夕暮れの中庭。
「……ださいわね、ほんっと」
アリーゼの呟きが、噴水の水音に溶けていく。
オレンジ色の光が石畳を染め、彼女の銀髪を燃えるように輝かせていた。
その横顔は美しく――そして、ひどく寂しげだった。
「アリーゼ先生」
振り返ると、そこにはスーリアが立っていた。
いつもの穏やかな表情。しかし、その瞳に確かな力強さがある。
「おや、ごきげんよう、スーリア先生」
アリーゼは完璧な微笑みを浮かべた。宮廷仕込みの、隙のない笑顔。
「どうか、なされまして?」
「少し、やりすぎだよ」
「ふふ、何の話かしら?」
直球のスーリアに、白々しく首を傾げてみせる。
スーリアは一歩前に出て、いつものように人差し指で唇に触れた。
「とぼけないで。さっきの職員室の話も、授業のことも聞いてた。あそこまで追い詰めることはなかったでしょう」
アリーゼは扇子を取り出し、優雅に開いた。
「そうかしら? あたし様は貴族に必要な教育をしているだけよ。ま、平民だった貴女にはわからないでしょうけどね」
その言葉の裏には、かつての悪役令嬢としての醜い優越感が滲んでいた。
夕風が二人の間を吹き抜け、スーリアの金髪がふわりと揺れた。
「クラスメイトの前で恥をかかせて、心を壊すことが教育だとでも? あんなやり方、いつセリアがつぶれてもおかしくありません」
「つぶれていいんじゃない? これでつぶれたなら、その程度なのよ、そいつは」
「……セリア」
スーリアの小さな声が震えた。
「そう、結局その程度なのよ。わたくしは」
扇子がカタリと石畳に落ちた。
彼女の声から冷たさが消え、代わりに深い自己嫌悪が滲んでいた。
「セリア・レーヴェルは、何も変わらないの」
「……そんなに、過去の自分が許せない? 貴方は過去の自分で、憂さ晴らしをしてるようにしか見えないよ」
「そう見える? アンタには」
すると、アリーゼが乾いた笑いを漏らした。
「相変わらず知ったような口を聞くのね。そうやって誰にでも優しくして――」
アリーゼの顔が、ゆっくりとスーリアに向けられる。
その瞳には、深い憎悪と、哀しみが混じっていた。
「そういうところが嫌いなのよ。“アリス”」
「っ」
その名前が発せられた瞬間――時が止まったような錯覚に陥った。
「いつも正しかった貴女には、わからないでしょうね。私の気持ちは」
「“セリア”……」
スーリアも、“未来のアリス”として呼ぶ。
アリーゼ――いや、“未来のセリア”は、自嘲的な笑みを浮かべた。
「この時代に来て、いろんな知り合いに会ったわ。友達も、親友も、恩師も、隣人も」
「……」
「いつもわたくしを持ち上げてへこへこしてた人たちが、みんな優しい笑顔を向けるの。誰もわたくしの正体に気付かずにね」
「そっか……」
「父親も、執事も。ミアにも会った」
ミアの名を口にした時、“セリア”の表情が歪んだ。
「でも、誰もわたくしに気付かなかったわ、誰も」
「そんなの、大人になったんだから当たり前だよ」
「一人だけ、すぐわかってくれた人がいてね」
その表情に、一瞬だけ温かなものが宿る。
「アヴェルだったのよ」
「それって――」
その名を聞き、“アリス”の声に動揺が走る。
なぜなら、その人物は……
「ええ。レーヴェル家の専属暗殺者よ」
沈黙が落ちた。
重い、息苦しいような沈黙。
そして――
「ははは」
“セリア”が笑い出した。
乾いた、虚しい笑い。
彼女らしい高笑いではなく、どこまでも乾いた笑いだ。
「笑えるでしょ?」
笑い声が途切れる。
「驕り高ぶって、神すらも味方だと思っていた悪役令嬢」
声が震え始める。
「愛する人も友達も誰も気付かず、気付いたのは……」
彼女は言葉を切った。
「いつも暗殺の依頼を受けた、闇の人間なのよ」
笑い声が、嗚咽に変わっていく。
そして、光の無いその瞳に涙が落ちた。
「所詮そんなもんだったのよ。わたくしの人生なんて」
「…………」
「誰も本当のわたくしを、見てはいなかったのよ」
セリアの声が小さくなる。
「完璧な公爵令嬢、優秀な魔術師、次期当主」
肩書きばかりが増えていく。
でも、ただの『セリア』を見ている者は――
「誰も、本当のわたくしをみてはいなかった」
「そんな弱音、貴女からは聞きたくないかな」
「やっぱり、わたくしには向いてないわ。教師なんて。汚いわたくしが、子供に魔術を教える資格は無いのよ」
そのとき思い出すのは、セリア……目の前の過去の自分だ。
大人となった悪役令嬢には、もう綺麗な目で魔術を見ることは出来ない。
だが、
「ううん、貴女はやり遂げてくれる。今確信した。貴女は教師に向いてるよ」
迷いの無い真っ直ぐな“アリス”の言葉が、“セリア”を突き刺した。
「……貴方ねぇ、聞いてた? わたくしがこんなにノイローゼになってるのに、何かの主人公みたいに真っ直ぐ進めようとするのはやめなさいな」
「ふふ、そうだね。でも、本当に確信したんだ」
「なんで……なんでそんなに信じられるのよ、悪役令嬢のわたくしを」
“アリス”の唇の端が、ゆっくりと吊り上がる。
不敵な笑み。まるで全てを知っているような表情。
「そんなの――言わなくてもわかるでしょ?」
低く、艶やかで、どこか挑発的な声。
「貴女は、これからも苦しむわ。過去の自分を変えようとして、変えられなくて。でも、それでいいの。ううん、それがいい」
“アリス”が後ろへ下がる。夕陽に照らされた姿が、光に溶け込んでいく。
強い夕風が中庭を吹き抜ける。
“セリア”が目を細めた瞬間――
――だって、それが私の愛した悪役令嬢だもん。
風が止んだ時、そこにはもう誰もいなかった。
「……全く、相変わらずしゃくに障る女ね、アンタは」
足元の扇子を拾い上げ、苛立たしげにパチンと閉じる。
「いつもいつも、わたくしの心を弄んで……」
ほんのりと、頬が赤くなっていた。
(言わなくてもわかるでしょ? ですって。わかってるわよ、そんなこと)
足取りは、どこか軽い。
夜が訪れようとしている。
でも、“セリア”の心には――小さな、温かい光が灯っていた。
学院の地下。螺旋階段を下りきった、誰も訪れない最深部。
石造りの壁は冷たく、湿った空気が肌に触れる。
「魔術の、資格……」
その場所に立つのはセリアだ。
暗闇の中を淡く光る展示物――白い大理石の台座の上に、杖が静かに佇んでいた。
ガラスケースに収められた、装飾された金属の柄。先端の宝珠からは、青白い光が今も放たれている。
――その杖の名は『月《ルナ》ト太陽《ソレイユ》ノ理《ロゴス》』である。
「……わたくしは」
呟きながら、そっとガラス越しに杖へ手を伸ばす。
冷たい感触が、指先に伝わった。
* * *
セリアが魔術に憧れた日、それは六歳の頃だ。
何かのパーティに出席した時のこと。女王陛下も王子も出席していたそのパーティに、何者かが襲撃。いわゆるクーデターだった。
華やかなパーティーが突如、悲鳴と怒号に変わる。知っている人が何人も倒れ、血の匂いが鼻から離れない。
「あ……ぁ……セリア……ちゃん……に、げ……」
目の前には、自分を庇った名もわからぬ女性。顔も名前も、もう思い出せない。
胸に大きな穴を開けられた彼女が力なく倒れ、赤い血だまりが広がっていく。
(だれ、か……)
心から恐怖したその時、ある光がその場を満たした。
それが、初めて見た魔術。初めて見た魔術師。
真っ白なドレスを纏った女王が、様々な魔術を駆使して襲撃者を一掃する。まるで星が降り注ぐような、神秘的で圧倒的な魔術だった。
* * *
「リオ」
思わず、セリアは弟の名前を口に出した。
『落ちこぼれはレーヴェル家に必要ない』
リオが捨てられたあの日、父が放った冷酷な言葉。
真冬だった。雪の降る中、屋敷の外に追い出された小さな背中。
(わたくしは、ただ見てるだけだった)
父親に逆らう勇気も無く、震える弟をガラス越しに眺めることしか出来なかった。
『ぼくはね、みんなを守れるようなすごいまじゅつしになるの!』
リオは落ちこぼれと呼ばれても諦めなかった。
誰よりも早く起きて魔術の練習、才能が無くても必死に努力してた。
(恥ずかしくて言わなかったけど……そんな弟を、姉として誇りに思ってた)
弟がいなくなった後、何をしていた?
忘れようとしたんだ。平民を虐げ、取り巻きを従えて笑い、自分の強さを鼓舞した。
でも、毎晩夢に見る。リオの助けを求める涙、絶望と恐怖で震える瞳。
――だから怖くなる。次は、自分の番ではないか。
そんな時、
「セリア、さん?」
「!」
後ろから小さな声。そこにいたのはアリスだ。
「ど、どうして、貴女がここに」
「え、え、と……誰かに、呼ばれた気がして」
アリスの視線が、引き寄せられるように台座の杖へ向く。
「誰かは、わからない。でも、ここから聞こえるの」
「はっ、ずいぶんと不思議ちゃんな事を言いますのね」
「……ごめんなさい。セリアさん、は? どうしてここに?」
「ふん、少し散歩に来ただけですわ」
そのセリアの声には、いつもの覇気も傲慢さも欠片もない。
ただ虚しく、乾ききった声だ。
「なにか、あったの?」
「は、このセリア・レーヴェルが平民に心配されるなんて、この世の終わりですわね」
「……本当に、どうしたの? セリアさんらしくないよ」
「貴女には関係ないでしょう。いつものように怯えてなさいな――お願いですから」
セリアの声は震えていた。弱々しく、心の底で助けを求める悲痛な声。
「このまま見て見ぬ振りなんて、そんなの出来るわけ無い」
今のアリスの瞳に宿っているのは怯えではない。優しさに満ち、決意を持った瞳だ。
「お願い、何があったのか教えてよ」
「……今日はずいぶん、噛みついてきますわね」
だから、ついセリアは目をそらした。
「だって、すごく悲しそうで、すごく辛そうだから。何かしてあげたいの」
「ふん、偽善ですわね」
「……うん、偽善、だよね」
目に決意があるのにいつもと同じ態度のアリス。
それが気に入らなくて、セリアは舌打ちをした。
「そんな事せず、素直に罵倒してみなさいよ!」
セリアの声が荒れる。
感情が制御できない、ただただ吐き出す。
「いつも虐めてる主犯が落ち込んでるんですもの。『ざまあみろ』と心の底では思っているのでしょう?!」
「セリアさん……」
「……心底見下しなさいな、そう思われてた方が、今は気が楽ですわ」
「そっか……」
その言葉にアリスは俯く。
「わかったよ、セリアさん。そう思うことにしておく」
「……ありがとう、アリスさん」
「だから――」
その瞬間、アリスが両手でセリアの手を取る。
「な、なにを」
温かい。
震える彼女の手をアリスの小さな手が包む。
冷たかった手に温もりが伝わり、不思議と振り払えなかった。
「何があったのかはもう聞かない。でも、一緒にはいさせて」
「何ですって?」
その手から感じるのは困惑と戸惑いと――微かな安堵。
「何も理解していないのね、わたくしは貴女のそういうところが」
「……心の中で見下してるよ、ざまあみろって」
「は?」
セリアはすぐに理解が追いつかなかった。
「そう思ってるから、もうちょっとだけ。貴女の望む、醜い平民の姿でいるから」
アリスの瞳が真っ直ぐセリアを見つめる。
(この子、わざわざ嘘をついてまで……)
いつも意地悪している自分に、嘘までついて。
セリアは胸が熱くなった、ここまでして、自分と一緒にいてくれるのかと驚いた。
彼女は察しが悪い方だが、アリスの嘘はすぐにわかった。
なぜなら、
「一緒に、いさせてよ」
涙を隠しきれていないのだから。
「……まったく、お人好しですわね。本当に」
杖の光が優しく二人を照らす。
セリアの瞳にはいつの間にか涙が伝っていたが、その顔は優しい微笑みだった。
(でも、この優しい感覚、覚えが……)
そんな時だ。
足音。螺旋階段からコツコツと響く、複数の重い足音が、こちらに向かってきた。
「おや、先客がいるとはな」
二人の目の前に現れたのは、マントを羽織った男三人だった。