午前五時。
南部地下の振動は低下していた。
瓦礫によって地上への経路を塞がれたBETA群は、
掘削方向を人工島直下から南西へ変えている。
人類側が熱源と振動の配置を変更した効果もあったのだろう。
ただし、完全に人工島から遠ざかったわけではない。
鳳翼作戦司令部では、
北部と南部から伸びる複数の掘削線を重ねた新しい地図が表示されていた。
坂柳有栖は、父親の横で地図を見ている。
「BETAは、一度封鎖された経路を何度も使おうとはしません」
副官が尋ねる。
「学習しているということですか?」
「人間の学習と同じ意味ではないでしょう」
坂柳は答えた。
「ですが、前進できない方向を避ける反応はあります」
ひよりも立体地図を確認している。
「同時に、人類側の設備が発している反応を追っています」
地質担当者が言う。
「ただし、偽の熱源へ反応したのは浅層個体だけだ。
深部の大型個体は、別の基準で動いている可能性がある」
オレは候補生用の後方席から地図を見ていた。
北部への侵入。
南部格納庫への侵入。
東京湾中央部へ現れた大型種。
三つの事例には共通点がある。
いずれも、多数の戦術機と人員が集まっていた場所だった。
熱。
振動。
電力。
それだけでは説明しきれない部分が残っている。
坂柳理事長が突然、オレの名前を呼んだ。
「綾小路くん」
司令部にいる人間たちの視線が集まる。
「何でしょうか」
「何か気づいていることはありますか?」
坂柳有栖も、ひよりもこちらを見た。
龍園は少し面白そうに笑い、茶柱は何も言わずに待っている。
オレは地図を見た。
候補生という立場を考えれば、確証のない推測を黙っている選択もできる。
だが、今は可能性を一つ増やすことにも意味がある。
「BETAが狙っているのは、設備だけではないかもしれません」
副官が眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
オレは北部侵入地点を指した。
「北部へ侵入された時、候補生用の戦術機が演習場へ集められていた」
次に南部格納庫。
「今回、南部格納庫から戦術機を移動させ始めた後、
地下反応の掘削速度が上がった」
さらに東京湾中央。
「教導隊と探査艇が集結した直後にも、深部の大型反応が上昇を始めている」
地質担当者が否定する。
「偶然だ。南部の掘削は、機体を動かすより前から始まっていた」
「始まっていたことは間違いありません」
オレは認める。
「ですが、加速した時期が一致しています」
坂柳有栖が意図を理解した。
「戦術機そのものを感知している可能性があるということですか?」
「可能性の一つです」
副官が言う。
「戦術機の熱源であれば、既に検討している」
「熱ではなく」
オレは地図を見る。
「稼働していない機体も含めて感知している可能性があります」
ひよりが小さく呟く。
「反応炉……」
戦術機の動力源。
多数の機体。
整備設備。
BETAが、何らかの方法で強い動力源や反応炉の存在そのものを感知している可能性。
坂柳理事長が尋ねる。
「仮にそうだとすれば、この学校そのものが狙われる理由は?」
「ここには、多数の戦術機が集中しています」
東京湾に作られた人工島。
高度育成衛士高等学校。
教育施設であると同時に、防衛軍の戦術機基地でもある。
副官が確認する。
「BETAは候補生や人間ではなく、兵器を追っている?」
「断定はできません」
坂柳有栖が言う。
「ですが、検証する方法はあります」
全員が彼女を見る。
「無人化した戦術機を一機、人工島から離れた場所で起動させます」
坂上が尋ねる。
「囮にするのか?」
「はい」
坂柳は東京湾南西にある放棄済みの海上施設を示した。
「熱源、振動、通信、反応炉を含め、戦術機と同じ条件を一か所へ作ります」
ひよりが続けた。
「BETAの掘削方向が変われば、仮説の裏付けになります」
真嶋が厳しい声で言う。
「機体を一機、捨てるつもりか」
「無人化できる旧式機はありますか?」
「撃震なら一機ある」
「遠隔起動は?」
「可能だ」
「でしたら――」
坂柳理事長が手を上げ、話を止めた。
「今は実施しません」
坂柳有栖が父親を見る。
「理由を伺ってもよろしいですか?」
「現在の鳳翼作戦封鎖線は不安定です」
「検証は早い方がいいと思います」
「一機を失うだけでは済まない可能性があります」
海上施設へBETAを集めた結果、
周囲の封鎖線が崩れれば、作戦全体へ影響が及ぶ。
「作戦配置を組み直し、
万一敵が集中しても対応できる状態を作ってから実施します」
坂柳有栖は少し考えた後、素直に頷いた。
「承知しました」
自分が出した案に固執せず、より大きな危険を見ている父親の判断を受け入れた。
午前六時。
候補生たちは寮へ戻された。
通常授業は午前中のみ休止となり、休息を取るよう命じられる。
しかし、すぐに眠れる者は少なかった。
寮の廊下で、須藤がオレへ声をかけてきた。
「お前、いつから気づいてた?」
「確信はない」
「そういう意味じゃねぇ」
「何だ?」
「BETAが機体を狙ってるかもしれないって話だ」
「昨日から考えていた」
須藤が眉をひそめた。
「なんで言わなかった?」
「仮説だった」
「椎名は、仮説でも言ったぞ」
言葉が止まる。
須藤の指摘は正しい。
茶柱からも、必要な場面で判断を口に出さなければ意味がないと指摘されている。
判断できる人間が黙ることも、状況によっては命令違反と同じ結果を生む。
「次は言う」
オレが答える。
須藤は意外そうな顔をした。
「素直だな」
「何か問題があるか?」
「いや」
須藤は前を向いた。
「俺は考えるのが遅い」
「そうか」
「でも、何か見えたら言う」
須藤は続ける。
「間違ってたら、誰かが直せばいいんだろ」
坂柳理事長。
茶柱。
ひより。
全員が、同じことを少しずつ教えている。
一人で完全な正解を出す必要はない。
まず選択肢を増やし、複数の人間で検討すればいい。
「そうかもしれないな」
オレは答えた。
須藤が笑う。
「お前、また曖昧だな」
「癖だ」
「直せ」
「善処する」
その日の午後。
南部格納庫跡の瓦礫撤去は始められなかった。
地下には、まだBETA反応が残されている。
不用意に瓦礫を取り除けば、封鎖された経路が再び開く可能性がある。
崩れた格納庫は、巨大な墓標のようにそのまま封鎖された。
内部へ残された戦術機二機も、瓦礫の下にある。
しかし、搭乗者はいない。
整備員も残っていない。
その事実が、何よりも重要だった。
夕方。
候補生たちの実機訓練が再開された。
場所は、南部格納庫から遠い西部予備演習場へ変更されている。
格納庫と機体二機を失ったため、訓練へ使用できる吹雪の数も限られていた。
一度に搭乗できるのは四機。
一人あたりの訓練時間も短縮される。
それでも、訓練そのものは止めない。
茶柱が候補生たちへ言った。
「今日の課題は、機体移送だ」
須藤が笑う。
「またか」
「不満か?」
「いや」
須藤は、整備台へ置かれた吹雪を見上げた。
「今度は、もっと速く、事故を起こさずに外へ出す」
茶柱は僅かに目を細めた。
「その考えなら悪くない」
茶柱が須藤を褒めた。
須藤は少し驚いたような顔をする。
高円寺が横から口を挟んだ。
「珍しいこともあるものだねぇ」
「高円寺。お前は最後尾だ」
「なぜかな?」
「前にいる機体の速度へ合わせる訓練をさせる」
高円寺は小さく笑った。
「了解」
小隊長は堀北。
平田、須藤、高円寺が続く。
四機は狭い模擬通路を、低速で進んだ。
停止。
再開。
進路変更。
機体間隔の調整。
派手さのない訓練だった。
爆発もなければ、射撃もない。
それでも全員が真剣だった。
戦術機を戦場へ出すこと。
その準備を整え、失わずに必要な場所へ届けること。
それ自体が戦いの一部であると、全員が知ったからだ。
夜。
東京湾地下。
南部格納庫から押し戻されたBETA群は、
人類側の観測通り、掘削方向を南西へ変えていた。
だが、すべての個体が同じ方向へ向かったわけではない。
少数の反応が、南部格納庫跡の瓦礫よりもさらに深い地層へ潜っている。
南部から人工島中央へ。
学校の基礎部分へ。
既存の地下設備を避けるように進んでいた。
熱源を追っていない。
電力も、水流も追っていない。
より深く。
より静かに。
人類のセンサーが異常と判定できないほどの速度で、一本の細い掘削経路が伸びていた。
その先にあるのは、高度育成衛士高等学校の中央講堂直下だった。
入学式が行われた場所。
全校生徒が集められ、坂柳理事長が何度も演説を行った場所。
現在、講堂には誰もいない。
それでもBETAは、その方向へ進んでいる。
まるで建物や設備ではなく。
そこへ何度も集まった人間そのものを、覚えているかのように。
午前零時。
中央講堂地下の旧配線室。
誰もいない暗い室内で、壁面から僅かな砂が落ちた。
最初に一粒。
続いて二粒。
コンクリートの表面へ、小さな亀裂が生まれる。
警報は鳴らない。
観測装置にも振動は記録されない。
それでも。
鳳凰が広げた翼の中心で。
新しい穴が、音もなく開き始めていた。
午前零時七分。
高度育成衛士高等学校の中央講堂地下にある旧配線室では、
西側のコンクリート壁から細かな砂が落ち続けていた。
最初は一粒だけだった。
続いて二粒、三粒と増えていき、
やがて壁の表面に髪の毛ほどの細い亀裂が生まれた。
周囲へ響くような大きな音はない。
南部格納庫が崩壊した時のような激しい振動もなく、
人工島の地下へ設置された地中音響センサーも、
警戒値を超える反応を示していなかった。
BETAは、掘削速度を意図的に抑えているように見えた。
地中観測装置の感知範囲を避け、
既存の配管や地下空洞を利用しながら、
人工島の中心部へ少しずつ近づいている。
熱源を追っているわけではない。
大型電力設備へ向かっているわけでもなく、
水流や戦術機の反応炉を目指している様子もなかった。
その進路上にあるのは、中央講堂だった。
入学式が行われた場所。
全校集会や作戦説明で、多くの生徒と教職員が集まった場所。
今は誰もいないはずの建物へ、BETAは地中から静かに近づいていた。
旧配線室の壁が、内側から押されるように僅かに膨らむ。
表面から剥がれた小さなコンクリート片が床へ落ち、乾いた音を響かせた。
その音だけが、誰もいない地下室へ残った。
午前零時九分。
中央地下区画の巡回を担当していた警備員が、旧配線室前の廊下を歩いていた。
片手には施設管理用の携帯端末。
腰には拳銃。
節電と警戒のため、廊下の照明は一つ置きに消されており、周囲は薄暗い。
この区画は現在、ほとんど使われていない。
中央講堂の非常用電源と通信配線の一部が通っているだけで、
通常なら巡回の必要性も高くない場所だった。
だが北部と南部で相次いでBETAの侵入を受けたことで、
人工島地下の巡回人員は増員されていた。
それでも、広大な地下設備の全区画を常時監視できるわけではない。
警備員は旧配線室の前を通り過ぎた。
数歩進んだところで、足を止める。
何かが聞こえた。
砂を床へ撒いたような、僅かな音だった。
警備員は振り返り、閉ざされた防火扉を見る。
端末上に異常表示はない。
室温は正常。
振動値にも変化はなく、漏水警報も作動していなかった。
警備員は端末を操作し、旧配線室を解錠した。
重い防火扉を押し開ける。
室内は暗い。
壁面には古い配線盤が並び、隅には使われなくなった机や工具箱が残されている。
警備員が照明を点けると、床へ積もった埃と、
長く使用されていない設備が白い光の中へ浮かび上がった。
一見しただけでは、異常は見つからない。
警備員は室内へ入り、音がした西側の壁へ近づいた。
そこで初めて、細い亀裂へ気づいた。
昨日の巡回時には存在していなかった傷だった。
警備員は端末のカメラを向け、亀裂を撮影する。
映像を施設管理区画へ送信した。
「中央地下巡回より施設管理」
『施設管理、どうぞ』
「旧配線室の西側壁面に亀裂を確認しました」
『振動反応はありますか』
「ありません」
『漏水は?』
「確認できません」
警備員は壁へ手を伸ばした。
指先が亀裂へ触れる寸前。
壁の向こうから、低く重い音が聞こえた。
硬い物体が、コンクリートの裏側へ軽く触れたような音。
警備員の手が止まる。
「今、壁の奥で――」
言葉が終わる前に、亀裂が広がった。
警備員は反射的に後退する。
細かな破片が次々と床へ落ち、壁面全体がゆっくりと室内側へ膨らんでいく。
「BETA侵入の可能性!」
警備員が端末へ叫ぶ。
その直後、壁が崩れた。
爆発的に吹き飛んだのではない。
厚いコンクリートが内側から押し潰され、大きな塊のまま床へ倒れ込んだ。
粉塵が室内へ広がる。
壁の向こうには暗い穴が開いていた。
その奥で、複数の小さな影が動く。
戦車級。
警備員は拳銃を抜いた。
一発。
二発。
狭い室内へ銃声が激しく反響する。
先頭の一体が動きを止めた。
だが、その後ろから別の個体が現れる。
「中央講堂地下にBETA侵入!」
警備員は廊下へ後退しながら発砲を続ける。
「侵入口を確認!戦車級複数!」
非常警報のスイッチを押す。
旧配線室の防火扉が自動で閉じ始めた。
警備員は扉の外へ出る。
戦車級が後を追う。
あと僅かで閉じるというところで、一体の身体が隙間へ挟まった。
扉が停止する。
警告音が鳴り、完全封鎖に失敗したことを知らせた。
警備員は再び拳銃を構え、挟まった戦車級へ残弾を撃ち込んだ。
個体が動きを止める。
扉が再び閉まり、装甲ロックが作動した。
一枚の防火扉を隔てた向こうで、複数の何かが繰り返し扉へぶつかり始めた。
午前零時十二分。
校内全域に赤色警報が発令された。
学生寮。
教職員区画。
戦術機格納庫。
人工島中央部へ、短く鋭い警報音が響き渡る。
オレは目を開けた。
昨日に続く夜間警報だった。
枕元の端末を取る。
画面には、中央講堂地下へのBETA侵入を知らせる文字が表示されていた。
一般候補生は地下避難区画へ移動。
予備隊登録者は、別命令があるまで待機。
北部でも南部でもない。
今回は人工島の中央だった。
オレはすぐに訓練服へ着替え、強化装備を持って部屋を出た。
廊下では複数の扉が一斉に開いている。
平田。
須藤。
池。
山内。
他の男子生徒たちも、状況を把握しきれないまま部屋から出てきた。
平田が声を上げる。
「全員、階段へ向かって!」
「走らないで、順番に進んで!」
警報音の中でも、平田の声はよく通った。
女子寮側からも、生徒たちが連絡通路へ出てくる。
堀北。
櫛田。
軽井沢。
眠りから起こされたばかりの生徒たちは、不安を隠せていない。
軽井沢は端末を強く握りしめていた。
「中央講堂って、ここから近いよね?」
堀北が答える。
「直線距離なら八百メートルほどよ」
「地下ではつながってるの?」
「避難用通路の一部が近くを通っているわ」
軽井沢の表情が強張る。
櫛田が肩へ手を置いた。
「大丈夫。まずは指定された避難区画へ行こう」
「分かってる」
軽井沢は強い声を出そうとした。
だが、僅かな震えを隠し切れていなかった。
生徒たちは寮棟地下へ向かう。
その途中で、茶柱が現れた。
すでに強化装備を着用し、腰には拳銃、手には軍用端末を持っている。
「予備隊登録者は残れ!」
堀北。
須藤。
平田。
高円寺。
オレ。
別棟からは龍園、一之瀬、神崎たちも集められた。
ひよりも管制補助要員として呼び止められる。
それ以外の生徒は、そのまま避難区画へ誘導された。
軽井沢が平田を見る。
「平田くん」
平田が振り返った。
「僕は大丈夫」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてあるよ」
軽井沢は唇を噛んだ。
「絶対に戻ってきて」
平田は一瞬だけ表情を止めた。
それから穏やかに頷く。
「うん」
茶柱が急かした。
「時間がない。移動するぞ」
予備隊は寮棟地下から別の通路へ入る。
中央講堂へ向かう道ではない。
第一作戦管制室へ続く経路だった。
走りながら、茶柱が現在の状況を説明する。
「中央講堂地下の旧配線室で、戦車級の侵入を確認した」
須藤が尋ねる。
「何体いる」
「不明だ」
「大型種は?」
「現時点では確認されていない」
龍園が反応する。
「現時点では、か」
「侵入口は直径二メートル以下と推定されている」
茶柱は続けた。
「現在の幅では、要撃級以上の大型種は通れない」
須藤が僅かに息を吐く。
「なら、戦車級だけだろ」
「穴が今の大きさのままならな」
茶柱の声は冷たかった。
地中から掘り進むBETA。
最初に開けた穴が小さくても、後続が内側から広げる可能性はある。
一之瀬が尋ねる。
「戦術機は使えるんですか?」
「中央講堂地下へは入れない」
通路は狭く、天井も低い。
戦術機が立ち上がる空間すらない。
龍園が尋ねた。
「地上から講堂を壊すのは?」
「まだ生徒の避難が終わっていない」
茶柱は即答した。
「中央講堂地下は、複数の避難通路と接続している」
堀北が端末上の地図を確認する。
「BETAが旧配線室から通路へ出れば、避難中の生徒と接触する可能性がある」
「だから警備部隊が、現在三枚の防火隔壁を閉鎖している」
高円寺が静かに尋ねた。
「私たちの任務は?」
茶柱は走りながら答える。
「まだ決まっていない」
須藤が反応する。
「未定なのか?」
「戦術機へ乗るとは限らない」
茶柱は候補生たちを見る。
「今回は校内戦だ」
広い地上戦とは違う。
戦術機も大口径砲も使えない。
爆発物の使用も、地下構造への影響を考えれば限定される。
代わりに必要となるのは、歩兵、施設警備隊、工兵、設備職員。
人間が直接動かなければならない戦場だった。
「お前たち候補生を、BETAとの近接戦闘へ投入するつもりはない」
茶柱は明確に言った。
「だが、避難誘導、隔壁閉鎖、物資搬送、管制補助には参加させる」
須藤は不満を口にしなかった。
南部格納庫での経験を経て、
敵を撃つ以外にも戦場で必要な役割があると理解し始めている。
第一作戦管制室へ到着する。
巨大モニターには、中央講堂地下の立体図が表示されていた。
旧配線室を中心に複数の通路が伸びている。
現在、侵入区域は赤く表示されていた。
その周囲に三枚の隔壁がある。
第一隔壁は閉鎖済み。
第二隔壁は閉鎖途中。
第三隔壁では、避難する生徒たちが通過している。
地図上には、警備部隊、施設防衛隊、工兵隊の位置も表示されていた。
坂柳理事長が司令卓へ立っている。
坂柳有栖は側方の戦略席。
真嶋は施設図面と配管系統を確認し、
坂上と星之宮は戦術機用ではない歩兵防護装備を身に着けていた。
校内防衛へ直接向かう準備だった。
茶柱が尋ねる。
「状況を報告してください」
副官が答える。
「第一隔壁内の戦車級は推定三十体以上」
「現在も増加しています」
「旧配線室壁面の穴は拡大中」
「第二隔壁前には施設防衛隊二個班を配置」
「第三隔壁は生徒避難完了まで閉鎖できません」
大型モニターへ地下通路の監視映像が映る。
防護盾を構えた施設防衛隊。
小銃。
軽機関銃。
その正面には第二隔壁の巨大な装甲扉があり、
内側から繰り返し衝撃を受けていた。
扉の下から細かな粉塵が噴き出す。
『第二隔壁への圧力が上昇!』
坂柳理事長が尋ねる。
「あとどれほど持ちますか」
『推定十二分です』
第三隔壁側では、まだ数百人の生徒が移動している。
Aクラス。
Bクラス。
Cクラス。
Dクラス。
教師たちが誘導していた。
池や山内。
櫛田。
軽井沢。
神室や橋本も、今回は一般避難側にいる。
二人とも戦術機予備隊へ登録されているが、
今回の招集対象には含まれていなかった。
避難完了までの予測は八分。
第二隔壁の耐久時間との差は、僅か四分だった。
堀北が尋ねる。
「第一隔壁を爆破して封鎖することはできませんか」
真嶋が答えた。
「中央講堂の基礎へ近すぎる」
「崩落させれば、侵入口を塞げるのでは?」
「中央講堂全体が沈む可能性がある」
龍園が言う。
「人がいなくなった後なら構わねぇだろ」
坂柳有栖が首を横へ振った。
「講堂だけの問題ではありません」
地下構造図が拡大される。
「中央講堂の基礎は、第三隔壁側の避難通路と一部を共有しています」
現時点で爆破すれば、避難中の生徒がいる通路まで崩れる可能性がある。
龍園が尋ねる。
「なら、何を使って止める」
真嶋は配管図を開いた。
「第一隔壁区画へ、非常用の消火泡を流し込むことはできる」
須藤が言う。
「南部格納庫で冷却剤を使った時みたいに、動きを鈍らせるのか」
「通常の泡だけでは弱い」
ひよりが施設図面を見つめていた。
「旧配線室には、非常用絶縁樹脂の貯蔵タンクがあります」
真嶋がひよりを見る。
「固化樹脂か」
「はい」
電気火災が発生した際、
配線盤を空気や熱から遮断するために使用する特殊樹脂。
空気へ触れると短時間で硬化する。
貯蔵量は多くなく、広い通路全体を埋めることはできない。
それでも。
「侵入口へ直接流すことができれば」
ひよりは言った。
「穴の周囲を固め、拡大を遅らせられるかもしれません」
真嶋が配管の位置を確認する。
「通常の噴射口は天井側だ」
ひよりが尋ねる。
「遠隔で噴射できますか?」
「遠隔弁が壊れている」
北部侵入時に発生した衝撃で、一部設備の遠隔操作機能が停止していた。
「手動操作なら可能だ」
坂上が尋ねる。
「弁の位置は?」
真嶋が図面上を示す。
第二隔壁の内側。
侵入口から約六十メートル。
戦車級がいる区域だった。
茶柱が即座に言う。
「教導隊で行きます」
坂柳理事長は茶柱を見る。
「歩兵装備で入るのですか」
「戦術機では入れません」
坂上も頷く。
「施設防衛隊と一緒に進みます」
星之宮は軽く息を吐いた。
「今日は不知火じゃないのね」
茶柱が睨む。
「嫌なら残れ」
「行くに決まってるでしょ」
真嶋も防護装備へ手を伸ばした。
「弁は俺が操作する」
副官が止めようとする。
「整備主任が直接行く必要は――」
「設備構造を最も把握しているのは俺だ」
坂柳理事長は四人を見た。
教導隊。
教師。
衛士。
今回は戦術機に守られず、人間の身体でBETAのいる地下へ入る。
「許可します」
声は静かだった。
「ただし、樹脂弁を開放した後は直ちに撤退してください」
茶柱が答える。
「了解」
堀北が一歩前へ出た。
「私たちは?」
茶柱が指示を出す。
「第三隔壁の避難を補助しろ」
「平田、一之瀬、神崎は生徒誘導」
平田。
「了解」
一之瀬。
「はい」
神崎。
「俺も了解です」
「須藤、龍園、高円寺、綾小路は、第二隔壁後方で物資を運べ」
須藤が尋ねる。
「武器は?」
「持たせない」
「第二隔壁が破られたら?」
「第三隔壁まで下がれ」
「でも、先生たちは内側にいる」
「命令だ」
須藤は拳を握った。
それでも答える。
「了解」
「ひよりは坂柳と管制補助」
「はい」
茶柱は候補生全員を見る。
「自分へ与えられた役割を越えるな」
高円寺が静かに答えた。
「了解」
午前零時二十一分。
第三隔壁前では、数百人の生徒が長い列を作っていた。
警報音。
赤色灯。
誰も本当の意味で落ち着いてはいない。
それでも教師と予備隊の誘導によって、最低限の秩序は保たれていた。
一之瀬が声を上げる。
「走らないでください!」
「前の人との間隔を少し空けて!」
平田は列の後方へ向かって呼びかける。
「立ち止まらないで!」
「荷物は置いていこう!」
神崎は名簿と通過人数を確認していた。
「Dクラス、残り十二人!」
軽井沢は列の途中で、櫛田と一緒に足を痛めた女子生徒を支えている。
櫛田が穏やかに声をかける。
「大丈夫。あと少しだからね」
女子生徒は泣いていた。
軽井沢が強い声を出す。
「泣いてても歩けるでしょ」
言い方は厳しい。
だが、支えている手は離さなかった。
「ほら。私たちが一緒にいるから」
平田はその様子を見た。
軽井沢と一瞬だけ目が合う。
平田が頷く。
軽井沢も小さく頷き返した。
第三隔壁の向こう側。
第二隔壁後方の物資搬送区画では、
オレたちが施設防衛隊へ弾薬や防護装備を運んでいた。
須藤は重い弾薬箱を左右の手に一つずつ持つ。
「戦術機の部品よりは軽いな」
龍園は別の箱を肩へ担いだ。
「比較する物じゃねぇだろ」
高円寺は大型防護盾を運んでいる。
「私に肉体労働をさせるとは、この学校も贅沢だねぇ」
須藤が睨む。
「文句を言うなら置いていけ」
「文句ではない。単なる感想さ」
そう答えながらも、高円寺は歩調を崩していなかった。
オレは医療物資と予備の通信機器を運ぶ。
第二隔壁前では、施設防衛隊が装備の最終確認を行っていた。
防弾盾。
重機関銃。
散弾銃。
短機関銃。
火炎放射器は使用しない。
地下設備への延焼や酸素消費の危険が大きいためだった。
代わりに、接近する戦車級を狭い通路で止める武器が選ばれている。
教導隊の四人も、防護服を身に着けていた。
茶柱は短銃身の散弾銃。
坂上は大型盾。
星之宮は軽機関銃。
真嶋は工具一式と拳銃。
戦術機の操縦席とは違う。
生身の人間。
要撃級の攻撃を回避するような機動はできない。
戦車級一体であっても、距離を詰められれば致命的な危険になる。
茶柱は第二隔壁の前へ立った。
「小型扉を開放した後、五十秒以内に手動弁へ到達する」
坂上が確認する。
「施設防衛隊が前方を確保する」
「教導隊は中央だ」
星之宮が尋ねる。
「帰りも同じ道?」
「そうだ」
真嶋が補足する。
「樹脂を噴射した後は、敵だけでなく通路そのものも固まり始める」
茶柱が尋ねる。
「撤退可能時間は?」
「弁を開いてから九十秒」
茶柱は全員を見回した。
「五十秒で弁へ到達する」
「真嶋が開放」
「九十秒以内に第二隔壁まで戻る」
説明だけなら単純だった。
だが、途中には複数の戦車級がいる。
管制から報告が入る。
『第二隔壁の耐久時間、残り五分』
第三隔壁の避難完了まで約四分。
教導隊が先に侵入口を固めなければ、
第二隔壁が生徒避難完了前に突破される可能性がある。
茶柱が命じた。
「開けろ」
第二隔壁の小型歩兵用扉が開く。
巨大な隔壁全体を上げるわけではない。
人間一人が通れる程度の狭い開口部。
施設防衛隊が盾を前へ構え、順番に内部へ入っていく。
一人。
二人。
三人。
続いて教導隊が入る。
最後の者が通過すると、小型扉は再び閉じられた。
監視映像へ、第一隔壁と第二隔壁の間にある暗い通路が映る。
非常灯だけが点いている。
床には複数の戦車級反応。
施設防衛隊が前進した。
最初の角へ到達する。
戦車級三体。
茶柱の散弾銃が火を噴く。
狭い通路に轟音が響いた。
一体が止まる。
二体目へ軽機関銃の短い連射。
三体目が壁際から回り込む。
坂上が大型盾をぶつけ、身体ごと押し返した。
茶柱が至近距離から散弾を撃ち込む。
『前進!』
止まってはいられない。
倒れた個体を越える。
次の角から五体。
星之宮が軽機関銃を撃つ。
弾丸が壁面へ当たり、激しい火花を散らす。
戦車級が次々と倒れる。
真嶋は隊列中央。
片手には工具箱。
手動弁まで残り三十メートル。
背後にある別の穴から、二体の戦車級が現れた。
施設防衛隊が振り向き、射撃する。
隊員の一人が足を取られて転倒した。
戦車級が近づく。
茶柱が振り返って撃つ。
一体が止まる。
坂上が残る一体へ盾を叩きつけた。
転倒した隊員が立ち上がる。
茶柱が尋ねる。
『負傷は?』
「ありません!」
『なら進め!』
教導隊は前進を続ける。
全力で走ることはできない。
足元には倒れたBETA。
引き千切られた配線。
床に走る亀裂。
僅かに滑れば、即座に敵との距離を詰められる。
管制室では、ひよりが複数の監視映像を切り替えていた。
「右側の保守通路から反応が接近しています」
坂柳有栖が教導隊へ警告を送る。
『次の交差点、右側から四体です』
茶柱。
『了解』
交差点へ到達する前に、星之宮が右側へ銃口を向ける。
戦車級が姿を現した。
相手がこちらへ向き直るより先に発砲する。
短い連射。
二体が止まる。
残る個体は壁際へ隠れた。
坂上が盾を構えて前へ出る。
茶柱がその左側から射撃を加える。
残る二体も排除された。
真嶋が声を上げる。
『あと十メートル!』
壁面に黄色い大型ハンドルが見える。
樹脂噴射用の手動弁。
だが、その手前には旧配線室と保守通路をつなぐ補助扉があった。
第一隔壁とは別の小型扉。
内側から何度も衝撃を受け、金属板が大きく歪んでいる。
戦車級が反対側から出ようとしている。
真嶋が弁へ近づく。
その瞬間、補助扉が破れた。
歪んだ金属板が通路へ倒れ込む。
戦車級が一気に六体現れた。
茶柱が叫ぶ。
『真嶋を守れ!』
施設防衛隊が射撃を始める。
通路は狭い。
敵と味方の距離も近い。
長い連射はできない。
坂上が盾で前方を塞ぐ。
一体の戦車級が盾へ飛びつく。
激しい衝撃。
坂上の身体が壁際まで押される。
星之宮が横から射撃する。
茶柱は真嶋の前へ立ち、散弾銃を撃った。
発砲。
再装填。
再び発砲。
足元へ一体が近づく。
茶柱は敵を蹴って距離を作り、拳銃へ持ち替えた。
三発。
戦車級が動きを止める。
真嶋は大型ハンドルへ両手をかけた。
力を込める。
だが、動かない。
「錆びついてる!」
坂上が叫ぶ。
『早くしろ!』
「分かってる!」
真嶋は工具をハンドルの隙間へ差し込んだ。
てこの原理を使い、全体重をかける。
ハンドルが僅かに動いた。
管制表示が更新される。
『第二隔壁の耐久時間、残り三分』
第三隔壁側では、まだ百二十人ほどの避難者が残っていた。
一之瀬が声を上げる。
「急いでください!」
平田は列の最後尾側へ走る。
「AクラスとBクラスは通過済み!」
神崎が人数を報告する。
「Cクラス残り三十人!」
「Dクラス残り五十人!」
軽井沢と櫛田は、まだ列の後方にいた。
二人で足を痛めた女子生徒を支えている。
女子生徒が苦しそうに言う。
「私を置いて、先に行って」
軽井沢が即座に否定する。
「無理」
「私のせいで、みんなが――」
「そういうの、今はいらないから」
軽井沢は強く言った。
「歩けないなら、もっと肩へ体重をかけて」
櫛田も反対側から身体を支える。
「一緒に行こう」
そこへ平田が近づいた。
「僕が代わる」
軽井沢は首を横へ振る。
「平田くんは後ろを見て」
「でも――」
「あたしはこの子を連れていく」
平田は一瞬だけ迷った。
全員を助けたい。
自分が代われば、女子生徒をもっと早く運べるかもしれない。
だが、避難列全体の最後尾を確認する者も必要だった。
誰か一人だけではなく、全体を守るためには役割を分けなければならない。
茶柱から教えられた、守る順番。
平田は頷いた。
「分かった」
「僕は後方を確認する」
軽井沢の目が僅かに揺れた。
「うん」
平田は列の後方へ戻る。
軽井沢と櫛田は女子生徒を支えたまま、第三隔壁へ向かって歩き続けた。