第01話 ようこそ高度育成衛士高校へ
人類が地球の支配者ではなくなってから、すでに長い年月が経過している。
かつて大陸に存在していた無数の都市は地図から消えた。
国境も、文化も、歴史も。
地表を埋め尽くす異形の群れによって、等しく踏み潰された。
人類は彼らを、BETAと呼んだ。
Beings of the Extra Terrestrial origin which is Adversary of human race。
人類に敵対的な地球外起源種。
意思疎通は成立しない。
降伏もない。
交渉もない。
ただ地上へ現れ、人間の築いたものを破壊し、進み続ける。
現在、人類が生存圏として維持できている地域は限られている。
日本も例外ではなかった。
帝都東京は、多重防衛線と戦術機部隊によって辛うじて守られている。
東京湾沿岸部には巨大な防壁が築かれ、
埋立地の各所には砲台、監視塔、地下格納庫が並んでいた。
かつて観光客で賑わっていた湾岸地域は、今では首都防衛の最前線だ。
その東京湾に浮かぶ巨大な人工島。
外周を高い防壁で囲まれ、島内に学校、居住区、
演習場、軍港、滑走路、戦術機格納庫を備えた特殊教育施設がある。
高度育成衛士高等学校。
将来、日本を背負う衛士を育てるために設立された、全寮制の国立教育機関。
卒業生には進学も就職も保証される。
正確には、卒業できれば、だが。
オレ――綾小路清隆は、その学校へ向かう軍用バスの最後列に座っていた。
窓の外には灰色の海が広がっている。
東京湾を横断する専用橋梁の両側には、
巨大な防潮壁と対BETA障害物が延々と並んでいた。
一定間隔で配置された無人砲台が、海面と空を監視している。
そのさらに向こう。
薄い雲の切れ間から、帝都の高層建築群が見えた。
戦争が始まる以前の東京を、オレは知らない。
資料映像で見たことはある。
空を埋める旅客機。
観光船。
夜になると無数の光を放つ街。
現在の東京湾に飛ぶ航空機の大半は軍用機であり、
海上を進む船も輸送艦や哨戒艇ばかりだった。
バスの車内には、オレと同じ制服を着た新入生が乗っている。
誰もが多少なりとも緊張していた。
当然だろう。
この学校へ入学するということは、
戦術機衛士になる可能性を受け入れたということだ。
衛士とは、戦術歩行戦闘機――通称、戦術機を操縦してBETAと戦う兵士を指す。
人型兵器の操縦者。
人類防衛の英雄。
子供向けの宣伝番組では、そう紹介される。
実際には、生存率の低い最前線兵士だ。
軍はその事実を積極的には語らない。
語らなくても、大半の人間は知っている。
オレの隣の座席に、黒髪の少女が座っていた。
背筋を伸ばし、端末に表示された学校案内を無言で読み続けている。
周囲の生徒とは一切会話を交わそうとしない。
顔立ちは整っているが、近づきやすい雰囲気ではなかった。
「何か用かしら」
視線を向けていたことに気づいたらしい。
少女は端末から目を離さずに言った。
「いや」
「そう」
会話はそれだけで終わった。
しばらくして、バスは人工島へ続く検問所へ到着した。
銃を携えた警備兵が乗車し、全員の身分証を確認していく。
バスの床下には爆発物検知装置が走り、車体の周囲を小型無人機が旋回した。
学校へ入るだけとは思えない警備だ。
もっとも、この人工島には衛士候補生だけでなく、
最新鋭戦術機の試験設備や軍事機密も集められている。
当然の措置ともいえる。
検問を抜けると、巨大な防壁の一部が左右へ開いた。
その先に高度育成衛士高校の全景が現れる。
中央には校舎と学生寮。
東側には陸上演習場。
西側には軍港と補給施設。
そして北部には、何棟もの巨大な格納庫が並んでいた。
格納庫の前を、多数の整備車両が行き交っている。
開かれたハンガーの中に、人型の巨大な影が見えた。
戦術機。
距離があるため機種までは判別できない。
それでも、初めて実物を見る生徒たちには十分だった。
車内のあちこちから、息を呑む音が聞こえる。
「すげぇ……」
前方の座席にいた赤髪の男子生徒が窓へ身を乗り出した。
大柄で、制服の上からでも鍛えられた体格が分かる。
「おい、見ろよ!本物の撃震だ!」
「座ってください」
車内放送から機械的な声が流れた。
男子生徒は舌打ちしながら席へ戻る。
隣の黒髪の少女は、呆れたように小さく息を吐いた。
「騒がしい人ね」
「知り合いか?」
「違うわ」
少女はようやく端末を閉じた。
「ただ、ああいう人間と同じクラスにならないことを願っているだけ」
その願いは、おそらく叶わないだろう。
根拠はない。
だが、なぜかそう思った。
バスは校舎前で停止した。
新入生たちは案内表示に従い、巨大な講堂へ移動する。
講堂には一学年分の座席が用意されていた。
正面には大型スクリーン。
左右には日本国旗と高度育成衛士高校の校旗。
校旗の中央には盾を模した校章が描かれている。
盾の内側には、交差する翼と剣。
さらにその中心には、小さなチェスのキングを思わせる意匠があった。
後にクラスルーム中隊の象徴となる図柄だが、この時のオレたちはまだ知らない。
指定された席へ向かう。
オレはDクラスだった。
先ほどの黒髪の少女も同じ列へ座る。
赤髪の男子もいる。
どうやら予想は当たったようだ。
「最悪ね」
少女が呟いた。
「何がだ?」
「独り言よ」
Dクラスの生徒たちは、全体的に落ち着きがなかった。
入学初日から大声で話す者。
椅子へ深く座り、退屈そうに欠伸をする者。
周囲の女子へ積極的に声をかける者。
一方、前方に座るAクラスの生徒たちは静かだった。
整列も早く、教官が指示を出す前から端末を机上へ揃えている。
クラス分けに何らかの基準があることは明白だ。
だが、その基準は事前に説明されていない。
やがて講堂の照明が落とされた。
ざわめきが静まる。
壇上へ、一人の男性が姿を現した。
坂柳成守。
高度育成衛士高校の理事長であり、この人工島全体の司令官。
軍服ではなく、落ち着いた色のスーツを着ている。
軍人らしい威圧感はない。
むしろ学校の式典に現れた温厚な教育者に見えた。
坂柳理事長は演台の前に立ち、新入生全体をゆっくりと見渡した。
「皆さん。高度育成衛士高等学校への入学、おめでとうございます」
穏やかな声だった。
しかし、広い講堂の隅々まで明瞭に響いた。
「皆さんはこれから三年間、この島で学びます。
通常の教科だけではありません。戦術、体力、精神力、連携。
そして戦術機の操縦技術を学んでもらいます」
大型スクリーンに戦術機部隊の映像が流れた。
荒野を跳躍する不知火。
海岸線へ降下する撃震。
砲撃を続けながら後退する陽炎。
映像の奥には、無数のBETAが押し寄せている。
訓練映像ではない。
実戦記録だ。
「皆さんの中には、衛士になることを夢見て入学した方もいるでしょう。
家族を守るために来た方もいる。将来が保証されるという理由で、
この学校を選んだ方もいるかもしれません」
一部の生徒が気まずそうに目を逸らした。
「理由は何でも構いません」
坂柳理事長は否定しなかった。
「最初から立派な覚悟を持つ必要はありません。
恐怖を感じることも、迷うことも、逃げたいと思うこともあるでしょう。
それは人間として自然なことです」
スクリーンの映像が切り替わる。
戦闘を終えた衛士たちが、損傷した戦術機から降りてくる。
互いの肩を支えながら歩く者。
帰還した仲間を迎える整備兵。
静かに敬礼する指揮官。
「この学校は、皆さんに命を捨てる方法を教える場所ではありません」
坂柳理事長の声が、わずかに強くなった。
「生きて帰る方法を教える場所です」
講堂の空気が変わった。
「一人で生き残るのではありません。隣にいる仲間と共に帰る。
そのための知識と力を身につけてください」
オレの隣に座る少女が、僅かに顔を上げた。
赤髪の男子も、先ほどまでとは違い、黙って壇上を見ている。
「皆さんには、多くの失敗を許します。
訓練で失敗してください。迷ってください。時には衝突しても構いません」
坂柳理事長は少し微笑んだ。
「ただし、自分自身を見限ることだけは許しません」
その言葉には、不思議な重みがあった。
威圧しているわけではない。
声を荒らげてもいない。
それでも、聞き流すことはできなかった。
「三年後、皆さんがどのような道を選ぶかは分かりません。
しかし私は、ここにいる全員が無事に卒業することを願っています」
一度言葉を切る。
「ようこそ、高度育成衛士高等学校へ」
拍手が起こった。
最初はまばらだったが、すぐに講堂全体へ広がった。
オレも周囲に合わせて手を叩く。
坂柳理事長は一礼し、壇上を降りた。
その直後だった。
別の女性が壇上へ上がる。
長い髪。
鋭い視線。
先ほどまでの穏やかな雰囲気が、一瞬で消えた。
女性は演台のマイクを使わずに言った。
「Dクラスの者は、式典終了後も残れ」
声は大きくない。
だが、反論を許さない響きがあった。
「私はDクラス担任兼戦術教官の茶柱佐枝だ」
赤髪の男子が小声で呟く。
「怖ぇ……」
「聞こえているぞ、須藤」
「なんで名前知ってんだよ」
「入学前の資料に目を通す程度の仕事はしている」
茶柱は冷たい目で須藤を見た。
まだ式典は終了していない。
それでもDクラスだけは、すでに教官へ目をつけられていた。
式典後。
他クラスの生徒たちが講堂から退出する中、Dクラスの生徒だけが残された。
茶柱は出席簿を片手に、ゆっくりと列の前を歩く。
「最初に言っておく。この学校では、お前たちを子供として扱わない」
誰も口を挟まない。
「数年後には戦場へ立つ可能性がある。
敵はお前たちが未成年だからといって攻撃を止めない。
疲れているから待ってくれることもない。泣けば見逃してくれることもない」
先ほどの坂柳理事長とは対照的だった。
理事長が生徒を支える言葉を選ぶなら、茶柱は現実を突きつける。
「衛士に必要なのは、勇敢さだけではない。命令を理解する頭。
仲間へ合わせる協調性。恐怖に耐える精神。自分の失敗を認める冷静さ。
そのどれかが欠ければ、お前だけでなく周囲も危険に晒す」
茶柱の視線が須藤へ向いた。
「特に、能力があれば規則を無視していいと考える人間は不要だ」
「なんで俺を見るんだよ」
「心当たりがあるからではないのか?」
「ねぇよ」
「なら黙っていろ」
須藤は不満そうに腕を組んだ。
別の男子生徒が笑いを堪えている。
茶柱はそちらへ視線を動かす。
「池」
「はい!」
「何がおかしい」
「何もおかしくありません!」
「そうか」
茶柱は再び歩き始めた。
「午後から適性検査を行う。体力、判断力、平衡感覚、
空間認識能力、機体制御への反応速度。成績はすべて記録される」
女子生徒の一人が手を上げた。
明るい髪色で、親しみやすそうな表情をしている。
「質問してもいいですか?」
「名前は」
「櫛田桔梗です」
「質問を許可する」
「今日から戦術機に乗るんですか?」
期待と不安が混ざった声だった。
「乗る」
クラスがざわつく。
「ただし実機ではない。まずは基礎シミュレーターだ。
そこで一定の成績に達しない者を実機へ乗せることはない」
「一定の成績に達しなかった場合は?」
櫛田は続けて尋ねた。
「達するまで訓練する」
「ずっと達しなかったら?」
「衛士課程から外れる」
茶柱は平然と答えた。
「この学校には情報分析、整備、管制、医療、兵站といった別課程もある。
戦術機に乗ることだけが人類への貢献ではない」
合理的な説明だった。
だが、多くの生徒は自分が衛士候補から外れる可能性を考えていなかったのだろう。
表情が硬くなる。
「ただし」
茶柱が言葉を続けた。
「諦めるかどうかを決めるのは、検査結果ではない。お前自身だ」
その一言だけは、坂柳理事長の言葉と似ていた。
講堂を出たオレたちは、教官の案内で学生寮へ向かった。
男子寮と女子寮は別棟。
部屋は原則として一人部屋だった。
個室にはベッド、机、収納、簡易端末。
生活に必要な最低限の設備が揃っている。
壁面には緊急時の避難経路と、対BETA警報の種類が表示されていた。
青は訓練。
黄色は周辺警戒。
赤は実戦配備。
黒は施設放棄。
黒色警報が発令された場合、
教職員の指示を待たずに地下避難区画へ移動しなければならない。
荷物を置いた直後、端末に通知が届いた。
午後の適性検査。
指定時刻まで二十分。
オレは部屋を出た。
廊下へ出ると、先ほどの黒髪の少女が女子寮側から続く連絡通路を歩いてきた。
目が合う。
「またあなたなのね」
「同じクラスだからな」
「そういう意味ではないわ」
少女はオレの横を通り過ぎようとした。
「名前を聞いていなかった」
そう声をかけると、僅かに足を止めた。
「堀北鈴音」
「綾小路清隆だ」
「そう」
堀北はそれ以上の興味を示さなかった。
二人で並んで歩く。
会話はない。
しかし目的地は同じだ。
適性検査場は、校舎ではなく北部格納区画の隣にあった。
巨大な円形建造物。
内部には無数の訓練用シミュレーターが並んでいる。
一基ごとに戦術機の管制ユニットを模した操縦席が設置され、
周囲を投影装置が囲んでいた。
クラスの生徒たちは、それぞれ割り当てられた機体番号の前へ立つ。
須藤は興奮を隠せない様子で操縦席を見上げている。
「これ、マジで動くんだよな?」
「シミュレーターだけどね」
池が答える。
「それでもすげぇよ。俺、戦術機の操縦とか絶対才能あると思うんだよな」
「根拠は?」
近くにいた少女が冷たく言った。
堀北だ。
須藤が顔をしかめる。
「運動神経がいい」
「戦術機は腕力だけで動かすものではないわ」
「やってみなきゃ分かんねぇだろ」
「だから今から分かるのよ」
開始前から空気が悪い。
茶柱が手を叩いた。
「全員、搭乗しろ」
操縦席へ座る。
正面のハッチが閉じ、外部の光が遮断された。
暗闇。
数秒後、各種モニターが起動する。
網膜投影装置が視界と同期し、周囲に仮想空間が形成された。
頭部へ装着したセンサーが、視線、脳波、筋肉の動きを読み取っている。
『聞こえるか』
茶柱の声が通信回線から流れた。
「聞こえる」
『返答は簡潔にしろ。まずは管制ユニットへの適応を確認する。
気分が悪くなった場合は即座に申告しろ。無理をしても評価は上がらない』
視界の中央に、機体情報が表示された。
訓練用戦術機、吹雪。
実際の操縦系統を忠実に再現した教育用シミュレーター。
左右の操縦桿へ手を置く。
フットペダルへ足を乗せた。
『機体を起動しろ』
指示に従う。
主機始動。
姿勢制御。
各部接続。
視界が切り替わる。
オレは広大な演習場の中央に立っていた。
正確には、戦術機の視点で立っている。
地上まで十数メートル。
遠くに訓練用の建築物と障害物が並んでいる。
同じDクラスの機体も、周囲に表示されていた。
『まず歩行から開始する』
茶柱の指示と同時に、進行方向を示すラインが地面へ現れる。
左足を前へ。
続いて右足。
人間の歩行とは違う。
戦術機の重心、関節可動域、慣性を理解しなければ、すぐに姿勢を崩す。
開始から数秒。
右前方の機体が大きく傾いた。
池の機体だ。
両腕を振り回しながら、仰向けに倒れる。
地面が揺れた。
シミュレーターでなければ、機体の整備班が頭を抱えていただろう。
『池。開始十二秒で転倒した記録は残しておく』
「ちょ、ちょっと待ってください!今のは操作が――」
『言い訳を記録に追加するか?』
「いえ、結構です!」
別方向では須藤の機体が勢いよく前進していた。
歩くというより走っている。
『須藤、速度を落とせ』
「問題ねぇ!」
次の瞬間。
曲がり切れずに障害壁へ肩から衝突した。
コンクリート製の壁が派手に砕ける。
もちろん仮想空間上の演出だが、衝撃は操縦席へ再現される。
「ぐおっ!」
『命令無視、速度超過、機体損傷。見事な初操縦だ』
茶柱の声には一切の感情がなかった。
堀北の機体は安定していた。
慎重に足を運び、指示されたラインからほとんど外れていない。
他の多くが機体の大きさに振り回される中、
彼女は初回としては高い適応力を示している。
オレも指定された速度で進む。
難しくはない。
戦術機の動きには僅かな遅延がある。
操縦入力を行い、機体側が処理し、各関節へ命令を伝達する。
大半の候補生は、自分の身体を動かす感覚で入力するため、
遅延へ対応できずに過剰操作を起こす。
機体が傾いたのを見てから修正していては遅い。
重心が移動する前に、次の入力を準備すればいい。
歩行。
方向転換。
後退。
障害物回避。
一通りの課題が進む。
茶柱からオレへの指摘はなかった。
『次は跳躍ユニットを使用する』
空気が変わった。
戦術機最大の特徴。
背部と脚部に装備された跳躍ユニットによる高速機動。
戦術機は飛行機ではない。
長時間飛び続ける能力は持たない。
噴射跳躍によって短時間だけ地表を離れ、高速で戦場を駆け抜ける。
扱いを誤れば、着地だけで機体を失う。
仮想演習場に複数の目標地点が表示された。
『一番近い地点へ跳べ。高度は十メートル以下。速度制限を守れ』
機体を僅かに沈み込ませる。
跳躍ユニット始動。
背後で噴射音。
景色が一気に後方へ流れた。
地面が離れる。
操縦席へ加速度が再現される。
機体の姿勢を前傾。
出力を絞る。
着地点へ脚を向ける。
接地。
衝撃を膝部で吸収する。
問題はない。
周囲では何機かが着地に失敗していた。
前のめりに倒れる機体。
跳躍出力が足りず、目標地点へ届かない機体。
逆に出力を上げすぎ、遥か先へ飛んでいく機体。
須藤の機体は着地こそ荒かったが、倒れずに耐えた。
運動感覚そのものは優れているらしい。
堀北も成功している。
着地時に僅かに姿勢を崩したが、すぐに立て直した。
『次は自由移動だ。三分間、指定された区域内を動け。
ただし他機との接触は禁止する』
演習場の制限が解除された。
生徒たちは思い思いに機体を動かし始める。
歩く者。
走る者。
跳躍を繰り返す者。
オレは周囲の動きを確認しながら、速度を上げた。
跳躍。
着地と同時に方向転換。
再跳躍。
建築物の間を抜ける。
戦術機の感覚は、人間の身体とはまったく違う。
十数メートルの巨体。
数十トンの重量。
それでも操縦系統へ適応すれば、自分の手足に近い感覚で動かせる。
視界の端に堀北機が映った。
こちらの動きを追っている。
速度を落とす。
目立つ必要はない。
高すぎる成績は注目を集める。
この学校へ来た目的は、平穏な学生生活を送ることだ。
少なくとも、今はそう考えている。
『綾小路』
茶柱に名前を呼ばれた。
「何だ」
『なぜ速度を落とした』
監視されていたらしい。
「他機との接触を避けるためだ」
『そうか』
茶柱はそれ以上追及しなかった。
だが、完全に納得したわけではないだろう。
三分後、自由移動が終了した。
続いて反応速度検査。
複数方向から現れる仮想標的を捕捉し、訓練弾で撃破する。
最初は静止標的。
次は移動標的。
最後は複数同時。
オレは平均より少し上の成績に調整した。
速すぎず。
遅すぎず。
不自然にならない範囲。
検査終了の表示が出る。
操縦席のハッチが開き、外の光が差し込んだ。
生徒たちが次々と降りてくる。
池は床へ座り込んでいた。
「気持ち悪い……」
「最初から調子に乗るからよ」
櫛田が苦笑しながら水を渡している。
須藤は悔しそうにシミュレーターを睨んでいた。
「もう一回やらせろ。次は絶対うまくやれる」
「本日の検査は終了だ」
茶柱が告げる。
「明日から毎日乗れる。嫌になるほどな」
須藤は黙った。
堀北がこちらへ歩いてくる。
「綾小路くん」
「何だ」
「あなた、経験があるの?」
「戦術機の操縦経験はない」
嘘ではない。
実機へ乗った経験はない。
「そう」
堀北は納得していない様子だった。
「途中まで、あなたの機体は明らかに他の生徒とは違っていた」
「偶然だろう」
「戦術機は偶然で動かせないわ」
「初日で断定できることでもない」
「それもそうね」
堀北は引き下がった。
しかし、視線には警戒が残っている。
茶柱が端末を操作し、正面モニターへ全員の暫定成績を表示した。
一位、堀北鈴音。
二位、平田洋介。
三位、櫛田桔梗。
四位、綾小路清隆。
須藤は十三位。
池は最下位だった。
オレの順位は想定より高い。
調整が不十分だったかもしれない。
「この順位は現時点のものだ」
茶柱が言う。
「一位だから優秀とは限らない。最下位だから衛士になれないとも限らない。
今日測ったのは、あくまで初期適応力だけだ」
池が僅かに顔を上げた。
「ただし、自分の弱点から目を逸らす者は必ず脱落する」
茶柱の視線が全員を捉える。
「明日の午前五時三十分、第一演習場へ集合。
遅刻した者は、その場で十キロ走だ」
クラス全体から悲鳴が上がる。
「五時半!?」
「早すぎるだろ!」
「朝食はどうするんですか?」
「訓練後だ」
「腹減って動けねぇよ!」
須藤が抗議する。
「戦場でBETAが朝食を待ってくれるなら、私も考慮しよう」
誰も言い返せなかった。
その時。
施設内に短い警報音が響いた。
一度。
二度。
三度。
天井の照明が黄色へ変わる。
生徒たちの表情が固まった。
壁面モニターに警告表示。
警戒警報。
東京湾東部における未確認反応。
茶柱の顔つきが変わった。
先ほどまでの教官としての厳しさとは違う。
戦場を知る人間の目だった。
「全員、その場を動くな」
茶柱は端末を取り出し、司令部回線へ接続する。
『こちらDクラス適性検査場。状況を確認したい』
数秒の沈黙。
誰も話さない。
遠くで重い機械音が鳴り始めた。
格納庫の隔壁が開いている。
戦術機部隊が発進準備に入ったのだろう。
やがて司令部から返答が届く。
『東京湾東部の海底センサーが複数の振動を検知。
現在、哨戒部隊が確認中。候補生は各区画で待機せよ』
「了解した」
通信が切れる。
池が青ざめた顔で尋ねた。
「BETA……なんですか?」
「まだ分からない」
茶柱は断言しなかった。
その間にも、格納区画から轟音が響く。
全員が窓へ目を向けた。
巨大な防爆ガラスの向こう。
夕暮れの滑走路を、数機の不知火が走っていた。
背部の跳躍ユニットが点火する。
白い噴煙。
爆発的な加速。
一機。
二機。
三機。
戦術機は次々と地表を離れ、防壁を越えて東京湾東部へ向かっていく。
初めて見る、本物の戦術機部隊の緊急発進。
訓練映像とは違う。
整備員が走り回り、誘導灯が点滅し、補給車両が格納庫へ殺到している。
学校全体が、一瞬で軍事基地へ変わった。
堀北が窓の外を見つめたまま呟く。
「入学初日から警戒警報なんて、運が悪いわね」
「そうかもしれないな」
オレは答えた。
やがて警報は解除された。
海底地震による誤検知。
司令部はそう発表した。
生徒たちの多くは安堵した。
池は大きく息を吐き、須藤は「驚かせやがって」と笑った。
だが、茶柱は笑わなかった。
窓の向こう。
暗くなり始めた東京湾を、いつまでも見つめていた。
オレも同じ方向を見る。
海は静かだった。
波が防壁へぶつかり、砕けている。
その下。
人間の目が届かない海底のさらに奥で、何かが動いている。
そんな錯覚を覚えた。
この時のオレたちは、まだ知らなかった。
東京へ近づいていたものが、地震などではなかったことを。
この学校で学ぶ三年間が、予定通りには続かないことを。
高度育成衛士高校の生徒たちが、
訓練ではなく実戦で戦術機を操る日が訪れることを。
そして。
東京湾を埋め尽くすほどのBETAを相手に、人類の未来を賭けて戦うことになるとは。
この時は、誰も知らなかった。