グレンの想像を超える事情だった。
リリアーヌの眼から滂沱の涙が流れ落ちる。
「あの後……小屋から必死で逃げ出しました……途中何度も転びながら……でも足を止めたらシャルロット様の犠牲が無駄になります……」
震える少女の言葉は続く。
「森で道を見失い……でもとにかく遠くへ……ただひたすら逃げて……そしてあの場所で貴方に出会ったんです」
グレンは無言でリリアーヌを見つめる。その瞳に映る真摯さと悲壮な決意を読み取っていた。
「あの場所で出会った人間……私は疑ってかかってしまいました……でもシャルロット様は違います……!」
声が張り上がる。
「私に生きて欲しいと仰って……奴隷だと偽ってまで私の生存を願ってくださったのです!」
その叫びには憎悪や不信ではなく、無償の友情と忠誠心が詰まっていた。
────魂の輝き、か……
グレンはかつて友から教えられた言葉を思い出していた。
『グレンよ。人間の価値は種族ではない。魂の在り様にこそある。お前が守るべきは誇り高き魂なのだ』
「シャルロット様は今……どうなっているのでしょう……!」
少女の眼に絶望の色が混じり始める。
グレンが口を開く。
「落ち着け」
その言葉にリリアーヌが顔を上げる。
「時間はある」
一呼吸置いて続ける。
「今戻っている道の大まかな方角は合っているのか」
「はい、エルフ族は森と住まう種族、精神を落ち着かせれば、ある程度木々の声を聞くことができるのです」
「なるほど、距離はどれほどだ」
「この地点から急いで半刻ほどだと思います」
「承知した。急ぐぞ、許せ」
「えっ?キャッ!」
グレンはリリアーヌの背中と膝裏に腕を入れ、瞬時に彼女を抱き上げた。
鍛え上げた身体能力で、一陣の風となり疾走する。
***
「そろそろです!」
リリアーヌの声を聞き、グレンは立ち止まり、彼女をゆっくりと下ろす。
その場所から慎重に歩を進め、リリアーヌが指を指す。
「あの小屋です……!」
リリアーヌが示した小屋に向かい、グレンは気を集中させ、気配を探る。
「……中に三……いや、四人いるな。小屋の周囲には誰もいない。」
グレンも一瞬気づかないほど、一人の気配は酷く弱々しいものだった。グレンはそのことについては何も言わず、言葉を繋げる。
「行くぞ、視認できる位置で一旦木陰に入れ」
「は、はい!」
二人は歩き出した。
「リリアーヌ、お前はここから見ていろ、奴らを制圧したら呼ぶ」
リリアーヌを木陰に残し、グレンは小屋へ歩き出した。
サワ……サワ……
辺りには依然として木々や草花の擦れる音だけが流れている。
闇に生きる魔装騎士の真骨頂────無音歩法
歩を進めるグレンの足音は、隠れているリリアーヌの呼吸音にさえかき消されるほどであった。
常人とは次元が違う程に研ぎ澄まされたグレンの聴覚が、今まさに小屋の中で繰り広げられている会話を余すことなく拾い集める。
─────おめえやり過ぎだろ!確かに顔だけは避けてたけどよお!
─────あーあ、これどうすんだよ、まさか死んでんじゃねえだろうな
────コイツがナメたことしやがるからわりぃんだ。いいじゃねえか、こいつでやる気出なくなったら責任とって俺が一晩相手してやるよ!
────バカ!きめえこと言ってんじゃねえよ、ギャハハハ……!
────ドクン!────
鼓動が一つ、大きな音を打つ。
自分の眼に一筋の朱が走ったように錯覚する。
小屋の側面の小窓に乱雑に打ち付けられた板の隙間から中を覗くと、地べたには『少女と辛うじて分かるもの』が打ち捨てられ、周囲を下卑た笑いで埋め尽くす男たちが囲んでいた。
滑らかな宝石の表面のような爪は全て剥がされ、汚れなき絹を思わせる肌は至る所を刻まれ、その華奢な腕や指はどこが関節なのか一見分からないほどに折れ曲がっていた。
身じろぎすらできなくなった状態で何度も柔らかな腹を蹴り飛ばされ、その時に吐き散らかしたのであろう夥しい量の血反吐が、唯一手を出されなかった凛々しく可憐な顔を死化粧のように鮮やかに彩っていた。
──ドクン!!
────これほどまでにこの世界は醜悪なのか。それなら俺がいっそ────
臓腑が煮えるように燃えたぎり、視界が鮮血のように赤く染まる。
守護者の剣は死神の鎌へと変貌した。
衝動のままに左足で大地を踏み抜き、振り上げた右足は窓を周囲の壁ごと木っ端微塵に粉砕する。
────ガシャアンッ!!
舞い散ったガラスの欠片が月明かりを反射させ煌めく中、一頭の怒れる竜が死をもたらす為にその顎を禍々しく開いた。
「────っ?」
兵士達が気づき、振り返らんとした時既に、その牙は喉元に喰らいつく寸前だった。その刹那
────グレン様────
……ッ!!
魔装騎士の神速の蹴りが軌道を変え兵士の両手両足を蹴り砕く。
返す足を隣の兵士のこめかみに叩き込み、意識を刈り取ると同時に抜剣、その両手の手首から先を切り落とす。
残った一人が反応して行動を開始するためにグレンが許した時間はあまりにも短すぎた。
最後の1人は砲弾の一撃もかくやという掌底を胸元に加えられ、肋骨を粉々に粉砕されながら反対側の壁まで吹き飛ばされ沈黙した。
────全員再起不能ではあるが、死んではいない。
リリアーヌを呼ぶ前にシャルロットの状態を素早く確認する。聞こえてきた通り顔面は無傷だったが……
「リリアーヌ!」
グレンは外へ向けて叫んだ。
「至急来い!」
木立の影から小さな気配が駆け出すのが分かる。
血に濡れた床を見つめながら、グレンは魔装騎士の使命を改めて胸に刻んだ。
皇竜騎士の矜持が新たな守護対象へと燃え上がろうとしていた。