もう数えることもやめた、幾たび目かのじゃれ合い。
砂丘の上で刀を構える雛森の姿は、初めてここへ来た頃とは比べものにならなかった。
シルエロの呼吸。霊圧の揺らぎ。攻撃へ移る直前、ほんの僅かに沈む重心。何度も殴られ、吹き飛ばされ、そのたびに身体へ刻み込まれてきたものを、今では考えるより先に拾える。
踏み込む。
シルエロの爪が動く、その一瞬前。雛森の身体はすでに懐へ滑り込んでいた。
激突。
甲高い音が白い砂漠へ響き、薄桃色の焔が弾ける。シルエロの腕が振り抜かれ、雛森の身体が砂の上を転がった。
だが。
肩口に残る赤い鱗の一枚に、黒い焦げ跡が残っていた。
「……へえ」
シルエロが、自分の腕を見る。
雛森はすぐに起き上がった。呼吸は荒い。腕も痺れている。今の一撃をまともに受けていたら、それだけで今日の戦いは終わっていただろう。それでも刀を構える。
シルエロは焦げた鱗を爪で掻いた。
「おまえ、ほんと何なんだよ」
口元が吊り上がる。
「どんどん良くなってやがる」
その笑い方を、雛森は知っていた。まただ。こいつが、何か面白いものを見つけた時の顔。
「――ぶっ壊しちまったら、もったいねえじゃねえか」
次の瞬間、紅い光が視界を埋めた。
「――ッ!」
虚閃。
以前なら、見えた時にはもう遅かった。薄桃色の焔を叩きつける。爆発の反動で身体を横へ弾き、頬を焼く熱の中を無理やり抜ける。
背後で砂漠が爆ぜた。爆風に巻かれ、何度も砂の上を転がる。それでも刀を手放さず、勢いのまま地面へ突き立てて身体を止めた。
「おー、避けたな?」
楽しそうな声が聞こえる。雛森は答えなかった。答える余裕などなかった。
肺が焼けるように痛い。握った指は痺れ、膝も笑っている。それでも、立つ。
いつもなら終わっていた。受け止めるだけで精一杯だった一撃を、今、自分は避けた。
(……戦えてる)
シルエロが翼を広げる。まだ来る。
次を間違えれば、今度こそまともに食らう。
それなのに。
雛森の足は、後ろへ下がらなかった。
刀を握り直す。
(もう一回)
胸の奥で、何かが燻った。
(もう一回、できる)
死に場所を探して虚圏を彷徨っていたのに、そんなことを考えている自分のおかしさには自覚がなかった。
ただ目の前の怪物から目を離さず、次の一撃をどう凌ぎ、どう返すかだけを考えていた。
そしてシルエロもまた、そんな雛森を見ながら、牙を剥いて笑っていた。
卍解と同時に踏み込み、シルエロと刃を交える。
薄桃色の焔を纏った白刃が、振り下ろされた爪の軌道を捉えた。
甲高い金属音が白い砂漠へ響く。
弾かれた刀をそのまま返し、二撃目。
シルエロが爪で受け、雛森は反動に逆らわず身体を捻る。
死角へ回り込みながら斬り上げるが、それは鱗に阻まれた。
数合。ほんの僅かな時間だった。
それでも、以前なら一方的に吹き飛ばされていた距離で、雛森は確かにシルエロと打ち合っていた。
だからこそ。
突然、シルエロが大きく後ろへ退いた時、雛森は眉を寄せた。
「……?」
おかしい。
いつもなら、ここからだ。
こちらが何か一つできるようになれば、嬉しそうに牙を剥いて、その上からさらに無茶苦茶な攻撃を叩きつけてくる。
なのに、来ない。
シルエロは雛森を見ていなかった。
赤い瞳が向いているのは、その遥か向こう。白い砂丘が幾重にも連なる地平の彼方。
雛森には何も見えない。だが、一拍遅れて肌が粟立った。
遠い。
それでも分かる。
砂漠の向こうから、何かが近づいている。
沸き立つような殺意と、研ぎ澄まされた霊圧。
シルエロの意識は完全にそちらへ向いていた。
――気に入らない。
雛森は地を蹴った。
余所見をしているなら好都合。踏み込み、そのまま首を狙う。
だが。
「――ッ!」
振り向きもしなかった。
雑に振られた尾が胴を捉え、雛森の身体が凄まじい勢いで吹き飛ぶ。
砂丘へ叩き込まれ、そのまま深く砂を抉った。
しばらくして、砂の中から刀が突き出た。
それを支えに雛森が這い出してくる。
口元の血を拭い、未だ遠くを見ているシルエロを睨んだ。
「……何を見てるの」
「別に」
「嘘つき」
「ハン、生意気な奴め」
短い、いつも通りの乾いたやり取り。
けれどシルエロはもう、雛森へ向き直らなかった。
翼を大きく広げる。
「またな」
雛森の眉が動いた。
終わり。
それだけで、今日の死合を切り上げるつもりらしい。初めてだった。
「……逃げるの?」
せめてもの嫌味だった。シルエロが振り返る。
「ばーか」
その顔を見て、雛森は言葉を失った。
笑っていた。
いつもの、雛森が何かできるようになるたびに見せる、楽しそうな笑顔ではない。
牙を剥き出しにして、赤い瞳を爛々と輝かせている。
獲物を見つけた獣そのものの顔。
「面白そうな奴がいんだよ」
地面が爆ぜた。
巨大な翼が白砂を巻き上げ、爆発的な霊圧とともに空へ飛び出す。
あっという間だった。
巨龍は地平線の彼方へ消えて、あとには巻き上げられた砂だけが残った。
残された雛森は砂煙のなか、ただ一人で佇んでいた。
自分を『壊れない玩具』として転がしていた化け物が、初めて見せた本気の気配。
その一瞥すら与えられなかった圧倒的な境界線。
見せつけられた絶望の果てに、今の雛森の目に宿るのは、怨念にも似た劣等感だった。
世界の広さと、天井への渇望。
今の自分の足りなさに、手の震えが止まらなかった。
◇
シルエロが向かった、砂漠の彼方。
そこに一体の異物がいた。
音もなく白砂へ降り立ち、ただ立っている。
長身、細身。余分なものを削ぎ落とした肉体には、シルエロのような荒々しさも、獣じみた威圧もない。
静かだった。
あまりにも静かで、その存在だけが周囲から切り離されているように見える。
抜き身の刃が、そのまま人の形を得たかのような破面。
その名を、ドンキホーテ。
その無機質な視線が、飛来する龍の巨影を捉えた。