さて、ここは異界の内側。
流魂街外縁に、いつの間にか姿を現した白い建造物。
その内部を、一人の死神が刀を抜いたまま慎重に進んでいた。
調査に入った隊士達は、誰一人として帰ってこない。
未知の虚、あるいは未知の能力。それ以外に考えられなかった。
(……何かある)
霊圧を極限まで抑え、息を殺して廊下を進む。
白く磨き上げられた床。壁際には棚が置かれ、誰かが使った食器や、脱ぎっぱなしの上着まで残されている。
妙だった。
虚の巣にしては、あまりにも生活臭がある。
それも、つい先ほどまで誰かがここを歩いていたような、生々しい日常の痕跡だった。
警戒を解かないまま、角を曲がる。
その瞬間。
「お前、食いすぎだろ」
「いいだろ別に」
「控えめに言ってデブだろ」
「もっと控えろ」
笑い声が聞こえた。
隊士の足が止まる。
悲鳴ではない。助けを求める声でもない。
ごく普通の、くだらない会話だった。
刀を握り直し、壁際から恐る恐る奥を覗く。
そこには、大きな食堂があった。
長机がいくつも並び、皿や椀から湯気が立っている。
誰かが笑えば、その隣の誰かが呆れ、向かいでは別の誰かが料理を取り分けていた。
その中に、見覚えのある死覇装があった。
「……な」
先に調査へ入った隊士達だった。
生きている。拘束されてもいない。
怪我をしている様子すらなく、普通に飯を食っている。
それだけではない。
流魂街から消えたとされる住民達もいた。
そして、その隣には。
白い仮面。――虚がいた。
死神の隣で大口を開けて笑い、流魂街の住民から椀を受け取り、そのまま何事もなくスープをすすっている。
黒い死覇装と、白い仮面。
本来なら、出会った瞬間に命を懸けて斬り結ぶはずの存在が、同じ長机を囲んで食事をしている。
誰も争わない。誰も怯えていない。虚の目からは、あの飢えすら消えていた。
あまりにも異様な光景に、隊士は無意識に刀を握り直した。
「……何だ、ここは」
「あ、新しい人?」
真後ろから声がした。
「――ッ!」
反射的に飛び退き、振り向きざまに刀を構える。
そこに、一人の男が立っていた。
胸元に残された、白い骨の装飾。破面。
その事実を認識した瞬間、隊士の全身が強張った。
だが、その男は。
「ああ、ごめん。驚かせたね」
困ったように笑った。
どこにでもいそうな、人の良さそうな中年男だった。
「迷うよね、ここ」
男は頭を掻きながら周囲を見渡す。
「みんなの部屋を作ってたら、ちょっと広げすぎちゃって」
何を言っている?
隊士には、それすら分からなかった。
目の前にいるのは破面だ。
かつて瀞霊廷を震撼させた存在と同じものが、こちらを襲うでもなく、まるで増築した自宅を少し自慢でもしている家主のような顔で笑っている。
理解が追いつかないまま、それでも本能だけが刀を男へ向けさせた。
「……なんだ、お前は」
「あぁ、うん」
男は刀を向けられても、慌てる様子すらなかった。
「普通、そうなるよね」
怒りもしない。警戒もしない。
まるで、越してきたばかりの隣人に話しかけるような口調だった。
「……仲間は」
「たぶん、その辺にいるんじゃないかな。疲れてそうだったからね。とりあえず、ご飯でも食べてもらおうと思って」
男は思い出したように食堂を指差した。
隊士は、しばらく何も言えなかった。
ようやく絞り出した声は、自分でも分かるほど硬かった。
「……何をした」
「え?」
男が目を瞬く。
とぼけている。そう思った。
だが、その顔を見ているうちに、別の気味悪さが背筋を這った。
違う。
この男は、本当に質問の意味が分かっていない。
何を疑われているのかすら理解できないような顔で、男は困ったように首を傾げた。
案内された食堂には、行方不明になっていた隊士達がいた。
怪我はなく衰弱している様子もない。
それどころか、最後に見た時よりも穏やかな顔で食卓を囲んでいた。
そこにいるのは、隊士達だけではなかった。
小さな虚もいれば、見上げるほど大きな虚もいる。白い仮面の名残を残した破面がいて、その向かいには死覇装を纏った席官が座っている。
誰もそれをおかしいとは思っていない。
強さも、種族も、立場も。ここでは、そんなものは食事の席を分ける理由にはならないらしい。
「おい!」
隊士はたまらず声を上げていた。
「何やってる! お前ら!」
食事をしていた仲間達が、一斉にこちらを見る。
何を言われたのか分からないように顔を見合わせ、やがて一人が小さく笑った。
「落ち着けって」
「お前も座れよ。悪くないぞ」
「こいつら良い奴だし、戦う必要ねえから」
隣にいた虚を親指で示し、別の隊士が笑う。
まるでおかしいのが自分の方であるかのように、自然な態度だった。
命令されている様子も、怯えて従っている様子もない。助けを求める視線すらない。
皆が、自分の意思でここでこうしている。そうとしか見えない。
気味が悪かった。
「ユートピー!」
食堂の奥から声が飛んだ。
「また勝手に通路増やしただろ!」
「部屋まで遠くなったじゃねぇか!」
「え?」
男――ユートピーは、何を怒られているのか分からない様子で振り返った。
「便利じゃない? トイレに行きやすくなったでしょ」
「便利じゃねぇ! 補給路潰れてんだよ!」
「昨日まで真っ直ぐ行けたんだぞ!」
「すぐ戻せ!」
「あ、いや……でも便利で……あ、うん。分かったよ。ごめんごめん」
怒鳴られても気を悪くする様子はない。
困ったように笑いながら頭を下げ、近くの壁へ手を触れる。
白い壁が、脈打った。
低い振動が足元を伝い、壁がゆっくりと沈み込む。
その向こうで別の壁がせり上がり、廊下そのものが生き物のように形を変えていった。
隊士は息を呑んだ。だが、驚いたのは自分だけだった。
「つうかトイレまでもそんな変わんねえだろ」
「次から増やす前に教えて」
「うん。絶対便利だったけど気をつけるよ」
「折れねえなこいつ」
どうやら、これも日常らしい。
その後もユートピーは忙しそうに食堂を歩き回っていた。
足りなくなった料理を運び、空いた皿を片付ける。
子供達が喧嘩を始めれば間に入り、また別の住民から何かを頼まれ、さっき直したばかりの通路についてもう一度文句を言われる。
そのたびに困ったように笑って、謝って、また誰かのところへ向かっていく。
そこにいたのは、王でもなければ支配者でもなかった。
住民から敬われている様子すら、あまりない。
世話を焼いて、余計なことをして怒られて、それでもなんだかんだと頼られている。
少しばかり住民に舐められた、愛される管理人。
そんな男だった。
(……普通だ)
そう思った瞬間。
隊士の背筋を、冷たいものが這った。
普通なのだ。あまりにも。
死神と虚が同じ机を囲んでいることを除けば、ここにあるものは何もかもが穏やかだった。
戦後の復興に追われる尸魂界よりも。毎日のように誰かが消え、誰かが死ぬ流魂街よりも。ここにいる方が、ずっと。
だから、誰も疑わない。
以前より笑うようになったことを。怒鳴ることが減ったことを。隣にいる虚を恐れなくなったことを。
...そして。
ここへ来た者の中に、そして自分の中に、「帰りたい」と願う気持ちが薄れていくことを。
◇
食堂を出たユートピーは、一人、静かな廊下を歩いていた。
先ほどまでの喧騒は遠ざかり、白い壁の向こうから住民達の笑い声だけが微かに聞こえてくる。
誰もいない場所まで来ると、ユートピーは足を止めた。
白い壁へ、そっと手を添える。
どくん。
鼓動が返ってきた。
足元から天井まで、建物全体が一つの巨大な生き物のように脈打つ。
壁の奥を淡い光が走った。一本。二本。
それは枝分かれしながら無数の脈となり、廊下を越え、部屋を越え、先ほどの食堂をも越えて、白い世界の隅々へと広がっていく。
ユートピーはその感触を確かめるように目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……また少し、大きくなっちゃったねぇ」
困ったように頬を掻く。
増えた部屋。伸びた廊下。新しく迎えた住民達。そのすべてが、彼の内側にある。
ユートピーはしばらく壁を撫でていたが、やがて少しだけ困ったように眉を下げた。
「この名前、あんまり好きじゃないんだけどな」
帰刃。
破面が、自らの本来の姿へと還るもの。
ならばユートピー・コモンズにとっての本来の姿とは何なのか。
人の良さそうな中年男ではない。白い骨を残した破面でもない。
住民達が食事をし、眠り、笑い、時には喧嘩をする。
廊下が伸び、部屋が増え、新たな誰かを迎え入れる。
この白い世界。住民達が『コロニー』と呼ぶ、この場所こそが。
ユートピー・コモンズという虚の、本来の姿だった。
静かに目を閉じる。
「――堕とせ」
その声は、命令というよりも、親しい誰かへ呼びかけるように穏やかだった。
壁を可愛がるように、掌で優しく撫でる。
「『転獄(ディストピア)』」
どくん、と。
白い世界が胎動した。