1.最高の檻
あの張り裂けるような絶望の日から、五番隊の元副隊長・雛森桃の時計は壊れたままだった。
「桃、今日の任務は別の奴に行かせる。お前は休んどき」
「いえ。行けます」
「……そうか。けど、無理はすんなや」
新しい五番隊長、平子真子は、それ以上何も言わなかった。
いつもの調子で笑ってはいる。ただ、その目だけが何かを言いたげに雛森を見ていた。
それが何なのか、雛森には分からない。心配なのかもしれない。呆れているのかもしれない。ただの被害妄想かもしれない。
どれでもよかった。
他の隊員達にも似たようなものを感じていたから。
腫れ物に触るような、どこか哀れみに満ちた生ぬるい視線。誰も彼女に何も言わない。責めない。あるいは皆本当に何も思ってなくて、自分の後ろめたさを周囲のせいにして誤魔化している気もしていた。
いずれにしろ、もうその場所で居心地の悪さ、息苦しさが拭いきれなかった。
彼女は自ら志願して、五番隊を去った。
◇
「……桃」
帰り道、脳裏に直接響く声。
「飛梅」
「……本当によかったの?」
雛森は少しだけ足を止め、ただ前を見つめた。
「うん。何も考えなくていいくらい、今は戦っていたいの」
それだけ答えて、再び歩き出す。飛梅はもう何も言わなかった。
消えてしまいそうな主人の隣を、静かについていくことしかできなかった。
◇
向かった先は、十一番隊。
規律や理屈よりも、強さが何より雄弁にものを言う場所。
『鬼道が得意なお嬢ちゃん』
雛森桃の顔を知らない者はほとんどいなかった。五番隊の副隊長で、鬼道に長けた優等生。小柄で、物腰も柔らかく、およそ十一番隊とは縁遠い女。
だからこそ、突然そこへ移籍してきた彼女へ向けられたのは、歓迎でも拒絶でもなかった。
値踏みするような、無遠慮な視線。
何をしに来た。お前にここで何ができる。
そんな疑問を隠そうともしない視線の中で、雛森は何も言わなかった。
そして、その認識は最初の模擬戦で覆された。
「――始めィ!」
合図と同時に、対面の巨漢が地を蹴った。
振り上げられた木刀が、雛森の頭上へ猛烈な勢いで落ちてくる。
かつての彼女なら、まず距離を取っただろう。相手の動きを見て、間合いを管理し、必要なら鬼道で足を止める。そこから確実に仕留めるのが、雛森桃の得意とする戦いだった。
けれど、いつからだったか。それをしなくなった。
雛森は退かない。むしろ、木刀が振り下ろされるより早く、一歩前へ出た。
(右足が深い。振り下ろした後は戻せない)
考えていないわけではない。むしろ逆だった。
相手の重心。腕の角度。踏み込みの深さ。視線。呼吸。かつて鬼道を組み立てるために使っていた観察のすべてが、今では相手の懐へ飛び込むためだけに働いていた。
頭上を木刀が掠める。命に近いほど、心がざわつく。
雛森は身を沈め、そのまま地を這うような低い蹴りを軸足へ叩き込んだ。
「な――」
巨体が傾く。その時にはもう、懐へ入っていた。
木刀の先端を握り込まれた指の隙間へ突き入れ、そのまま捻る。
「つ、あぁッ!?」
握力が抜け、木刀が砂煙の中へ転がった。
崩れた体勢。晒された顎。雛森の身体が反転する。
細い肘が風を切り――相手の顎骨を砕く、ほんの一歩手前で止まった。
「そこまで……!!」
静まり返った演練場に、制止の声だけが響いた。
巨漢はしばらく動かなかった。尻餅をついたまま、目の前で静止している肘と、その奥に覗く仄暗い視線から目が離せない。額から、遅れて冷や汗が流れ落ちた。
雛森は何事もなかったように腕を下ろした。落ちた木刀を拾い、一礼する。
「ありがとうございました」
勝った喜びよりも、木刀が肌に触れそうになるあの一瞬をずっと感じていた。
高揚、なのだろうか。
雛森の中には久しぶりの開放感があった。
刃が命に届きうる距離にいる間だけは、次に何をするか以外、何も考えずに済む。
それが心地よかった。
「……なんだ、今の」
「剣術じゃねえだろ、あれ」
「けど勝ったぞ」
「……あいつ、あんな戦い方だったか?」
遠巻きの声を、雛森は聞き流した。
その視線はもう、先ほどまでとは違っている。侮りが消え、代わりに僅かな畏怖と、十一番隊らしい好奇心が混じっていた。
その中を抜け、一部始終を眺めていた男の前へ歩いていく。
十一番隊第三席、斑目一角。
「……へえ」
肩へ木刀を担いだ一角は、口元を吊り上げていた。
「鬼道屋の副隊長だと思ってたが、随分と物騒な真似すんじゃねえか」
「十一番隊に移籍した身です。副隊長と呼ばないでください、斑目三席」
「ハン、堅苦しいねえ」
一角は鼻を鳴らした。それから、先ほど雛森が立っていた場所へ一度目をやる。
「しかし妙だな。お前、あそこで下がれただろ」
雛森は黙って一角を見る。
「最初の一発だよ。わざわざ懐に入る必要なんざなかった。鬼道が得意なら、なおさらな」
「……でも、勝てました」
「そういう話じゃねえよ」
一角は笑っていた。
責めてもいない。ただ、戦うことを好む男だからこそ、戦い方に滲んだ違和感には気づいていた。
「まあいい」
それ以上は聞かなかった。何を抱えていようと、戦場に立つ者が自分から話さないことまで暴く趣味はない。
「で? 挨拶代わりにこれだけ見せつけて、何か要求でもあんのか?」
雛森は手にした木刀へ目を落とした。
まだ掌に、打ち合いですらない一瞬の攻防の感触が残っている。
その間だけは、本当に何も浮かばなかった。それが欲しかった。
もっと長く。もっと激しく。
他の何かを思い出す余地などなくなるほどに。
「――ずっと戦える場所をください」
一角の目が、僅かに細くなる。
目の前の女が欲しがっているものは、強敵との戦いそのものではない。
戦っている時間だ。
その先に何があるのかなど、まるで考えていない。
「いいじゃねえか。なら前線だ。出てえだけ出ろ。強ぇ奴には仕事が回る」
「ありがとうございます」
雛森は深く頭を下げた。
過去も、傷も、ここでは誰も詮索しない。
何があったのか。なぜ戦うのか。どうしてそこまで前線へ出たがるのか。
そんなものより、強いか弱いか。戦えるか、戦えないか。
十一番隊は雛森を救わない。癒やそうともしない。
求めれば、ただ死線を与えてくれる。
それでよかった。
十一番隊という場所は雛森にとって、自分の狂気を誰にも邪魔されることなく研ぎ澄ませていける、最高の『檻』だった。