坂柳理事長は、戦線の一部が持ち直したという報告を受けても、
安堵や喜びを表情へ出さなかった。
彼の視線は立体戦況図へ向けられたままであり、
東京湾の海底に浮かび上がる敵反応を一つずつ追っている。
画面上の赤い光点は減るどころか、先ほどまでよりも速い速度で増え始めていた。
しかも新たな反応が確認されているのは、
サムライ大隊が交戦している東側だけではない。
人工島の南東海域と北東海域にも複数の反応が浮上し、
まるで島を海上から包囲するように広がりつつあった。
「挟撃です」
戦略席から立体地図を見ていた坂柳有栖が、静かな声で告げた。
副官はすぐに表示範囲を拡大し、
南東と北東の反応を別々の画面へ映し出す。
「南東海域に多数の反応を確認しました。
北東海域にも新たな敵影が浮上しています」
「数は?」
坂柳理事長が尋ねる。
「現在確認中です。小型種が多数、
その後方に大型種と思われる反応も含まれています」
人工島東部の防壁を攻撃している敵だけに注意を向けていれば、
南東と北東から上陸した別の群れに側面を突かれる。
敵が意図的に人類側の戦力を分散させようとしているのかは分からないが、
結果として人工島は三方向から攻められようとしていた。
坂柳理事長は一瞬だけ地図全体を見渡した後、迷いなく命令を下した。
「第七戦術機甲大隊オニキリを南東海域へ出撃させてください。
島内防衛線は第二段階へ移行します。
東側防壁だけを主戦場と考えてはいけません。
敵は人工島の外周全域へ展開しようとしています」
「了解しました」
命令が各区画へ伝達されると、
人工島全体へ響いていた警報音が第二種警戒配置を示すものへ切り替わった。
地下通路では各区画を分離する防火扉が順番に閉鎖され、
格納庫、補給区画、医療区画、居住区がそれぞれ独立した防衛単位へ移行していく。
候補生たちの携帯端末にも退避準備を求める表示が現れ、
管制室内の空気はさらに張り詰めた。
茶柱は候補生たちの顔を見回した後、作業を止めようとする者を制するように告げた。
「記録作業を続けろ」
堀北が手元の端末から顔を上げた。
「島内戦闘へ移行する可能性があるのですか?」
「ある」
茶柱は曖昧に濁さず答えた。
「その可能性があるのに、私たちはここに残っていていいのですか?」
「現状では、この管制区画にいる方が安全だ。
ただし正式な避難命令が出た場合は、
作業中の端末も記録データも捨てて、指定された退避区画へ走れ」
「これまで集めた記録はどうするのですか?」
「命より優先する記録など存在しない」
茶柱の返答に迷いはなかった。
候補生が記録を残すことも、実戦を観察して学ぶことも大切ではある。
しかし、その役割は彼らの命より上に置かれるものではない。
茶柱はその線引きを、戦場の緊張に呑まれかけている生徒たちへ改めて示した。
その時、オレの端末へ新しい出撃部隊の情報が送られてきた。
第七戦術機甲大隊オニキリ。
出撃機数は十八機。
主力機は陽炎と不知火で構成されており、
島周辺の海上戦と近距離での大型種排除を想定した部隊だった。
表示された格納庫映像では、赤と黒の識別塗装を施された戦術機が整然と並んでいる。
先頭機の肩部装甲には、二本の角を持つ鬼を図案化した部隊章が描かれていた。
『オニキリ1より全機へ』
大隊長の低い声が、十八機の共通回線へ入る。
『特別なことをする必要はない。これまで繰り返してきた訓練と同じように動け』
各機が突撃砲、長刀、短刀を構える。
『敵を人工島へ近づかせるな』
跳躍ユニットが一斉に点火され、格納庫の床を激しい炎と噴煙が覆った。
次の瞬間、十八機の戦術機が次々と地表を蹴り、
人工島上空を越えて南東海域へ飛び出していく。
龍園がこの映像を見ていれば、面白そうに笑ったかもしれない。
オニキリ大隊は敵の正面へ躊躇なく飛び込む部隊だった。
しかし、その攻撃性は候補生が衝動に任せて前へ出ることとは根本的に異なる。
各機は互いの死角を補い、射線が重ならない角度を維持しながら散開する。
先頭機が敵の注意を引きつければ、左右の僚機が側面へ回り込み、
後方の機体が大型種の退路と増援経路を砲撃によって遮断する。
荒々しく見える動きの裏側に、積み重ねられた訓練と明確な役割分担が存在していた。
オニキリ大隊が南東海域へ到達すると、
先頭部隊は海面すれすれまで高度を落とし、
そのままBETA群の中央へ斜めに突入した。
突撃砲の連射が戦車級の群れを押し返し、
爆炎によって生じた隙間へ複数の不知火が飛び込む。
長刀を構えた機体が突撃級の側面へ回り込み、
硬い前面装甲を避けて脚部関節へ刃を走らせた。
突撃級が姿勢を崩したところへ、後方から百二十ミリ砲弾が叩き込まれる。
巨大な爆発と共に海水が数十メートルの高さまで噴き上がり、
傾いた突撃級の巨体が横倒しになった。
その隣では、要撃級の長い前肢が低空を駆ける陽炎へ振り下ろされる。
陽炎は腕が直撃する直前に跳躍ユニットを噴射し、
海面へ触れそうな高度から一気に機体を持ち上げた。
巨大な腕が海へ叩きつけられ、水柱が視界を覆う。
その白い水煙の中へ別の不知火が入り込み、要撃級の脚部へ長刀を突き立てる。
さらに上空へ逃れた陽炎が反転し、
敵の肩口へ至近距離から突撃砲を撃ち込んだ。
一機がBETAの群れへ深く入りすぎても、孤立する前に必ず二機が援護へ入った。
突出した機体を無理に後退させるのではなく、
その突破によって開いた敵陣の亀裂を部隊全体で拡大し、戦果へ変えていく。
『オニキリ6、左側を空けろ!』
『分かっている!』
『分かっている機動には見えない!もう一歩外へ開け!』
激しい言葉が飛び交っているにもかかわらず、隊形は乱れない。
要撃級が一機へ狙いを定めて腕を振るうと、
狙われた機体は回避しながら敵の懐へ潜り込む。
要撃級が腕を戻せない瞬間を見計らい、上空から別の機体が長刀を振り下ろした。
そこへ後方機の砲撃が重なる。
三方向からの攻撃を受けた要撃級は、爆炎に包まれながら海面へ倒れ込んだ。
BETAが持つ物量と身体能力は圧倒的だった。
倒しても倒しても、海中から新たな戦車級が浮上し、
大型種は砲撃を受けながらも人工島を目指して前進し続ける。
それでも、人類側が一方的に押されているわけではなかった。
個体としての力では及ばなくても、戦術と火力を組み合わせ、
仲間同士で互いの弱点を補うことができる。
一機では止められない敵を複数機で分断し、
一度に相手をする数を減らし、確実に撃破する。
それが人類の戦い方だった。
戦場を動かしているのは、一人の英雄だけではない。
最前線で戦う衛士がいれば、敵の位置を伝える管制官がいる。
損傷した機体を再び戦場へ送り出す整備員がいて、
必要な弾薬を届ける補給担当がいる。
避難者を安全な区画へ誘導する者もいれば、
戦況を記録して次の戦いへ残す者もいる。
誰か一人の役割が欠ければ、戦線全体が崩れる可能性がある。
「綾小路くん」
隣から堀北の声がした。
オレの端末にも新たな報告が次々と表示されている。
サムライ大隊の弾薬残量は急速に低下し、東側防壁の損傷率も上昇していた。
シールド防衛群では一機が脚部を破損し、単独で移動できなくなっている。
南東海域へ向かったオニキリ大隊は交戦中だが、
北東からは別のBETA群が人工島へ接近していた。
残されている予備戦力は少ない。
堀北は画面から目を離さずに尋ねた。
「この防衛線は持つと思う?」
「分からない」
「あなたでも分からないの?」
「オレは司令官ではない」
「そういう意味で聞いたのではないわ」
堀北の指先が僅かに震えていた。
恐怖を感じているのだろう。それでも彼女は端末を置かず、
送られてくる損害報告を整理し続けている。
「私は、自分が優秀でさえあれば問題はないと思っていた」
堀北は小さな声で続けた。
「訓練でも試験でも、自分一人で正しい答えを出せれば、それで十分だと思っていたわ」
正面映像では、脚部を損傷した撃震を別の戦術機が支え、後方へ運ぼうとしている。
一機では動けなくなった機体も、僚機が肩を貸せば戦場から帰ることができる。
「でも、ここでは一人だけでできることなんて、ほとんどないのね」
「そうかもしれないな」
「曖昧な答えね」
「オレたちは、まだ入学して七日しか経っていない」
堀北はそこで初めて画面から視線を外し、僅かに息を吐いた。
「そうだったわね」
入学から、まだ一週間しか経過していない。
それにもかかわらず、オレたちは本物の実戦が映し出される管制室で、
部隊の損耗と人工島の防壁が崩れていく様子を見ている。
自分たちが理解していないことの方が多いのは当然だった。
その時、管制室全体を今までで最も強い衝撃が襲った。
床が大きく揺れ、天井から細かな埃が降り注ぐ。
照明が一斉に消えた後、赤い非常灯が点灯し、新たな警報が鳴り響いた。
『北東防壁へ突撃級が衝突しました!』
『外壁第一層が破損!』
『敵は第二層へ接近しています!』
立体戦況図の北東区画が赤く染まる。
人工島内部へ侵入されたわけではない。
しかし、突撃級は既に第一防壁を突破し、残された最後の防壁へ向かっていた。
「北東区画へ予備戦力を回せ!」
副官が叫ぶ。
「現在、直ちに動かせる部隊がありません!」
「オニキリ大隊の一部を北東へ分派しろ!」
「南東海域の戦線が崩れます!」
指令室内では複数の報告が重なり、
管制官たちが各部隊の位置と残弾を必死に確認している。
サムライ大隊は東側防壁から離れられず、
オニキリ大隊も南東海域で大型種と交戦している。
シールド防衛群には損傷機が多く、北東へ回すだけの余裕はなかった。
坂柳理事長が立体地図を見つめる中、茶柱が一歩前へ出た。
「教導隊を出撃させます」
その場にいた全員の視線が茶柱へ集まった。
「教導隊を?」
坂柳理事長の表情が僅かに変わる。
高度育成衛士高等学校教導隊。
普段は候補生へ戦術機の操縦と戦術を教える教官衛士部隊だが、
そこに所属する者たちは全員が過去の戦場を生き延びてきた元実戦衛士でもある。
茶柱佐枝。
坂上数馬。
星之宮知恵。
真嶋智也。
候補生たちが日常的に接している教官たちは、単なる指導者ではなかった。
「候補生の管制作業を中止します」
茶柱は自分の端末を外し、すぐに出撃準備へ移った。
「坂上教官は北東格納庫へ向かってください」
「了解した」
坂上も迷うことなく席を離れる。
真嶋と星之宮へも出撃命令が送られ、
別区画にいた二人が北東格納庫へ向かい始めた。
堀北が反射的に立ち上がる。
「茶柱先生も出るのですか?」
「座れ」
「ですが――」
「座れ、堀北」
普段の授業以上に強い声だった。
堀北は唇を結び、ゆっくりと椅子へ戻る。
茶柱は候補生たちを一人ずつ見た。
そこにいるのは、いつもの厳しい教官であると同時に、
これから戦場へ戻ろうとする衛士だった。
「お前たちは記録を続けろ」
神崎が尋ねる。
「教官がいなくなった後もですか?」
「管制官の指示に従えばいい。勝手な判断で持ち場を離れるな」
茶柱はそれだけ告げると、管制室の扉へ向かった。
その背中へ、堀北が声をかける。
「先生」
茶柱の足が止まる。
「必ず戻ってきてください」
静かな声だった。
命令でも、訓練上の確認でもない。
一人の生徒として発した願いだった。
茶柱は振り返らずに答えた。
「当然だ」
それだけ言い残し、管制室を出ていく。
正面モニターへ北東格納庫の映像が表示された。
広い格納庫には四機の戦術機が並んでいる。
茶柱と星之宮が搭乗する二機の不知火。
坂上の陽炎。
真嶋が扱う重装甲の撃震。
候補生が訓練で見上げている時とは異なり、
各機には実弾と実戦用装備が搭載されていた。
装甲には過去の戦闘で受けた損傷を補修した跡が残り、
それぞれの機体が教官たちと共に複数の戦場を越えてきたことを示している。
整備員が最後の確認を終え、支持架が解除される。
『高度育成衛士高等学校教導隊、出撃準備完了』
茶柱の声が管制室へ響く。
戦場へ出る直前だというのに、普段と変わらず冷静だった。
『北東防壁第二層の防衛に入る』
坂柳理事長が専用回線を開いた。
「教導隊へ」
『こちら茶柱』
「候補生たちが見ています」
短い沈黙があった。
『それなら、良い教材になるでしょう』
戦場へ向かう直前まで、茶柱らしい答えだった。
坂柳理事長は僅かに目を伏せた後、静かな声で続ける。
「生きて帰ってください」
『了解』
北東格納庫の巨大な扉が開く。
外には黒煙と炎が広がり、崩れた第一防壁の向こうで複数の巨大な影が動いている。
第一層を突破した突撃級が第二層へ向かい、
その周囲を要撃級と戦車級が固めていた。
教導隊四機が格納庫から前へ出る。
先頭は茶柱の不知火。
右手に長刀を持ち、左手には突撃砲を構えている。
『茶柱機が先行する』
『相変わらず自分から危険な場所へ行くのね』
星之宮が、いつもの軽い口調を僅かに残しながら言った。
『候補生の前で格好をつけたいんだろう』
坂上も続ける。
『無駄口を叩くな。真嶋は後方支援へ回れ』
『最初からそのつもりだ』
四機は格納庫を出ると、第二層防壁の開口部へ向かって一斉に加速した。
その正面では、巨大な突撃級が硬い前面装甲をこちらへ向け、
第二防壁へ突進しようとしている。
茶柱機は進路を変えず、真正面から突撃級へ向かっていく。
「正面から止めるつもりなの?」
堀北が息を呑んだ。
しかし、茶柱が狙っていたのは突撃級そのものではなかった。
彼女は第一防壁の崩落によって生じた巨大な瓦礫へ向かい、
直前で跳躍ユニットを噴射した。
不知火は瓦礫を踏み台にして高く跳び、突撃級の硬い前面装甲を飛び越える。
巨体の背後へ着地すると同時に振り向き、
装甲の薄い脚部へ三十六ミリ弾を集中させた。
爆発によって突撃級の速度が僅かに落ちる。
その横から星之宮機が接近し、長刀で脚部関節へ斬撃を加えた。
坂上の陽炎は反対側へ回り込み、
機動力を活かして至近距離から連続射撃を浴びせる。
左右の脚部を同時に攻撃された突撃級が、前へ進む力を失って大きく姿勢を崩した。
『今だ、真嶋!』
後方へ位置していた撃震の大型砲が火を噴く。
轟音と共に放たれた砲弾が突撃級の側面へ直撃し、巨大な爆炎が広がった。
爆圧を受けた巨体は横方向へ押し流され、
第二防壁へ到達する寸前で地面へ倒れ込む。
『一体目を排除した』
茶柱は戦果を誇る様子もなく、すぐに次の敵へ視線を向ける。
『次が来る』
倒れた突撃級の奥から、さらに二体の大型反応が接近していた。
要撃級も複数続いている。
教導隊は退かなかった。
たった四機しかいないにもかかわらず、
第二防壁の前へ並び、迫るBETA群を迎え撃つ。
茶柱機が先頭。
坂上と星之宮が左右を固め、真嶋が後方から重火力を加える。
配置そのものは教本に記載されている基本的な陣形だった。
しかし、四機の動きは教本の図解だけでは再現できないほど滑らかだった。
何年も同じ戦場を経験してきた者たちは、
互いの次の動きを細かな指示が出る前から理解している。
茶柱機へ要撃級の長い腕が振り下ろされる。
茶柱は大きく後退せず、機体半分ほど横へずらす最小限の動きで回避した。
攻撃を外した要撃級へ、星之宮が側面から連続射撃を加える。
要撃級が彼女へ向きを変えようとした瞬間には、
坂上の陽炎が背後へ回り込み、長刀で脚部へ深い斬撃を刻んでいた。
その間にも真嶋は前衛の死角へ回り込もうとする戦車級を大型砲で排除し、
教導隊の周囲へ敵を集めさせない。
爆発と爆炎が崩れた防壁の周囲を覆い、黒煙の中から新たな敵影が現れる。
それでもBETAは前進を続け、教導隊も一歩も下がらなかった。
管制室で映像を見ている候補生たちは、誰も声を発することができなかった。
茶柱の厳しさ。
坂上の妥協を許さない指導。
星之宮が時折見せる軽さ。
真嶋の無愛想さと整備への執着。
彼らが普段見せている性格や態度は、
すべて過去の戦場で経験したものから作られていた。
教官たちは生徒を苦しめるために厳しくしていたのではない。
いつか実戦へ出た時、彼らを生きて帰すために必要なことを教えようとしていた。
今、その意味が目の前で形になっている。
「先生たちは、ずっとこうやって戦ってきたのね」
堀北が小さく呟いた。
正面映像では、茶柱機が要撃級の攻撃を回避し、
短い跳躍から長刀を振り下ろしている。
着地した直後には別の敵へ照準を切り替え、
仲間の射線を避けながら次の位置へ移動していた。
どの動作にも無駄がなく、判断にも迷いがない。
しかし、恐怖を感じていないわけではないだろう。
恐怖を知っているからこそ、自分の位置と味方の位置を見失わず、
無理に敵を追わず、帰還できる範囲を守っている。
恐怖を抱えたまま動けること。
それが衛士としての強さだった。
戦闘開始から二十分が経過した頃、北東防壁前には多数のBETAが倒れていた。
教導隊も無傷ではない。
坂上機は左肩部の装甲を損傷し、
星之宮機は突撃砲の一門が作動しなくなっている。
真嶋の撃震は脚部出力が低下し、
茶柱の不知火も装甲各部へ複数の損傷警告が表示されていた。
それでも第二防壁は守られている。
東側ではサムライ大隊が戦線を維持し、
南東海域ではオニキリ大隊が少しずつ敵群を沖へ押し戻し始めていた。
立体地図を埋めていた赤い反応も、僅かずつ減少していく。
さらに海底から浮上していた増援反応が、ある時点を境に止まった。
「海底反応が減少しています!」
管制官が声を上げる。
「敵群が後退しているわけではありません。
活動を停止する個体が急速に増えています!」
理由は分からない。
BETAは基本的に人類側から逃げることも、自発的に撤退することもない。
しかし、海底から地表へ向かっていた個体数は明らかに減っていた。
それによって各戦線は持ち直し始める。
東側防壁では、サムライ大隊が残っていた最後の大型種を集中砲火で排除した。
南東海域では、オニキリ大隊が損傷機を守りながら海岸線を奪還する。
北東防壁前では、教導隊が残る要撃級へ火力を集中し、
第二層へ近づいていた敵を撃破した。
激しかった砲撃は少しずつ減っていく。
連続していた爆発音の間隔も長くなり、やがて東京湾へ奇妙な静けさが戻ってきた。
警報はまだ解除されていない。
海面には黒煙が漂い、防壁周辺では複数の火災が続いている。
損傷によって動けなくなった戦術機も、海岸や防壁の前に立ち尽くしていた。
それでもBETAの前進は止まった。
『各部隊、追撃してはいけません』
坂柳理事長が全軍へ命じる。
「現在の防衛線を維持し、損傷機の回収を優先してください。
光線級が残存している可能性にも警戒を続けます」
勝利したと言い切るには、損失が大きすぎた。
人工島は守られ、防壁も完全には突破されていない。
だが、多数の戦術機が損傷し、
複数の部隊が自力では帰還できない機体を抱えている。
防衛用砲台も失われ、弾薬と推進剤の消耗も深刻だった。
そして、東京湾の海底には今も複数の反応が残っている。
BETAそのものが消滅したわけではない。
今回の攻撃が一時的に終わっただけだった。
やがて茶柱の不知火が北東格納庫へ帰還した。
片腕の装甲は焦げ、脚部にも明らかな損傷を受けていた。
それでも機体は僚機に支えられることなく、自力で格納庫まで歩いている。
支持架へ固定された後、ハッチが開き、茶柱が昇降機で地上へ降りてきた。
整備員がすぐに機体へ駆け寄り、医療班も茶柱本人の状態を確認しようとする。
しかし茶柱は簡単な確認だけで済ませ、管制棟へ戻ろうとした。
『茶柱教官』
格納庫の通信設備を通して、管制官の声が届く。
『候補生は全員無事です』
茶柱の足が止まった。
彼女は僅かに顔を上げる。
『そうか』
返した言葉は、それだけだった。
しかし、その瞬間だけは肩から僅かに力が抜けたように見えた。
管制室でも、堀北が茶柱機の帰還映像を見つめていた。
「戻ってきた」
「ああ」
「本当に戻ってきたのね」
「ああ」
堀北はそれ以上何も言わなかった。
神崎も一度目を閉じ、張り詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
橋本はようやく椅子の背へ身体を預けた。
「初日から、あまりにも濃すぎるだろ」
「入学から一週間経過しています」
坂柳有栖が訂正する。
「そういう問題を言ってるんじゃないんだけどな」
橋本が苦笑する中、坂柳有栖は父親の帰還を喜ぶ者たちには加わらず、
正面モニターへ残された防衛地図を見つめていた。
映っているのは残存戦力、損傷した防壁、海底へ残る反応だった。
「これは始まりに過ぎません」
その言葉を聞き、候補生たちが彼女を見る。
「BETAは偶然、この人工島へ到達したのではないと思います」
堀北が尋ねた。
「そう考える根拠は?」
「敵の進行方向です」
坂柳は地図上の軌跡を指した。
「敵は羽田空港やお台場へ分散することなく、この人工島へ集中しました。
それも、東、南東、北東の複数方向から同時にです」
神崎が別の可能性を口にする。
「人工島のエネルギー施設や戦術機の反応を感知したのかもしれない」
「ええ。その可能性はあります。あるいは、
我々がまだ認識していない別の何かを感知したのかもしれません」
坂柳の視線が、人工島東部の海底へ移る。
「しかし、最も注意しなければならないのは、
戦闘が終わっても海底から消えていない反応です」
正面モニターへ表示された赤い点の多くは、海底の深い位置に残っていた。
一部の反応は、戦場から離れる方向へ移動しているのではない。
さらに下へ向かっている。
「地中へ潜っているの?」
堀北が呟く。
管制官たちも海底振動データを再確認し、
戦闘終了後も続いている異常へ気づき始めた。
昨夜から海底地震として処理されていた振動は、自然現象ではなかった。
BETAが海底を移動している。
しかも、一部の群れは海岸や人工島を目指すのではなく、
東京湾の海底からさらに深い地中へ向かっている。
坂柳理事長は海底地形と振動記録を重ね、表示範囲を拡大させた。
赤い軌跡は海底面で止まらず、岩盤の内部へ伸びている。
「これは……」
副官はその先にある可能性へ気づき、言葉を失った。
BETAは上陸するだけが目的ではなかった。
東京湾の海底で地中へ潜り、新たな空間を作ろうとしている。
あるいは、既に何かを作り始めている。
その場にいた誰も、ハイヴという言葉を口にはしなかった。
しかし、口にしなくても全員が同じ可能性を理解していた。
仮に東京湾の地下へハイヴが形成されれば、危険に晒されるのは人工島だけではない。
羽田空港。
お台場。
東京湾岸の各都市。
そして帝都全域。
首都の足元そのものが、BETAの進出拠点になる。
坂柳理事長は長い沈黙の後、中央司令部への報告を命じた。
「現在得られている海底反応を、すべて中央司令部へ送ってください」
「了解しました」
「同時に、東京湾全域で記録された地下振動を再解析します。
対象期間は過去三か月分です」
副官が僅かに驚く。
「三か月前まで遡るのですか?」
「この異変が昨夜から始まったとは限りません」
管制官たちはすぐに過去の観測記録を呼び出し、
振動の発生位置と移動方向を解析し始めた。
坂柳理事長は正面モニターに映る暗い東京湾を見つめる。
「候補生を避難区画へ戻してください」
間もなく、茶柱が管制室へ戻ってきた。
訓練服ではなく、先ほどまで戦術機へ搭乗していた衛士強化装備のままだった。
額には汗が残り、表情には隠しきれない疲労がある。
それでも歩き方は普段と変わらず、
候補生たちの前で弱った姿を見せるつもりはないようだった。
Dクラスの生徒たちが立ち上がる。
堀北が何か言おうとする前に、茶柱が告げた。
「今日の管制作業は終了だ」
「先生」
「感想と反省は明日聞く」
「そうではありません」
堀北は一度言葉を止めた。
「無事で良かったです」
茶柱は僅かに目を見開いた。
すぐにいつもの厳しい表情へ戻る。
「当然だと言ったはずだ」
「はい」
「寮へ戻るぞ」
候補生たちは茶柱に従い、管制室を出た。
地下通路には依然として赤い警報灯が点灯していたが、
先ほどまで床を震わせていた砲撃音はほとんど聞こえなくなっている。
途中、別の避難区画へ移動していた平田と櫛田が合流した。
「みんな、無事だった?」
櫛田が足早に近づく。
「ああ」
平田もオレたちの姿を確認し、明らかに安堵した。
「避難区画の方も大丈夫だったよ。
途中で少し混乱したけれど、全員を指定区画へ移動させられた」
補給区画へ回されていた須藤たちも戻ってくる。
制服と両手は油や埃で汚れていた。彼らが運んでいたのは弾薬箱ではなく、
戦術機用の交換部品や医療物資だったらしい。
「重すぎるだろ、あれ」
須藤は腕を回しながら文句を言う。
「戦術機の部品って、どうして一つ一つがあんなに重いんだよ」
「軽ければ装甲や駆動部品として使えないだろう」
オレが答える。
「そういう問題なのか?」
須藤は納得していないようだったが、表情にはどこか充実感があった。
直接敵と戦っていなくても、
自分が運んだ部品や物資が前線の誰かを支えたことを理解しているのだろう。
高円寺は避難区画の入口付近へ立ち、地上の戦況表示を眺めていた。
須藤が近づく。
「お前は本当に、ここでずっと見ていただけなのか」
「そうだよ」
「役立たずじゃねぇか」
「今の私が自分の判断だけで戦場へ出れば、
味方の邪魔になる可能性が高い。それなら動かない方が合理的さ」
「珍しく自分の立場を分かってるじゃねぇか」
「私はいつでも自分自身を正確に理解しているよ」
高円寺は赤い警報灯が点る天井を見上げた。
「だが、次は違うかもしれないねぇ」
「何がだよ」
「私が必要になる時が来る」
それは冗談や自信過剰な発言には聞こえなかった。
茶柱が全員の前へ立つ。
「今日はこのまま寮へ戻れ。
消灯時刻までは各自の部屋で待機し、許可なく外へ出ることは禁止する」
池が恐る恐る手を上げた。
「明日の訓練はどうなるんですか?」
「予定通り午前五時から開始する」
生徒たちの表情が一斉に固まった。
「こんなことがあった翌日でもやるんですか?」
「こんなことがあった翌日だからこそだ」
茶柱は明確に言い切った。
「今日見た光景を忘れるな。しかし、恐怖だけを頭へ残してもいけない」
彼女は候補生たちを一人ずつ見渡す。
「お前たちは、まだ衛士ではない」
短い沈黙が生まれた。
「だからこそ、衛士になるための訓練を止めるわけにはいかない」
今度は誰も文句を言わなかった。
須藤も、池も、堀北も、今朝までとは違う表情で茶柱の言葉を聞いている。
訓練が何のために存在するのか。
失敗すれば何が起きるのか。
それを全員が理解し始めていた。
寮へ戻った後、オレは自室の窓から東京湾を眺めた。
防爆シャッターは完全には開放されておらず、窓の上半分を覆ったままだった。
その隙間から見える遠方の防壁では、まだ複数の火災が続いている。
強い作業灯に照らされながら、損傷した戦術機が順番に回収されていた。
動けなくなった機体を別の機体が支え、整備員たちが周囲を走り回っている。
消火車両から放たれる水が炎へ浴びせられ、白い蒸気が立ち上っていた。
海面には複数の軍艦が展開し、そのさらに向こうには東京の街が見える。
街の灯りは残っていた。
そこに暮らす多くの人々は、今夜、東京湾で何が起きたのかを知らないだろう。
軍が今回の戦闘をどこまで公表するのかも分からない。
市民の混乱を避けるため、
人工島周辺で発生した局地的なBETA出現として処理される可能性もある。
しかし、オレたちは見た。
戦闘が終わった後も海底へ残り続ける反応。
地中へ向かって移動するBETA。
人間の目が届かない場所で続いている異変。
机上の端末へ、翌日の訓練予定を知らせる通知が届いた。
午前五時から基礎体力訓練。
午前八時から戦術機に関する座学。
午後にはシミュレーターを使用した対BETA基礎戦闘訓練。
今日の戦闘がなかったかのように、予定は一つも変更されていない。
オレは通知を閉じ、端末を机へ置いた。
窓の外では、地平線が僅かに明るくなり始めている。
長い夜が終わろうとしていた。
入学から一週間。
オレたちは、まだ何も知らない。
戦術機を正しく扱う方法。
複数の部隊を動かす戦術。
BETAを相手に生き残る方法。
そして、自分以外の誰かを守る方法。
これから学ばなければならないことは多い。
だが、人類側に十分な時間が残されているとは限らなかった。
東京湾海底のさらに深い場所。
人間の観測装置が完全には届かない暗い地中で、複数の巨大な振動が重なっていた。
それは自然な地殻変動ではない。
BETAが硬い岩盤を押し広げ、進路を作り、内部空間を拡張している振動だった。
最初は細い通路に過ぎなかった空洞が、少しずつ幅と高さを増していく。
複数の掘削経路がやがて一つの場所へ集まり、
巨大な地下空間の輪郭を形作り始めていた。
地震ではない。
自然現象でもない。
東京湾の地下へ、人類にとって致命的な新しい構造体が築かれようとしている。
後に東京ハイヴと呼ばれる存在の最初の兆候は、既にこの時点で明確に現れていた。
そして、その形成地点は。
高度育成衛士高等学校が存在する人工島から、決して遠くはなかった。