二か月後、午前二時十三分。
高度育成衛士高等学校の南部地下観測区画では、
夜間監視を担当していた技術員が、
端末上へ表示された僅かな波形を見つめていた。
人工島の基礎部分には、地震計、地中音響センサー、熱源探知機、
地下水流測定装置を始めとする数百基もの観測機器が埋め込まれている。
東京湾地下BETA構造体の存在が確認されて以降、
それらの機器は通常時よりも高い感度へ切り替えられ、
地中で発生する小さな変化まで記録し続けていた。
画面へ映っている振動は極めて小さい。
警戒基準には達しておらず、大型車両が地表を通過しただけでも、
同程度の波形が現れることはある。
本来であれば、自動記録へ残した上で経過観察へ回される程度の数値だった。
しかし、技術員は何かが気になり、同じ観測地点の履歴を開いた。
一時間前にも、よく似た波形が記録されている。
さらに過去へ遡ると、その前にも同じ程度の振動があった。
一つ一つを見れば、警戒するほどの規模ではない。
だが、記録された位置を地図上へ並べると、
振動源が少しずつ移動していることが分かった。
最初、技術員は反応が南へ向かっているように考えた。
すぐに、その認識を改める。
振動源が南へ逃げているのではない。
人工島南部へ向かって、こちらへ近づいている。
「主任」
隣の席で別の監視画面を確認していた上官が振り返った。
「どうした」
「南部観測点S‐14からS‐18にかけて、周期性のある振動を確認しています」
「規模は?」
「警戒値未満です」
「なら、記録へ残して経過観察だ」
主任はそう答え、すぐに別の画面へ視線を戻しかけた。
技術員は端末上の波形を拡大する。
「ですが、自然振動とは考えにくいです」
主任の動きが止まる。
「根拠は?」
「振動の間隔が一定です」
画面上では、ほぼ同じ形の波形が八秒間続き、その後に短い停止時間が入っている。
そして、再び八秒間の振動が発生する。
停止。
振動。
再び停止。
その動きが繰り返されるたびに、反応地点は僅かずつ人工島へ近づいていた。
地震や地盤沈下のような自然現象ではない。
何かが一定の動作を繰り返しながら、地中を削っている。
「北部侵入時の初期波形と比較します」
技術員は過去の記録を呼び出した。
旧物流トンネルを利用してBETAが人工島北部へ侵入する数時間前にも、
現在とよく似た小規模な周期振動が記録されていた。
二つの波形を重ねる。
完全に同一ではない。
それでも、振動の継続時間、停止の間隔、僅かずつ変化する位置がよく似ている。
主任の表情が変わった。
「司令部へ上げろ」
「しかし、まだ警戒値には――」
「今は数値が基準へ届くのを待つな」
主任は席から立ち上がった。
「同一波形が記録された全地点を検索しろ。南部地下構造図も開け」
技術員が操作を始める。
人工島南部の地下には、訓練用弾薬庫、排水路、
廃棄された海水導入管、航空燃料の予備貯蔵区画が存在していた。
さらに、その上には高度育成衛士高等学校の南部格納庫がある。
第七戦術機甲大隊オニキリの戦術機を収容し、
候補生用の吹雪も整備されている重要施設だった。
振動源の進路は、それらすべてへ接近する位置を通っている。
午前二時十九分。
第一作戦管制室へ緊急報告が入った。
坂柳理事長は司令官用の簡易休憩室で仮眠を取っていたが、
呼び出しから二分後には既に軍服へ着替え、司令卓の前へ立っていた。
「過去の記録との再現性はありますか?」
「あります」
地質担当者が二種類の波形を大型画面へ表示する。
「北部侵入時に記録された初期振動と、七十一パーセント一致しています」
「推定深度は?」
「地下二百八十から三百二十メートルです」
「人工島までの距離は?」
「南部外壁まで、約一・八キロ」
副官が息を呑んだ。
「近いな」
坂柳理事長は表情を変えずに尋ねる。
「移動速度は?」
「現時点では、一時間あたり四十から六十メートルです」
最大値だけを単純に当てはめれば、
数十時間以内に人工島南部へ到達することになる。
だが、BETAの掘削速度が一定である保証はない。
硬い岩盤を進んでいる間は遅くても、
過去に人類が作った空洞や配管へ到達すれば、一気に加速する可能性がある。
「南部地下の構造を表示してください」
坂柳理事長の命令により、立体地図が切り替わった。
航空燃料の予備貯蔵区画。
排水路。
地下弾薬庫。
そして、海岸から内陸側へ途中まで伸びている廃棄済みの海水導入管。
真嶋が地図を見て、険しい表情を浮かべた。
「この海水導入管は、途中までしか埋め戻されていない」
「残っている空洞の長さは?」
「南壁から、およそ六百メートルだ」
坂上が低い声で言った。
「そこまで出られたら、三十分もかからず格納庫へ来る」
茶柱は地下図面から目を離さずに尋ねた。
「候補生たちを起こしますか?」
坂柳理事長は、すぐには答えなかった。
現在の振動は警戒値へ達していない。
全校生徒を夜中に起こして避難させれば、基地内へ不要な混乱を生む可能性がある。
しかし、北部侵入の時にも、人類側は明確な危険信号が出るまで行動を遅らせた。
同じ失敗は許されない。
「予備隊だけを起こしてください」
茶柱が坂柳理事長を見る。
「戦わせるためではありません」
「分かっています」
「避難と機体移動の準備です」
坂柳理事長は静かに頷いた。
「南部格納庫にある戦術機を、すべて地上へ移します」
真嶋が反応する。
「全機ですか?」
「燃料、弾薬、予備部品、整備員も含めます」
南部格納庫は、地下掘削反応が進んでいる場所に最も近い。
もし格納庫内部へ侵入されれば、オニキリ大隊の機体は戦場へ出る前に失われる。
「シールド防衛群を南壁へ配置してください」
「了解」
「オニキリ大隊には、格納庫内に残っている機体の緊急移動を命じます」
副官が確認する。
「鳳翼作戦南翼へ展開している部隊も戻しますか?」
「戻しません」
坂柳理事長は答えた。
「海上の配置を維持させます」
茶柱は東京湾と人工島の地図を見比べる。
「南部にBETAが侵入すれば、外と内の両方から挟まれることになります」
「だからこそ、鳳翼作戦の封鎖線を崩すことはできません」
「ですが、島内へ戦力を戻さなければ――」
「今回の掘削そのものが、海上部隊を戻させるための陽動である可能性もあります」
坂柳理事長の声は穏やかだった。
「全戦力を人工島へ戻せば、
封鎖線の外側からBETAが一斉に押し込んでくるかもしれません」
誰も反論できなかった。
どこかへ戦力を集中させれば、必ず別の場所が薄くなる。
すべての場所と人員を、同時に完全な状態で守れる配置など存在しない。
それが戦争だった。
「教導隊は南部へ待機してください」
坂柳理事長が続ける。
「候補生予備隊には、避難補助と機体移送支援を命じます」
茶柱は短く答えた。
「了解」
午前二時三十分。
学生寮の各部屋へ、警報音を伴わない緊急起床通知が送信された。
オレは目を開けた。
枕元に置いていた端末が赤く点滅している。
全校生徒へ発令される避難警報ではない。
画面へ表示されていたのは、候補生予備隊への召集命令だった。
強化装備を着用し、南部格納区画へ集合するよう指示されている。
召集理由は記載されていない。
オレはすぐに起き上がり、強化装備へ着替えて部屋を出た。
廊下では、同じ通知を受け取った予備隊の生徒たちが、
それぞれの部屋から姿を現している。
堀北は歩きながら長い髪をまとめていた。
平田の顔には僅かな眠気が残っているが、
既に周囲の生徒へ声をかけ、忘れ物や体調不良がないか確認している。
須藤は寝起きの不機嫌さよりも、
理由の分からない緊急召集への緊張を強く表情へ出していた。
高円寺も姿を現す。
普段の制服ではなく、既に候補生用の強化装備を身に着けていた。
「準備が早いな」
オレが言う。
「通知が届く少し前に目が覚めてね」
「偶然か?」
「私は、自分の身体に起きる僅かな変化にも敏感なのだよ」
堀北が尋ねる。
「地震を感じたの?」
高円寺は僅かに笑った。
「ほんの小さな振動があった。ベッドが一度だけ揺れたよ」
須藤は足元の床を見る。
「俺は何も感じなかったぞ」
「眠りが深かったのだろうねぇ」
「嫌味か?」
「眠りが深いのは悪いことではない。疲労が十分に回復している証拠さ」
「お、おう」
予想していた返答と違ったのか、須藤は調子を外されたように黙った。
平田が全員を促す。
「今は急ごう」
候補生たちは階段を下り、寮の外へ出た。
まだ夜明けには遠い。
それでも、人工島南部では多数の車両灯が動いていた。
軍用トラック、戦術機牽引車、整備車両、弾薬輸送車が複数の道路を行き交っている。
サイレンは鳴っていない。
赤色警報灯も点いていない。
しかし、人工島全体は眠りを保ったまま、静かに戦闘準備へ移行していた。
表面的な混乱を起こすことなく、必要な人員と設備だけが動いている。
南部格納区画へ到着すると、そこには既に異常な光景が広がっていた。
十数機の戦術機が支持架から外され、地上待機区画へ向けて移動を開始している。
不知火。
陽炎。
重装甲の撃震。
オニキリ大隊の所属機。
候補生が訓練に使用する吹雪。
整備員たちは弾薬ラックを外し、燃料供給管を切り替え、
動けない機体を牽引車へ接続していた。
「遅い!」
真嶋の怒声が格納庫へ響く。
「三番機を先に外へ出せ!右脚の修理は地上へ移動してから続けろ!」
「燃料車が通路を塞いでいます!」
「別の搬出路へ回せ!」
「弾薬庫の搬出が間に合いません!」
「優先順位を分けろ!百二十ミリ弾から運べ!小口径弾薬は後だ!」
戦術機一機を安全に動かすだけでも、多数の整備員と設備が必要になる。
それを格納庫全体の規模で、一斉に移動させようとしている。
実際にBETAへ砲撃する戦闘と比べれば、見た目は地味だった。
だが、一台の車両が通路を塞ぎ、一機の起動が遅れ、
一つの燃料管が外れなければ、後ろにあるすべての機体が止まる。
一つの小さな停滞が、格納庫全体の損失へつながりかねない作業だった。
茶柱が候補生予備隊を集めた。
龍園、一之瀬、神崎、神室、橋本、伊吹、石崎も既に到着している。
オレたちDクラスの予備隊も、その列へ加わった。
ひよりの姿もある。
衛士として機体へ搭乗するためではなく、
地下振動の分析を行う情報補助要員として呼ばれていた。
「現在、人工島南部地下へ接近するBETAの掘削反応を確認している」
茶柱が全員へ告げた。
候補生の誰も、大きな驚きの声を上げなかった。
北部から侵入された経験がある以上、
地中からBETAが来るという事実自体は、既に想定の外ではない。
「現時点で、BETAは地表へ出ていない」
茶柱は端末へ南部地下図を表示した。
「しかし、掘削経路上にある廃棄済みの海水導入管へ到達した場合、
侵入速度が大幅に上がる可能性がある」
龍園が尋ねる。
「ここまでの距離は?」
「推定一・二キロ」
「近ぇな」
「だから、格納庫にある機体と弾薬を先に退避させる」
須藤は格納庫の奥を見た。
「俺たちは何を運べばいい?」
「お前たちが動かすのは物資ではない。機体だ」
候補生たちの表情が変わった。
「候補生用の吹雪を、地上待機区画へ移動させる」
堀北が確認する。
「私たちが搭乗し、歩行させるのですか?」
「そうだ」
「戦闘命令は?」
「ない」
茶柱は明確に答えた。
「一機ずつ起動し、指定された地上区画へ移動させる。武装は一切装着しない」
須藤が不満そうに言う。
「俺たちが出してる途中で敵が来たら、どうするんだよ」
「教導隊とシールド防衛群が対応する」
「俺たちだって戦える」
「お前たちへ与えられた命令は、機体を移動させることだ」
茶柱の声が強くなった。
「候補生用の機体を失えば、次に戦える戦力そのものが減る」
須藤は黙った。
「今のお前たちの任務は、戦わずに戦力を守ることだ」
龍園が低く笑う。
「戦わねぇ方が、俺たちには難しそうだな」
茶柱は龍園を見る。
「だからこそ、お前にもやらせる」
搭乗者が割り振られる。
堀北。
須藤。
平田。
高円寺。
龍園。
一之瀬。
神崎。
そしてオレ。
合計八機。
その他の候補生は、地上での誘導と搬出作業の補助へ回される。
ひよりは司令部から届く地下振動情報を監視し、
坂柳有栖と共に候補生隊へ状況を伝える。
午前三時。
武装も弾薬も持たない八機の吹雪が、格納庫内で主機を起動した。
巨大な戦術機が、整備員や車両の間を縫うように、ゆっくりと歩き始める。
普段行っている演習場での低速歩行よりも、遥かに難しい。
格納庫内は狭い。
機体の足元では多数の整備員が走り、
牽引車や弾薬車両、燃料配管、作業用足場が複雑に入り組んでいる。
一歩の位置が僅かにずれただけで、人間を踏みつけたり、
重要な設備を破壊したりする可能性がある。
『速度は時速二キロ以下を維持しろ』
茶柱の声が回線へ入る。
『前方の誘導灯だけを見るな。左右と足元を常に確認しろ』
堀北機が先頭を進む。
普段以上に慎重な歩行だった。
その後ろには須藤機が続く。
通常なら、あまりにも遅い速度へ文句を言っていたかもしれない。
しかし今日は何も言わない。
自分の機体の足元を、整備員が走っているからだ。
平田機は、前方よりも後続機との距離を何度も確認している。
高円寺機は、指定された歩幅と速度を正確に維持していた。
龍園機も意外なほど慎重で、周囲にある設備の位置を確かめながら進む。
一之瀬は誘導員が出す合図へ丁寧に従い、
神崎は前後の機体間隔を一定に保っている。
オレは最後尾から、後方の作業車両と搬出状況を確認しながら進んだ。
格納庫出口まで、残り二百メートル。
その時、地面が僅かに揺れた。
一度だけだった。
しかし、八機の警告灯が同時に点滅する。
『全機停止!』
茶柱の命令を受け、八機が一斉に歩みを止めた。
地下振動の観測値が上昇している。
ひよりの声が回線へ入った。
『掘削反応が速度を上げています』
坂柳有栖が尋ねる。
『位置はどこですか?』
『南南東です。海水導入管の手前、残り約二百メートル』
茶柱が司令部へ通信する。
「既存空洞への到達予測は?」
『最短で十二分です』
格納庫内の空気が変わった。
十二分。
八機の戦術機。
弾薬。
燃料。
予備部品。
整備員。
すべてを安全に地上へ搬出するには、あまりにも短い。
全てを持ち出すことは、既に不可能だった。
真嶋が格納庫全体へ叫ぶ。
「最低限だけを持ち出せ!」
整備員たちの動きが変わる。
「未装着弾薬は放棄しろ!」
「燃料車を先に出せ!」
「修理中の二機は動かすな!支持架へ固定したまま放棄する!」
茶柱が候補生隊へ命じる。
『吹雪隊、移動を再開しろ』
須藤が尋ねる。
『速度は?』
『時速三キロまで許可する』
『それだけかよ!』
『ここは格納庫内だ』
『でも、あと十二分しかないんだぞ!』
『焦って接触事故を起こせば、一機も出せなくなる!』
須藤は歯を食いしばった。
『了解』
八機は移動を再開する。
歩幅は先ほどより僅かに大きくなった。
それでも走らない。
一機目。
二機目。
三機目。
吹雪が順番に格納庫出口を抜け、地上へ出ていく。
八機は南部地上待機区画へ向かった。
距離は約五百メートル。
ここからなら、格納庫内よりも速度を上げることができる。
『低速走行を許可する』
茶柱の命令が入る。
須藤が真っ先に加速しかけた。
堀北が止める。
『隊形を維持して』
『分かってる』
八機は四機ずつ二列へ並び、速度を揃えて地上待機区画へ進む。
地上には、シールド防衛群の撃震が既に展開していた。
大型盾と重突撃砲を装備した機体が、
地下侵入口になると予測された南壁周辺を包囲している。
教導隊も到着していた。
茶柱は格納庫内の搬出作業を指揮するため不知火を格納庫付近へ残し、
坂上、星之宮、真嶋が南壁へ向かっている。
真嶋はつい先ほどまで整備全体を指揮していたが、
今は撃震へ搭乗し、BETAを迎え撃つ側へ回っていた。
地面が再び揺れる。
今度の振動は明らかに強かった。
南部格納庫の天井から粉塵が落ち、
内部に残る整備員たちが出口へ向かって走り始める。
『BETAが海水導入管へ到達しました!』
ひよりの声が回線へ響く。
地中振動を示す線が、急激に人工島へ伸び始める。
一時間に数十メートルしか進んでいなかった反応が、
既存の空洞へ入ったことで一気に加速した。
『距離六百メートル!』
続けて報告が入る。
『五百!』
『四百!』
坂柳理事長の声が全体回線へ流れた。
「南部地下区画から、全員を完全退避させてください」
人工島全体の警報が赤へ切り替わる。
今度は事態を隠さない。
『南部格納庫を放棄します』
その言葉を聞き、真嶋は撃震の管制ユニット内で拳を握った。
自分が長年整備してきた戦術機。
集め続けた予備部品。
改修した作業設備。
それらの多くを、格納庫内へ置いていかなければならない。
それでも、機体や設備より人間の退避が優先される。
真嶋が尋ねた。
「最後の人員は?」
『整備班二十名が退避中です!』
「地上出口まで、あと何分だ?」
『三分!』
地中反応は、既に三百メートルまで接近している。
このままでは間に合わない。
茶柱が命じる。
『教導隊は格納庫地下出口へ向かえ!』
坂上機、星之宮機、真嶋機が南部格納庫前へ移動する。
シールド防衛群の撃震六機も続いた。
その間に候補生隊は地上待機区画へ到着する。
『全機、停止』
堀北が命じた。
『支持姿勢を取り、待機して』
武装を持たない吹雪八機が、地上区画へ並んだ。
目の前で敵が出現しても、砲撃も斬撃もできない。
須藤は焦りを隠せずに言う。
『武器を寄越してくれ』
茶柱が即座に答えた。
『認めない』
『敵は目の前まで来てるんだぞ!』
『お前たちへ与えられた任務は完了した』
『でも、整備員がまだ中にいる!』
『シールド防衛群と教導隊がいる!』
須藤は格納庫を見た。
最後の搬出口から、整備員たちが次々と飛び出してくる。
数人。
十人。
しかし、まだ全員ではない。
地下の反応は残り二百メートル。
振動は、もはや戦術機の管制ユニット越しにも分かるほど強くなっていた。
格納庫の床面が波打つ。
南部格納庫の外壁へ亀裂が走り、窓ガラスが連続して割れた。
火災抑制装置が誤作動し、泡状の消火剤が床へ噴き出す。
『残り五名です!』
真嶋が叫ぶ。
『走れ!』
最後の整備員たちが出口へ向かう。
そのうち一人が転倒した。
足を負傷したのか、すぐには起き上がれない。
先に進んでいた別の整備員が引き返し、肩を貸す。
その時、格納庫中央の床が大きく盛り上がった。
『来るぞ!』
坂上が警告する。
直後、地下から凄まじい衝撃が突き上げた。
厚いコンクリート床が内側から爆発し、
大量の土砂と鉄骨、火花が格納庫内へ噴き上がる。
中央部へ巨大な穴が開き、停止していた整備クレーンが支柱から傾いて床へ倒れた。
凄まじい爆音と共に、金属片や設備の破片が周囲へ飛び散る。
穴の奥から戦車級が姿を現した。
一体目。
続いて十体。
さらに数十体。
数えきれないほどの戦車級が、地中から格納庫内部へ溢れ出す。
最後の整備員たちと出口の距離は、まだ百メートル近く残っている。
シールド防衛群の撃震が前へ出た。
六機が大型盾を格納庫床へ突き立て、横一列の防衛線を形成する。
『防衛線形成!』
六機の重突撃砲が一斉に火を噴いた。
轟音と砲口炎が格納庫を埋め、無数の砲弾が戦車級の群れへ突き刺さる。
爆発が連続し、格納庫内部が一瞬で炎と黒煙に包まれた。
複数の戦車級が爆風で吹き飛ばされ、壁や整備設備へ叩きつけられる。
しかし、格納庫は天井が低く、戦術機が自由に跳躍できる空間ではない。
射線も狭く、大型で重い撃震にとって有利な戦場とは言えなかった。
茶柱たち教導隊が、シールド防衛群の左右へ展開する。
『整備員を最優先で守れ!』
星之宮機が戦車級へ短い連射を加える。
坂上の陽炎は、射撃線を抜けて近づく個体を長刀で排除した。
真嶋の撃震は盾を構え、さらに一歩、二歩と前へ出る。
整備員とBETAの群れの間へ、自分の機体を置いた。
最後の五人が出口へ走る。
負傷した一人を、二人が左右から支えている。
『あと五十メートル!』
その時、巨大な腕が地下の穴から現れた。
要撃級。
太い前肢が格納庫の床を掴み、コンクリートを簡単に砕く。
巨体が、狭い穴から無理やり地上へ這い上がろうとしていた。
真嶋が叫ぶ。
『要撃級が来る!』
撃震の大型砲が火を噴く。
砲弾が要撃級の頭部付近へ命中し、大きな爆発が発生した。
それでも要撃級は止まらない。
狭い格納庫内では、戦術機が大きく側面へ回り込むことができない。
敵の長い前肢を避ける空間も限られている。
正面から抑えるしかなかった。
坂上機が前へ出る。
『俺が引きつける!』
陽炎が要撃級の正面へ入り、長刀で振り下ろされた腕を受け流す。
激しい衝撃により、機体は格納庫の壁まで押され、肩部装甲が火花を散らした。
『坂上!』
茶柱の声が響く。
『整備員を先に出せ!』
坂上機は、押し込まれながらも要撃級の腕を外側へ押し返す。
完全に止めることはできない。
それでも、僅かな数秒が生まれた。
最後の整備員たちが出口を通過する。
『全員退避を確認!』
真嶋の報告が入った。
その瞬間、茶柱が命じる。
『格納庫を封鎖する!』
真嶋が即座に反応した。
『待て!中に機体が二機残っている!』
『放棄だ!』
『まだ動かせる!』
『人は全員出た!』
茶柱の声が強くなる。
『機体のために人間を中へ戻すな!』
真嶋は何も言えなかった。
南部格納庫には、修理途中の不知火二機が残されている。
大量の弾薬。
予備部品。
整備設備。
長い年月をかけて蓄積した技術と資材。
そのすべてが内部へ残る。
だが、人間は一人も残っていない。
『教導隊、後退!』
格納庫外周へ設けられた緊急隔壁が閉まり始めた。
厚い装甲扉が、左右から中央へ迫っていく。
シールド防衛群は射撃を続けながら後退する。
要撃級が前へ進み、その足元へ戦車級が集まる。
坂上機が最後尾となった。
陽炎は後退しながら、要撃級の攻撃を牽制する。
巨大な腕が再び伸びてくる。
装甲扉の隙間は、残り数メートル。
坂上機が機体を滑らせ、閉まりかけた隙間へ飛び込む。
直後。
要撃級の腕が隔壁へ激突した。
巨大な衝撃によって装甲扉が外側へ歪む。
それでも、扉は停止しなかった。
重い金属音を響かせながら完全に閉じ、内部と外部を分断する。
南部格納庫は封鎖された。
装甲壁の内側にはBETA。
外側には教導隊とシールド防衛群。
一枚の厚い扉だけが、人類と敵を隔てている。
『地下爆破の準備を開始します』
司令部から命令が入った。
南部格納庫そのものは既に放棄されている。
次は、地下の侵入口ごと施設を爆破して封鎖する。
真嶋が通信を開いた。
『待ってください』
坂柳理事長が尋ねる。
「理由を聞かせてください」
『格納庫地下には、航空燃料を送る貯蔵管があります』
「閉鎖済みのはずです」
『閉鎖はされていますが、燃料を完全には抜ききれていません』
大量の爆薬で格納庫地下を破壊すれば、残存燃料へ引火する。
格納庫全体が誘爆するだけでなく、
地下配管を通じて火災が別区画へ広がる可能性があった。
「爆破を中止してください」
坂柳理事長は即断した。
「別の封鎖方法を検討します」
副官が警告する。
「隔壁は長く持ちません」
内部監視映像には、要撃級が装甲扉へ前肢を叩きつける姿が映っていた。
一撃。
続けて二撃目。
分厚い金属が少しずつ歪み、足元の隙間へ戦車級が集まり始めている。
「冷却剤を流し込めませんか?」
司令部にいたひよりが言った。
南部格納庫の地下図面と消火設備の構造を、端末上へ表示している。
真嶋が答える。
『通常の消火剤を流しても、BETAは止まらない』
「液体窒素の予備があります」
ひよりは燃料貯蔵設備の図面を拡大した。
「航空燃料の緊急冷却用として、地下タンクに保管されています」
配管の一部は、格納庫内部へ直接冷却剤を噴射できる構造になっている。
副官は首を横に振った。
「内部のBETAをすべて凍結させるほどの量はない」
「倒す必要はありません」
ひよりは答えた。
「床面を凍結させれば、少なくとも動きを遅らせられます」
候補生回線から龍園が続ける。
「動きが止まったところを、上から潰せばいい」
司令部の人間たちが龍園を見る。
「格納庫の屋根を落とす」
坂柳有栖がすぐに立体構造を確認した。
「上部から崩落させるのであれば、
地下の燃料管へ直接爆圧を与えることは避けられます」
副官が言う。
「ただし、南部格納庫全体を完全に失います」
龍園は薄く笑った。
「もう格納庫として使える状態じゃねぇだろ」
真嶋は何も言わなかった。
南部格納庫は、何年も自分が戦術機を整備してきた仕事場だった。
しかし、既にBETAへ占拠され、内部へ人間が戻れる状態ではない。
「上部クレーンの支柱へ爆薬を設置してはどうでしょう」
坂柳有栖が提案する。
「屋根を内側へ崩落させ、瓦礫によってBETAの進路を塞ぎます」
ひよりも続ける。
「その前に床面へ液体窒素を噴射し、要撃級と戦車級の動きを遅らせます」
坂柳理事長は二人の案を統合した。
「実施します」
真嶋が低い声で答えた。
『了解』
封鎖作戦が開始された。
南部格納庫内部で緊急冷却系統が作動する。
配管から大量の白い霧が噴き出し、液体窒素が床面と侵入口周辺へ広がっていく。
金属とコンクリートが急激に冷却され、表面へ白い霜が生まれる。
戦車級の動きが目に見えて鈍った。
要撃級も凍結した床へ脚を取られ、腕を振るう速度を落としている。
完全に停止したわけではない。
それでも、隔壁が破壊されるまでの時間を延ばすことはできた。
『屋根支柱へ爆薬を設置します』
外周整備班が遠隔作業用の無人機を操作する。
無人機は格納庫の屋根へ接近し、
巨大なクレーンと屋根を支える支柱へ爆薬を設置していく。
四本。
六本。
八本。
その間にも、内部の要撃級は隔壁を何度も叩き続けていた。
金属が裂け、僅かな隙間が生まれる。
一体の戦車級が、そこから外へ出ようと身体を押し込んだ。
シールド防衛群の撃震が至近距離から射撃する。
砲弾が隙間へ命中し、爆発と炎によって戦車級を内部へ押し戻した。
『爆薬設置完了!』
坂柳理事長が命じる。
「全員、格納庫周辺から退避してください」
教導隊。
シールド防衛群。
残っていた整備員。
全員が周囲二百メートルより外側へ下がっていく。
候補生の吹雪も、さらに後方へ移動した。
須藤は、暗闇の中へそびえる南部格納庫を見つめる。
『本当に壊すのか』
真嶋の声が返ってきた。
『壊す』
短い答えだった。
『中には機体が残ってるんだろ』
『残っている』
『なら――』
『人はいない』
真嶋は静かに言った。
『それで十分だ』
爆薬が一斉に起爆した。
格納庫上部へ、複数の巨大な火球が生まれる。
支柱を構成していた太い鉄骨が爆炎の中で折れ、天井クレーンが大きく傾いた。
支えを失った屋根全体が、中央へ向かって崩れ始める。
轟音。
鋼材が引き裂かれる音。
厚いコンクリートが砕ける衝撃。
整備設備やクレーンを巻き込みながら、
何千トンもの構造物が格納庫内部へ落下していく。
内部監視映像は激しく揺れた。
要撃級。
戦車級。
地中から開いた巨大な穴。
それらすべてが、天井から押し寄せる瓦礫と粉塵の中へ飲み込まれる。
衝撃波は、数百メートル離れた地上待機区画まで届いた。
候補生用の吹雪が大きく揺れる。
須藤が姿勢制御を入れ、機体を立て直す。
平田は言葉を失い、一之瀬は目を閉じた。
真嶋は、自分の仕事場が崩れていく光景を無言で見つめていた。
長年整備してきた戦術機。
集めた設備。
機体へ触れるために組んだ足場。
整備員たちが働いていた床。
そのすべてが炎と煙の中へ消えていく。
屋根が完全に落ちた。
南部格納庫は、施設としての形を失った。
内部にいたBETA反応の一部が停止する。
残る反応も、崩落した瓦礫によって地上へ出る経路を失い、再び地下へ向かっていた。
「封鎖に成功しました」
管制官が報告する。
しかし、誰も喜ばなかった。
敵の侵入を防いだとはいえ、勝利とは呼びにくい。
自分たちの施設を、自分たちの手で破壊して守った結果だった。
それでも、内部へ残された人間は一人もいない。
その事実だけが、最後に残った。
午前四時。
人工島全体の警報は継続していた。
南部格納庫跡の周囲には、シールド防衛群と教導隊、
地中反応を監視する観測車両、追加崩落へ備える重機が配置されている。
鳳翼作戦そのものは中止されていない。
海上へ展開している部隊も、配置を維持している。
東京湾の外側から接近するBETAが消えたわけではない以上、
人工島内部だけへ全戦力を集めることはできなかった。
候補生隊は吹雪から降りた。
武器を持つことも、敵へ攻撃することもなかった。
それでも、全員が強い疲労を感じていた。
行ったのは、戦術機を格納庫から地上へ歩かせただけだ。
しかし、狭い格納庫で人間や機材を避けながら機体を動かし、
地下の振動と崩落へ耐え、自分たちの真下にBETAがいる恐怖を抱え続けた。
精神的な消耗は、実弾を撃つ戦闘と比べても小さくなかった。
須藤は地面へ降り、遠方に積み上がった南部格納庫の瓦礫を見た。
「戦わなかったな」
隣へ堀北が立つ。
「それが任務だったでしょう」
「分かってる」
「不満なの?」
須藤は少し考えた。
「前なら、不満だったと思う」
「今は?」
「機体を全部出せた」
地上には、候補生用の吹雪八機が並んでいる。
オニキリ大隊の機体も可能な限り搬出され、
燃料車、弾薬、整備員の大部分も地上へ逃れていた。
修理中だった二機と南部格納庫は失われた。
それでも、それ以上の損失は出ていない。
「なら、敵を倒したのと同じなのか」
須藤が言う。
堀北は瓦礫を見つめた。
「敵を倒したわけではないわ」
「でも、次に戦える戦力は守った」
「そうね」
堀北は静かに頷いた。
「敵を倒す戦いと同じではないけれど、必要な戦いだったと思う」
二人の後ろへ、高円寺が立った。
「ようやく理解したのかい?」
須藤が振り返る。
「お前は最初から分かってたみたいに言うな」
「私は、任務内容を聞いた時点で理解していたよ」
「本当か?」
「疑うのは君の自由だ」
そこへ龍園も歩いてくる。
「格好つけるな」
高円寺が笑った。
「君にだけは言われたくないねぇ」
龍園は崩れた格納庫へ目を向ける。
「それでも、壊し方は悪くなかった」
後方からひよりが言う。
「龍園くんの案だけでは、要撃級が動き続けていました」
「分かってる」
「坂柳さんが屋根と支柱の位置を計算しなければ、
燃料管を破損していた可能性があります」
「それも分かってる」
「液体窒素の予備を見つけたのは私です」
龍園がひよりを見る。
「褒めろってことか?」
「事実関係を整理しただけです」
ひよりは少し笑っている。
龍園は面倒そうに息を吐いた。
「お前の案がなけりゃ、隔壁を破られてた」
「ありがとうございます」
「素直に受け取るな」
「褒めてくれたのでしょう?」
「違ぇ」
伊吹が横から口を挟む。
「どう見ても褒めてたでしょ」
石崎も大きく頷いた。
「龍園さん、ちゃんと感謝してましたよ」
「お前ら黙れ」
僅かな笑いが起こった。
長く張り詰めていた空気が、この時初めて少しだけ緩んだ。
平田は負傷した整備員の搬送を手伝っている。
一之瀬も医療班の補助へ加わっていた。
神崎は、地上へ搬出できた機体数と残存戦力を確認している。
橋本は失われた設備と物資の一覧を整理し、
神室は坂柳有栖の近くで新たな地下情報を確認していた。
命令されなくても、それぞれが自分にできる役割へ自然に動いている。
やがて坂柳理事長が、南部格納庫跡の前へ姿を現した。
教職員。
整備員。
候補生。
その場にいる人間が集められる。
「南部地下からの侵入は、現時点で封鎖されました」
坂柳理事長の声は穏やかだった。
「戦死者はいません」
その言葉で、全員が僅かに息を吐いた。
「負傷者は七名。そのうち一名が脚部を骨折していますが、
全員、命に別状はありません」
真嶋は目を閉じた。
人間は全員帰還した。
「南部格納庫と、内部へ残された修理中の戦術機二機を失いました」
全員の視線が瓦礫へ向かう。
「これは、我々にとって大きな損失です」
誰も否定しない。
「ですが」
坂柳理事長は、教導隊と整備員、候補生たちを見渡した。
「機体は、また作ることができます」
真嶋へ視線を向ける。
「施設も、また建てることができます」
続いて、整備員たちを見る。
「人は戻りません」
静かな声だった。
「皆さんが、機体や施設よりも人間の避難を優先したことを、
私は正しい判断だったと考えます」
真嶋が坂柳理事長を見る。
「二機を失いました」
「ええ」
「予備部品も、大半が瓦礫の下です」
「承知しています」
「次の作戦へ影響します」
「それも承知しています」
坂柳理事長は、損失を否定しなかった。
「それでも、機体を回収するために整備員を内部へ戻す命令は出しません」
声は明確だった。
「整備員を失えば、地上へ逃がした残りの機体も動かすことができません」
真嶋はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頭を下げる。
「了解しました」
坂柳理事長は候補生たちへ向き直った。
「皆さんも、よく任務を果たしました」
須藤が言う。
「俺たちは、機体を運んだだけです」
坂柳理事長は須藤を見る。
「皆さんが運ばなければ、候補生用の吹雪八機も失われていました」
「でも、俺たちは敵を倒していません」
「敵を倒すことだけが、戦果ではありません」
坂柳理事長は静かに答えた。
「今日守った八機が、明日、誰かを救うことになるかもしれません」
須藤は、地上へ並べられた吹雪を見た。
「そうですね」
初めて坂柳理事長へ敬語で答えた。
茶柱は僅かに須藤へ視線を向けたが、何も言わなかった。