「うわ、面倒くさ」
リュウ・レイは逃げていた。
ドンキホーテに異常が発生したと確認した時点で、結果を見届けようなどという殊勝な考えは一切なかった。
即座に逃走。全力である。
背後から、異常な速度で一つの霊圧が迫ってくる。――ドンキホーテ。
さらにその後方からは、もう一つ。
先ほどまでとは比較にならないほど荒れ狂った霊圧が、空間を焼きながら猛追していた。――シルエロ。
遠くで虚閃が炸裂する。岩山が消えた。
リュウは走りながら振り返り、呆れたように顔をしかめる。
「……こいつもかよ。人気者は参るぜ」
自分で言って、鼻で笑った。
元々、逃げることには自信がある。
戦う相手を選ぶことに誇りなどないし、勝てない可能性のある相手から逃げることにも何の抵抗もない。
自らの汚濁へ霊圧を紛れ込ませ、痕跡を潰し、隠れ、逃げる。
あれほど素直な連中なら、適当に引っ掻き回してやればそのうち撒ける。
――はずだったのだが。
「…………」
背後の気配が、消えない。
右へ進路を変える。――来る。霊圧を散らす。――来る。
黒い泥を砂漠へ撒き、いくつもの偽の痕跡を残す。それでも、来る。
ドンキホーテは迷わない。
一つの目的にただ忠実に、自身へ混入した異常を排除する事に徹底していた。
リュウが残した僅かな痕跡を拾い、切り捨て、間違いを排除しながら最短経路で本体へ迫り続けている。
そして、さらに後ろからは。
「ぶち殺すぞォォォッ!!」
「元気だなあ……」
リュウは心底うんざりした顔をした。
これは、撒けない。思ったより面倒なものに手を出した。
このまま追いつかれれば、ドンキホーテだけでは済まない。
後ろから飛んでくる馬鹿まで合流して、二体の怪物との遊びのない大乱闘に巻きこまれる。
完全な自業自得だが、リュウはまるで他人が起こした面倒事に巻き込まれたかのように、深くため息を吐いた。
「はぁ……どうすっかな」
走りながら考える。
隠れる、無理。撒く、無理。戦う、論外。
「…………あ」
ふと、一つのくだらない思いつきが浮かんだ。
「あいついるじゃん」
口元が歪んだ。
思い出したのは、生存競争が延々と繰り返されるこの虚圏において、ただ一体みんなで仲良く暮らそうなどと寝言をほざいていた破面の男。
少し前まで、この世界のどこかで白い巣を広げていた偽善者。
気がつけばその巣ごと虚圏から消えていた。
奴の巣はよく分からない性質をしていた。主人格に当たる意思とは関係なく、居心地の良い場所を求めて動いていると聞いた事がある。
まさかそれで虚圏すら離れるとは思わなかったが、この際どうでもいい。
アレの行き先なら知っている。
「ちょうどいいや」
何がちょうどいいのか、本人以外にはまるで分からない。
リュウは速度を落とすことなく、目の前の空間へ鋭い爪を突き立てた。
爪先から黒い泥が溢れる。
じゅ、と。何もない空間が腐った。
正規の経路など選ぶ必要はない。
漆黒の汚濁が世界の境界へ染み込み、本来なら隔てられているはずの時空そのものを腐食していく。
ひび割れる。軋む。裂ける。食い広げる。
世界の仕組みに無理やり異常を起こす。道がないなら、壊して作ればいい。
断界へ穿たれた亀裂をさらに爪で引き裂くと、向こうに別の世界へ渡る深淵の闇が覗いた。
その何処かに、あの偽善者が変わらずくだらない幸せごっこを続けている場所がある。
リュウは背後を振り返った。
一直線に迫ってくる騎士。そのさらに後方から、砂漠を焼き払いながら飛んでくる赤い龍。
「ごあんないしまーす」
あは。あはは。
楽しげな笑い声だけを残し、リュウは裂け目へ滑り込んだ。
直後、ドンキホーテが到達する。躊躇なくリュウの黒い霊圧を追い亀裂の向こうへと身を投じる。
その後に続き、シルエロが裂け目に苛烈な虚閃を撃ち込む。
「待てやコラァァァッ!!」
怒りに我を忘れた獣は、この亀裂が何でどこへ繋がっているかなどの細かなあれこれを置き去りに、開いたままのそこへと頭から突っ込んでいった。
こうして、三体の騒々しい気配が次々と虚圏から消えた。
あとに残ったのは、焼き払われ、切り刻まれ、黒く汚れた白い砂漠。
つい先ほどまでの騒乱などなかったかのように、静けさを取り戻した。
やがて風が吹く。巻き上げられた白砂が、彼らの残した傷跡を少しずつ覆っていく。
誰も知らないまま、始末のつかない三つの災害が、揃って境界の向こうへと流れ込んだ。
◇
シルエロの霊圧を追って辿り着いた砂漠は、まるで天災の跡地だった。
大地は深く抉れ、いくつもの砂丘が灼熱に晒されて融解している。
遥か彼方では巨大な岩山が不自然な断面を晒し、空間には今なお肌を焼くほど濃密な霊圧が残留していた。
雛森は、その惨状の中で足を止めた。
「何、これ」
見れば分かる。ここで、シルエロが戦った。
それも、自分と刃を交えていた時とは比較にならないほどの力を解放して。
地形を変え、砂を焼き、これほどの霊圧を残すほど、本気で誰かと殺し合っていた。
その事実を理解した途端、胸の奥に小さな棘が刺さった。
「あんな顔……するんだ」
脳裏に浮かぶのは、去り際に見たシルエロの顔だった。
楽しそうだった。自分を相手にしている時の、お気に入りの玩具で遊ぶ子供のような笑みではない。
もっと獰猛で、もっと剥き出しで、これから始まる何かが楽しみで仕方がないとでもいうような顔。
自分には、一度も見せなかった顔だった。
「…………」
気に入らない。
むしゃくしゃする気持ちを抑えきれず、刀を抜く。
何もいないそこに斬りかかる。絶え間なく振るい続ける。
刀を握る手に無駄な力が入る。こんな荒い太刀筋ではあの化け物に鼻で笑われるだろう。
何度、あいつに叩き潰されたと思っている。
骨を折られ、肉を裂かれ、砂の上へ転がされ、そのたびに薄桃色の焔に焼かれながら立ち上がった。
鬼道を工夫し、剣を磨き、あいつの動きを覚え、どうすれば一撃でも届くのか、そればかりを考えてきた。
ようやく卍解も扱えるようになった。初めて鱗を傷つけた。
少しずつ攻撃を避けられるようになって、ほんの僅かでも、あの馬鹿みたいな強さへ近づけたと思っていた。
それなのに。
「ふざけないで」
低く漏れた声とともに、刀を白砂に突き立てた。
雛森は残された霊圧を辿る。
シルエロ。もう一つ、あの時遠くに感じた異様な霊圧。
そして、その二つへ纏わりつくように残された、不快な気配。
三つの痕跡は激しく入り乱れながら砂漠を横切り、その先で一つの場所へ収束していた。
闇を無理やりこじ開けたような、歪な亀裂。
まるで自分が虚圏に逃げてきた時のあの穴を思わせるその奥から、微かにシルエロの霊圧を感じた。
まだいる。この先に。
「……置いていかないでよ」
誰に言われたわけでもない。
シルエロと一緒にいる約束などしていない。
仲間でもなければ、友達でもない。出会えば殺し合っていただけだ。
わざわざどこかに消えたものを追いかける筋合いなどない。
そのはずなのに。
自分の中に追いかけない選択肢はなかった。
認める事にした。
これは自分勝手な執着だと。
けりをつけるまではとても終われそうにない。
暗闇の先が、かつて自ら手放した尸魂界へ繋がっていることなど知らないまま、雛森はその亀裂へと足を踏み入れた。