雛森桃が、虚圏で少しずつ生きることを覚え始めた頃。
瀞霊廷もまた、長い戦火の傷から、緩やかに立ち直ろうとしていた。
崩れた隊舎には新しい壁が立ち、焼け焦げた街並みは少しずつ白く塗り直されていく。失われたものはあまりにも多かったが、それでも人々は日々の営みを取り戻し、ようやく平穏だった日常が戻り始めていた。
だが、大戦が終わったからといって、死神達の戦いまで終わったわけではない。
とある任務。現世へ派遣された十一番隊の一隊が、壊滅する事件があった。
任務地に出現したのは、異常値の霊圧を放つ異形。現場には凄惨な戦闘の痕跡が残され、派遣された隊士達の霊圧は、そこで消失していた。遺体すら満足な形で残らなかった者も多い。あの大戦を生き延びた猛者達が、誰一人として帰ってこなかった。
ただ、その中に一人だけ、「死」を確認できない者がいた。
雛森桃。五番隊副隊長の任を退き、十一番隊へ籍を移していた死神。
彼女の霊圧だけが、戦闘のあった中心地から僅かに離れた地点まで続いていた。その先に残されていたのは、異形によって無理やりこじ開けられた、虚圏へと通じる黒腔の痕跡。そこで、雛森の足取りは途絶えた。
技術開発局による大規模な捜索が行われた。霊圧探知網を広げ、断界に至るまで可能な限り痕跡が追われたが、雛森だけは見つからなかった。黒腔の付近に残された、闇に掻き消されかけた僅かな霊圧の残滓。それが、最後だった。
生存を示すものはない。死亡を確定させるものもない。
異形の虚に飲み込まれたのか。断界のどこかで消滅したのか。黒腔へ呑まれ、その先に広がる砂の海へ落ちたのか。あるいは、誰にも追えない場所を今も彷徨っているのか。何一つ、分からない。
他の隊士達は死んだ。その死を悼み、弔うことができた。だが雛森桃だけは、その死を悼むことさえ許されなかった。
それから、一年と少しが過ぎた。
生きていると信じ続けるには長く、死んだと諦めるには希望を捨てきれない。
残された者達の心がどちらにも傾ききれないまま揺れ続けるにはちょうどいい時間だった。
虚圏で傷だらけになりながら刀を握り、ひたすら強さを磨く事だけを覚え始めた彼女のことなど、誰も知らない。
◇
普段なら、隊士達の怒号や木刀のぶつかる音が絶えない十一番隊の演練場。その日は珍しく、人の姿がなかった。
かつて雛森が十一番隊へ移って間もない頃、鬼道を得意とする元副隊長がやって来たと遠巻きに眺め、好き勝手に囃し立てていた隊士達。その中にも、雛森が最後に参加した現世での任で死んだ者がいる。
一度に何人もの隊士を失ったといえど、少し経てばいつもの姿へ戻っている。
死んだ者の席には別の者が座り、欠けた戦力は補充された。今日ここに誰もいないのも、ただ偶然そういう時間だったというだけで、しばらくすればまた誰かが木刀を担いで現れ、殴り合いを始めるのだろう。十一番隊は、死者のためにいつまでも立ち止まるような隊ではない。
死線に出れば誰かが死ぬ。残った者はまた戦う。それがこの隊の鉄則であり美徳だった。
それでも、いなくなった者が存在しなかったことになるわけではない。
演練場を見下ろす場所に、松本乱菊は一人立っていた。
「――雛森。あんた、どこで何してんのよ」
以前なら、もう少し軽い言葉を続けていただろう。
帰ってきたら一杯奢らせよう、とか。隊長がうるさいからいい加減戻ってきなさいよ、とか。
そんな軽口を一つ零して、やりどころのない感情を切り替えていた。
けれど最近はもう、重さを隠し切れない本音しか出てこない。
乱菊は何もない演練場を見つめながら、あの頃のことを考える。
正しいと思っていた。藍染のことで深く傷ついた雛森に、無理に踏み込むべきではない。話したくないことを聞き出すよりも、本人が自分から立ち上がるまで、いつも通り振舞って待っていた方がいい。
だから、待った。五番隊を離れると聞いた時も、十一番隊へ移った後も。戦いばかりを求め、ろくに休もうとしなくなってからも、心配しながら、最後のところでは雛森自身の「意思」を尊重した。
それが間違っていたのかどうか、分からない。
無理にでも引き止めるべきだったのかもしれない。嫌われても、もっと踏み込むべきだったのかもしれない。あの日、任務へ向かう雛森の背中を掴んで、どこにも行かせなければよかったのかもしれない。あるいは、何をしたところで――あの藍染惣右介という男の残した傷跡の前では、何を選択したところで同じだったのかもしれない。
考えたところで、答えは出なかった。答えを持っている本人が、どこにもいないのだから。それでも、考えずにはいられなかった。
「……帰ってきなさいよ」
風が、誰もいない演練場を抜けていく。返事はない。ただ、乾いた砂埃だけが足元を転がっていった。
乱菊はしばらくそこに立ったまま、もう誰もいない場所に、一年前、戦場に向かう少女の背中を思い出していた。
◇ ◇ ◇ ◇
――いつから、それはそこにあった?
流魂街外縁。
瀞霊廷から遠く離れたその一帯は、昔から治安が悪かった。
人が消えることも珍しくない。だから最初は、誰も気にしなかった。
一人。また一人。住人が姿を消す。
「またか」それだけだった。
だが、奇妙なことに、誰も死体を見つけない。
血もない。争った跡もない。
家財を残したまま消えた者もいれば、近所へ出かけると言ったきり戻らない者もいた。まるで、その場所で生きることをある日突然やめて、どこかへ引っ越してしまったかのように。
実際、その認識はそれほど間違っていなかった。
彼らは死んでいない。少し離れた場所で、今も普通に暮らしている。
ただ、その場所へ辿り着くことが難しかった。
荒野を歩いても、そこにあるのは砂と岩、ところどころに残る古びた廃屋ばかり。霊圧を探っても、流魂街に無数に存在する魂魄の気配が曖昧に重なり、特定の何かとして捉えられない。
道を知る者は、いつの間にか辿り着く。知らない者は、いつの間にか通り過ぎる。
それだけなら、まだ理解できた。
だが。
本来なら、それで済む話ではない。
流魂街外縁とはいえ、瀞霊廷はこれまで数え切れないほど異変を察知し、調査し、対処してきた。人が相次いで姿を消し、正体不明の建造物が存在し、それでも長期間何事もなかったように放置されるなど、決して看過されない。
にもかかわらず。その異常だけは、なぜかいつも後回しになった。
「そのうち調べればいい」
「急ぐほどではない」
「他にも案件はある」
誰も命じられたわけではない。それでも、誰もがどこかでそう判断してしまう。そうして今日まで、その異常は見過ごされ続けていた。
その中心に、白い建造物があった。
砦とも、屋敷とも、街とも呼べない、不思議な建築物。
新しくやって来た者には空いている部屋が与えられる。誰かが増えれば部屋も増えた。廊下が伸び、階段が増える。白い壁は少しずつ外へ広がり、建物は生き物のように静かに成長を続けていく。
そうして長い時間をかけ、誰にも止められることなく、それは育っていた。
だが。ある日、その変化は隠しきれなくなる。
流魂街の男が、いつもと変わらぬ道を歩いていて足を止めた。
「……なんだ、あれ」
遠く。何もなかったはずの荒野に、白い壁が見えた。
昨日まではなかった。少なくとも、男はそう思った。
近づいてみる。壁だった。窓がある。建物だった。
「こんな所に……?」
翌日、別の者もそれを見た。その次の日には、もっと多くの者が。そして、ある者が口にした。
「昨日より、少しだけ大きくないか?」
噂が広がった。白い建物。消えた人間。日に日に増えていく壁。
やがてその噂は、瀞霊廷まで届いた。
最初の調査隊が派遣された。――戻らない。
二班。――戻らない。
三班。――やはり戻らない。
ここに至って、ようやく事態は「流魂街でよくある失踪」では済まなくなった。
「隠密機動を出せ」
本格的な調査が始まった。
その『コロニー』はもう、隠れて暮らせる大きさをゆうに越えていた。