マブラヴ・カーストルーム   作:EXTERMINATION

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第08話 初搭乗

三か月が経過した。

 

午前四時三十分。

 

高度育成衛士高等学校の北部格納区画では、

夜明け前にもかかわらず、既に多くの照明が点灯していた。

 

巨大な格納庫の天井付近には、

機体や大型部品を移動させるための整備用レールが幾重にも走り、

その下には戦術機を直立した状態で固定する大型支持架が並んでいる。

 

格納庫の中央には、八機の戦術機が整然と配置されていた。

 

機体名は吹雪。

 

日本国内で開発された衛士訓練用戦術機であり、

実戦機と同等の基本構造を持ちながら、

操縦系統の反応速度と跳躍ユニットの出力が、

訓練段階にある候補生でも扱えるよう調整されている。

 

訓練用という言葉から、通常の実戦機よりも安全な機体を想像する者もいる。

 

しかし、十数メートルもの巨体を持つ戦術機へ、絶対的な安全など存在しない。

 

機体が転倒すれば、自重だけでも装甲や関節部が損傷する。

 

跳躍に失敗すれば、着地時の衝撃によって脚部や跳躍ユニットが大破し、

搭乗者自身も重傷を負う可能性がある。

 

操縦を誤れば、周囲で作業している整備員や、

並んでいる別の戦術機を巻き込むこともあり得る。

 

訓練用に調整されていることと、危険が存在しないことは、まったく別の話だった。

 

整備員たちは機体の脚部や背部へ設けられた作業足場へ取りつき、

搭乗前の最終点検を続けている。

 

脚部関節の駆動状態。

 

姿勢制御装置の反応。

 

跳躍ユニットの燃焼系統。

 

緊急脱出装置。

 

操縦者が入る管制ユニット。

 

どれか一つにでも異常が発見されれば、

その機体を本日の訓練へ使用することはできない。

 

格納庫の奥では、真嶋が整備班へ次々と指示を出していた。

 

「三番機の右脚反応を、もう一度確認しろ」

 

担当整備員が端末を見ながら答える。

 

「異常値は許容範囲内です」

 

真嶋はすぐに顔を上げた。

 

「候補生を乗せる機体へ、許容範囲という言葉を安易に使うな」

 

「了解しました」

 

真嶋は、整備用端末へ表示された数値を自分の目でも確認する。

 

前回の戦闘で損傷した撃震の修理。

 

教導隊が使用する実戦機の整備。

 

それに加えて、候補生用の吹雪を当初の予定より

数か月早く稼働状態へ戻さなければならなかった。

 

本来であれば、各工程へ十分な時間をかけ、

段階的に試験を重ねてから候補生を搭乗させるべきだった。

 

しかし、東京湾地下でハイヴ形成の可能性が確認された以上、

当初の教育計画をそのまま維持する余裕はない。

 

敵は、学校側の準備が整うまで待ってはくれない。

 

「真嶋教官」

 

別の整備員が近づいてきた。

 

「一番機から八番機まで、全機の起動確認が完了しました」

 

「安全制限はどうなっている」

 

「全機で有効です。跳躍ユニット出力は最大三十五パーセントへ制限し、

武装管制も模擬兵装以外は使用できない設定になっています」

 

「脱出装置は」

 

「全機、正常です」

 

「候補生用強化装備との接続状態は?」

 

「全機、再調整済みです」

 

真嶋は、支持架へ固定された八機の吹雪を見上げた。

 

「もう一度、すべて確認しろ」

 

整備員は僅かに戸惑う。

 

「ですが、候補生の集合時刻まで、あまり時間がありません」

 

「もう一度だ」

 

真嶋の声には、反論を許す余地がなかった。

 

「了解しました」

 

真嶋は候補生に対して無愛想であり、整備員へ向ける態度にも一切の甘さがない。

 

だが、その厳しさは機体を予定通り動かすためのものではなかった。

 

機体へ乗せた人間を、必ず地上へ帰すための厳しさだった。

 

午前五時。

 

Dクラスの生徒たちは、普段使用している第一演習場ではなく、

北部格納区画の正面へ集合させられていた。

 

全員が、これまでの訓練服ではなく、衛士候補生用の簡易強化装備を着用している。

 

黒と灰色を基調とした装備は身体へ密着し、各部には心拍、血圧、体温、

筋肉の緊張などを取得する生体センサーが埋め込まれていた。

 

背部には、戦術機の管制ユニットへ身体情報を接続するための端子が設けられている。

 

実戦衛士が使用する強化装備ほど高性能ではなく、

高重力環境における身体補助や耐G機能も限定的だった。

 

それでも、通常の訓練服とは明らかに異なる装備だった。

 

慣れない着心地に、生徒たちは落ち着かない様子を見せている。

 

池は肩を回しながら、装備の締めつけを確かめた。

 

「動きにくいんだけど、本当にサイズが合ってるのか、これ」

 

山内が自分の装備を確認しながら答える。

 

「ちゃんと採寸して作られてるんだから、合ってるに決まってるだろ」

 

「でも、締めつけが強すぎるって」

 

「これくらいが普通なんじゃねぇの」

 

二人が不満を口にする一方で、須藤は強化装備を着ていても堂々としていた。

 

むしろ、これまでの訓練時よりも機嫌が良い。

 

ようやく本物の戦術機へ乗ることができる。

 

その期待を隠そうともしていなかった。

 

「やっと実機か」

 

須藤は、閉じられた格納庫の巨大な扉を見上げた。

 

「シミュレーターなんかより、こっちの方が俺には合ってる」

 

堀北が冷たい声で返す。

 

「実機で失敗しても、訓練映像のように最初からやり直すことはできないわ」

 

「失敗しなきゃいいだろ」

 

「その根拠のない自信が一番危険だと、何度も言われているでしょう」

 

「お前は心配しすぎなんだよ」

 

「あなたが何も考えていなさすぎるの」

 

いつもの言い争いだった。

 

しかし、以前のように互いの言葉を無視して感情だけをぶつけ合っているわけではない。

 

須藤も、堀北が自分を馬鹿にしたいのではなく、

事故を避けるために注意していることを理解し始めていた。

 

堀北も、須藤の自信が単なる無謀さだけではなく、

自分の身体能力と訓練結果に対する信頼から生まれていると分かっている。

 

平田は、周囲に集まった生徒へ一人ずつ声をかけていた。

 

「気分が悪い人はいない?」

 

何人かの生徒が首を横へ振る。

 

「少しでも身体がおかしいと思ったら、すぐに教官へ言おう。

今日は無理をして乗る訓練じゃないから」

 

櫛田が平田へ尋ねる。

 

「平田くんは緊張してないの?」

 

「してるよ」

 

平田は迷わず、素直に答えた。

 

「でも、緊張しているのは僕一人じゃないから」

 

そう言って、平田は格納庫前へ集まったDクラス全体を見た。

 

一人であれば耐えられない恐怖でも、

同じ状況にいる仲間が周囲にいるだけで、少しだけ受け入れやすくなる。

 

平田にとっては、それが大きな支えになっているのだろう。

 

高円寺は、他の生徒から少し離れた場所へ立っていた。

 

候補生用強化装備ではなく、普段の制服姿だった。

 

今日も、実機搭乗者には選ばれていない。

 

茶柱が手元の端末を確認しながら、全員の前へ立った。

 

以前負傷していた右腕からは、既にサポーターが外されている。

 

「最初に搭乗する者を発表する」

 

その言葉で、全員の視線が茶柱へ集まった。

 

「本日は八名だ」

 

格納庫前の大型モニターへ、搭乗者の名前が表示される。

 

堀北鈴音。

 

平田洋介。

 

櫛田桔梗。

 

須藤健。

 

綾小路清隆。

 

そして、身体能力と適性検査で上位に入った三名の生徒。

 

池と山内の名前はなかった。

 

二人の表情には、選ばれなかったことへの安堵と、

自分だけが遅れているような悔しさが同時に浮かんでいた。

 

高円寺の名前もない。

 

これまでの訓練参加記録が不足しており、

命令遵守に関する評価も低い以上、当然の結果だった。

 

須藤が高円寺を見る。

 

「お前、本当に乗らねぇのか」

 

高円寺は、普段と変わらない笑みを浮かべた。

 

「今日は私の番ではないようだねぇ」

 

「怖いんじゃねぇのか」

 

「君がそう思いたいのなら、そう思えばいい」

 

「だったら乗れよ」

 

「許可が出ていない」

 

「お前が訓練へ出てないからだろ」

 

「その通りさ」

 

高円寺は、自分が選ばれなかった理由を否定しなかった。

 

須藤は苛立っている。

 

以前のシミュレーター訓練で、

高円寺が誰よりも異質で高い操縦能力を見せたことを知っているからだ。

 

それほどの能力を持ちながら、実機へ乗るための訓練を受けようとしない。

 

前へ進みたいと考える須藤には、高円寺の選択が理解できないのだろう。

 

茶柱が二人の会話を止めた。

 

「高円寺のことは放っておけ」

 

「でもよ」

 

「今日、機体へ乗るのはお前だ」

 

須藤が黙る。

 

「他人のことを気にする余裕があるなら、自分の搭乗手順を確認しろ」

 

「分かってる」

 

「本当に分かっている者は、返事だけで終わらせない」

 

茶柱は、改めて搭乗者八名へ視線を向けた。

 

「今から話す内容を、すべて覚えろ」

 

その直後、格納庫の巨大な扉がゆっくりと左右へ開き始めた。

 

重い駆動音が周囲へ響き、内部から漏れた白い光が、夜明け前の地面を照らす。

 

開いていく扉の向こうから、吹雪の巨体が少しずつ姿を現した。

 

生徒たちの表情が変わる。

 

これまでにも遠くから機体を見たことはある。

 

映像やシミュレーターでも、戦術機の姿は何度も目にしていた。

 

しかし、自分がこれから搭乗する機体として真正面から向き合うと、

その印象はまるで違っていた。

 

十数メートルの高さを持つ巨体。

 

人間の身長を遥かに超える脚部。

 

何層にも分かれた装甲板。

 

巨大な関節と油圧管。

 

背中へ取り付けられた跳躍ユニット。

 

周囲を見下ろす頭部センサー。

 

戦術機は複雑な機械でありながら、人間と同じ形をしている。

 

その人型であることが、単なる戦車や航空機とは異なる圧迫感を生んでいた。

 

候補生たちは、指定された誘導路に従って格納庫内部へ入った。

 

床には、安全通路、整備作業区域、機体が稼働する危険区域が色分けされている。

 

搭乗者は、決められた通路以外へ足を踏み入れることができない。

 

周囲では整備員たちが走り、格納庫上部では大型クレーンが部品を運んでいた。

 

戦術機の周囲には整備用足場が組まれ、

太い電源ケーブルと燃料供給管が接続されている。

 

訓練用の機体であっても、一機を安全に起動させるためには、

多くの人間の作業が必要だった。

 

「圧倒されるな」

 

坂上が候補生たちへ言った。

 

「戦術機は大きい。人間より強い。だが、勝手に戦ってくれる兵器ではない」

 

坂上は八機の吹雪を見上げる。

 

「お前たちが乗った瞬間から、お前たちの判断一つで、この巨体が動く」

 

須藤が僅かに笑った。

 

「望むところだ」

 

坂上は須藤を見る。

 

「その言葉を、搭乗した後まで覚えていられればいい」

 

続いて真嶋が、整備用端末を持って前へ出る。

 

「搭乗前確認を始める」

 

八名の候補生へ、それぞれ担当整備員がついた。

 

強化装備と管制ユニットの接続状態。

 

生命維持装置。

 

通信装置。

 

緊急脱出装置。

 

候補生の体調。

 

一つずつ、決められた手順に従って確認される。

 

須藤を担当する整備員が尋ねた。

 

「現在の気分は?」

 

「最高だ」

 

「聞いているのは、精神的な感想ではなく体調だ」

 

「問題ねぇ」

 

「昨夜の睡眠時間は?」

 

「五時間くらい」

 

「昨夜の食事は?」

 

「普通に食った」

 

「今朝は?」

 

「まだ食う時間じゃねぇだろ」

 

「正確に答えろ」

 

須藤は面倒そうにしながらも、質問へ一つずつ答えていく。

 

堀北は、担当整備員の質問へ簡潔に返答していた。

 

平田は自分の確認が終わる前に、担当整備員へ機体の状態を尋ねる。

 

「この機体は、昨日から準備していただいたんですか?」

 

「そうだ」

 

「ありがとうございます」

 

整備員は、僅かに驚いたように平田を見る。

 

「礼を言うのは、無事に帰ってからにしろ」

 

平田は素直に頷いた。

 

オレの担当は、他の整備員よりも年齢が高く、左手に古い火傷痕のある男だった。

 

「綾小路清隆」

 

「ああ」

 

「返事は『了解』にしろ」

 

「了解」

 

「体調は?」

 

「問題ない」

 

「緊張しているか?」

 

「していない」

 

整備員は端末から顔を上げ、オレを見た。

 

「初めて実機へ乗る人間で、緊張していない者はいない」

 

「なら、している」

 

整備員は僅かに眉を寄せた。

 

「素直じゃないな」

 

そう言いながら、端末へ情報を入力する。

 

「緊張していても構わん。手順を忘れる方が危険だ」

 

「了解」

 

「お前の搭乗機は五番機だ」

 

五番機の吹雪は、他の機体と同じ灰色の装甲を持っている。

 

違いがあるとすれば、肩部へ白い識別線が引かれていることだけだった。

 

機体の足元には、胸部管制ユニットへ候補生を運ぶための昇降機が用意されている。

 

搭乗者がそれぞれの機体へ向かう前に、茶柱が全員を止めた。

 

「最後に確認する」

 

候補生たちが振り返る。

 

「本日の目的は、戦術機を格好良く動かすことではない」

 

須藤が僅かに視線を逸らした。

 

「敵を倒すことでもない」

 

演習場には、後半訓練で使用する模擬標的が用意されている。

 

しかし、今の候補生たちへ求められているのは、戦うことではなかった。

 

「本日の目的は、自分の感覚と機体の動きを一致させることだ」

 

茶柱は、一つずつ区切るように告げる。

 

「歩け」

 

「止まれ」

 

「曲がれ」

 

「そして、必ず帰ってこい」

 

言葉だけを聞けば、あまりにも簡単に思える。

 

しかし、初めて実機へ搭乗する候補生にとって、それがすべてだった。

 

「無理だと思った場合は、すぐに申告しろ」

 

須藤が眉をひそめた。

 

「諦めろってことか?」

 

「違う」

 

茶柱が即座に答える。

 

「止めるべき時に、止める判断をしろと言っている」

 

「同じじゃねぇか」

 

「違う」

 

坂上が口を挟む。

 

「機体を守り、周囲にいる人間を守り、次の訓練へつなげるために止まるんだ」

 

坂上は須藤へ視線を向けた。

 

「一度訓練を中止した者は、また次に乗れる」

 

短い沈黙を置いてから続ける。

 

「無理をして機体を壊した者には、次がない」

 

須藤は何も返さなかった。

 

搭乗が開始される。

 

候補生たちは一人ずつ昇降機へ乗った。

 

足元の床が離れ、吹雪の胸部へ向かってゆっくりと上昇していく。

 

胸部装甲の一部が開き、その奥には管制ユニットが格納されていた。

 

開いたハッチから内部へ身体を滑り込ませる。

 

内部は、外から想像するよりも狭い。

 

構造そのものはシミュレーターの操縦席と似ている。

 

しかし、匂いが違った。

 

金属。

 

作動油。

 

起動準備を続ける電子機器の熱。

 

自分の身体の下に、実際の戦術機が存在している。

 

操縦席へ身体を固定し、強化装備の接続端子を機体側へつなぐ。

 

複数の生体センサーが起動し、心拍数や呼吸、筋肉の緊張状態が機体へ送られる。

 

やがて正面ハッチが閉じた。

 

外から差し込んでいた光が消え、管制ユニット内が一度、完全な暗闇へ包まれる。

 

聞こえるのは、自分の呼吸音と心拍だけだった。

 

数秒後、主電源が起動する。

 

正面と左右の計器が、決められた順番で点灯していく。

 

機体各部の状態。

 

跳躍ユニットの出力。

 

姿勢制御装置。

 

安全制限。

 

網膜投影装置。

 

視界が開いた。

 

頭部センサーから得られた格納庫の映像が、操縦者の視界へ直接統合される。

 

十数メートルの高さから見る格納庫内部。

 

足元で作業を続ける整備員が小さく見えた。

 

ただし、戦術機の視覚情報は、単純な窓から見る景色とは違う。

 

正面の映像だけではなく、左右と後方の状況、

周囲までの距離、熱源、移動物体の位置が同時に表示される。

 

シミュレーターでも同じ情報は再現されていた。

 

それでも、実際の格納庫と人間を映す視界には、仮想空間とは異なる生々しさがあった。

 

『全機、通信状態を確認する』

 

茶柱の声が管制ユニットへ届く。

 

『一番機、堀北』

 

『了解』

 

『二番機、平田』

 

『了解』

 

『三番機、櫛田』

 

『了解です』

 

『四番機、須藤』

 

『了解』

 

『五番機、綾小路』

 

「了解」

 

残る三機も順番に応答する。

 

『全機、主機を始動しろ』

 

茶柱の指示へ従い、手順通りに操作を進める。

 

補助電源。

 

燃料系統。

 

姿勢制御装置。

 

主機。

 

起動信号を送ると、低い振動が機体全体へ広がった。

 

シミュレーターでも振動は再現されていた。

 

しかし、本物の機体が生む振動は違う。

 

背中。

 

脚。

 

操縦席。

 

身体全体へ、巨大な機械が目覚めていく感覚が伝わってくる。

 

周囲に並ぶ吹雪も、順番に主機を始動した。

 

八機分の駆動音と振動が重なり、巨大な格納庫そのものが低く唸っている。

 

『一番機から順に、支持架を解除する』

 

堀北機を固定していた支持装置が外れた。

 

吹雪の全重量が、自分の両脚へ移る。

 

機体が僅かに揺れたが、堀北はすぐに姿勢を修正した。

 

続いて二番機の平田。

 

三番機の櫛田。

 

一機ずつ固定が解除されていく。

 

四番機の須藤が支持架から離れた瞬間、機体が僅かに前へ出ようとした。

 

安全制御が作動し、実際に歩き出す前に入力を止める。

 

『須藤、操作が早い』

 

茶柱が指摘する。

 

『まだ動かしてねぇ』

 

『動かそうとした』

 

須藤は返事をしなかった。

 

五番機。

 

オレの支持架が解除される。

 

機体の全重量が両脚へ乗った。

 

足元へ接する床。

 

関節部から返る抵抗。

 

自分の身体とは異なる重心。

 

シミュレーターで得た感覚と、大きくは違わない。

 

ただし、失敗した場合に壊れるのは仮想の機体ではなく、この吹雪だった。

 

『全機、第一歩を開始しろ』

 

堀北機が右脚をゆっくりと前へ出す。

 

脚部が床へ接地する。

 

機体が大きく傾くことはない。

 

平田機が続いた。

 

櫛田機。

 

須藤機。

 

須藤の歩幅は、他の候補生よりも大きかった。

 

機体の上半身が僅かに前へ傾く。

 

『入力を弱めろ』

 

茶柱が言う。

 

『分かってる』

 

『返事より先に直せ』

 

須藤は入力を修正し、吹雪の姿勢を戻した。

 

オレも右脚を前へ出す。

 

床へ接地する。

 

続いて左脚。

 

格納庫出口までは数十メートルしかない。

 

しかし、八機は一歩ずつ慎重に進んだ。

 

整備員たちは既に機体稼働区域から退避している。

 

それでも、一機でも転倒すれば、前後の機体や周囲の設備を巻き込む可能性がある。

 

誰も急がない。

 

格納庫の出口を抜けると、夜明けの光が機体の装甲へ差し込んだ。

 

外には、第一実機演習場が広がっている。

 

周囲を高い防壁で囲まれた広大な平地。

 

地面には戦術機の重量へ耐えられる厚い舗装が施され、

転倒時の衝撃を少しでも抑える緩衝区画や、

暴走した機体を止めるための大型緊急停止網も設置されていた。

 

演習場の四方には、教導隊の戦術機が待機している。

 

茶柱は管制室から全体を指揮し、坂上と星之宮は実機で候補生たちを監視していた。

 

万が一、候補生機が暴走した場合には、教導隊機が直接取り押さえる。

 

堀北機が最初に演習場へ出た。

 

続いて平田。

 

櫛田。

 

須藤。

 

オレ。

 

八機の吹雪が、朝日を受けながら横一列へ並ぶ。

 

候補生たちは今、初めて自分の操作によって戦術機を立たせていた。

 

『これより歩行訓練を開始する』

 

茶柱の声が届く。

 

『指定されたラインを一周しろ。速度は時速五キロ以下を厳守する』

 

須藤が小さく息を吐いた。

 

『遅すぎる』

 

『なら、遅く正確に動く技術を見せろ』

 

訓練が始まる。

 

先頭は堀北機。

 

慎重な入力で、歩幅を一定に保っている。

 

平田機は堀北より僅かに遅い。

 

自分の動きよりも、後続との距離を気にしているためだった。

 

櫛田機は時折左右へ揺れたが、姿勢を大きく崩すことはない。

 

須藤機は速度を抑えようとしている。

 

しかし、身体能力の高さと前へ進みたい意識が操作へ表れ、他機より歩幅が大きくなる。

 

速度が規定値を超えそうになるたび、管制ユニットへ警告音が鳴った。

 

『須藤』

 

茶柱が名前を呼ぶ。

 

『分かってる』

 

『分かっているのなら、警告を鳴らすな』

 

『機体の反応が遅ぇんだよ』

 

『機体ではない。お前の入力が雑なんだ』

 

須藤は舌打ちした。

 

それでも、次の一歩からは入力を僅かに弱める。

 

オレは列の中間を進んでいた。

 

目立つ必要はない。

 

機体の反応は、既にある程度把握できている。

 

シミュレーターより僅かに操作へ遅延がある。

 

実際の重量によって生じる慣性も強い。

 

足裏から伝わる路面の振動も、仮想空間とは違う。

 

だが、すべて予測できる範囲だった。

 

一周目を終える。

 

八機すべてが転倒することなく、開始地点へ戻った。

 

管制室から拍手や賞賛はない。

 

それは成功というより、できて当然の最低条件だった。

 

訓練は、そのまま次の課題へ移る。

 

九十度方向転換。

 

百八十度反転。

 

後退。

 

側方移動。

 

人間であれば、考えるまでもなく行える動きだった。

 

しかし、戦術機では十数メートルの巨体と重心を崩さず、

脚部へ適切な荷重を配分しながら行う必要がある。

 

六番機が後退を始めた時、大きく片側へ傾いた。

 

管制ユニットに警告が表示される。

 

待機していた坂上機がすぐに接近し、六番機の肩部を支えた。

 

『入力を止めろ』

 

坂上が命じる。

 

『はい!』

 

候補生は焦り、傾いた機体を自分で戻そうとして、さらに操縦桿を動かしかけた。

 

坂上が強い声を出す。

 

『触るな!』

 

候補生は反射的に入力を止めた。

 

追加の操作がなくなると、姿勢制御装置がゆっくりと働き、機体の揺れが収まっていく。

 

『人間は倒れかけた時、反射的に手や脚を出して身体を支えようとする』

 

坂上は六番機を支えながら説明した。

 

『だが、戦術機で同じように複数の入力を重ねれば、

制御装置の修正と操縦者の操作がぶつかり、かえって姿勢を崩す』

 

六番機が、ようやく直立姿勢へ戻った。

 

『怖かったか?』

 

『はい』

 

候補生は正直に答えた。

 

『それでいい』

 

坂上の声は厳しいが、責める調子ではない。

 

『次は、怖がったまま入力を止めろ。恐怖を消そうとする必要はない』

 

恐怖を感じなくなることが、訓練の目的ではない。

 

恐怖を感じた状態でも、正しい操作を選べるようになる。

 

それが必要だった。

 

歩行と基本動作だけで、一時間が経過した。

 

候補生たちの集中力は、少しずつ削られている。

 

肉体へかかる負担より、精神的な疲労の方が大きかった。

 

常に、自分が十数メートルの巨体を動かしていると意識しなければならない。

 

僅かな操作が、機体全体の大きな動きへ変わる。

 

午前七時。

 

短い休憩時間が与えられた。

 

機体は演習場へ立ったままであり、候補生は管制ユニットから降りない。

 

強化装備に備えられた補水機能を使用しながら、

限定的に開放された通信回線で会話する。

 

最初に口を開いたのは須藤だった。

 

『遅すぎて、逆に疲れる』

 

堀北が答える。

 

『速く動く方が簡単だからでしょう』

 

『は?』

 

『勢いで細かい失敗をごまかせるからよ』

 

『なら、お前は速く動けるのか』

 

『今は、速く動く必要がないわ』

 

『逃げんな』

 

『命令を守っているだけよ』

 

平田が二人の間へ入る。

 

『二人とも、少し休もう』

 

須藤は今度は平田へ話を振る。

 

『平田、お前はどうなんだ』

 

『思っていたより難しいよ』

 

『お前まで弱気なのか』

 

『弱気じゃないよ』

 

平田は穏やかに答えた。

 

『難しいと思ったことを、難しくないふりはしたくないだけだ』

 

須藤は、すぐには言い返さなかった。

 

櫛田も通信へ加わる。

 

『私、さっき方向転換で転びそうになったよ』

 

『見てた』

 

須藤が即答する。

 

『そこは、見てなかったって言ってよ』

 

『見えてたんだから仕方ねぇだろ』

 

通信回線に、小さな笑いが起きた。

 

張り詰めていた緊張が、僅かに緩む。

 

オレは視界の端へ表示されている観察席の映像を見た。

 

管制室には茶柱。

 

坂柳理事長。

 

坂柳有栖。

 

そして高円寺がいる。

 

坂柳有栖は、八機から送られてくる操縦データを並べ、候補生ごとの入力傾向を比較していた。

 

高円寺は立ったまま、演習場を眺めている。

 

退屈そうには見えない。

 

須藤機。

 

堀北機。

 

オレの五番機。

 

それぞれの動きを、静かに観察していた。

 

休憩が終わる。

 

次の訓練は、時速十五キロまでの低速走行だった。

 

戦術機にとっては、まだ極めて遅い速度である。

 

それでも、歩行時より慣性が強くなり、停止や方向転換に必要な距離も伸びる。

 

八機が指定された走行コースへ入った。

 

先頭は堀北機。

 

速度を一定に保ち、慎重に進む。

 

平田機。

 

櫛田機。

 

須藤機。

 

走行状態になると、須藤機の動きは歩行時より明らかに安定した。

 

須藤が持つ運動感覚と、勢いのある動きを好む性格が、

一定以上の速度になると機体の反応と噛み合うのだろう。

 

『やっぱり、こっちの方が動きやすい』

 

須藤が言う。

 

『速度を上げるな』

 

茶柱が即座に注意する。

 

『上げてねぇ』

 

『上げようとした』

 

須藤は返事をせず、規定速度を維持した。

 

堀北は、走行時も慎重だった。

 

入力に無駄は少ない。

 

ただし、姿勢が崩れかけた時の修正が、僅かに遅い。

 

平田は、自分の速度より周囲の機体との距離を保つことに優れている。

 

櫛田は正面だけではなく、左右と後方を頻繁に確認していた。

 

単機での操縦精度では、堀北や須藤に劣る。

 

しかし、複数機で行動する際には周囲を巻き込む事故を起こしにくい。

 

それぞれの性格と考え方が、戦術機の動きへそのまま表れている。

 

オレは一定速度を維持した。

 

右旋回。

 

左旋回。

 

減速。

 

停止。

 

いずれも問題はない。

 

『五番機』

 

茶柱から呼びかけられる。

 

「了解」

 

『現在の速度を答えろ』

 

「時速十四・八キロ」

 

『減速を開始した位置は?』

 

「停止標識の十二メートル手前」

 

『なぜ、その位置を選んだ』

 

「機体重量と路面状態、現在の速度から、そこが適切だと判断した」

 

回線に短い沈黙が生まれた。

 

『初搭乗にしては、よく理解している』

 

茶柱の評価を聞き、堀北機の頭部センサーが僅かにこちらへ向いた。

 

「偶然だ」

 

『通信回線は全員へ開かれている』

 

茶柱が言う。

 

『言い訳も全員に聞こえているぞ』

 

堀北が冷たい声で続ける。

 

『戦術機は、偶然だけで正確に停止しないわ』

 

以前にも、似た言葉を言われたことがある。

 

「そうかもしれないな」

 

『また、その答え?』

 

堀北の声を聞きながら、オレは通信を切った。

 

少しだけ、目立ちすぎた。

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