午前八時。
候補生八名による低速走行訓練が終了すると、
演習場では短い点検時間が設けられた。
八機の吹雪が指定位置へ並び、整備員と管制官が脚部駆動系、
姿勢制御、主機温度の数値を確認していく。
候補生たちはまだ管制ユニットの中にいた。
低速で歩き、僅かに速度を上げただけとはいえ、
初めて実物の戦術機を動かした緊張は消えていない。
操縦桿を握る手には汗が滲み、
強化装備越しにも主機と駆動部から伝わってくる振動を感じていた。
点検が完了すると、茶柱から次の課題が告げられる。
『続いて、跳躍ユニットを使用した推進訓練へ移行する』
その言葉が届いた瞬間、演習場に並ぶ候補生たちの空気が変わった。
須藤は明らかに喜び、今すぐにでも機体を跳ばせたいという気配を隠そうとしない。
堀北は表示された訓練内容を慎重に確認し、
平田は呼吸を整えるように一度深く息を吸った。
櫛田も緊張を抑えるため、操縦桿を握り直している。
しかし、候補生たちの反応を見た茶柱は、先回りするように告げた。
『勘違いするな。本日は跳ばない』
須藤がすぐに反応した。
『は?』
『跳躍ユニットを噴射させるだけだ。機体を地面から離すことは許可しない』
『それじゃ、跳躍ユニットを使う意味がねぇだろ』
『初めて実機へ搭乗した候補生を、
その日のうちに跳躍させると本気で思っていたのか?』
『シミュレーターでは何度もやった』
『シミュレーターでは墜落しても死なない』
茶柱の返答に、須藤は不満そうな息を吐いた。
だが、実機の跳躍ユニットが生み出す推力をまだ経験していない以上、
強く反論することはできなかった。
『これから跳躍ユニットを短時間だけ点火し、機体を前方へ押し出す。
脚部を地面から離さず、噴射によって生じた加速と慣性を機体全体で吸収しろ』
管制画面へ安全制限が表示される。
初回の出力は十パーセント。
背部に装備された跳躍ユニットが待機状態から起動し、
演習場へ低い回転音が響き始める。
各機の表示には、機体後方の高温域を知らせる警告が現れた。
人間が近づけば命に関わる熱量だった。
『一番機から開始する』
最初に指名されたのは堀北だった。
堀北は機体の両脚を僅かに開き、姿勢制御を確認する。
『一番機、点火』
跳躍ユニットが短く炎を噴いた。
吹雪の巨体が一瞬で前方へ押し出される。
歩行や走行とは異なり、自分で地面を蹴ったのではない。
背後から機体全体を強く押されたような加速だった。
堀北は脚部へ力を配分し、急激に前へ移動した重心を受け止める。
吹雪は数メートル進んだところで安定し、指定された停止位置の手前で動きを止めた。
『一番機、姿勢維持成功』
続いて平田機が点火する。
平田は慎重になりすぎたため、噴射を受けた瞬間に機体を前傾させすぎた。
それでも転倒判定へ至る前に修正し、脚部を一歩前へ出すことで重心を戻す。
櫛田は噴射時間が短く、移動距離が規定へ届かなかった。
失敗ではないが、跳躍ユニットの推力へ警戒しすぎている。
四番機の須藤へ順番が回る。
『四番機、点火』
須藤が出力操作を行った直後、他機よりも大きな爆音が演習場へ響いた。
吹雪は地面を離れていないにもかかわらず、巨体を弾かれたように前方へ進める。
出力そのものは十パーセントに制限されている。
それでも、歩行や通常走行では得られない鋭い加速だった。
須藤は反射的に機体の姿勢を低くし、両脚で推力を受け止めた。
停止線へ迫ると跳躍ユニットを切り、脚部の制動を使ってぎりぎりの位置で停止する。
『どうだ!』
成功を確信した須藤が声を上げる。
しかし茶柱の評価は冷静だった。
『規定出力を〇・八パーセント超えている』
『そんなの誤差だろ』
『機体を壊す誤差も存在する』
須藤は反論しなかった。
初めての噴射で大きな失敗はしていないが、
茶柱が注意しているのは成功したかどうかだけではない。
規定を超える入力が癖になれば、より高出力で跳躍する時に致命的な差となる。
次にオレの番が来た。
『五番機、点火』
跳躍ユニットが炎を噴き、
背後から強く押される感覚が管制ユニットを通して伝わってきた。
加速度によって機体の重心が前へ移動する。
脚部制御へ入力を加え、上半身を僅かに前傾させる。
噴射終了と同時に一歩分の制動動作を入れ、残った慣性を脚部と腰部で吸収した。
機体は指定位置で停止する。
シミュレーターで経験した動きと基本的には変わらない。
しかし、実機では主機の振動も、跳躍ユニットが発する熱も、
機体の内部を通して伝わる衝撃も生々しかった。
『五番機、安定しています』
管制官の報告が入る。
観察席から、坂柳有栖が再びこちらを見ていた。
何を考えているのかは分からない。
訓練は出力十五パーセントへ引き上げられた。
推進距離が伸び、候補生たちは少しずつ噴射の感覚へ慣れていく。
一方で、加速が強くなったことによる失敗も増えた。
七番機は指定された停止位置を越え、
演習場端に設置された緊急停止網の手前で、どうにか機体を止める。
櫛田機は噴射後に左右へ揺れ、姿勢制御の修正に時間を要した。
平田は安定しているが、事故を恐れるあまり出力を抑えすぎている。
堀北は規定通りの入力を正確に繰り返し、須藤は誰よりも速い。
オレの記録は、候補生の平均より少し上に収まっていた。
午前九時。
跳躍ユニットを使った地上推進訓練が終了した。
本来の予定では、この時点で初日の実機訓練を終えることになっていた。
候補生の精神的な疲労と、
実機の初期点検を考慮すれば、それでも十分な内容だった。
しかし、坂上から追加課題が告げられる。
『機体状態に問題がないことを確認した。
続いて模擬標的を使用した射撃訓練を行う』
演習場の一角に設けられた格納口が開き、複数の無人標的車両が姿を現した。
戦車級を模しているが、実物よりも大幅に小さく、
移動速度も低く設定されている。
『使用武装は訓練用短銃身突撃砲とする』
整備車両が各機の前へ入り、訓練用の模擬兵装を渡していく。
使用されるのは実弾ではなく、センサーによって命中判定を行う訓練弾だった。
それでも武器そのものは、実際の突撃砲とほぼ同じ重量と重心を持っている。
吹雪が突撃砲を受け取った瞬間、機体全体の重量バランスが変化した。
片腕へ大きな重量が加わり、
立っているだけでも左右の脚へ配分する力を調整する必要がある。
『単独射撃から始める。停止状態で標的へ三発撃て』
最初は堀北だった。
突撃砲を構え、移動する標的へ照準を合わせる。
一発目は僅かに外れた。
反動によって銃身が上がったものの、二発目から修正し、残る二発を命中させる。
平田も三発中二発。
櫛田は確認動作が多く、射撃の機会を逃したため一発だけの命中となった。
須藤は突撃砲を構えると、迷いなく三発を連続して撃った。
すべて命中。
『よし!』
須藤が嬉しそうな声を上げる。
『喜ぶのは早い』
茶柱はすぐに釘を刺した。
オレの番が来る。
標的車両は一定速度で左右へ移動していた。
一発目を命中させる。
二発目は僅かに外し、三発目を再び命中させた。
命中率は六十六パーセント。
候補生の初実機射撃として不自然な成績ではない。
意図的に一発を外したことについて、茶柱は何も言わなかった。
ただし、観察席にいた坂柳有栖は、画面を見ながら僅かに笑っていた。
気づかれた可能性はある。
停止射撃が終わると、続いて走行しながら標的を撃つ訓練へ移行した。
候補生たちの命中率は大きく低下する。
機体の足元が動き続けるため、照準は常に上下左右へ揺れる。
戦術機本体の重量。
突撃砲の重量。
射撃時の反動。
それらを同時に制御しなければならない。
須藤は速度を上げすぎるため、停止状態では高かった命中率が大きく落ちた。
堀北は走行速度が遅い代わりに、正確な射撃を行う。
平田は標的よりも他機の位置を気にしすぎて、発射の機会を逃すことが多い。
櫛田は撃つ前に安全確認を繰り返し、その間に標的が射線から外れてしまう。
以前、坂上は自分の性格が機体の動きへ出ると言っていた。
その言葉通りだった。
昼前。
初日最後の課題として、二機一組による模擬戦闘訓練が行われる。
移動する二体の標的を左右から挟み込み、
互いの射線を妨げずに撃破することが目的だった。
組み合わせは、堀北と須藤。
平田と櫛田。
オレと別の生徒。
残る二名が最後の組となる。
堀北と須藤の組み合わせが発表されると、
周囲の候補生たちは不安そうな反応を見せた。
『なんで、こいつと組まなきゃならねぇんだよ』
須藤が不満を漏らす。
『それは私の台詞よ』
堀北も即座に返す。
『なら代われ』
『教官が指定した組み合わせでしょう』
『二機とも黙れ』
茶柱の冷たい声が割って入る。
『開始前から連携を崩すな』
演習場へ、戦車級を模した無人標的が二体現れた。
堀北が指示を出す。
『私が左側へ回る。あなたは右側』
『分かってる』
『射撃は、互いに所定位置へ到達してから同時に行うわ』
『言われなくても分かる』
訓練が開始される。
二機は左右へ分かれた。
須藤機は堀北機よりも速い。
予定位置へ到着した時、堀北はまだ左側へ回り込んでいる途中だった。
『待ちなさい』
『遅ぇ』
須藤は堀北を待たずに射撃した。
砲弾は一体目の標的へ命中し、停止判定を与える。
しかし、攻撃を受けたことで二体目が進路を変え、
まだ配置につけていない堀北機へ向かった。
堀北は咄嗟に回避し、大きく一歩後退する。
『だから待ちなさいと言ったでしょう!』
『一体倒しただろ!』
『一体しか倒していないでしょう!』
二体目が堀北機へ接近する。
須藤機からは、堀北機が射線を塞いでいるため援護できない。
堀北は単独で突撃砲を構え、一発目を外した。
二発目で命中させ、標的を停止させる。
結果として二体の標的は倒した。
だが、それは二機の連携による成功ではなかった。
『失敗だ』
茶柱は即座に判定した。
『両方とも倒しただろ』
須藤が反論する。
『二機で戦った意味がない』
『倒せば同じじゃねぇか』
『違う』
今度は坂上が言った。
『仮に堀北が回避に失敗し、転倒していた場合、お前の位置からは援護できなかった』
『転んでねぇだろ』
『結果だけで判断するな』
須藤は黙った。
堀北も悔しそうにしている。
『堀北』
「はい」
『お前は、須藤を所定位置で待たせることに失敗した』
『待つよう命令は出しました』
『命令しただけだ』
以前にも指摘されたことだった。
命令を口にすれば、全員がその通りに動くわけではない。
須藤の性格。
速度。
戦い方。
前へ出ようとする衝動。
それらすべてを前提として使う必要がある。
『もう一度行う』
再試行では、堀北が配置を変えた。
『須藤くんが先行して』
須藤が意外そうに聞き返す。
『俺が?』
『そうよ』
『なら最初からそうしろ』
『ただし、先に撃ってはいけない』
『は?』
『標的を右方向へ追い込んで』
堀北は自分の位置を先ほどより左後方へ変更した。
須藤を止めようとするのではない。
前へ出させ、その動きによって標的を誘導し、自分が待つ射線へ追い込む。
二度目の訓練が始まる。
須藤が先行する。
今度は射撃を行わず、標的へ正面から接近した。
標的は須藤機を避けるように右方向へ進路を変える。
そこには堀北の射線が通っていた。
『今よ』
二機が同時に射撃する。
一体目が停止する。
続いて須藤がさらに前へ出て、残る標的の進路を堀北側へ変えさせた。
再び左右から挟み込み、二体目も撃破する。
『成功だ』
茶柱の判定が下る。
須藤が笑った。
『やりゃできんじゃねぇか』
堀北が冷静に返す。
『あなたを制御する方法が分かっただけよ』
『言ってろ』
口調は相変わらずだったが、二人とも最初の訓練後より僅かに機嫌が良かった。
平田と櫛田の組は安定していた。
平田が櫛田の動きへ合わせすぎるため速度は遅いが、
互いの射線を塞ぐことも事故を起こすこともない。
オレの組は相手の動きへ合わせ、一度で課題を達成した。
最後の組も大きな問題なく終了する。
午前十一時三十分。
初めての実機訓練は終わった。
八機の吹雪は歩行によって格納庫へ戻り、
一機ずつ指定された支持架へ固定されていく。
主機が停止し、管制ユニットとの接続が解除される。
ハッチが開くと、外の空気が内部へ流れ込んできた。
昇降機を使って地上へ降り、足が格納庫の床へ触れた瞬間、
身体が異様に軽く感じられた。
つい先ほどまで戦術機の高さから地上を見下ろしていた。
そこから人間本来の視点へ戻ると、格納庫に立つ吹雪が改めて巨大に見える。
候補生たちは強化装備を着たまま、機体の前へ並んだ。
須藤は満足そうな表情をしている。
堀北は既に端末を開き、自分の失敗と改善点を記録していた。
平田は全員が無事に降りてきたことを確かめるように、候補生たちの顔を見ている。
櫛田は緊張から解放され、大きく息を吐いた。
「終わった……」
「楽しかっただろ」
須藤が言う。
「楽しいっていうより、怖かったよ」
「慣れれば余裕だ」
「須藤くん、最初の噴射で停止位置を越えかけてたよね?」
「誤差だ」
「茶柱先生に怒られてたけど」
「うるせぇ」
そこへ高円寺が近づいてきた。
須藤はすぐに自分から話しかける。
「見たか」
「見ていたよ」
「俺が一番だっただろ」
「何についての一番かな?」
「射撃だ」
高円寺は候補生たちを順番に見た。
「停止精度なら堀北ガール。周囲の安全確認なら櫛田ガール。
編隊を維持する能力なら平田ボーイだねぇ」
淡々と評価を並べた後、須藤へ視線を戻す。
「君は速度と命中率だ」
須藤は眉をひそめた。
「それで十分だろ」
「戦場が直線だけで構成されているならね」
「やっぱりケンカを売ってんだろ」
「私は正確に評価しているだけさ」
須藤が一歩前へ出ようとしたところで、格納庫内へ真嶋の声が飛んだ。
「機体から離れろ」
整備員たちは既に八機の周囲へ集まり、搭乗直後の点検を始めていた。
関節部の摩耗。
跳躍ユニットの温度。
出力記録。
姿勢制御系の異常。
候補生が感じ取れなかった小さな変化まで、一つずつ確認していく。
真嶋は候補生たちへ振り返ることなく言った。
「お前たちの訓練は終わった。俺たちの仕事はここからだ」
平田が頭を下げる。
「ありがとうございました」
堀北も続いた。
「ありがとうございました」
他の候補生たちも整備員へ頭を下げる。
須藤は少し遅れてから、照れを隠すように顔を背けた。
「……ありがとうございました」
真嶋は振り返らない。
「次も同じ機体へ乗れると思うな」
須藤が不思議そうに聞く。
「なんでだよ」
「機体の損傷や整備状況によって、次に使用できる機体は変わる」
「俺は四番機がいい」
「戦術機を私物だと思うな」
「でも相性とかあるだろ」
「相性を語るのは、同じ機体へ十回乗ってからにしろ」
真嶋はそれ以上話さず、整備作業へ戻った。
候補生たちは格納庫を出る。
初めての実機搭乗で、誰も転倒しなかった。
機体にも大きな損傷はない。
訓練としては成功だった。
それでも教官たちは褒めなかった。
実戦へ出られる段階までは、あまりにも遠い。
だが、最初の一歩を踏み出したことだけは確かだった。
昼食後。
今度はA、B、Cクラスの適性上位者が実機訓練を行い、
Dクラスは観察席からその様子を見学した。
Aクラスからは葛城、神室、橋本に加え、複数の衛士課程生が搭乗する。
坂柳有栖は指揮観察席へ入り、操縦者の機体データを整理する。
Bクラスからは一之瀬、神崎、柴田たちが選ばれていた。
Cクラスでは龍園、石崎、伊吹、アルベルトが搭乗する。
椎名ひよりは初期適性こそ高かったが、
体力面で実機搭乗基準へ届いていないため、今回は観察席へ回された。
彼女は資料を開きながら、各機の動きを静かに追っている。
各クラスの生徒が初めて実機を動かすと、その性格の違いがはっきりと表れた。
葛城は安定しており、教本通りの動きを正確に行う。
神室は操作が荒いが、判断に迷いがない。
橋本は機体を動かしながら周囲を確認する速度が速かった。
一之瀬は慎重であり、神崎は正確。
柴田は身体能力の高さを機体操作にも反映させている。
龍園は機体を支持架から離した瞬間から、
吹雪がどこまで自分の入力へ反応するか試すように動いた。
低速歩行訓練にもかかわらず、意図的に重心を大きく左右へ振り、
安全制限ぎりぎりの範囲を探っている。
坂上が注意した。
『龍園、遊ぶな』
『機体の限界を確認してるだけだ』
『限界を決めるのは教官だ』
『俺が乗ってんだぞ』
『だから止めている』
龍園は不満そうではあったが、命令を完全に無視することはなかった。
石崎は見た目に反して慎重で、機体を一歩ずつ確かめるように動かす。
伊吹は近接戦闘を思わせる素早い方向転換に適性を示した。
アルベルトは巨体の吹雪を静かに動かしている。
人間としての体格が戦術機の力へ直接影響するわけではない。
それでも、身体の重心を感覚的に把握する能力は優れているようだった。
観察席で須藤が龍園機を見つめる。
「あいつ、上手いな」
堀北が意外そうに見る。
「認めるのね」
「見りゃ分かる」
「少なくとも安定性は、あなたより上ね」
「俺の方が射撃は上だ」
「何でも勝ち負けにするのね」
龍園の走行速度は速かった。
しかし須藤のように、ただ前へ進むことだけへ力を使っているわけではない。
速度を出しながら、常に次の方向転換や停止へ備えている。
大きく荒々しい動きの中にも、修正できる余地を残していた。
独断的ではある。
だが、無計画ではない。
一之瀬の機体は龍園よりも遅かった。
代わりに、神崎や柴田との距離を決して崩さない。
自機だけでなく、常に仲間の位置を確認しながら動いている。
単機で見れば突出した適性ではない。
しかし小隊を組んだ時には、強い部隊を作れる動きだった。
Aクラスも、葛城が安定した中心となり、
神室が前へ出て、橋本が二機の距離を調整する。
坂柳有栖は観察席から、それぞれのデータを整理していた。
各クラスには、既に明確な色が現れ始めている。
高度育成衛士高等学校全体が、少しずつ戦術機部隊としての形へ近づいていた。
最後に残ったのは高円寺だった。
本来、彼には実機搭乗の予定がない。
だが、午後の訓練が終わろうとした頃、真嶋が観察席へ姿を現した。
「高円寺六助」
高円寺が振り向く。
「何かな」
「適性確認を行う」
その場にいた全員が驚いた。
茶柱も真嶋を見る。
「許可を取ったのか」
「司令官の判断だ」
観察席上部には坂柳理事長が立ち、静かに高円寺を見ていた。
高円寺は楽しそうに笑った。
「ようやく私の番か」
茶柱は険しい表情を崩さない。
「条件がある」
「聞こう」
「単独搭乗とし、許可するのは歩行だけだ。
命令違反が一度でもあれば、その場で訓練を停止する」
「異論はない」
「本当に命令へ従う気があるのか?」
「必要な条件だと判断した」
高円寺は制服の上着を脱いだ。
学校側は最初から可能性を考えていたのか、
高円寺用の候補生強化装備が用意されている。
短時間で着替えを終える姿を見て、須藤が驚いた。
「お前、最初から準備してたのか?」
「私ではない。学校が用意していたのさ」
高円寺が搭乗するのは、予備機として待機していた九番機の吹雪だった。
安全制限は通常通り。
武装は搭載しない。
許されるのは歩行だけ。
高円寺が管制ユニットへ入り、機体を起動する。
支持架が解除されると、観察席にいる全員が九番機へ視線を向けた。
『高円寺』
茶柱が回線を開く。
『聞こえているよ』
『返答は「了解」と言え』
『了解』
あまりに素直な返事だったため、須藤は信じられないような顔をした。
『第一歩』
高円寺機が動く。
その動きは滑らかだった。
初めて実機へ搭乗した候補生のものとは思えない。
片脚を前へ出し、それに合わせて上半身と腰部の重心を移動させる。
脚部が地面へ接触した時にも機体はほとんど揺れず、そのまま次の一歩へつながった。
速度は規定通り。
歩幅も一定。
シミュレーターで時折見せていた異常な機動や、
教官を挑発するような余計な操作は一切行わない。
教本そのものの歩行だった。
『停止』
高円寺機は即座に停止した。
指定線との誤差はほとんどない。
『右へ九十度方向転換』
機体はその場で正確に向きを変えた。
『後退』
後方確認を行った後、姿勢を崩さずに下がっていく。
『走行は禁止だ』
『了解』
高円寺は命令されたこと以外を一切行わなかった。
ただ、それだけだった。
それでも、操作の精度は異常だった。
通常、初搭乗の候補生はどこかで機体を揺らす。
入力へ対する修正が僅かに遅れたり、
複数の操作が重なって余分な動きが生じたりする。
高円寺には、それがない。
自分の身体と戦術機の境界が、最初から薄いように見えた。
真嶋が操作データへ目を落とす。
「単純な反応速度だけじゃない」
坂上も同じ数値を見ていた。
「あいつは、機体が一歩動き終わる前に、次の重心位置を作っている」
茶柱は黙ったまま高円寺機を見つめている。
九番機は指定された経路を一周し、開始位置へ戻って停止した。
『訓練終了だ』
茶柱が告げる。
『もう終わりかい?』
『歩行だけと言ったはずだ』
『了解』
高円寺は反論せず、吹雪を格納庫へ戻した。
支持架へ固定し、主機を停止する。
ハッチが開き、高円寺が地上へ降りると、須藤がすぐに近づいた。
「なんで最初からやらねぇんだよ」
高円寺は強化装備の首元を緩める。
「やる必要がなかったからさ」
「今は必要があったってのか?」
「学校が私の能力を必要とした」
「ただの訓練だぞ」
「私がどこまで扱えるか、その確認も必要だったのだろう?」
須藤は苛立ったように言う。
「本気を出せよ」
高円寺が須藤を見る。
「今日は本気だったよ」
「歩いただけだろ」
「歩けと命令された」
「だからって――」
「命令を守ることが目的なら、私は完璧に果たした」
須藤は言葉を失った。
高円寺は普段、訓練そのものを軽んじている。
しかし実機へ乗った時には、ふざけることも、教官を試すこともしなかった。
命令された範囲の中では、誰よりも正確に役割を果たした。
茶柱が高円寺へ近づく。
「高円寺」
「何かな」
「次回から正式に実機訓練へ参加させる」
「毎回かい?」
「当然だ」
「それは困るね」
「拒否権はない」
「この学校では、生徒の自由が認められているのでは?」
「自由には不利益が伴う」
以前、茶柱が高円寺へ告げた言葉だった。
「今後、正当な理由なく実機訓練を欠席した場合、お前の実機搭乗資格を停止する」
高円寺の目が僅かに細くなる。
「なるほど」
「お前が実戦で真面目に戦うつもりであっても、
訓練記録のない候補生を機体へ乗せることはできない」
「私が必要になった時、戦術機へ乗れないということかい?」
「そうだ」
高円寺は少し考えた。
「それは合理的ではないねぇ」
「だから訓練を受けろ」
短い沈黙があった。
やがて高円寺は笑う。
「毎回参加するとは約束できない」
茶柱の眉が僅かに動く。
「だが、搭乗に必要な記録は残すことにしよう」
完全な服従ではない。
それでも、高円寺が初めて訓練へ歩み寄った瞬間だった。
茶柱は不満そうな顔をしていたが、それ以上は追及しなかった。
実機訓練終了後、候補生たちは講義棟へ戻った。
行われたのは、初搭乗記録の整理と操作映像を使った反省だった。
各自が自分の失敗や不要な動きを確認する。
須藤は、自分が模擬標的へ三発すべて命中させた場面ばかり再生しようとした。
茶柱が映像を停止する。
「失敗した部分を見ろ」
「成功した場面も見た方がいいだろ」
「成功した場面は、お前が言われなくても何度でも見る。
失敗した場面は自分から見ようとしない」
「……分かったよ」
堀北は、須藤との二機連携訓練を繰り返し再生していた。
自分が出した命令。
須藤が実際に取った行動。
どこで認識がずれ、どう配置を変えれば機能したのかを整理している。
平田は他機へ合わせすぎ、前進が遅れた場面を見ていた。
櫛田は射撃前に行った確認動作の多さを反省している。
オレは必要最低限の記録を入力した。
午後四時。
実機訓練後の講義が続いていた時、突然、校内放送が入った。
『坂柳司令官および教導隊幹部は、第一作戦会議室へ集合してください』
茶柱の端末にも緊急招集を示す表示が現れ、講義が止まる。
生徒たちの表情が変わった。
再びBETAが現れたのかもしれない。
しかし、校内警報は鳴っていない。
茶柱は残りの講義を坂上へ任せ、教室を出ていく。
坂柳有栖は父親が呼び出されたことを聞き、僅かに目を細めた。
龍園も放送内容を気にしている。
一之瀬は不安そうに窓の外を見た。
高円寺だけは自分の操作映像を閉じ、静かに椅子の背へ身体を預けた。
第一作戦会議室では、東京湾地下調査の報告が始まっていた。
海底へ投入された無人探査機の映像。
地下振動の記録。
地層解析によって判明した空洞の形状。
軍の専門家が大型モニターへ資料を映し出す。
画面に現れたのは、深い闇に包まれた東京湾の海底だった。
無人探査機のライトが前方を照らす。
岩盤には、自然現象によって生じたとは考えられない巨大な穴が開いていた。
空洞は海底から縦方向へ深く伸び、その奥は完全な暗闇に包まれている。
周囲には複数のBETA反応が確認されていた。
探査機が慎重に穴へ近づく。
映像が時折乱れ、水中で巨大な影が横切った。
それでも探査機は前進を続け、空洞の内部へ入る。
壁面には何かによって削り取られた跡があり、通路は複数方向へ枝分かれしていた。
規模そのものは、既存のハイヴと比較すればまだ小さい。
しかし構造は、明らかにハイヴの初期形態と一致していた。
「確認できている深度は?」
坂柳理事長が尋ねる。
専門家が答える。
「海底下、およそ千二百メートルまでBETA反応と空洞を確認しています」
「最深部は?」
「不明です。地震波の反射が複雑化しており、現在の解析では底へ到達できていません」
専門家が画面を切り替える。
地震波から推定された複数の空洞。
一本の縦坑。
その周囲に形成されつつある広間状の構造。
「現在確認できているだけでも、
地下構造は人工島直下からお台場沖まで広がっています」
茶柱が地図を見る。
「学校の真下にも通路があるのか?」
「一部の掘削経路が人工島へ接近しています」
坂上の表情が険しくなる。
「候補生を別の場所へ移動させるべきでは?」
「現状では、地表崩落が起きる危険性は低いと判断されています」
専門家は続ける。
「ただし、構造の拡張速度が異常です」
真嶋が尋ねた。
「どれほどだ」
「一日あたり、推定三パーセントです」
会議室が静まり返った。
僅か一日で、地下構造全体が三パーセントも拡大している。
副官が重い声で続けた。
「この速度が維持された場合、
数週間以内に本格的なハイヴへ移行する可能性があります」
数週間。
候補生たちは、ようやく実機へ乗り始めたばかりだった。
基本歩行。
低速走行。
模擬標的への射撃。
その程度の訓練しか終えていない段階で、敵の拠点は地中深く成長を続けている。
坂柳理事長は画面から目を離さずに尋ねた。
「中央政府の判断は?」
「調査継続です」
「攻略作戦の準備は?」
「まだ正式な命令は出ていません」
茶柱の声が厳しくなる。
「判断を待っている間に完成する」
副官も否定はしなかった。
「軍も危険性は理解しています。
しかし、地下構造の全容が分からないまま部隊を突入させれば、大きな損害が出ます」
坂上が言う。
「完成してからでは、さらに損害が増える」
早期に攻撃するべきか。
情報を集めてから動くべきか。
どちらを選んでも危険がある。
坂柳理事長は即答しなかった。
温和な人物ではあるが、優柔不断なのではない。
周囲の意見と得られた情報をすべて確認してから、自分の責任で決める。
その時、無人探査機の映像に変化が起きた。
空洞のさらに奥。
完全な暗闇の中で、探査機のライトが巨大な物体を照らす。
最初は壁のように見えた。
しかし、よく見ると表面が動いている。
規則的な振動を繰り返し、その周囲には多数のBETAが集まっていた。
専門家が映像を拡大する。
「これは……」
会議室の誰かが息を呑む。
完全な反応炉ではない。
しかし、将来的にハイヴ中枢へつながる可能性のある巨大な有機組織だった。
地中から何かを吸い上げるように、表面が収縮と膨張を繰り返している。
探査機の計器が急激に上昇した。
熱反応。
振動。
これまで記録されていなかった未知の数値。
直後、映像の奥に赤い光が現れた。
海中で待機していた光線級が照射を開始する。
赤い光が探査機を貫き、画面が一瞬で白く染まった。
無人探査機の反応が消える。
会議室には通信途絶を知らせる警告音だけが残った。
専門家が静かな声で言う。
「光線級が、既に地下構造内部へ配置されています」
茶柱が拳を握った。
ハイヴそのものは未完成。
それでも、敵は既に内部へ防衛戦力を置き始めている。
副官が坂柳理事長を見る。
「司令官。これは、単なる初期段階とは言えません」
坂柳理事長は暗転した画面を見つめた。
「ええ」
短く答える。
「我々が発見するよりも前から、想定以上に進行していたのでしょう」
一度目を閉じ、再び開く。
「東京防衛軍へ伝えてください」
声は穏やかだった。
しかし、そこには明確な決断があった。
「東京湾地下ハイヴ攻略作戦の立案を開始します」
命令が下り、会議室の全員が動き始める。
副官が尋ねる。
「作戦名は、どうしますか?」
坂柳理事長は大型画面へ表示された東京湾の地図を見た。
海。
高度育成衛士高等学校の人工島。
その向こうに広がる帝都。
守るべき場所。
そして、敵から奪い返さなければならない地下空間。
「まだ決めません」
副官が僅かに驚く。
坂柳理事長は続けた。
「作戦名とは、人を奮い立たせるためだけに付ける飾りではありません」
会議室にいる全員を見る。
「我々が何を守り、何を取り戻すために戦うのか」
静かな声だった。
「その目的を定めてから、名を与えます」
会議が続く一方で、候補生たちは地下で何が確認されたのかを知らなかった。
講義棟では、須藤が自分の実機射撃映像を見返している。
堀北は操作記録から修正点をまとめ、
平田は搭乗していない生徒へ基本操作を説明していた。
櫛田は、実機へ乗ることへ不安を感じている生徒へ声をかけている。
龍園は自分の機体データを見ながら、
次はさらに速く、より自由に動かす方法を考えていた。
一之瀬は、一部の適性上位者だけでなく、
クラス全員が将来的に実機へ乗れるよう、今日の訓練内容を共有している。
坂柳有栖は、父親が戻らない理由を考えていた。
椎名ひよりは、公開されている東京湾地下構造の資料を読み続けている。
高円寺は窓の外へ目を向け、格納庫へ戻される吹雪を眺めていた。
オレも端末を閉じる。
今日、初めて本物の戦術機へ乗った。
歩き、走り、模擬兵装を撃った。
それだけだった。
戦場へ出るには、まだ遠い。
しかし格納庫では、整備員が次の訓練へ向けて機体を点検し、
教師陣は既に地下ハイヴ攻略作戦の準備へ入り始めている。
海底では、BETAが人類を待つことなく構造を拡張していた。
人類側の準備と、BETA側の拡張。
どちらが先に完成するのか。
その競争は、既に始まっていた。
夜。
人工島の灯りが、穏やかな東京湾の海面へ反射している。
海だけを見れば、三週間前の戦闘も、地下で進行している異変も嘘のようだった。
だが、海底下千二百メートル。
光の届かない暗い縦坑では、無数のBETAが今も動いている。
硬い岩盤を削り、空洞を押し広げ、地上へ続く複数の経路を作り続けていた。
そのうちの一本は、高度育成衛士高等学校の人工島直下へ向かって伸びている。
距離はまだ遠い。
それでも、確実に近づいていた。
そして最深部。
無人探査機が最後に記録した巨大な有機組織が、暗闇の中でゆっくりと脈動する。
一度。
少し間を置いて、二度目。
さらに強く、三度目。
その振動は地層を伝わり、人工島の地下観測装置へ到達した。
監視端末へ短い警告が表示される。
異常振動。
担当者が画面を確認した時には、数値は既に通常範囲へ戻っていた。
一時的な地殻変動。
そう判断され、記録だけが保存される。
その夜。
誰にも気づかれないまま。
東京ハイヴは、人類が想定していたよりも一段階早く、次の形へ進み始めていた。