午前四時五十分。
高度育成衛士高等学校の学生寮は、
昨日までとは明らかに異なる静けさに包まれていた。
廊下で大声を出す者も、集合時刻へ間に合わせるために慌ただしく走る者もいない。
それでも、多くの部屋では既に照明が点いており、
生徒たちは午前五時から始まる訓練へ向けて準備を進めていた。
訓練の開始時刻が早くなったわけではない。
変わったのは、生徒たちの側だった。
入学から一か月が経過している。
三週間前、東京湾へ突如として現れたBETAの群れ。
炎上する人工島の防壁。
光線級の照射を受け、夜空から墜落していった偵察機。
海面を埋め尽くすほど押し寄せた異形の集団。
そして、候補生たちの目の前で実戦装備の戦術機へ乗り込み、
防衛線へ出撃していった茶柱たち教導隊。
あれほどの光景を目にした後で、訓練を単なる学校行事だと思い、
集合時間ぎりぎりまで眠っていられる者は少なかった。
オレは訓練服へ着替え、自室を出た。
男子寮の廊下には、既に平田が立っていた。
壁際で待ちながら、他の男子生徒が部屋から出てくるたびに人数を確認している。
「おはよう、綾小路くん」
「ああ」
平田の表情は普段と変わらないように見えたが、
目の下には僅かな疲労が残っていた。
「眠れたか?」
「少しだけね」
平田は苦笑しながら答えた。
「目を閉じると、三週間前の海が浮かんでくるんだ。
戦術機の光や、爆発の音まで思い出してしまって」
「そうか」
「綾小路くんは眠れた?」
「眠れた」
嘘ではなかった。
眠る必要があると判断した時に眠ることはできる。
恐怖や不安を感じていないわけではない。
ただ、それらを目の前の行動から切り離すことに慣れているだけだ。
平田と共に階段を降りると、一階のロビーには須藤がいた。
腕を組んで壁へ背を預けている。
前日の物資搬送で相当な体力を使ったはずだが、
本人は疲労を表へ出すまいとしていた。
近くには池と山内もいる。
二人とも眠そうな顔はしているものの、
集合時刻ぎりぎりまで部屋へ残っていた以前とは違い、
今日は既に訓練へ出られる格好を整えていた。
「今日は早ぇな」
須藤が池へ言う。
「うるさいな。ちゃんと起きてきただけマシだろ」
「起きるのは当たり前だ」
「少し前までは、その当たり前ができてなかっただろ」
「今までと今日は違うんだよ」
池の返答に、須藤は何も言い返さなかった。
全員が同じことを理解している。
訓練で学ぶ内容が、自分たちの命や、
隣にいる仲間の生死へ直結する可能性がある。
三週間前の戦闘は、その事実を嫌でも思い知らせた。
玄関前へ、堀北が姿を現した。
髪も訓練服も乱れておらず、外見だけを見れば普段と変わらない。
しかし、その視線には以前よりも僅かに鋭いものが宿っていた。
「全員いるの?」
「高円寺くん以外は揃っているよ」
平田が答えると、堀北は小さく息を吐いた。
「やはり来ないのね」
「私なら、ここにいるよ」
後方から声が聞こえた。
高円寺だった。
ただし、他の生徒と違って訓練服ではなく制服を着ている。
片手には小さな櫛を持ち、歩きながら悠然と髪を整えていた。
堀北が呆れたように見る。
「その格好で訓練を受けるつもりなの?」
「受けるつもりはないねぇ」
「では、なぜ来たの?」
「三週間前の続きが見られるかもしれないからさ」
須藤が高円寺を睨む。
「見物気分かよ」
「そう怒るな、レッドヘアーくん」
高円寺は悪びれずに笑った。
「私が無理に訓練へ参加して君たちの連携を乱すより、離れて観察している方が有益だと思わないかい?」
「お前が真面目にやれば済む話だろ」
「真面目という言葉は、能力の足りない人間が、自らの努力を正当化するために使う場合もある」
「ケンカ売ってんのか?」
「私は事実を述べただけさ」
須藤が一歩前へ出た。
平田が二人の間へ入ろうとしたが、その前に寮の自動扉が開いた。
扉の向こうには茶柱が立っていた。
三週間前の戦闘で受けた疲労は、表情からはほとんど読み取れない。
教官用の訓練服を着用し、端末を手に持ち、
いつもと変わらない冷たい視線を生徒たちへ向けている。
ただし、右腕には薄い固定用サポーターが巻かれていた。
「全員、外へ出ろ」
須藤たちの言い争いは、それだけで止まった。
茶柱は高円寺へ視線を向ける。
「お前もだ」
「私は見学だよ」
「構わん。訓練の邪魔をすれば、地下待機区画へ送る」
「承知した」
珍しく、高円寺は素直に従った。
寮の外へ出ると、夜明け前の冷たい空気が肌へ触れた。
人工島には、三週間前の戦闘によって刻まれた傷が今も残っている。
東側の空には黒い煙が薄く漂い、
防壁の一部では崩れた外壁を修復するための巨大な工事車両が動いていた。
作業は夜を徹して続けられており、
強い照明の中で重機と整備員が休むことなく行き交っている。
格納庫前には、損傷した戦術機が並べられていた。
右腕を失った不知火。
脚部装甲が大きく裂けた撃震。
表面を黒く焦がされた陽炎。
整備員たちは機体の周囲へ足場を組み、
溶接の火花を散らしながら修復作業を続けている。
生徒たちは思わず足を止めそうになった。
しかし茶柱は振り返らない。
「見たいなら、歩きながら見ろ」
その言葉を受け、全員が移動を続けた。
第一演習場には、昨日までなかった設備が並べられていた。
中央には巨大なスクリーンが設置され、
その左右には複数種類のBETAを再現した立体模型が置かれている。
戦車級、要撃級、突撃級、光線級、そして要塞級。
模型は実物大ではない。
それでも人間や戦術機との大きさを比較できる縮尺で作られており、
各個体の異様な体格と構造が一目で分かる。
実戦映像でしか見ていなかった敵を具体的な形として目の前へ示され、
生徒たちの表情は自然と強張った。
茶柱の隣には坂上が立っている。
左肩には包帯が巻かれていた。
三週間前、陽炎へ搭乗して要撃級や突撃級と戦った際の負傷が、
まだ完全には癒えていないのだろう。
それでも坂上は訓練へ姿を見せていた。
星之宮も参加しており、右頬には小さな保護材が貼られている。
真嶋の姿だけはなかった。
損傷機の修理が続く格納庫で、整備指揮を執っているらしい。
坂上は生徒たちを見渡した。
「三週間前、実際のBETAを見た者は手を上げろ」
全員の手が上がった。
管制室や補給区画へいた者だけではない。
地下避難区画へ移された生徒も、施設内の監視映像を通じて戦闘を目撃している。
「では、怖いと感じた者は?」
一瞬、誰も動かなかった。
恐怖を認めることへ抵抗を感じている者もいるのだろう。
やがて平田が手を上げた。
続いて櫛田、池、山内が手を上げる。
それをきっかけに他の生徒たちも次々と手を上げ、堀北も僅かに右手を持ち上げた。
須藤は腕を組んだまま動かず、高円寺にも変化はない。オレも手は上げなかった。
坂上は、手を上げなかった者を責めようとはしなかった。
「恐怖を感じることは、恥ではない」
三週間前、坂柳理事長が候補生たちへ語った言葉と似ていた。
「だが、敵を何も知らないまま恐れることは危険だ」
坂上は戦車級の模型へ近づいた。
「本日から、対BETA基礎戦闘訓練を開始する」
生徒たちを包む空気が変わる。
これまで学んできたのは、戦術機の基本的な歩行、跳躍、射撃、そして小隊での連携だった。
今日からは、それらの技術を明確な敵へ向けて使用する訓練になる。
「最初に断っておく」
坂上は戦車級の模型を指した。
「BETAに、弱い種など存在しない」
池が首を傾げる。
「でも、戦車級は一番小さいって聞きましたけど……」
「小さいことと、危険でないことは別だ」
坂上は即座に答えた。
「戦車級は戦術機より小さく、単体であれば対処は難しくない。
だが、実戦で単体の戦車級と遭遇することはほとんどない」
大型スクリーンへ、市街地で損傷した戦術機の映像が表示された。
動けなくなった機体の周囲へ、小型のBETAが次々と集まっている。
映像がより直接的な場面へ切り替わる直前で、坂上は再生を停止した。
「機体が転倒した時、脚部を失った時、
あるいは脱出装置が故障した時、最も早く接近してくるのが戦車級だ」
坂上の声が低くなる。
「数で機体へ取りつき、衛士の動きを封じる。
戦術機を正面から破壊する火力を持っていなくても、
搭乗者を戦場から帰還させないためには十分な存在だ」
須藤の顔から、先ほどまでの強気が僅かに消えた。
坂上は次の模型へ移る。
長い前肢と歪な巨体を持つ要撃級。
三週間前、教導隊が人工島北東防壁で戦った大型種だ。
「要撃級は、戦術機が近接戦闘で遭遇することの多い大型種の一つだ」
スクリーンに、要撃級が前肢を振るう映像が映る。
戦術機が跳躍によって回避し、別の機体が側面から射撃を加えていた。
「見た目から想像するよりも動きは速く、前肢の間合いも長い。
正面から一対一で倒そうとするな」
須藤が口を挟んだ。
「でも、茶柱先生は正面にいたじゃねぇか」
茶柱が須藤を見る。
「正面で攻撃を受け止めたわけではない」
「それでも目の前まで行っただろ」
「敵の注意を引く必要があったからだ」
「同じじゃねぇのか?」
「違う」
茶柱は明確に否定した。
「あの時、私一人で要撃級を倒そうとしたわけではない。
星之宮、坂上、真嶋が攻撃できる位置へ、敵を誘導しただけだ」
須藤は、実際の戦闘映像を思い返しているようだった。
茶柱が要撃級の攻撃を避ける。
星之宮が側面から射撃する。
坂上が背後へ回り、真嶋が後方から重火力を加える。
敵を倒したのは、一機の技量ではなく四機の連携だった。
櫛田が尋ねる。
「つまり、茶柱先生が囮になっていたということですか?」
「囮という表現は正確ではない」
茶柱は答えた。
「敵の意識と攻撃方向を制御しただけだ」
池が聞こえるか聞こえないかという声で呟く。
「同じに聞こえるけど……」
茶柱の視線が池へ向く。
池はすぐに口を閉じた。
坂上は突撃級の模型へ移動する。
前方を分厚い装甲に覆われた、巨大な個体だった。
「突撃級を真正面から止めようとするな」
三週間前の戦闘映像が表示される。
防壁砲台からの砲撃を受けながら前進し、人工島の外壁へ衝突する突撃級。
厚いコンクリートが一撃で砕け、周囲へ破片が飛び散っている。
「前面装甲は極めて硬い。攻撃する場合は側面、後方、あるいは脚部関節を狙え」
堀北が手を上げた。
「進路を変えさせることは可能ですか?」
「状況による」
「障害物や爆発を利用して誘導できれば、
正面から火力を集中しなくても止められるのではありませんか?」
坂上が頷いた。
「可能だ。市街地なら建物や道路の形状、
野戦なら地雷原や砲撃によって生じた穴を利用する。
ただし、誘導できると思い込むな。
突撃級は進路上にある程度の障害物なら、そのまま破壊して進む」
堀北は端末へ内容を記録した。
龍園であれば、障害物を置いて単純に進路を塞ぐより、
突撃級の勢いそのものを別の敵や地形へ向ける方法を考えるかもしれない。
午前中はDクラス単独の訓練であり、Cクラスの姿はない。
合同訓練は午後からだ。
それでも、他クラスの生徒たちがどのような戦い方を選ぶのかは、
少しずつ想像できるようになっていた。
坂上は光線級の模型へ移る。
演習場の空気が、さらに重くなった。
三週間前、偵察機を撃墜し、防壁上の砲台を一撃で消滅させた個体だ。
「光線級は、戦術機にとって最大の行動制限要因となる」
上空へ跳躍した戦術機を、遠方から赤い光が狙う映像が表示される。
機体は急降下して照射を回避し、別の機体が重金属雲を散布していた。
「照射準備を確認した場合は高度を下げ、直線的な機動を続けるな。
重金属雲も絶対的な防御ではない。濃度が低下した空間や、
粒子の届かない角度から照射を受ける可能性がある」
須藤が尋ねる。
「要するに、近づいて倒せばいいんだろ?」
「簡単に言うな」
坂上の声が少し強くなる。
「光線級は、多くの場合、他のBETAに守られている」
映像が広がる。
光線級の周囲には戦車級、要撃級、突撃級が壁のように配置され、
接近する戦術機を阻んでいた。
「空へ上がれば照射される。地上から進めば大型種と交戦しなければならない」
「だったら、どうすんだよ」
「部隊で突破する」
坂上は須藤を見る。
「一機が光線級の注意を引き、別の機体が重金属雲を散布する。
支援砲撃で周辺の敵を減らし、近接部隊が距離を詰める」
「結局、連携か」
「戦場で起きる問題の大半は、一機だけでは解決できない」
須藤は面白くなさそうに息を吐いた。
それでも、以前のように講義そのものを否定することはなかった。
最後に説明されるのは要塞級だった。
縮小された模型であっても、他のBETAより一回り以上大きく、
生徒たちは三週間前の映像を思い出していた。
東京湾の海から立ち上がり、
防壁と戦術機の集中砲火を受けても前進し続けた巨体。
「要塞級は、単体で一つの戦術目標になり得る」
スクリーンでは、砲撃と爆炎に包まれた要塞級が、黒煙の中から再び姿を現していた。
「動きそのものは速くない。だが、巨大な身体が脅威となる。
高架道路を跨ぎ、建築物を押し崩し、戦術機部隊の射線を遮る」
坂上は映像を停止する。
「撃破するためには火力を集中させる必要がある。
ただし、要塞級だけへ意識を向け、周囲の敵を忘れるな」
三週間前、サムライ大隊とシールド防衛群が要塞級へ攻撃を集中した瞬間、
遠方の光線級が人工島の第三砲台を撃ち抜いた。
教本上の仮定ではない。
実際に起きた失敗だった。
「第三砲台が失われた原因は、要塞級へ戦力と注意を集中しすぎたことにある」
生徒たちは黙って映像を見つめた。
「BETAが人間と同じように考え、作戦を立てているかどうかは分からない」
坂上は続ける。
「だが、人類側から見れば、結果として互いを補うように動いている」
一体を止めれば、別の個体が前へ進む。
戦術機が上空へ逃れれば、光線級が狙う。
地上へ高度を下げれば、要撃級が待ち構えている。
機体が転倒すれば、戦車級が一斉に集まる。
それぞれの個体が明確な戦術意識を持っているかは分からない。
しかし複数種類が組み合わさったBETA群は、人類にとって完成された脅威だった。
「敵を一種類ずつ独立して覚えるな」
坂上が言う。
「必ず組み合わせで考えろ」
大型スクリーンへ、複数の状況が順番に表示された。
要撃級の後方に光線級が配置された戦場。
突撃級の進路を埋めるように戦車級が押し寄せる状況。
要塞級の巨体を遮蔽物として、その背後から別の大型種が近づいてくる場面。
坂上は全員を見渡した。
「戦場で相手をするのは一体のBETAではない。群れだ」
講義は一時間以上に及んだ。
BETA各種の基本特性、優先して排除すべき目標、
適切な交戦距離、武装の選び方、部隊配置。
教えられたのは撃破方法だけではない。
交戦を避けるべき状況。
撤退を決断する基準。
自機が損傷した時の動き方。
動けなくなった仲間を回収するための方法。
三週間前の実戦映像は、何度も停止され、教材として使用された。
茶柱機が要撃級の攻撃を引きつけた場面。
坂上機が敵の側面へ回り込んだ動き。
星之宮機の支援射撃。
真嶋機による火力制圧。
サムライ大隊とシールド防衛群が協力した対要塞級戦。
オニキリ大隊が見せた高速近接連携。
映像に残されているのは成功だけではない。
サムライ大隊が要塞級へ注意を奪われ、光線級への警戒が薄れた瞬間。
損傷した撃震一機を守るために二機が動き、別方向の射線が弱くなった場面。
オニキリ大隊の一機が敵群へ入りすぎ、危うく孤立しかけた場面。
すべての動きが停止され、なぜ成功したのか、なぜ危険だったのかが説明された。
戦場は英雄の活躍だけで成立する場所ではない。
一つの派手な機動の裏には、数多くの判断と支援がある。
一つの失敗の裏にも、複数の原因が重なっている。
午前中の講義が終わる頃には、
生徒たちは誰もBETAを単なる異形の怪物とは見ていなかった。
自分たちが生き残るために、
性質と行動を理解しなければならない明確な敵として認識し始めていた。
短い休憩が与えられ、生徒たちは演習場の端へ座った。
水分と簡易栄養食が配られる。
須藤はBETA模型を見ながら、無言で水を飲んでいた。
池が隣へ座る。
「前より怖くなった」
「なんでだよ」
「詳しく知ったからだよ」
「逆だろ。倒し方が分かったんだから、少しはマシになったじゃねぇか」
「倒し方が分かっても、実際に倒せるとは限らないだろ」
須藤は答えなかった。
反論できないのではなく、自分も同じことを考え始めているのだろう。
少し離れた場所では、平田が端末を見ていた。
表示されているのは、三週間前に自分が担当した避難区画の記録だった。
「まだ確認しているのか?」
オレが尋ねる。
「三週間前、一人だけ移動が遅れた人がいたんだ」
「最終的には全員避難できただろ」
「結果的にはね」
平田は画面を閉じた。
「でも、僕がもっと早く気づいていたら、
その人はあれほど怖い思いをせずに済んだかもしれない」
「全員が無事だったことは変わらない」
「それでも、次はもう少し上手くやりたい」
平田らしい考え方だった。
一之瀬にも似ている。
結果として人が助かったかどうかだけではなく、
そこへ至るまでに誰かが感じた恐怖や苦痛まで気にする。
戦場では判断を鈍らせる弱点にもなり得る。
同時に、多くの人間を安心させ、支える力にもなる。
堀北は一人で講義資料を読み直していた。
画面には、教導隊が要撃級と交戦した映像が表示されている。
そこへ須藤が近づいた。
「また勉強かよ」
「悪い?」
「別に」
須藤は堀北の画面を覗き込んだ。
「先生、ここでなんで一回下がったんだ?」
堀北が意外そうに須藤を見る。
「気づいたの?」
「見れば分かるだろ。要撃級の目の前まで行ったのに、斬らないで下がってる」
堀北は映像を再生した。
茶柱機が要撃級へ接近する。
敵が前肢を振り上げる。
茶柱機は攻撃せずに後退する。
その直後、それまで要撃級の身体に遮られていた星之宮機の射線が通った。
「星之宮先生に撃たせるためよ」
「だったら最初から撃てばいいだろ」
「要撃級の身体が射線を塞いでいたの。
茶柱先生が敵の向きを変えたことで、星之宮先生が撃てるようになった」
須藤は少し考えた。
「敵を動かしたのか」
「そういうことよ」
「面倒くせぇな」
「戦術とは、そういうものよ」
「でも、一発で倒せるなら、その方が早い」
「確実に倒せるならね」
二人は言い争っているわけではなかった。
考え方は異なるが、同じ映像を見て、同じ戦闘について考えている。
少し前までの須藤であれば、戦術講義の映像を自分から見直すことはなかっただろう。
変化は小さい。
それでも、確実に始まっていた。
高円寺は一人だけ、ベンチの背へ横向きに腰掛けていた。
視線はBETA模型ではなく、演習場から見える損傷格納庫へ向いている。
「興味がないのか?」
オレが声をかける。
「講義そのものにはね」
「BETAには?」
高円寺は僅かに笑った。
「興味深い存在だと思っているよ」
「なら、訓練へ参加すればいい」
「私には必要ない」
「敵についての知識も?」
「知識なら得た」
高円寺は自分の頭を指した。
「私が話を聞いていなかったように見えたかい?」
確かに、途中で眠っていたわけではない。
態度は不真面目に見えたが、
坂上が模型や映像を使って説明している間、高円寺の視線は内容を追っていた。
「私が拒否しているのは、同じ動きを何度も繰り返す訓練さ」
「反復しなければ、実戦で通用しない可能性がある」
「それは、誰にでも言えることだろう?」
高円寺はベンチから立ち上がった。
「教官たちの戦いは見事だった」
他人を素直に評価するのは珍しい。
「私なら一機で処理できた可能性はある。
しかし、彼らのように四機で美しく動けたかどうかは分からない」
「認めるんだな」
「私は事実を否定しない」
高円寺は海の方へ視線を向けた。
「ただし、実戦になれば私は私のやり方で動く」
「命令には従うのか?」
「必要であれば従う」
「必要かどうかは誰が判断する?」
「私だ」
答えは変わらない。
高円寺は協力そのものを拒否しているわけではない。
ただ、自分の判断よりも他人の判断を優先するつもりがない。
訓練では大きな問題となる。
実戦では状況次第で、最大の武器にも、最大の危険にもなり得る考え方だった。
休憩が終わり、午後には四クラス合同のシミュレーター訓練が始まった。
AクラスからDクラスまでの生徒が中央訓練棟へ集められる。
施設内には四十機以上の訓練用シミュレーターが並び、
中央には教官席、上階の観察室には坂柳理事長の姿もあった。
前夜の防衛戦後も十分に休めていないはずだが、
候補生たちの訓練を直接確認するために来ている。
教官席の前には茶柱、星之宮、坂上が並んだ。
真嶋は格納庫から離れられず、
Aクラスの実機関連指導は代理の整備教官が担当する。
その近くでは、坂柳有栖が戦略指揮課程用の席へ座っていた。
今日は実機操縦側ではなく、全体指揮を模擬する立場だ。
杖を横へ置き、複数の戦況画面を開いている。
龍園が下から坂柳を見上げた。
「お姫様は高みの見物か」
坂柳は穏やかに微笑む。
「適性のない場所へ座るほど、私は愚かではありません」
「言うじゃねぇか」
「龍園くんこそ、前へ出る以外の役割も覚えた方がよろしいのでは?」
「俺が前へ出れば、後ろは勝手についてくる」
「ついてこなかった場合は?」
「ついてくるようにする」
二人の視線がぶつかる。
入学から一か月。
AクラスとCクラスの中心にいる二人は、
既に互いを無視できない存在として認識していた。
一之瀬が間へ入るように笑った。
「今日は四クラスが協力する訓練なんだから、始まる前から争わない方がいいと思うよ」
龍園が一之瀬を見る。
「相変わらず甘ぇな」
「そうかな?」
「全クラス合同で動くなら、誰が主導権を握るか決めなきゃ何も始まらねぇ」
「でも、誰か一人だけが全部を決める必要はないよ」
「だから甘いって言ってんだ」
神崎が一歩前へ出た。
「一之瀬の意見を否定するなら、根拠を示せ」
龍園が低く笑う。
「理由なら、始まれば分かる」
茶柱が鋭い声で全員を黙らせた。
「私語をやめろ」
大型スクリーンへ、今回の演習概要が表示される。
東京湾岸防衛想定。
参加する戦術機は、四クラス合計三十二機。
敵戦力は戦車級多数、要撃級二十体、
突撃級八体、光線級四体、要塞級一体。
勝利条件は六十分間にわたって防衛拠点を維持し、
避難輸送車列を西方へ通過させること。
さらに光線級を排除し、
航空支援部隊が進入できる経路を確保しなければならない。
坂上が説明する。
「三週間前の戦闘を簡略化した状況だ。
各クラス八機で参加し、指揮はクラス単位で行う」
平田が手を上げた。
「全体指揮官は誰ですか?」
「設定されていない」
生徒たちの間にざわめきが起こる。
坂上は構わず続けた。
「必要だと思うなら、自分たちで決めろ」
龍園が面白そうに笑う。
坂柳は表情を変えない。
堀北は表示された地形と敵戦力を確認し、
一之瀬はBクラスの生徒たちと短い相談を始めていた。
「作戦開始まで十分だ」
カウントが開始され、各クラスの専用回線が開かれる。
Dクラスの参加機は八機。
堀北、平田、須藤、櫛田、オレに加え、適性上位の三名が選ばれている。
高円寺は参加していない。
小隊長は堀北だった。
「まず配置を決めるわ」
堀北が地図を開く。
「Dクラスは中央防衛線を担当する。
須藤くんを前衛、平田くんを右、綾小路くんを左へ置くわ」
須藤が不満を示す。
「また俺が囮かよ」
「囮ではなく前衛よ」
「同じだろ」
「最も前へ出たいのは、あなたでしょう?」
「自分で出るのと、命令されるのは別だ」
「なら何がしたいの?」
「敵を倒す」
「だから前衛に置いているのよ」
須藤は言葉を止めた。
平田が別の画面を見る。
「他のクラスと配置を共有した方がいいと思う」
「その必要はあるわね」
堀北は全クラス回線を開いた。
『Dクラスより各クラスへ。担当区域を共有したい』
最初に一之瀬が応答した。
『Bクラスは避難経路の周辺を担当するよ。
輸送車列を守りながら、状況に合わせて後退する』
続いて龍園の声が入る。
『Cクラスは南側から敵の側面へ回る』
坂柳も答えた。
『Aクラスは北側高台を確保し、光線級の位置を特定します』
堀北が地図上へ各クラスの配置を反映する。
中央にDクラス。
北側高台にAクラス。
南側から側面攻撃を行うCクラス。
後方の避難経路を守るBクラス。
配置そのものは悪くない。
「全体の指揮は誰が行うの?」
堀北が尋ねると、龍園がすぐに答えた。
『俺がやる』
『反対です』
坂柳が即座に否定する。
『理由は?』
『あなたは、自分の部隊を前へ出しすぎます』
『お前は後ろから口を出すだけだろ』
『後方から全体を見渡せる者が必要なのです』
一之瀬が二人の会話へ入った。
『時間がないよ。坂柳さんが全体の情報を整理して、
前線での判断は各クラスへ任せる形では駄目かな?』
龍園が笑う。
『結局、そいつを司令官にするってことだろ』
『司令官ではなく、情報のまとめ役だよ』
『言い方を変えただけじゃねぇか』
作戦開始までの時間は減り続けている。
残り六分。
堀北が苛立ちを隠せずに言った。
「決まらないわ」
「決める必要はない」
オレが口を挟む。
「どういう意味?」
「各クラスの配置は既に決まっている。
必要なのは誰が全員へ命令するかではなく、集めた情報をどこへ集約するかだ」
堀北は坂柳の指揮席を見る。
「坂柳さんへ集める?」
「Aクラスは高台を確保する。全体を見るには最も適している」
「龍園くんが坂柳さんの命令に従うと思う?」
「従わせる必要はない」
堀北がオレを見る。
「坂柳は情報を送る。龍園は受け取った情報を基に、自分で判断する。
結果として同じ目的へ動けば問題はない」
堀北は一瞬考え、全体回線を開いた。
『坂柳さん。全クラスから送られる敵情報を集約して』
『承知しました』
『龍園くんは、坂柳さんの命令へ従わなくてもいい。
ただし、送られてくる情報だけは受け取って』
『最初から、そのつもりだ』
龍園の声には僅かな満足が滲んでいた。
全体指揮官にはならなかったが、自分で判断する自由は確保している。
一之瀬も同意した。
『Bクラスも情報を送るね』
残り三分。
Dクラスは最終的な配置を確認する。
須藤が前衛。
オレと平田が左右。
堀北が中央後方から指示を出し、櫛田は支援を担当する。
残る三機は予備戦力と輸送経路の補助へ回された。
堀北が言う。
「三週間前と同じ失敗はしない」
そして須藤へ視線を向ける。
「須藤くん」
「何だ」
「あなたが前へ出ることを前提として、作戦を考えるわ」
須藤が僅かに笑った。
「やっと分かってきたじゃねぇか」
「ただし、勝手に射程外まで消えることは許さない」
「分かってる」
完全に納得しているわけではない。
それでも、一か月前よりは会話として成立していた。
作戦開始。
シミュレーター内の風景が切り替わる。
再現された東京湾岸には、高層建築、防壁、複数の道路が広がり、
避難用の輸送車列が西へ向かって進んでいる。
遠方の地平線は、黒い影によって覆われていた。
数百体ではない。
数千体規模のBETA群。
訓練用に調整された規模だと理解していても、その圧迫感は大きかった。
『全機、作戦開始』
坂上の声が響く。
Dクラスは中央道路へ展開する。
須藤が先頭へ立ち、突撃砲を構えた。
『来やがれ』
最初に姿を現したのは、道路全体を埋め尽くす戦車級の群れだった。
『射撃開始』
堀北の命令を受け、Dクラスの各機が一斉に突撃砲を撃つ。
砲弾が黒い群れへ降り注ぎ、連続した爆発が道路を激しく抉った。
爆風によって道路沿いの建物の窓が一斉に割れ、
土煙と爆炎がBETAの群れを覆い隠す。
しかし、煙の奥から後続が現れる。
前方の個体が倒れた隙間を埋めるように、新たな戦車級が次々と進んできた。
『止まらねぇぞ!』
予備機の一人が叫ぶ。
『止まると思わないで』
堀北は冷静に答えた。
『射線を一か所へ集めるのではなく、左右の建物を崩して進路を限定する』
Dクラスの一部が道路脇へ射撃を向けた。
建物の低層部分と道路の一部が崩れ、巨大な瓦礫が両側を塞ぐ。
BETA群は自然と中央へ押し込まれ、密度を増した。
須藤が一歩前へ出る。
『そこだ!』
密集した群れへ突撃砲を連射する。
砲弾が狭い範囲へ集中し、凄まじい爆炎が道路を覆った。
アスファルトが大きく抉れ、前方にいた戦車級がまとめて吹き飛ばされる。
須藤は、そのままさらに前進しようとした。
『須藤くん、二十メートル下がって』
『まだ倒せる』
『後方から要撃級が来る』
坂柳の情報が全体回線へ届いた。
『中央前方に要撃級三体を確認しました。戦車級の群れと爆煙に隠れています』
須藤機の動きが一瞬止まる。
煙の奥から、長い腕が姿を現した。
『ちっ』
須藤は後退する。
直後、要撃級の前肢が煙を切り裂き、須藤が先ほどまで立っていた道路へ叩きつけられた。
舗装が砕け、巨大な亀裂が走る。
『助かった』
須藤が小さく言う。
坂柳は返事をせず、既に次の情報を処理していた。
『北側に光線級二体を確認。Aクラスが対応します』
画面の一部へ、Aクラスの映像が表示された。
神室機と橋本機が、高台に建つ複数の建物の間を移動している。
葛城は後続機をまとめ、坂柳は光線級の射線を予測して進路を指示していた。
赤い光が遠方から走る。
神室機は照射直前に建物の陰へ滑り込み、光線はビルの上部を切り裂いた。
爆発によってガラスと外壁の破片が降り注ぐ。
橋本機が別方向から重金属雲を散布し、
葛城機を中心とした部隊が光線級周辺の戦車級へ射撃を加えた。
Aクラスの動きは派手ではない。
遮蔽物と重金属雲を利用し、周囲の敵を一体ずつ減らしながら、
確実に光線級との距離を詰めている。
南側では、Cクラスが独自の戦いを始めていた。
龍園は突撃級へ正面から火力をぶつけようとはしなかった。
進路上にある高層建築の基部へ砲撃を加え、道路側へ倒壊させる。
崩れた建物が道路を塞ぎ、突撃級は進行方向を変えざるを得なくなる。
その側面へ伊吹機が接近し、長刀で脚部関節を斬る。
石崎機が追撃の射撃を加え、
アルベルト機は別方向から接近する突撃級を巨体で押さえていた。
龍園は敵を倒すだけではない。
地形そのものを乱暴に作り替え、自分たちが戦いやすい戦場へ変えている。
『南側の一体が中央へ行くぞ』
龍園から通信が入る。
堀北が反応した。
『こちらへ誘導したの?』
『そっちの道路の方が広い』
『事前に言いなさい』
『今、言っただろ』
中央道路へ、一体の突撃級が現れる。
須藤が笑った。
『ちょうどいい』
『正面から行かないで』
堀北が先に釘を刺す。
『分かってる』
須藤機は突撃級の進路から左へ跳んだ。
突撃級は目標を追うように方向を変える。
オレは右側から脚部付近へ射撃を加え、平田機も建物の陰から姿を現した。
三方向から攻撃を受け、突撃級の速度が落ちる。
須藤が側面へ回り込み、長刀を構えた。
『今だ!』
長刀が、前面より装甲の薄い側部へ食い込む。
突撃級が大きく姿勢を崩す。
そこへ平田が突撃砲を撃ち込み、オレも同じ箇所へ射撃を重ねた。
巨大な爆発が起こり、突撃級の巨体が道路へ倒れる。
衝撃によって周囲の建物が揺れ、窓ガラスが連続して砕けた。
須藤が息を吐く。
『先生たちみてぇだったな』
『まだ全然違うわ』
堀北はすぐに否定した。
それでも、その声には僅かな柔らかさがあった。
後方では、Bクラスが避難輸送車列を守りながら、戦線を少しずつ西へ下げている。
一之瀬が中央で全体を確認し、神崎が右側を守り、柴田が前衛へ立っていた。
Bクラスは敵を倒すことよりも、車列へ近づけないことを優先している。
一機が損傷を受ければ、すぐに二機が援護へ入り、孤立させない。
前進速度は他クラスより遅い。
撃破数も少ない。
それでも、護衛している輸送車両は一台も失われていなかった。
『避難車列、第三地点を通過したよ』
一之瀬の声が回線へ入る。
『あと少しだから、みんな焦らないで。敵を追うより、車列の周りを守って』
Bクラスは最も派手さのない戦い方をしていた。
しかし、与えられた任務へ最も忠実なのも、彼らだった。