辿り着いた任務地は、到着した時にはすでに、任務という言葉では片づけられない惨状に変わっていた。
黒腔を無理やりこじ開けて現れた「それ」は、雛森たちが知る虚の尺度から明らかに逸脱していた。
巨大な裂け目は閉じる気配もなく、乱暴に押し広げられた空間の縁が不快な音を立てて軋み続けている。その中心に立つ異形から漏れ出す霊圧は、ただそこにあるだけで周囲を侵食し、大気を重く沈ませ、遠くの建物の輪郭さえ歪ませていた。
何かから逃げてきたのだ。
そうとしか思えないほど、その出現は乱暴だった。虚圏の奥深くで何があったのか、何に追われれば、これほどの怪物が空間を食い破って現世まで逃げてくるのか。
そんなことを考える余裕など、最初から与えられていなかった。
「がはっ……雛森、逃げ……!」
掠れた声が途中で途切れた。
振り向いた雛森の目の前で、十一番隊の隊士が異形の腕に薙ぎ払われ、地面へ叩きつけられる。大戦を生き延び、つい先ほどまで軽口を叩きながら隣を歩いていた男の身体は、ただ一度振るわれた理不尽な暴力によって、もう人の形を保っていなかった。
別の隊士が吼えながら斬りかかった。
刀は確かに異形の身体を捉えた。しかし、刃が肉へ食い込んだのはほんの僅かで、開いた傷も次の瞬間には何事もなかったかのように塞がっていく。
雛森はすぐさま鬼道を重ねた。まず動きを縛り、足を止め、その隙に死角へ回り込んで急所を狙う。これまで幾度となく繰り返してきたように、相手を観察し、最も確実な手順を組み立てる。
だが、通じない。
拘束したはずの腕が力任せに鬼道を引き千切り、そのまま横薙ぎに振るわれる。悲鳴を上げる暇すらなく、また一人が視界から消えた。
肉と骨の潰れる音だけが、やけにはっきりと耳に残った。
「……っ」
雛森は刀を握り直す。
戦わなければならない。次を考えなければならない。どうすれば殺せるのか、どこなら斬れるのか、何を使えば止められるのか。
それだけを考えていればいい。
そのためにここまで来たのだから。
それなのに、目の前でもう一人が倒れた瞬間、目を逸らし押し込めていたものが堰を切ったように溢れ始めた。
(……また、何もできない)
違う。今はそんなことを考えている場合ではない。
分かっているのに、頭の中へ次々と顔が浮かんでくる。
自分を止めようとしてくれた乱菊の悲しそうな顔。昔から何度突き放しても自分を案じ続けていた日番谷の顔。何も聞かず送り出してくれた平子や、自分から置いてきた五番隊の者達。
そして、そのさらに奥から、忘れたくても忘れられない優しい笑顔が滲み出した。
――藍染惣右介。
「……」
そこで、雛森の身体は動かなくなった。
異形がこちらへ向き直り、巨大な腕をゆっくりと持ち上げていく。
避けなければ死ぬ。それくらいは分かっていた。
刀はまだ握っている。足も動く。傷こそ負っているが、瞬歩で逃れる余力だって残っている。
それでも、雛森は逃げなかった。
――もう、いいかもしれない。
不意に浮かんだその言葉を受け入れた瞬間、あれほど騒がしかった頭の中が、嘘のように静かになった。
もう戦わなくていいのか。もう失敗しなくていいんだ。誰かを傷つけることも、心配させることも、目を閉じるたびに何かを思い出すこともない。
ずっと欲しかった静けさが、ようやく手の届くところにあった。
肩から力が抜け、雛森の口元に、ほんの少し、引きつるような笑みが浮かぶ。
その顔を見た飛梅は、息を呑んだ。
「……桃?」
返事はなかった。
もう一度名前を呼んでも、雛森は異形を見上げたまま動かない。
聞こえていないわけではないはずなのに、その意識は飛梅にも、目の前の敵にも、もはや向いていなかった。
「……何してるの? 避けてよ」
次第に、飛梅の声が震える。
異形の腕が振り上げられている。あれが落ちればどうなるかなど、考えるまでもない。
「桃。聞こえてるんでしょ? 避けてってば」
それでも動かない雛森を見て、飛梅はようやく理解した。
動けないのではない。
自分から、死を受け入れようとしている。
「……だめだよ」
飛梅の顔が歪んだ。
「何よ、その顔……桃、お願いだから、こっち見てよ」
異形の腕が動いた。
振り下ろされる。
「桃ッ!!」
悲鳴に近い声が響いても、雛森は目を閉じただけだった。
その瞬間、飛梅の中で恐怖が弾けた。
「やだ! やだやだ、だめ! お願いだから――ッ!」
まだ駄目だということは、飛梅自身が誰より分かっていた。
二人はまだ、そこへ辿り着いていない。霊圧も足りず、身体も耐えられず、何より互いの魂がその力を扱えるほど成熟していない。
今ここで無理やり引き出せば、主人を守るはずの力が主人と自身をきっと壊す。
絶対にやってはいけない。
そんなことは分かっている。
けれど、目の前で主人が死ぬ。
もう名前を呼んでもらえなくなる。話すことも、怒ることも、笑うこともできなくなる。
何より、自分の声が届いていない事が、どうしようもなく度し難い。
その感情の奔流が、正しさも理性も何もかも押し流した。
「そんなの……! 絶対に私が許さないから!」
飛梅は主人の魂へ手を伸ばした。
いつか二人で辿り着くはずだった、まだ開いてはいけない場所。その奥へ無理やり爪を立て、雛森自身の意思を置き去りにして力任せにこじ開ける。
主人の身体が壊れることも、その先に何が起こるかも、今だけはどうでもよかった。
死ぬよりはいい。
苦しんでも、傷ついても、生きてさえいればいい。
「ごめんね、……ごめん、ごめんね……桃。でも、死ぬのだけは……!」
雛森の魂が軋み、その身体が大きく仰け反った。
「――ぁ……ッ!」
初めて浮かんだ苦痛の表情を見ても、飛梅は止まれなかった。泣きながら謝り、それでも主人の魂の奥底から、本来ならまだ触れることすら許されない力を引きずり出す。
「絶対に、死なせないからッ!!」
視界が、漆黒の煤で爆ぜた。
――『卍解』。
その瞬間、雛森桃という一個の魂魄には到底収まりきらない霊圧が、無理やり現世へ引きずり出された。
黒い煤が噴き上がり、視界を塞ぎ、空を汚しながら辺り一面へ撒き散らされる。その中心で狂ったように膨れ上がった爆炎は、敵味方を区別するような理性など最初から持ち合わせていなかった。
熱が雛森の肉を焼き、骨を軋ませ、魂魄そのものを内側から引き裂いていく。それでも溢れ出した力は、壊れた身体を無理やり繋ぎ止めては、さらに大きな熱量を吐き出し続けた。
壊しながら、生かす。
主人がどれほど傷つこうとも、死ぬことだけは許さない。
そんな矛盾した情念をそのまま力へ変えたような爆炎に呑まれ、異形が初めて苦痛の咆哮を上げた。
炎は止まらない。
異形を焼き、大地を焼き、周囲に残されたものを片端から呑み込んでいく。すでに倒れていた十一番隊の隊士たちも、その炎にとっては例外ではなかった。
飛梅にも、もう止められない。
止め方など知らなかった。
それは主と斬魄刀が理解し合い、共に辿り着いた力などではない。
死を受け入れた主人と、それだけは絶対に認められなかった斬魄刀。
噛み合わない二人の情念を無理やり煮詰め、まだ未熟な魂へ押し込んだ結果として生まれ落ちた、あまりにも歪な卍解だった。
◇
雛森が意識を取り戻した時、最初に感じたのは全身を焼くような痛みだった。
「……はっ……ぁ……」
息を吸うだけで肺が軋み、指先を僅かに動かしただけでも、皮膚の下を熱した針が走るような痛みが全身へ広がる。
それでも、自分が生きていることだけは分かった。
死んだと思っていた。
いや、死ぬつもりだった。
どうして生きているのかも分からないまま、雛森は霞む視界で辺りを見回した。
あれほど空間を圧迫していた異形の姿は、どこにもない。その霊圧さえ跡形もなく消え、代わりに残されていたのは、焼け爛れた大地と立ち込める黒煙、そして鼻の奥へまとわりつく凄惨な焦げ臭さだけだった。
「……?」
足元に、黒いものが転がっていた。
最初は瓦礫かと思った。
けれど、その傍らに見覚えのある刀が落ちている。
視線をずらせば、また別の黒い塊がある。その近くには十一番隊の隊章と、わずかに焼け残った死覇装の切れ端。
「……あ」
理解した瞬間、喉がひきつった。
仲間だった。
つい先ほどまで同じ場所で戦い、大戦を生き延び、今日も共に任務へ出てきた十一番隊の隊士達。
異形に殺された彼らの亡骸を、自分の炎は焼いたようだ。
何が起きたのかは覚えていない。それでも、炭化した大地に残る自分自身の霊圧が、否定することを許してくれなかった。
異形は倒した。
その代わりに、自分の力は何ひとつ選ばず、敵も大地も、仲間の亡骸さえ同じように焼き尽くした。
連れて帰ることすらできない。
「……私が……」
刀が指から滑り落ち、焼けた地面に乾いた音を立てた。
膝から力が抜ける。
「違う……私、そんな……」
何が違うのか、自分でも分からなかった。
そんなつもりではなかった。
そもそも何をしたのかすら覚えていない。
けれど、自分の霊圧で焼かれた仲間達は、目の前にいる。
堪えていたものが崩れ、雛森の頬を涙が伝った。
その時、ふと片割れの名前が浮かぶ。
「……飛梅?」
返事がない。
雛森は顔を上げ、もう一度呼んだ。
「ねぇ、飛梅」
いつもなら答えてくれる。呆れた声でも、怒った声でも、呼べば必ずそこにいる。
けれど、いくら待っても何も聞こえなかった。
「……飛梅?」
刀を拾い上げ、柄を強く握る。意識を自分の内側へ向け、当たり前のようにそこにあった気配を探した。
どこにもいない。
「ねえ……返事してよ」
声が震えた。
何度名前を呼んでも、どれほど深く意識を潜らせても、返ってくるものは何ひとつなかった。
「飛梅……お願いだから……」
自分が死のうとした時、最後まで聞こえていたのは飛梅の声だった。
あれほど必死に自分を呼んでいた彼女がいない。
自分だけが、こうして生きている。
そこまで考えたところで、雛森はそれ以上考えることができなくなった。
「……ごめんなさい」
誰に向けた謝罪なのかも、もう分からない。
仲間たちなのか。
飛梅なのか。
それとも、自分を心配してくれていた人達なのか。
ただ、帰れないと思った。
自分だけが生き残り、仲間の亡骸すら焼いてしまった。
何をしたのかも分からない力を抱え、ただ一つの拠り所であった飛梅にもそっぽを向かれた。
どんな顔をして帰ればいい。
戻ったら、哀れな被害者として優しい言葉をかけられるのだろうか。
こんな自分が、どの面を下げて?
目の前に残された仲間達を、これ以上直視できない。
その時、視界の端で闇が揺れた。
異形がこじ開けた黒腔は、主を失ってなお完全には閉じず、歪な裂け目を現世に残していた。
その向こうにあるのが虚圏であることくらい、雛森にも分かっている。
行ってはいけない。
尸魂界へ帰り、仲間達のことも、あの異形のことも、自分に起きたことも、すべて始末をつけなければならない。
死神として当然の義務だった。
しかし今の雛森には、その当然を選ぶだけの余裕がなかった。
背後には、帰るべき世界がある。
目の前には、何が待っているかも分からない闇がある。
雛森は、震える足で立ち上がった。
覚悟でも決意でもない。
どこでもいい。誰もいない所へ逃げたい。
誰も自分を知らず、自分が傷つかない場所へ、逃げてしまいたい。
雛森は地面に落ちた刀を拾い、ふらつく足で黒腔へ向かった。
その手前で一度だけ足を止める。
「……飛梅」
最後に、もう一度だけ名前を呼んだ。
それでも、返事はなかった。
卑屈な笑いを浮かべて、雛森は刀をかろうじて落とさないように、僅かに力を込めた。
そしてそのまま振り返ることなく、逃げるように漆黒の闇へ足を踏み入れた。