シルエロの姿が消えた。そう錯覚するほどの加速だった。
翼から噴き出す熱量。凝縮された霊圧。小柄な肉体に押し込められた膨大な力のすべてを、ただ前へ進むためだけに解放する。
赤熱した爪が、ドンキホーテへ迫る。
キィン――。
乾いた音が響いた。
「……っ」
止められた。だが、シルエロの口元はむしろ楽しげに歪んだ。
違う。止めたのではない。ドンキホーテは力比べなどしていなかった。
接触の瞬間、刃の角度を僅かに変えただけ。それだけでシルエロの突進は力の行き場を失い、軌道そのものを横へ逸らされていた。
「ハッ……!」
面白い。流された勢いを殺さず、空中で身体を捻る。その回転をそのまま乗せ、鋼の尾を横薙ぎに叩き込む。
ドンキホーテが、一歩だけ退いた。ただ、それだけだった。
轟音を引き連れた尾が鼻先を掠め、虚空を薙ぐ。
そして、もう刃が来ていた。回転する異形の刃が、無防備になったシルエロの腹部へ食い込もうと迫る。
その瞬間、本能が警鐘を鳴らした。
避けろ――ではない。燃やせ。
「――ッ!」
口腔から紅蓮の光が爆ぜた。一発。二発。三発。
間合いも何もない至近距離から、虚閃を立て続けに吐き出す。
爆炎がドンキホーテを呑み、その身体を強引に後方へ押し下げた。
直後。シルエロの頭上で空間がずれた。
「……へぇ」
遅れて、その遥か後方。巨大な岩山に一本の線が走り、上半分が音もなく滑り落ちていく。
シルエロは自分の頭上を見上げ、それから笑った。
傷一つない。
だが、分かる。今のは駄目だ。まともに受けていたら、たぶん死んでいた。
「おまえ、本当に楽しいな」
牙が剥き出しになる。返答はない。
ドンキホーテは爆炎の向こうで、何事もなかったかのように立っていた。
怒りもない。焦りもない。敵意さえない。次にどうすれば目の前の対象を処理できるのか、それだけを計算し続けている。
『正せ』。その解号の通りに。
シルエロの翼が広がった。炎が渦を巻き、白砂が灼熱に焼かれて舞い上がる。
「ぶっ壊れるまで付き合えよ!!」
爆発。大地が消し飛んだ。
爪が走る。尾が薙ぐ。翼が空気を叩き潰し、灼熱の衝撃波が砂丘を吹き飛ばす。
上から、下から、背後から。一撃を避けられれば、その回避先へ次の一撃を叩き込み、それさえ防がれれば、身体を捻った勢いのまま別の攻撃へ繋げる。
型も規則もない。理屈より先に身体が動く。生存の果てに研ぎ澄まされた獣の勘だけで、シルエロは攻撃を重ね続けた。
対するドンキホーテはそのすべてを処理する。
爪を避ける。尾を弾く。炎を断つ。必要なら半歩ずれ、不要なら動かない。
無軌道に見える攻撃の一つ一つを正確に捉え、その瞬間ごとに最適な答えを導き出していく。
シルエロは止まらない。
避けられれば、もっと速く。弾かれれば、もっと強く。読まれれば、その場で変える。
考えているわけではない。ドンキホーテが導き出した答えを見てから、それを反射で食い破り、次の攻撃へ繋げている。
爪が弾かれる。その腕を断とうと刃が返るより先に、膝が跳ね上がる。ドンキホーテが身を逸らす。そこへ尾が来る。刃で受け流す。すでにシルエロはいない。頭上。炎を纏った踵が振り下ろされる。
それも受け流す。次も。その次も。さらに、その次も。
正確に。無駄なく。一つずつ。
――しかし。
「……?」
ほんの僅かに。ドンキホーテの刃が遅れた。
振り下ろされた爪を受け流す刃が、いつもより僅かに深く押し込まれただけ。踏み込んだ足が、半歩余計に砂を削っただけ。それだけだった。
だが、シルエロはそれを見ていた。
「……ハ」
牙が覗く。
ドンキホーテは変わらない。焦りもない。困惑もない。同じ処理を続けている。
だがその処理が、初めて――シルエロの速度に追われ始めていた。
一つを処理する間に、次が来る。次を処理すれば、その先にもう一つ。
計算は間違っていない。動作にも無駄はない。
シルエロが、その正しさを上回る勢いで攻撃を積み重ね始めていた。
「あはは……!」
それが分かった瞬間、シルエロの笑みが弾けた。
「遅れたなぁ? お前」
返事など待たない。
ようやく見つけた、ほんの僅かな綻び。ならば、考えることなど一つしかない。
もっと速く。もっと強く。追いつけなくなるまで叩き込む。
「あはは、あんま早く終わんじゃねえぞコラァッ!!」
赤い牙が、休む暇さえ与えず騎士へと喰らいついた。
◇
「好きにしろ――『蝗菌賊(コンタミナ)』」
その声は二体には届かなかった。
それでも。シルエロの笑みが、消えた。
「……?」
理由など分からない。
目の前には変わらず、刃を構えたドンキホーテがいる。
互いに次の一撃へ踏み込み、あと一瞬もあれば再び牙と刃が激突するはずだった。
だが、その寸前、シルエロの身体が思考より先に後方へ跳んだ。
危険。
目の前の騎士ではない。もっと別の何かが、来る。
幾度となく死線を踏み越えてきた野生の勘が、理屈も根拠もなく全身へ警鐘を叩き込んでいた。
赤い翼を広げ、全身を灼熱の霊圧で覆う。
攻撃ではなく防御を選ぶ。
ほぼ同時に、ドンキホーテの刃も止まった。
シルエロのように危険を感じたわけではない。
戦場へ新たな異常値を確認。現在の標的よりも優先して排除すべき対象が発生した。
その判断によって、騎士はそれまで斬り結んでいたシルエロから視線を外した。
...遥か彼方の砂丘、その向こう側から。
黒い濁流が姿を現した。
「……あ?」
最初は、地平線そのものが黒く染まったように見えた。
違う。動いている。
空を覆い、砂漠を這い、白い世界を塗り潰しながら、何かが押し寄せてくる。
羽音。
無数の小さな音が重なり、もはや一つ一つを聞き分けることなどできない。
空気そのものが濁ったような、不快な振動が砂漠を満たしていく。
虫。
たくさんの虫。
一匹ならば取るに足らない。踏めば潰れる。爪を振るう価値すらない。
だがそれが千万、億――数える事が無意味なほどに集まれば、話は変わる。
個体ではない。群れと言うにも易しい。
黒い濁流は、一つの巨大な災害となって押し寄せていた。
シルエロが露骨に顔をしかめる。
「……きもちわりい」
口腔に紅蓮の光が灯った。次の瞬間、無数の虚閃が黒い空を貫いた。
爆炎。
空を埋め尽くしていた虫が、数え切れないほど消し飛ぶ。
だが、開いた穴は瞬く間に黒で埋まった。
焼いた。それ以上が来る。さらに焼く。まだ来る。
ドンキホーテの刃が回転を始めた。
霊子を伴った斬撃が幾重にも走り、黒い濁流を巨大な塊ごと切り刻む。
それでも、止まらない。
一匹一匹の強さなど何の意味もない。倒した数にも意味はない。
シルエロの火力も、ドンキホーテの処理能力も、その物量の前ではただ押し寄せる波を削っているに過ぎなかった。
これは戦いではない。災害だった。