黒い濁流が、二体を呑み込んだ。
視界が消える。白い砂も、空も、互いの姿さえも。
世界を埋め尽くした漆黒の群れが、シルエロの身体へ一斉に群がった。
耳を塞ぎたくなるような咀嚼音が響く。数千万。数億。あるいはそれ以上。
汚濁から形作られた蝗の群れが赤い鱗へ牙を立て、その肉体だけでなく、内側にあるものまで汚し尽くそうと侵食を始める。
だが。
パチッ。
一匹が弾けた。
続いて、二匹。十。百。
シルエロへ取りついた黒い群れが、触れた端から次々と焼けるような音を立てて霧散していく。
「……あぁ?」
鬱陶しそうに腕を振る。纏わりついていた黒い泥が、鱗の上で燃え滓となって剥がれ落ちた。
シルエロに宿る、異質な鋼皮。――『龍鱗(アムレト)』。
それが何に由来するものなのか、本人も知らない。
遥かな昔から人々が竜という存在へ抱いてきた、侵されざるもの、害されざるもの、絶対の守護という幻想を体現するかのように。その鱗はこれまでも、力や硬度では説明できない幾つもの害意を、理屈ごと拒絶してきた。
呪いも。毒も。そして今、その身を侵そうとする黒い汚濁さえも。
「ペッ、ペッ……なんだこれ。まずっ」
口元へ入り込んだ燃え滓を吐き捨て、シルエロは舌を出した。
遠くからその姿を捉えたリュウの顔が、露骨に歪む。
「……はぁぁ?」
笑みが消えた。
「なんだよ、あのキモトカゲ。効かねえのかよ」
心底つまらなそうに吐き捨て、リュウは腰を上げる。
だが。もう一体は違った。
斬る。避ける。処理する。それ以外を必要としない騎士。
その鋼の身体へ、黒い泥は確かに届いていた。
◇
最初、ドンキホーテに異変はなかった。黒い濁流の中でも、その行動は変わらない。
斬る。避ける。斬る。刻む。迫る群れを処理し、開いた空間へ移動し、さらに押し寄せる黒を切断する。
無駄はない。判断にも遅延はない。
それまでと何一つ変わらない、最適な処理が繰り返される。
だが。ほんの一瞬。刃が、僅かにぶれた。
「…………」
停止はしない。次の群れを切断する。さらに斬る。だが、また僅かに軌道がずれた。
修正。正常。次の処理へ。――ずれる。修正。正常。――ずれる。
黒い波。虫。砂。空間。敵。自分。入力される情報のどこかに、存在してはならない値が混ざっている。
ドンキホーテは苦しまない。不快とも思わない。自分の身体に何かが入り込んだことへの嫌悪もない。
ただ、その処理能力だけが冷徹に結論を出した。
異常。正常値から外れたエラーが存在する。
ならば、正せばいい。
原因の特定を開始する。目の前には黒い濁流。排除。斬撃。消滅。――異常、継続。
ならば、さらに排除。切断。粉砕。消滅。――異常、継続。
違う。これではない。
黒い虫をどれだけ斬っても、正常値へ戻らない。
すでに異物は、自身の内側へ混入している。
処理を回す。原因を探す。異常値を切り分ける。修正する。
だが。修正のために行われた処理そのものへ、すでに異常値が混入していた。
処理。異常。修正。異常。再処理。再修正。さらに異常。
正常へ戻ろうとするほど計算は加速し、計算が加速するほど、混入したノイズもまた猛烈な速度でシステムの内側を駆け巡っていく。
壊れた計算機は、己が壊れていることすら理解できないまま、正常な答えを出そうとして無限に演算を続ける。
ドンキホーテの刃が、狂ったように黒い群れを切り刻み始めた。
そして。唐突に、止まった。
「…………」
無機質な顔が動く。
シルエロではない。黒い群れでもない。その遥か向こう。
戦場からゆっくりと遠ざかっていく一つの黒い残滓へ、視線が固定された。
――原因、特定。
その座標に存在するもの。
自身へ異常値を混入させ、正常な処理を阻害した発生源。
――排除対象、変更。
次の瞬間、ドンキホーテの姿が消えた。
つい先ほどまで死闘を繰り広げていたシルエロには、もはや一瞥すら向けない。
黒い濁流を一直線に切り裂き、その向こうへ残された汚染の痕跡を拾い上げる。
一つ。次。さらに次。リュウが残した黒い染みを辿って。
正常へ戻るために。原因を排除するために。処理能力のすべてをその一点へ注ぎ、狂った騎士は白い砂漠を駆け出した。
◇
「……は?」
シルエロは、しばらくその場から動かなかった。
目の前からドンキホーテが消えた。つい先ほどまで、互いに殺し合うためだけに全力を叩きつけていた相手が、自分には一瞥すらくれず、何かを追って地平線の彼方へ走り去っていく。
意味が分からない。
いや。何かが邪魔をした。あの気色の悪い黒い群れ。
あれが現れて、せっかくの戦いをぶち壊した。
そしてドンキホーテは、自分との戦いを放り出してその何かを追っていった。
「……おい」
大気が鳴動した。
シルエロを中心に、周囲の温度が急激に上昇していく。
白砂がじりじりと焼け、足元から赤熱し始めた。
「おい」
赤い翼が広がる。膨れ上がった霊圧が砂漠を押し潰し、炎熱を孕んだ暴風が天を覆う。
「待てよ」
楽しかったのだ。久しぶりに。
壊れる心配もなく、加減する必要もなく、自分の全部を叩きつけてもなお斬り返してくる相手を、ようやく見つけたのだ。
それを。どこの誰とも知れない何かが横から掻き回した。
当の相手までが自分を無視してどこかへ行った。
野生の怪物が、堪えようのない憤怒に牙を剥いた。
「ぶち殺すぞクソどもぉっ!!!」
咆哮とともに少女の輪郭が灼熱へ呑まれた。
凝縮されていた霊圧が解き放たれ、肉体が膨れ上がる。
紅混じりの鱗に覆われた白い巨躯。空を覆う翼、巨大な角。再び龍の姿へ戻ったシルエロが白砂を爆発させて飛び立った。
前方へ向けて無茶苦茶に虚閃を乱射する。狙いなど知ったことではない。
山が消し飛び、砂漠が焼け、空間そのものを焦がす紅蓮の光を撒き散らしながら、二つの霊圧を追って一直線に飛んでいった。