十日後の午後一時。
前回の地下侵入によって一時的に中断されていた鳳翼作戦は、
第二段階へ移行し、海底封鎖杭の設置作業を再開していた。
東京湾東側では、第十三戦術機甲大隊サムライが
輸送艦と作業船団を護衛している。
南翼には第七戦術機甲大隊オニキリが展開し、
海中から接近するBETA群を警戒していた。
東京湾中央部では、茶柱たち教導隊が探査艇と封鎖作業部隊の周囲を守り、
人工島北側には第十二機動防衛群シールドが配置されている。
候補生予備隊も実機待機を命じられていたが、
本日は候補生の出撃を前提とした作戦ではない。
候補生用の吹雪は格納庫内で直ちに起動できる状態へ保たれているものの、
突撃砲や長刀といった実戦用武装は装着されていなかった。
オレたち候補生へ与えられた任務は、
第一作戦管制室における管制補助と、正規軍が行う海上作戦の観察だった。
第一作戦管制室の正面には、
東京湾全域を再現した巨大な立体地図が表示されている。
東翼、南翼、中央海域、人工島周辺に展開する各部隊の位置が光点として示され、
その下には海底地形と地下構造体の推定形状が重ねられていた。
坂柳有栖は父親が立つ司令卓の近くに設けられた戦略席へ座り、
各戦線から送られてくる情報を整理している。
ひよりも本来の候補生席ではなく、司令卓に近い補助席へ呼ばれていた。
前回の地下侵入について、
ひよりが独自にまとめた分析を軍関係者へ説明するためだった。
候補生が中央司令部へ直接意見を述べることは、
通常の軍組織ではほとんど認められない。
しかし、高度育成衛士高等学校では、
年齢や階級よりも、示された情報が有効であるかどうかを重視している。
候補生の発言であっても、それが作戦へ役立つ可能性を持つなら、
立場だけを理由に退けることはなかった。
坂柳理事長が、緊張した面持ちで端末を抱えているひよりへ視線を向けた。
「椎名さん」
「はい」
呼ばれたひよりの声は、普段よりも僅かに小さかった。
多数の軍人や専門家が見守る中で、
自分の仮説を説明しなければならないのだから、緊張するのは当然だろう。
それでも、資料を表示する端末を持つ手は震えていない。
「あなたが考えていることを、聞かせてください」
「確証のある話ではありません」
ひよりは最初に断った。
「確証がないことも含めて聞きます。
現在は、可能性を一つでも多く検討する必要があります」
坂柳理事長に促され、ひよりは自分が整理した資料を大型画面へ送った。
人工島地下に残された過去の建設図面。
既に廃棄された地下設備。
前回の侵入時に観測されたBETAの振動経路。
それらが一枚の地図へ重ねて表示される。
「BETAは、まだ人類が一度も掘削していない完全な岩盤よりも、
過去に掘り進められた場所を優先して移動しているように見えます」
軍の地質担当者が資料へ目を向ける。
「地盤の弱い部分へ進むのは、掘削する側として自然なことだ」
「はい。それ自体は不自然ではありません」
ひよりは担当者の意見を否定しなかった。
「ですが、地盤の硬さだけでは、進路を説明しにくい場所がいくつかあります」
ひよりは東部防壁地下の図面を拡大した。
この区域の岩盤は比較的硬く、
BETAが人工島へ侵入するための経路として、特別に掘りやすい場所ではない。
しかし、その近くには人工島全体へ電力を供給するための地下幹線が通っていた。
「この地点では、継続的に大きな電力が流れ、それに伴って熱も発生しています」
次に表示されたのは、海水淡水化施設と地下配管だった。
前回観測された小規模な振動は、
施設本体ではなく、地下へ埋設された配管へ沿うように接近していた。
「この配管には、常に大量の水が流れています」
さらに画面が切り替わり、
前回BETAの侵入経路として利用された旧物流トンネルが表示される。
「旧物流トンネルでは、空気循環設備の一部が完全には停止されていませんでした。
人間が使用していない区画でも、僅かな空気の流れが残っていたことになります」
坂柳理事長は、ひよりが示した三つの地点を立体地図の上で見比べた。
「BETAは、地盤の弱さだけではなく、
人間が作り出した反応を追っている可能性があるということですね」
「はい。断定はできませんが、その可能性はあると思います」
ひよりの説明を受け、坂柳有栖が考えを補足する。
「電力、熱、水流、空気の流れ。あるいは、そのうちの一つではなく、
複数の要素が重なった場所を選んでいるのかもしれません」
地質担当者は腕を組んだ。
「興味深い仮説ではある。だが、現状では偶然と区別できない」
「でしたら、検証すればよろしいのではありませんか?」
坂柳有栖が即座に返した。
彼女が見ているのは父親ではなく、地質担当者と作戦参謀たちだった。
「人工島から離れた海底へ、人為的な熱源と振動源を設置します」
坂柳は東京湾東部へ、仮想の装置設置地点を表示する。
「その装置から人工島地下設備に近い反応を発生させ、
BETAの掘削経路に変化が起きるか確認します」
副官が意図を確認した。
「地中のBETAへ向けた囮を作るということですか?」
「ええ」
坂柳は穏やかに微笑んだ。
「地中にいる敵へ、存在しない道を教えるのです」
管制室が静まり返った。
ひよりも、自分の分析から一歩進んだ坂柳の提案に驚いたように彼女を見る。
坂柳理事長は、娘の提案を聞いてすぐに許可を出すことはしなかった。
司令部にいる複数の担当者へ、装置の設置が実行可能であるか確認を求める。
必要となる装置の規模。
発生させる熱量と電力。
設置予定地点の海底地盤。
鳳翼作戦本来の封鎖杭設置作業へ与える影響。
数分間の検討が行われ、各担当者から実施可能という回答が揃った。
「実施してください」
坂柳理事長が最終的に命令を下す。
「鳳翼作戦の封鎖杭設置地点から東へ三キロの海底へ、
無人熱振動発生装置を投入します」
「了解しました」
新たな命令が海上部隊へ送られていく。
ひよりは、自分の胸の内に溜めていた息を小さく吐き出した。
一人で考えていた推測が、軍全体を動かす作戦の一部へ変わった。
もし判断が間違っていれば、装置の設置へ使った時間と人員が無駄になるだけではなく、
鳳翼作戦そのものへ影響を及ぼす可能性もある。
候補生席から、龍園が声をかけた。
「外れたら恥だな」
ひよりが振り返る。
「龍園くん」
「何だ」
「今のように緊張している人へ、最初にかける言葉ではありません」
「外れても問題ねぇだろ」
龍園は、ひよりではなく正面の地図を見たまま答えた。
「違うって分かるだけだ。外れた仮説を一つ捨てられるなら、それも情報になる」
ひよりは少し意外そうに龍園を見つめた後、僅かに笑った。
「そうですね」
無人熱振動発生装置を積んだ輸送艇が、東京湾東部へ向けて進み始める。
護衛を担当するのは、サムライ大隊から分けられた不知火一個小隊だった。
目的地点へ到着すると、輸送艇のクレーンが動き、
巨大な円筒状の装置を海中へ降ろしていく。
深度百メートル。
さらに二百メートル。
装置はワイヤーに支えられながら暗い海中を沈み、やがて海底へ到達した。
地盤へ固定されたことを確認した後、無人装置が起動する。
地中へ向けて低周波振動を送り、
内部に組み込まれた発熱装置が人工的な熱源を作り出す。
同時に、内部の循環装置が水流を発生させ、
人工島地下に存在する電力設備や配管に近い複合反応を再現した。
起動直後には、BETA側に目立った変化は起きなかった。
鳳翼作戦本来の作業は、その間も継続される。
第一の地下封鎖杭が、輸送艦から海底設置地点へ降ろされた。
数十メートルもの長さを持つ巨大な杭が、海底へ向けて打ち込まれる。
爆発に近い打撃音が海中へ響き、その衝撃によって海面全体が僅かに揺れた。
続いて第二、第三の封鎖杭が設置される。
杭は東京ハイヴ浅層部へ伸びる枝状の地下通路へ達し、
周囲の岩盤ごと空洞を押し潰していく。
一部の地点では追加爆薬が起動し、地中から鈍い爆発が響いた。
海面には大量の気泡が浮かび、
地下構造が崩れたことを示す小規模な振動が観測される。
やがて東翼側に、小型BETAの反応が出現した。
数はまだ少ない。
サムライ大隊から六機の不知火が迎撃へ向かう。
光線級反応が確認されていないため、航空支援も許可された。
無人攻撃機が東京湾上空から急降下し、
海面へ浮上したBETA群へ爆弾を投下する。
爆弾が着弾するたびに巨大な水柱が立ち上がり、
その間を縫うように不知火が海面すれすれの高度で駆け抜けた。
サムライ大隊は、航空爆撃によって散らされた戦車級を突撃砲の連射で押し戻す。
砲弾が海面とBETAへ次々と命中し、爆炎と海水、黒煙が複雑に重なり合う。
それでも部隊の隊形は乱れず、
後続の輸送艦へ敵を近づけることなく迎撃を続けていた。
現時点では、作戦は順調に進んでいるように見える。
南翼では、オニキリ大隊が海上へ浮上した二体の要撃級と交戦していた。
複数の陽炎が左右へ大きく分かれ、一機が正面から敵の注意を引きつける。
要撃級が長い腕を振り上げた瞬間、別方向へ回っていた二機が背後へ入り込んだ。
一機が長刀で脚部を切り裂き、もう一機が至近距離から砲撃を加える。
要撃級は爆炎に包まれ、海面へ横倒しになった。
オニキリ大隊の戦いは、一見すれば荒々しい。
しかし、昨日までの候補生たちの戦いとは明らかに違っていた。
判断が速く、誰かが前へ出る時には、他の機体がその意図を事前に理解している。
射撃区域が重ならず、一機の突出を部隊全体が援護へ変えていた。
龍園はその映像を食い入るように見ている。
「速ぇな」
候補生席の後方にいた坂上が答えた。
「お前たちの動きと比べるな。あれは何年も訓練と実戦を重ねた部隊だ」
「いずれ追いつく」
「そう思うなら、訓練を続けろ」
龍園は薄く笑った。
「言われなくてもな」
午後二時十二分。
無人熱振動発生装置が起動してから、四十分が経過していた。
地中の振動記録に変化が現れる。
最初に異常へ気づいたのは、ひよりだった。
「東へ動いています」
管制官が東京ハイヴ浅層部の表示を拡大する。
人工島北側へ向かっていた複数の小規模振動が、途中で進行方向を変えている。
その先にあるのは、東京湾東部へ設置した無人熱振動発生装置だった。
「成功です」
副官が声を上げる。
浅層部のBETAは、人類が作り出した偽の反応源へ引き寄せられている。
しかし、ひよりはすぐには喜ばなかった。
「一部だけです」
小型の振動反応の多くは東へ向かっている。
だが、地下千二百メートルよりも深い位置に存在する大型反応は、ほとんど動いていない。
それどころか、深部では新たな振動源が増え始めていた。
「深部反応が増加しています」
地質担当者が、ハイヴ中心部に近い地下構造を画面へ表示した。
巨大な振動が一つ。
続いて二つ目、三つ目。
複数の大型反応が、暗い地下空間の中で動き始めている。
原因は分からない。
封鎖杭が浅層構造を崩した刺激に反応したのか。
囮装置が発生させた人工的な振動に反応したのか。
あるいは、それらとは無関係な別の要因なのか。
ひよりが画面を見つめた。
「何かが上がってきます」
深部の大型反応が、ほぼ垂直に上昇している。
人工島へ向かっているのではない。
東京湾中央部の海底へ向かっていた。
その真上には、茶柱たち教導隊と探査艇がいる。
管制室へ警報が響いた。
『中央探査艇直下に、大型反応を確認!』
現地回線から茶柱の声が飛ぶ。
『全機、散開!』
東京湾中央部の海上映像が、正面モニターへ拡大表示される。
三隻の探査艇と、それを護衛する教導隊四機。
直前まで穏やかだった海面が、船団の真下から大きく膨らみ始めた。
最初に現れたのは無数の気泡だった。
続いて、海中から巨大な水柱が立ち上がる。
暗い海底から突き上げてきた影が、一隻の探査艇を船底から持ち上げた。
船体が大きく傾き、甲板で作業していた人間たちが床へ投げ出される。
『総員退避!』
探査艇の警報が海上へ響く。
海面が左右へ割れる。
現れたのは要塞級ではなかった。
突撃級だった。
しかも、一体だけではない。
一体目に続いて二体目、三体目が海底から勢いよく浮上し、
探査艇と護衛戦術機の間へ飛び出してくる。
一体の突撃級が探査艇へ激突した。
船体は横方向へ押し流され、側面装甲が大きく陥没する。
破損した燃料系統へ火が回り、直後に爆発が起きた。
巨大な爆炎が海上へ広がり、探査艇の甲板を赤く染め上げる。
作業員たちは燃え上がる船内から脱出し、備え付けられた避難艇へ移り始めた。
茶柱の不知火が跳躍し、海面を飛び越える。
突撃級の側面へ回り込み、突撃砲の弾丸を集中させる。
砲弾が連続して命中し、爆炎が巨体を覆う。
しかし、突撃級の硬い外殻は砲弾を弾き、進行速度をほとんど落とさない。
坂上の陽炎が反対側へ回り込む。
星之宮機は光線級の出現に備え、探査艇の上空へ重金属雲を散布した。
真嶋の撃震は、損傷した探査艇と迫る突撃級の間へ機体を滑り込ませる。
『作業員を先に逃がす!』
真嶋の声が教導隊回線へ響く。
突撃級は、正面に立つ撃震へ向きを変えた。
真嶋機は後退しない。
両脚を海底の浅い部分へ踏み込み、大型突撃砲を真正面へ構える。
茶柱が叫ぶ。
『正面から撃っても止められない!』
『倒す必要はない! 速度を落とせれば、それでいい!』
真嶋機の大型砲が火を噴いた。
凄まじい轟音と共に、砲弾が突撃級の正面装甲へ次々と叩き込まれる。
命中するたびに爆炎と黒煙が広がり、厚い外殻が火花を散らす。
突撃級の前進を完全に止めることはできない。
それでも、巨体が進む速度は僅かに落ちた。
真嶋機は脚部出力を上げ、爆風と反動へ耐える。
その背後では、損傷した探査艇から避難艇が一隻、さらに二隻と離れていく。
だが、まだ最後の一隻が船体へ接続されたままだった。
突撃級がさらに迫る。
撃震との距離が、急速に縮まっていく。
坂上が叫んだ。
『真嶋、どけ!』
『まだ一隻残っている!』
『機体ごと潰されるぞ!』
『候補生に全員帰れと言った手前、俺が先に逃げられるか!』
真嶋機は砲撃を止めなかった。
大型砲の砲口から絶え間なく炎が噴き出し、砲弾が突撃級の正面へ集中する。
連続する爆発の熱によって、突撃級の外殻と撃震の正面装甲が赤く染まり始める。
やがて突撃級の巨体が、爆煙を突き破って現れた。
茶柱機が側面へ到達する。
長刀を構え、突撃級の脚部関節へ斬撃を加えた。
一度目の斬撃は浅い。
硬い外殻へ傷を刻むだけに終わる。
そこへ星之宮機の砲撃が、まったく同じ箇所へ集中した。
さらに坂上の陽炎が低空で背後へ回り込み、後脚の関節へ長刀を深く突き立てる。
三機の攻撃が重なり、突撃級の進路が僅かに横へ逸れた。
巨体は真嶋機のすぐ横を掠め、そのまま損傷した探査艇の船首へ衝突する。
船体が中央から折れ曲がった。
直後、残っていた燃料と機材が一斉に爆発し、巨大な火球が海上へ膨れ上がる。
炎上した探査艇は二つに折れたまま、ゆっくりと海面へ沈み始める。
それでも、最後の避難艇は衝突直前に船体から離れていた。
『作業員、全員の退避を確認!』
管制官の報告を聞き、真嶋が短く息を吐く。
茶柱が怒鳴った。
『次はお前が下がれ!』
教導隊四機が探査艇から距離を取る。
しかし、海底から浮上した残る二体の突撃級も、既に船団へ接近していた。
その後方には要撃級の反応が現れ、さらに海中深くで光線級が赤い発光を始める。
『光線級を確認!』
星之宮が残る重金属雲を追加散布する。
直後、海面の下から赤い光線が走った。
水中から放たれた照射が海を斜めに切り裂き、教導隊の一機を狙う。
茶柱機は機体を急降下させ、海面すれすれまで高度を落とした。
光線は不知火の背後を通過し、そのまま上空にいた無人偵察機へ命中する。
偵察機は空中で爆発し、燃え上がった破片が東京湾へ降り注いだ。
中央戦線は、一瞬で混乱へ陥った。
封鎖杭を運ぶ輸送艇。
地下構造を調査する探査艇。
避難を続ける作業員。
それらを護衛する複数の戦術機。
BETAは、鳳翼作戦の中心地点へ正確に現れていた。
「サムライ大隊から二個小隊を中央へ向かわせてください」
坂柳理事長が命じる。
「オニキリ大隊は南翼を維持します」
副官が南翼の戦況を確認する。
「南翼からも大型反応が増加しています」
「だからこそ動かしません。南翼を空ければ、別のBETA群が人工島へ向かいます」
「教導隊だけでは、中央戦線を維持できません」
「サムライ大隊を向かわせます」
「しかし、二個小隊を動かせば東翼が薄くなります」
坂柳理事長は、東翼へ表示された囮装置と小型反応を見た。
「囮装置を停止してください」
即断だった。
「東へ引き寄せた小型反応を減らし、東翼の負担を下げます。
その間にサムライ大隊を中央へ回します」
ひよりが立体地図を見つめる。
「待ってください」
候補生の発言に、副官が僅かに眉をひそめた。
しかし、坂柳理事長はひよりを止めない。
「どうしましたか?」
「囮装置を完全に止めた場合、東へ向かっているBETAが、
再び人工島へ進路を戻す可能性があります」
「その危険は承知しています。しかし、サムライ大隊を移動させるためには、
東翼へかかっている圧力を下げなければなりません」
ひよりは、東へ向かっている複数の振動源と海上部隊の位置を見比べた。
「装置を止めるのではなく、移動させることはできませんか?」
「移動させる?」
無人熱振動発生装置は、海底へ固定されている。
本来は作戦中に動かすことを想定していない。
ひよりは、装置設置地点付近へ待機している船舶の一覧を確認した。
「回収作業へ使用する牽引艇が近くにいます」
坂柳有栖が、ひよりの考えを先に理解する。
「囮装置を海底から引き上げ、稼働させたまま北東へ移動させるのですね」
「はい」
ひよりが頷く。
「小型反応を人工島から遠ざけながら、東翼の戦場そのものを北東へ移せます」
副官が危険性を指摘する。
「装置を引きずれば、海底地形へ引っかかる可能性がある。
牽引艇もBETAの進行方向へ入ることになる」
坂柳有栖が答える。
「装置を停止し、BETAを人工島へ戻すよりは有効です」
坂柳理事長は、東京湾全体の立体地図へ目を向けた。
囮装置。
牽引艇。
東翼のサムライ大隊。
中央で孤立しつつある教導隊。
判断に使える時間はほとんどない。
「実施します」
坂柳理事長が決断した。
「牽引艇へ命令してください。囮装置を稼働させたまま、北東方向へ移動させます」
「了解!」
東翼では牽引艇が無人装置へ接近し、海中へ複数のワイヤーを降ろした。
固定具が装置へ接続される。
牽引艇が推力を上げると、
巨大な装置が海底の泥を巻き上げながら、ゆっくりと持ち上がった。
大量の気泡と土砂が海中へ広がる。
熱源と振動源は稼働したままだ。
牽引艇は装置を引きずるようにして、北東へ移動し始めた。
地中で装置へ向かっていた小型反応も、その移動を追うように進路を変える。
すべての個体が誘導されたわけではない。
それでも、東翼へ集中していた圧力は少しずつ北東へ移動し始める。
その隙を利用し、サムライ大隊の二個小隊が中央戦線へ向かった。
十二機の不知火が海面上へ並び、跳躍ユニットを一斉に噴射する。
炎の列が東京湾の上を一直線に伸び、機体群は高速で中央部へ接近していく。
その頃、教導隊は三体の突撃級と複数の要撃級を相手に、限界へ近づいていた。
真嶋の撃震は作業員を守るために前へ出すぎ、右腕部を損傷している。
弾薬も大きく消耗していた。
坂上の陽炎は脚部へ損傷を受け、星之宮機は重金属雲の残量が残り少ない。
比較的損傷の少ない茶柱機が、三機を支えながら戦線全体を維持していた。
『サムライ大隊到着まで四十秒!』
管制官の声が届く。
四十秒。
平時なら短い時間だが、大型BETAが目前へ迫る戦場では、あまりにも長い。
海中の光線級が、再び照射準備へ入る。
暗い海の下で、赤い発光が強くなっていく。
茶柱が叫んだ。
『全機、海面から高度を上げるな!』
上空へ跳べば、光線級の標的になる。
だからといって低空へ留まれば、
海面を押し分けて進む突撃級と要撃級の攻撃を避けにくくなる。
前方では突撃級が迫り、別方向から要撃級が海面へ姿を現した。
長い前肢が、損傷した真嶋機へ振り下ろされる。
坂上機が間へ割り込んだ。
陽炎の長刀が要撃級の腕を受け流す。
衝突の凄まじい衝撃によって、坂上機は海面を何十メートルも滑った。
『坂上!』
茶柱が叫ぶ。
『問題ない!』
坂上は即座に答えた。
しかし機体表示には、左腕部中破の警告が現れている。
それでも陽炎は立ち上がる。
要撃級は、倒しきれなかった坂上機を追うように前進した。
星之宮が突撃砲を連射し、要撃級の進路を横へ逸らす。
その間に茶柱機は一体の突撃級へ接近し、脚部へ砲撃と長刀による斬撃を重ねた。
後脚の関節が崩れ、突撃級の巨体が海面へ横倒しになる。
巨大な水柱が立ち上がり、教導隊の視界を白く覆った。
その水柱を突き破るように、二体目の突撃級が現れる。
巨体は一直線に茶柱機へ向かっていた。
『茶柱!』
真嶋が叫ぶ。
回避するには遅い。
その時、遠方から百二十ミリ砲弾が飛来した。
砲弾は突撃級の側面へ直撃し、凄まじい爆発を引き起こす。
巨体の進路が僅かに逸れ、茶柱機のすぐ横を通過した。
第十三戦術機甲大隊サムライ。
十二機の不知火が、中央戦線へ到着した。
『サムライ1、中央戦線へ入る』
先頭の不知火が長刀を抜く。
『教導隊は後退しろ』
茶柱が答えた。
『まだ動ける』
『候補生が見ているぞ』
サムライ1の声は落ち着いていた。
『教官が命令違反を教えるつもりか?』
茶柱は一瞬だけ黙った。
星之宮が、緊迫した状況にもかかわらず小さく笑う。
『言われちゃったね、佐枝ちゃん』
『黙れ』
茶柱は苛立ったように返したが、それでも命令を受け入れた。
『教導隊は、損傷機を中心にして後退する』
教導隊が下がると同時に、サムライ大隊十二機が前へ出た。
突撃砲の一斉射撃が始まる。
無数の砲弾が海面へ降り注ぎ、要撃級と戦車級の群れを爆炎の中へ押し返す。
サムライ大隊は三機一組を基本とし、
一機が敵の注意を引きつけ、残る二機が左右の側面へ回る。
長刀による斬撃と突撃砲の火力が交互に重なり、
前へ出た機体が下がれば、別の機体が直ちにその位置へ入る。
攻撃は途切れない。
それでも各機は深追いせず、必ず僚機の援護を受けられる範囲へ戻っていた。
突撃級が接近する。
サムライ大隊は正面から火力をぶつけようとはしない。
六機が左右へ分かれ、右側へ回った三機が同じ脚部へ集中砲火を浴びせる。
爆炎によって突撃級の姿勢が僅かに崩れた瞬間、
左側から接近した三機が長刀を振り下ろした。
左右の攻撃で脚部関節が崩れ、巨体が大きく傾く。
最後に後方へ控えていた二機が百二十ミリ砲を撃ち込んだ。
凄まじい爆発が突撃級の側面を包み込み、巨体は海中へ沈んだ。
サムライ大隊は、すぐに次の標的へ移る。
海中で照射を続ける光線級。
一機が重金属雲を散布し、二機の不知火が囮として低空へ飛び出す。
光線級の赤い照射が海面を切り裂く。
囮となった二機は、照射が始まる直前に左右へ分かれた。
別方向から接近していた一機が、発光地点へ向けて海中へ突撃砲を連射する。
砲弾が海面を突き破り、水中で連続して爆発した。
巨大な水柱が立ち上がった後、光線級の反応が消える。
候補生たちは、誰も言葉を発さず、その戦いを見ていた。
昨日、オレたちは八機で一体の要撃級を倒すため、
ほとんどの火力を同じ標的へ集中させた。
それでも再装填の隙を作り、高円寺が危険を引き受けなければ、撃破できなかった。
今、サムライ大隊は複数の大型種を相手にしても、隊形を崩していない。
一体を倒すことだけへ全戦力を使わず、常に次の敵と仲間の位置を確認している。
訓練と実戦経験。
その差は、誰の目にも明らかだった。
須藤は何も言わずに拳を握っている。
龍園も正面映像から目を離さない。
高円寺の顔からも、普段の余裕ある笑みが消えていた。
自分たちは一度、実戦で生き延びた。
だが、それだけで既に戦えるようになったわけではない。
誰もが、その現実を理解していた。
十五分後。
中央戦線は安定を取り戻した。
生き残った探査艇は、作業を中止して後方へ退避する。
封鎖杭の設置作業も、一時的に停止された。
海上へ現れていたBETA反応は減少し、
東翼の囮装置は北東方向への移動を継続している。
浅層にいた小型BETAの多くも、装置を追うように人工島から離れていた。
鳳翼作戦第二段階は、損害を受けながらも継続可能な状態を維持している。
探査艇一隻が沈没し、もう一隻が大破した。
戦術機三機が中破し、五機が小破。
複数の作業員が負傷している。
しかし、戦死者はゼロだった。
探査艇の作業員も全員が救助され、教導隊も四人全員が帰還している。
管制室へ、ようやく僅かな安堵が広がった。
坂柳理事長は、ひよりへ視線を向ける。
「椎名さん」
「はい」
「あなたの提案によって、東翼の部隊を中央へ移動させることができました」
ひよりは僅かに目を伏せた。
「結果的に、上手くいっただけです」
「評価すべきなのは、結果だけではありません」
坂柳理事長は穏やかに言った。
「あなたは、我々が持っていなかった選択肢を一つ増やしました」
ひよりが顔を上げる。
「戦場では、誰にとっても明らかな正解が見つからない場合があります」
坂柳理事長は、中央戦線から帰還する部隊の表示を見ながら続けた。
「その時に必要なのは、隠されている正解を一度で当てる人ではありません」
「これまで存在しなかった道を、新しく見つけられる人です」
ひよりはすぐには返事をしなかった。
その言葉を自分の中で受け止めるように数秒間黙った後、小さく頷く。
「ありがとうございます」
候補生席から龍園が口を挟んだ。
「礼を言う前に、飯を食え」
管制室にいた何人かが振り返る。
ひよりも少し困ったような表情を浮かべた。
「今、その話をするのですか?」
「昼飯も半分以上残してただろ」
「見ていたんですか?」
「目に入っただけだ」
高円寺がよく使う言い方に似ている。
ひよりは小さく笑った。
「分かりました」
坂柳有栖も、二人のやり取りを見ながら僅かに微笑んだ。
「龍園くんは、随分と部下思いなのですね」
龍園が坂柳を見る。
「余計なことを言う奴が増えたな」
「否定なさらないのですか?」
「使える奴が勝手に倒れたら困るだけだ」
ひよりが静かに答えた。
「そういうことにしておきます」
午後五時。
鳳翼作戦第二段階は終了した。
計画されていた海底封鎖杭のうち、六割の設置が完了している。
残る四割は、海上部隊と作業船を再編した後、翌日以降に設置される予定だった。
ひよりと坂柳が提案した囮装置についても、
浅層の小型BETAに対して一定の誘導効果があることが確認された。
しかし、重大な問題が一つ残った。
地下深部から上昇し、中央探査地点へ現れた大型BETA群。
あの群れは、人類側の作業地点を正確に狙っていたように見える。
封鎖杭による振動を追っただけなのか。
探査艇や戦術機が発する熱や電力へ反応したのか。
BETAが人類の作戦内容を理解していると断定することはできない。
それでも、人類側の活動へ反応し、必要な地点へ戦力を集中させているように見えた。
さらに、ひよりの分析によって、BETAが人工島地下に存在する熱源、電力、水流、
空気の流れを探知している可能性も浮上している。
坂柳理事長は、人工島内の設備が発する反応を一部変更するよう命じた。
重要区画へ集中していた熱や電力を分散させ、
使用していない区画へ複数の偽熱源を設置する。
水流や空気循環も定期的に切り替え、
地中のBETAへ重要施設の正確な位置を悟らせない。
戦争とは、砲撃や斬撃によって敵を倒すことだけではない。
情報を集め、敵を欺き、行動を誘導することも戦いの一部だった。
BETAが何を見て、何を基準に進路を選んでいるのか分からない。
だからこそ、人類側が敵へ見せるものを変える。
夜。
教導隊格納庫には、中央戦線から戻った四機の戦術機が整備台へ並べられていた。
茶柱の不知火。
坂上の陽炎。
星之宮の不知火。
真嶋の撃震。
整備員たちは足場へ上がり、照明を装甲へ当てながら、
実戦で受けた損傷を一つずつ確認している。
候補生たちには、実戦後の整備作業を見学する許可が出ていた。
戦場から帰還した機体がどのような状態になり、
次の出撃へ向けて何を修復しなければならないのかを学ぶためだった。
茶柱機は左脚部の装甲が破損し、突撃砲の弾薬残量は四パーセントまで減っていた。
跳躍ユニットも高温状態が長く続いたため、内部部品の交換が必要と判断されている。
坂上機は左腕部が中破し、駆動系の一部へ異常が見つかった。
星之宮機は突撃砲一門を破損し、携行していた重金属雲をすべて使い切っている。
最も大きな損傷を受けているのは、真嶋の撃震だった。
右腕部は突撃砲の反動と敵の攻撃によって大きく傷つき、
正面装甲には無数の被弾跡が残されている。
須藤は、撃震の傷だらけになった正面装甲を見上げた。
「正面から突撃級を止めたんだよな」
地上で整備員と話していた真嶋が、須藤へ顔を向ける。
「止めてはいない」
「でも、真正面で撃ち続けただろ」
「速度を僅かに落としただけだ」
「それでも、すげぇだろ」
「褒めても壊れた部品は直らない」
「そういう話じゃなくて――」
真嶋は作業を止め、須藤を正面から見た。
「お前たちが、同じことをするな」
須藤が黙る。
「俺が乗っていたのは、重装甲の撃震だった」
真嶋は、自分の機体へ視線を戻した。
「背後には避難途中の作業員がいた。
茶柱たちが側面へ回り込んでいることも分かっていた」
正面装甲を外す作業が始まり、その内側にある支持材と駆動部が露出する。
「条件が一つでも違えば、俺はあそこへ立っていない」
須藤は、撃震の内部を見つめた。
外から見れば装甲板が焦げているだけに見えたが、
その内側では衝撃を受けた支持材が大きく歪んでいる。
「怖くなかったのか?」
須藤が尋ねる。
真嶋は少しだけ考えた後、正直に答えた。
「怖かった」
教師たちは、恐怖を隠そうとはしない。
坂上も。
茶柱も。
そして、高円寺でさえ、自分にも恐怖はあると認めていた。
恐怖を感じないから戦えるのではない。
恐怖によって判断を止めないために、自分が怖がっていることを認める。
「怖かったから、後ろを確認した」
真嶋が続ける。
「怖かったから、茶柱たちがどこにいるのか確認した」
整備員が、撃震の内側から歪んだ部材を取り外す。
「もし怖くなければ、自分一人で突撃級を止められると思い込んでいたかもしれない」
須藤は、外された装甲板と変形した内部構造を見比べた。
「一人じゃ、無理だったのか?」
「無理だ」
真嶋は即答した。
「俺一人が突撃級を止めたわけではない」
茶柱の斬撃。
坂上の後方攻撃。
星之宮の集中射撃。
三人の攻撃によって進路が逸れ、最後にはサムライ大隊の援護も到着した。
「一人で戦っているように見える場面ほど、その周囲をよく見ろ」
須藤は、先ほどまでよりも真剣な表情で静かに頷いた。
少し離れた場所では、堀北が茶柱機の戦闘記録を端末で確認していた。
「茶柱先生」
「何だ」
「サムライ1から後退命令を受けた時、すぐには従いませんでしたね」
茶柱の眉が僅かに動いた。
「聞いていたのか」
「全機回線に流れていました」
「忘れろ」
「私たちには、命令へ従えと言っているのにですか?」
「戦況を確認していただけだ」
茶柱が苦しい言い訳をすると、近くにいた星之宮が笑った。
「負けず嫌いだっただけだよ」
「星之宮」
「はいはい」
星之宮は軽く手を振りながら離れていく。
堀北は改めて茶柱を見る。
「教官でも、判断に迷うんですね」
茶柱は、すぐには答えなかった。
自分の不知火へ向けられた整備灯を見ながら、やがて短く答える。
「迷う」
堀北は黙って続きを待った。
「自分が下がれば、前へ残る者へ負担が移る」
「ですが、損傷した機体が残れば、部隊全体の後退を遅らせる」
「そうだ」
「どうやって決めるのですか?」
茶柱は、自分の機体を見上げた。
「最後は、自分たちが何を守るために戦っているのかで決める」
「今日の教導隊が与えられていた任務は、探査艇と作業員を護衛することだった」
堀北が確認する。
「作業員の避難が終わった後は?」
「部隊を維持し、全機で帰還することだ」
「だから、サムライ大隊の後退命令へ従ったのですね」
「そうだ」
堀北は少し考える。
「任務が変わったことへ、すぐに気持ちを切り替えられなかったのですね」
茶柱が鋭い目で堀北を見る。
しかし、否定はしなかった。
「そうかもしれない」
堀北は僅かに意外そうな表情を見せた。
茶柱が、自分の判断が遅れた可能性を素直に認めたからだ。
「教官も間違える」
茶柱は言った。
「だから戦闘記録を残す」
「何が悪かったのかを確認し、次は同じ判断を遅らせないように直す」
茶柱は堀北を見る。
「お前たちと同じだ」
堀北は小さく頷いた。
その夜、候補生たちは寮へ戻った。
鳳翼作戦で計画された封鎖杭の設置は、まだ六割しか完了していない。
東京ハイヴは封鎖されておらず、地下では今もBETAが動いている。
戦いは終わっていない。
オレは自室の端末を開き、候補生へ公開された地下振動記録を確認した。
ひよりが示した仮説。
人類が作り出す熱や電力、水流、振動を追うBETA。
囮装置へ引き寄せられ、進路を変えた浅層の小型反応。
少なくとも浅い場所にいるBETAについては、ひよりの考えと実際の記録が一致している。
だが、一つだけ気になる点があった。
地下深部から上昇した大型反応は、
囮装置の方角へ向かわず、東京湾中央の探査地点へ現れた。
探査艇や封鎖杭は大きな振動を発していた。
それだけを理由にすれば、大型BETAが中央へ現れたことも説明できる。
しかし、出現のタイミングが早すぎる。
深部反応が上昇を始めたのは、最初の封鎖杭が海底へ打ち込まれる前だった。
鳳翼作戦の艦艇と戦術機部隊が、東京湾中央へ配置を終えた直後。
BETAが振動だけを追っているのなら、
まだ大きな作業が始まっていない段階から上昇する理由がない。
作戦の準備段階で、人類側が集結したこと自体を感知していた可能性がある。
オレは、今回の記録と前日の北部侵入を重ねてみる。
前日のBETA侵入は、
候補生用の戦術機が第一実機演習場へ配置された後に起きた。
今日の中央出現も、教導隊、探査艇、輸送艦、
封鎖杭設置部隊が一か所へ集まった後に発生している。
大型のエネルギー源。
多数の人間。
複数の通信機器。
熱や振動だけではなく、それらが集中する場所そのものを、
BETAが何らかの方法で認識している可能性もある。
だが、現時点では仮説に過ぎない。
オレは端末を閉じた。
同じ頃。
東京湾の地下では、囮装置へ引き寄せられた小型BETA群が、
北東方向へ向かって掘削を続けていた。
少なくとも浅層では、人類の策は成功している。
しかし、さらに深い場所。
東京ハイヴの中枢へ近い巨大空間では、複数のBETAが一度動きを止めていた。
そこには、人類が設置した熱源もない。
電力も流れていない。
水も空気も動いていない。
それでも、集まっていた無数の個体は、
地上にある人工島へ向かって同じ方向を見ていた。
暗闇の奥では、巨大な有機組織がゆっくりと脈動している。
一度。
少し間を置き、二度目。
脈動が起きるたびに、静止していたBETAが再び動き始める。
浅層の個体のように、目の前にある熱や振動へ反応しているわけではない。
もっと深く。
もっと遠くにある何かを、別の基準で探している。
高度育成衛士高等学校の人工島。
そこへ向けて、深部のBETA群が新たな進路を選び始めていた。
そして人工島南部の地下観測装置が、微かな掘削音を捉えた。
北部ではない。
東部でもない。
前日まで、BETA反応が確認されていなかった南側だった。
東京ハイヴから人工島へ伸びる、新しい地下経路。
振動は小さすぎるため、警戒値には届かない。
自動監視装置は異常警報を発することなく、僅かな数値として記録へ保存した。
人類が一つの道を閉じるたびに、東京ハイヴは別の道を作る。
鳳凰の翼は、東京湾を包み込むように広がり始めていた。
だが、その巨大な翼の下では。
まだ誰の目にも見えていない亀裂が、既に人工島へ向かって走り始めていた。