!」
私は宿屋の扉を勢い良く開け、慣れ親しんだ街を駆けて駅へと一直線に向かう。
さぁ、征こうか。
天空闘技場へ!
◇
名前:アレクサンドル・ミハイロヴィチ・ジュガシヴィリ
生年月日:1986年4月4日
闘技場経験:無し
格闘技歴:海中狩猟7年・対人格闘3年
格闘スタイル:鋭い突きと、しなやかな打撃
「書類はこれで良いかな?」
「えぇ、それでは中へどうぞ」
長い電車の旅の後には、これまた長い行列が待っていた。毎日4000人もの新たな闘士が訪れるという噂は本当だったようだ。退屈に絶望しながらもボロボロの単語帳を読み返しながら耐え、ようやく受付に参加手続きの書類を出せた。
受付嬢の指し示した先には、広大なスタジアムが広がっていた。並べられた16の舞台で、絶えず戦い続ける男達。叫ぶ観客。血と汗と熱が支配する、異様な空間であった。
「1381番の方、1438番の方、Fのリングへどうぞ」
「1438番……は、私だよな。良かった、こっちは早く終わりそうだな」
観客席から階段を降り、フィールドへ飛び出す。私が子供であるからか、観客達はより一層強い野次を飛ばす。それに心配の色は無く、正に野蛮人の聖地といった雰囲気であった。
「両者、リングへ」
「お嬢ちゃん、ここはオメーみてーなのが遊び半分で来る所じゃねぇんだよ」
「私は女でもなければ、遊び半分でもない。本気で、ここに来た」
「うお。カッコイイー、手加減してあげようか?」
「品性はファイトマネーでは買えないぞ。天空闘技場より、寺か道場にでも行くことを推奨する」
「クソガキが……一発で泣かせて、俺の自慢の60cmをケツの穴に捩じ込んでやる!」
先にトラッシュトークを仕掛けて来た筈の対戦相手のデカブツは、ズボンに異様な膨らみを待たせたまま殴りかかろうとする。しかし審判は眉一つ動かさずに彼を止め、軽い警告で済ませる。
「フーッ……フーッ……」
「ここ一階のリングでは、入場者のレベルを判断します。制限時間3分以内に、自らの力を発揮してください。それでは、始め!」
「死ねェーッ!」
まるでキレの無い動きだ。そんな鈍っちょろいパンチでは、ただのミズダコすら狩れんぞ。
「ぁへっ?」
「っ……」
手加減込みながらも正拳突きをモロに浴びた対戦相手は、情けない声を一つ漏らすと仰向けに気絶。私が圧勝するとは思わなかったのか、審判も少し驚いている。観客達はどよめき、次第にデカブツを罵る。
「……コイツ、まだ勃起してるのか?」
会場の雰囲気に飲まれたのだろうか。私は好奇心に駆られ、思わず対戦相手のズボンを脱がせてしまった。するとどうだ、プラスチックの股間カバーをベルトで固定しているではないか。更にそれを外してみると、中には一面の綿農園が広がっていた。その下のトランクスの膨らみは……
「ちっさ」
「1381番、お前フェイクチンポかよ!」
「格闘クソザコ、チンポは短小! とっとと家に帰りな、早漏坊や!」
「お前、銭湯の脱衣所でこっそり皮剥くタイプだろ! 先っぽピンクすぎてバレてるからな!」
審判が咳払いをする。私は自分が少しやり過ぎた事に気付き、意識の無い短小君に小さく謝罪する。
「1438番、キミは50階へ。向こうの通路へ行き、エレベーターに乗りなさい」
「わかった」
観客達の目が変わった。恐れ、敬意、興味。嘲笑一色よりかは気分が良い。スタジアムを抜けると、エレベーターがずらりと並んでいた。流石はスカイツリーをも凌駕する超巨大建造物だ。
「1438番、アレクサンドル様ですね。こちらへどうぞ」
田舎少年らしくキョロキョロしていた私を、エレベーターガールが呼び止める。それにしても、天空闘技場職員の拳のロゴの制服はいつ見ても珍妙だ。よく、こんな制服と密室で汗臭い荒くれ野郎の対応をしたいなんていう女性を集められるものだ。
「このビルでは、200階まで10階単位でクラス分けされています。つまり50階クラスの選手が1勝すれば60階クラスとなり、逆に1敗すれば40階クラスへ落とされるシステムです。100階で勝利すれば、専用の個室も与えられますよ」
「そうらしいな。シャワーも浴びれるらしいじゃないか」
「えぇ、勿論です。さて、50階へ到着いたしました。ファイトマネーを受け取り、待合室で待機してください」
《アレクサンドル選手、圧勝!》
《アレクサンドル選手、無傷のスイープ!》
《アレクサンドル選手、一発で仕留めました!》
《アレクサンドル選手、タコのように靭やかな殴打で勝負を終わらせました!》
《アレクサンドル選手、あっという間に100階クラスへー!》
「呆気なかったな」
「アレクサンドル様、100階クラスおめでとうございます! 12歳のスーパールーキーと、天空闘技場はアレクサンドル様の話題で持ちきりですよ」
「名声が広がるのは良い事だ。ここからは強者も増えるだろう。ハラハラする最高の興行を観客に見せ付け、すぐにスーパールーキーではなくスーパースターと呼ばれるようになってやるさ」
「ふふ、期待していますね」
《アレクサンドル選手、止まりません!》
《打った! ポール選手の身体がライトスタンドのポール際へ突き刺さるーッ!》
《ライトへ! 右中間! 伸びていくッ! どうなんだ! 入ったー!》
《さぁ2試合続けて相手をスタンドへかっ飛ばしているアレクサンドル選手。第三号なるか。振り抜いたッ、ダッキュ選手はライトへー!》
《詰まったぁ、レフトへ上がった!高ーく上がった! レフトへ! フェンスいっぱい! アストゥディーヨ選手がぶち込まれましたーッ!》
《相手はライトへー! 160キロを弾き返しました!》
《アレクサンドル選手、オスナ選手を打ち砕きました!》
《ライト! ライトへ! どうなんだ! アレクサンドル選手の一発! スタンドイーン!》
《ライトへのライナー! フェンス激突!》
《ライトへ上がった、アレクサンドル選手の当たり! 打った瞬間それと分かる、ビッグフライ! イシイ選手、完全にノックアウト! 200階クラス到達決定! 空振り一つせぬ、16打数16サヨナラーッ!》
弱い。ハッキリ言って、相手が弱すぎる。私が12歳だからと、運営側がマッチングに介入でもしているのだろうか。誰も彼も私の本気の殴打には対応出来ず、紙風船のように吹き飛んでいった。
「これが、野蛮人の聖地? これが、腕自慢の頂点を決める場?」
確かに、我が民族の肉体は強い。中でも将来を嘱望され、子供ながらに島一番の漁師であった私の身体能力は大変秀でている。しかし、それにしても呆気なさすぎる。ファイトマネーはガッポガポだが、試合はあまりにも大味だ。
「いかんいかん。気を引き締めるんだ、サーシャ。油断大敵、死神は心の隙に現れるのだ。200階クラスは、本当にレベルが違うと忠告されたではないか。」
与えられたばかりの個室で休憩していると、何者かがドアをノックしてきた。何か注文をした覚えは無いし、ここの知り合いと言えば精々がエレベーターガール。試合についての通知でも、少なくとも今まで部屋にスタッフが訪れた事は無い。私は警戒しながら立ち上がり、そっとドアを開ける。
「こんばんはぁ、アレクサンドルくんっ」
「……こんばんは、どちら様で?」
訪問客は、可憐な若い女であった。いかにも清楚そうな髪と服装をしているが、私には分かる。この女は、野蛮だ。短気で、単純で、直情的。根拠は無いが、私の勘がそう断言している。
「私ね、200階クラス闘士のリリーって言うの。実はぁ、君と試合したいなって」
「200階クラスは闘士自ら試合日を決め、マッチングを選べるのだったか」
「そう! そして、3カ月に1回は戦わなきゃいけない。私、あと1週間しか猶予が無いの。だから……私と、戦ってくれる?」
「つまり、ルーキーを食い物にして、楽に勝ち星と時間を稼ごうということか」
「もー、人聞き悪いなぁ」
「違うのか?」
「……だいせいかーい」
このリリーなる女の情報を、私はまるで持っていない。見た目は弱そうだが、それは私も同じ。決して油断できる相手じゃない。
「1週間後だな、良いだろう。相手をしてやる」
「聞いたよ、全員一発で吹き飛ばして来たんだって? でもね……200階で生き残ってる闘士にしてみたら、そんなの自慢にも何にもならないの。調子乗んなよ、クソガキが」
ッ……なんだ、この威圧感は。得体のしれない不吉な塊に心を押さえつけられているかのような、奇妙な重圧。これが、200階クラスの覇気というモノなのか? いやしかし、それにしても……。
「受付、一緒に行こっか」
「…………あぁ」
◇
《さぁ注目の一戦です! ここまで全ての試合を一撃で終わらせ、瞬く間に勝ち上がった可憐なる超新星、アレクサンドル・ミハイロヴィチ・ジュガシヴィリ選手! 対するは、これまた可憐なリリー選手! ここまで5戦して3勝2敗という成績。ここで負ければフロアマスターへの道はグッと厳しくなります。このルーキー戦、絶対に負けられません!》
暗い昇降機を抜けると、そこは既に会場であった。私は目の前にリングへ駆け寄り、歓声を浴びる。対するリリーもリングへ立ち、重い闘士を滾らせている。
「よく居るんだよね。君みたいに、なーんにも知らずに200階に上がってきちゃった人。まー、私もそうだったんだけどさ。……してあげる、洗礼」
「望むところだ。200階クラス3勝2敗に圧勝できねば、バトルオリンピアなんぞ夢のまた夢」
「バトルオリンピア? もぉー、ナニ言ってるの。……テメェの夢の旅は、ここで終わりだよ」
ゆっくりと近付いてくるリリーに対し、私は構えて防御を固める。彼女は、妙な気配を放っている。だが、武器は持っていない。あくまで、私と同じ素手だ。腕や脚のリーチでは負けているが、逆に身体の小ささを活かして潜り込み、変な事をされる前に致命的なカウンターを決めてやる。
「は?」
腹を、殴られた?
遠距離攻撃? 今、私は遠距離から攻撃を受けたのか? いやだが、リリーは何も持っていない。私にダメージを与えられる程のパワーが伝わるフォームで投げた素振りも無かった。強いて言うのなら、シャドーボクシング程度。それで針や銃を上手く放ったにしては、ダメージが面だ。隠し飛び道具が与えるような、点のダメージではない。
《審判の判定はクリーンヒット! 皆さんご存知の通り、この試合はP&KO制を採用。相手をKOするか、ポイントを10点先取すればTKO勝ちとなるルール! ポイントはクリーンヒットで1点、クリティカルヒットで2点、ダウンで1点となります!》
また拳を構えた。きっと、リリーは遠距離から殴る謎の技術或いはそう見せ掛けた特殊な飛び道具を隠し持っているに違いない。そして、その発動には実際に殴る動作が必要。
「弾道の融通は利くようだが、相応に威力も減るようだな」
私は咄嗟に大きく横っ飛び。その動きに合わせてリリーも腕を曲げる。脇腹へ衝撃が訪れるが、それは先程とは異なり全く大した事が無い。審判も判定を出しておらず、痛まぬ訳では無いが完全に無効だ。
「道具とは思えん。腕を延長するような感覚で、遠くにパンチの衝撃波を放つ技術……?」
あまり納得はできんが、するしか無い。そもそも、この世界には科学を無視したような摩訶不思議要素が複数あるのだ。この程度の超常現象、あってもおかしくない。
「これが200階クラスの実力……か」
「…………なんで立ってんのよ、素人が。殺しちゃわないように、ちょっと手加減したのが良くなかったのかな」
リリーの雰囲気が変わった。その威圧感は、先週のそれを遥かに凌駕していた。これが、彼女の本気ということなのだろうか。格上、彼女は明らかに私よりも上位の捕食者であった。
「ケほぁッ!」
衝撃。
激痛。
転倒。
私は硬い石畳の上を転がり、口から血を垂らしながら立ち上がる。骨も少しイってそうだ。審判はクリティカルヒットを宣告し、事実かなりのダメージを負った。威力もスピードも、先程までの2発とは比べ物にならない。
「別にさ、私としては君が半身不随になろうが、知ったこっちゃないんだよね。殺すのは好きじゃないけど、そこまで行かなければ別に良い。ファイトマネー沢山貰ったばかりだし、大人になるまで病院でゆっくりしておいでくださーい」
「私は……強くならねばならない。夢の為、大義の為、富も権力も名声も! 全てを手に入れねばならんのだ!」
私は、勝てない。少なくとも今の私は、リリーよりもずっと弱い。合理的に考えれば、私は投降すべきだ。少しでも受ける傷を減らし、一刻も早く彼女の特殊能力を分析せねばならない。
けれど、けれどね。
男っていうのは、そう簡単には逃げられない生き物なのだ。
「一矢、報いてやる」
《リリー選手、また拳を構える。あぁっと、いつの間にかアレクサンドル選手の両の足首が大変な方向に曲がっている! アレクサンドル選手も何とか立ち上がりますが、もうマトモに歩くことはできないでしょう! アレクサンドル選手、瞬く間に一方的大量失点。190階までとは一転、200階クラスの厳しさを痛感していることでしょう!》
脚は潰れた。リリーとの距離は20m以上。投げれそうな物も無い。私の持つ技術の中では、もうどうしようもない。
リリーは、人間だ。素手の人間だ。素手の人間ができる攻撃が、私にもできない訳が無いだろう。きっと、私にも同じ事が出来る筈なんだ。だが、どうする。どうすれば、遠距離の相手を攻撃できる。
ふと、過去の情景が浮かぶ。
そこは、我が第二の故郷であり、密漁者に唯一の陸地となるサンゴ礁をも破壊された海。我が民族の言葉では単に水と呼び、他民族が滅海と呼ぶ海域。世界の端に存在し、強い海流で魚や他所の海水の侵入を拒んでいた、孤独な海。
流氷の浮かぶ滅海は、オホーツク海なんかとはまるで違っていた。魚類、哺乳類、鳥類、節足動物、そういった生物は何もいない。軟体動物、刺胞動物、藻類、そして我々滅海の民。目に映るような生物は、これ以外存在しなかった。
海は貝毒と重金属で汚染され、昼は赤紫。夜は青く輝いていた。私は幼くも滅海の民の中で一番の漁師として、誰よりも海へ潜り、誰よりもタコやイカと殺し合いをしていた。彼等はあまりにも強く、ダイオウイカにも似た巨大生物すら中位捕食者であった。
何よりも印象に残っているのは、やはりあのヌシだ。我々の言葉では王と呼んでいた、巨大なタコの一種。普通のミズダコの何倍もある筈の頭部が小さく見える程の、長い長い腕。50mはあっただろう。ヌシを狩れる実力者は私の他には父しか居らず、そもそもヌシの巣がある深度に行けるのも私と父だけであった。
深海。ヌシの腕はどこからともなく現れた。死角から、目の前から、頭部は見えず、ただ無から発生したようにも映る腕だけが振るわれた。
腕。腕。腕。
長い、腕。
戦って、戦って、戦って。喰って、殴って、齧り付いて、突いて、剥いで、殺して。見て、聞いて、触って、喰って、嗅いで、喰って喰って、喰い続けた。
闇より出で、獲物を捕らえる腕。脚。触手。触腕。
毒に満たされし滅びの海の王。
何よりも恐ろしく、奇妙で、悍ましい、力の権化。
そうだ、彼こそが、いや私こそが、深海の支配者。
《リリー選手の猛攻が止まらない! 審判、ダウンカウントを開始。しかしアレクサンドル選手はピクリとも動きません!》
「終わりね。所詮ルーキー、呆気なかった……、っ!」
《おーっと、これは一体どういう事か! 触手……でしょうか! 無から巨大な1本の触手が現れ、リリー選手を締め上げる! 吸盤は皮膚と服に貼り付き、粘液が力の伝達を拒み脱出を妨げる!》
「あぁっ! ぬ、抜け出せない……! なんなの、このオーラの強さは!? に、人間のソレじゃない……」
《リリー選手ピンチ! 触手に拘束され慌てふためいている! が、審判はここで起き上がる気配の無いアレクサンドル選手へ敗北を宣告。謎の触手も、いつの間にか姿を消しています。この華やかなカードは、リリー選手の勝ちという形で終わりを迎えましたー!》
◇
「───」
声がする。壁を挟んだ先から漏れるテレビの音のような、不明瞭な声であった。私は重い瞼を開け、霞がかった視界で辺りを見渡す。
「おや、起きたか」
「ここ、は……」
「天空闘技場病院の、200階クラス以上闘士向けの病室だ。私は回診に来ている医師だ。君はリリー選手との試合中に気絶し、半日程度倒れていた」
「私は……彼女に、攻撃できたか? 足首を潰されてから、記憶が無いんだ」
「それは私の知ることではない。後で自分で映像を見返すことだ。そんなことより、調子はどうだ?」
「不可解だ。良い、抜群に良い。奇妙な活力と万能感が、危うい程に私を包んでいる」
半日も気を失う程に殴られた後とは思えない。痛みはある。怪我もある。しかし、謎の生命エネルギーが、沸騰したヤカンのように湧き上がっている。
「一つ、忠告しよう。君は今、危険な状態だ。そのままだと、またすぐに気を失う」
「何だと?」
「君が今感じているエネルギーは、リリー選手による洗礼の結果だ。それは正しく君の生命の発露であり、奔流。君は今、燃料タンクに穴が空いたスポーツカーのアクセルを踏み切っている状態だ。その穴を閉める術を、直ちに見つけ出せ。私の口からあまり詳しい事は言えんが、それが君がバトルオリンピアへ挑む為の最低限の必須条件だ」
「……そうか、分かった。感謝する」
「何か困った事があれば、そこのナースコールを押して看護師を呼びなさい。では、私は次の患者の下へ行く」
焦燥。背を向けるかの医師が言っている事が虚言とは思えない。この謎のエネルギーは、確かに私の命を吸い上げているのだろう。そして同時に、確信した。リリーの異能力は、このエネルギーを操る技術であると。
エネルギーは絶えず私の身体を飛び出し続けている。私はそれを抑えようと、己の肉体へ語りかけるかのように集中する。
穴。穴、穴、穴。
私の身体の内側から、世界へと。このエネルギーを、流出させ続ける穴。
「あ、見つけた」
パタリ。蝋燭に蓋をしたように、吹き出るエネルギーが完全に消える。汗腺にも似たようなイメージの、目には見えぬ穴。そこを思い切り引き締めたのだ。
「小さく開いたり……一気に開いたりもできるな。意外と簡単だ。ただ、完全な引き締めと開放の0−100がスムーズであるとは言えないな」
周囲を見渡すと、冷蔵庫を発見。中に入っていたペットボトルを手に取り、水で喉の渇きを潤す。ふと、私は一つのアイデアを思い付いた。私の身体から漏れ出たエネルギーは、どこに行ったのだろうか。そのエネルギーは、漏れ出る方向をコントロールすれば、物体へ付与できるのではないだろうか。
「お、おぉ……!」
ペットボトルへエネルギーを込めようと念じれば、水はあっという間にピンク色になった。味や匂いに変化は無く、ただ単に色が変わっただけ。しかしこれは、確かにエネルギー由来の超常現象。私は興奮しながら水を飲み干してしまう。
「そうだ、試合の映像を見よう。折角、闘士は無料で自分の見逃し配信を見れるんだからな」
今なら、見える。確かに、はっきりと見える。映像の中のリリーは、私のようにエネルギーを纏っていた。拳を構えた時、そのエネルギーは腕へ集中。4m程の腕状の塊となり、放たれたエネルギーは腹へ向かって放出されていた。
「は? タコの……腕? 一体、どこから……いや、違う。私、私だ。これはきっと、私が作り出したんだ」
当時の記憶は無い。だが、せめて一矢報いんと力を振り絞ったのは覚えている。きっと、極限状態の中で必死にエネルギーを操ったが故に産物なのだろう。
「もう1回出せるだろうか。あ、出た」
無から具現化された触手は、エネルギーを殆ど込めなかったからか、マダコ程度のサイズ感。動きは鈍く、力強さも無い。しかし自由自在に操作可能。
「……このエネルギー、かなり融通が利きそうだな。触手から新たに毒針出して、貝毒に変化させたエネルギーを放出したり……出来ちゃったよ。レモン果汁を出せたり……は、流石に無理と」
私の能力と、リリーの能力はまるで違う。恐らく、個々人の才能や身を置いてきた環境、意思によってプラスチック的に柔軟に変わるのだろう。
「すんなりとタコの腕や貝毒を操れるのも、恐らくは滅海での素潜りの日々が故。となると……ビンゴ、イカやクラゲの触手も作れるな」
この触手の能力と、単純なエネルギーの扱い方の理解度を深める。トレーニングの方向性は、一旦これで確定としよう。待っていろよ、リリー、フロアマスター、そしてバトルオリンピア!
と、その前に……
「腹が減ったから狩りをする訳だが、空きっ腹で試合の為のトレーニングなんてモノをする訳にはいかん」
病院の食事なんかで、私の胃袋が満足する訳が無い。幼児でもミズダコを丸かじりして嘴以外の全てを腹に収めるのが、我々滅海の民である。また、淡水という概念が存在せず、流氷と貝毒の混ざった海水に適応しきっているので、塩分もまるで足りない。
「こんな所に居られるか。私は部屋に戻らせておらう」
さっさと退院手続きをして、196階のレストラン通りのドカ盛りラーメン屋へ直行だ。カラメの真っ黒なスープに麺量茹で前2kgを、今日も3分で完まくりしてやるんだぜ。