月が雲に隠れた深夜、レーヴェル公爵邸の書斎に静かに灯が点いていた。
厚いカーテンが窓を覆い、外からは一切の光が漏れないよう細心の注意が払われている。
「ふむ」
重厚な革張りの椅子に座るのは、セリアの父であるレオン・レーヴェル公爵。
この国でも指折りの権力者でありながら、影では数多くの闇取引に手を染める貴族だ。
「……妙だ」
公爵は手元の羊皮紙を睨みつけていた。
そこには『スーリア・クロフォード』に関する調査結果が記されているはずだった。
しかし、その紙は白紙……何も書かれてはいない。
「閣下、申し訳ございません」
公爵の目の前にいるのは、情報収集係の男だ。
普段ならあらゆる人物の素性を調べ上げる彼が、珍しく困惑の表情を浮かべている。
「どれほど調べても、スーリア・クロフォードという女性の記録が一切出てまいりません」
「一切、だと?」
公爵の眉がひそめられる。
「はい。出生記録、教育記録、家系図……全てです。まるで存在しない人物です」
「馬鹿な、そんなことが」
バンッ――、公爵は羊皮紙を机に叩きつけた。
「この国で生まれ育った者で、記録の残らぬ者などおるものか。特に、あれほどの品格と教養を身につけた女性ならば、必ずどこかの名門の出身のはずだ」
「それが……」
情報収集係は汗を拭いながら続けた。
「他国の記録も当たってみましたが、やはり該当する人物は見つかりません。隣国の貴族名簿、商人ギルドの記録、果てはなにかしらの記録を有する全ての組織……どこにも『スーリア・クロフォード』の名前は」
「……ふざけるな。女王陛下に認められるほどの魔術師なんだぞ」
公爵の声に苛立ちが込もった。そして、その表情が険しく変わる。
公爵は立ち上がり、窓の外を見つめた。
「このままでは我々の計画に支障をきたす。正体の知れぬ者が学院の中枢にいるなど」
「閣下……まさか」
情報収集係が青ざめた。
「ああ、排除するしかあるまい。あれほど光魔術の使い手をわたしは見たことがない」
公爵は冷酷に呟いた。
「スーリア・クロフォード……あの女は確実に我々の邪魔になる。放置しておけば、いずれ致命的な脅威となるだろう」
「はっ」
その瞬間――情報収集係が部屋から消える。
公爵は座り直し、腕を組む。
――その時、書斎の窓が静かに開いた。
風もないのに、まるで見えない手によって押し開かれたかのように。
「深追いは無用よ」
突然響いた女性の声に、公爵は振り返った。
「貴様……っ!」
「どうも」
窓際に立っていたのは、アリーゼ・ヴェルレイ。
セリアを「クソガキ」呼ばわりしたと報告を受けた、傲慢な新任教師だった。
「どうやってここに!」
公爵は立ち上がったが、アリーゼは涼しい顔で手をひらひらと振った。
「さあ、どうしてでしょう」
彼女からは、ミアの報告にあった印象とは随分と違う。
誰もが跪きそうな威圧感を放っている。
「何の用だ! 無断で人の屋敷に侵入するとは――」
「公爵殿? スーリア・クロフォードについて調べるのをやめなさい」
アリーゼが静かに言った。その声には、有無を言わせぬ権威が込められている。
「な……何を言っている?」
公爵は困惑した。なぜこの教師が、スーリアを調べていることを?
「彼女について詮索しても意味はないわ。それより――」
アリーゼが一歩前に出ると、部屋の空気が一変した。
「貴方が隠している闇の取引について……教えていいただけないかしら?」
「……闇の取引? 何のことか分からんな」
公爵は平静を装ったが、その額には汗が浮かんでいる。
とぼけても無駄よ、とアリーゼの瞳が鋭く光った。
「先月の新月の夜、東方商会のガルベス商会長と密会した件。魔導石と引き換えに禁制武器を流している話。そして昨日の深夜二時、隣国の密偵ドラクス卿に渡した軍事機密の内容まで――全て教えていただけない?」
「そ、そんな……!」
公爵の顔が真っ青になった。
これらは他の誰にも話していない、完全な機密事項のはず。
「あら、この程度で驚くなんて」
楽しむように、アリーゼが嘲笑を浮かべた。
「スーリア・クロフォードの正体は調べても何も出てこないのに、貴方の汚い秘密はこんなにも簡単に把握できるなんて。面白い対比ね」
「貴様……一体何者だ」
公爵は震え声で問う。恐怖が彼の心を支配していた。
これほど詳細な情報を握られているということは、自分の全ての行動が筒抜けだということだ。もしこれが王室の耳に入れば――処刑は免れない。
「それは重要ではないわ」
アリーゼは涼しい顔で答えた。
「重要なのは――今後、スーリア・クロフォードについて一切の詮索を止めること。そうすれば、貴方の汚い秘密も誰の耳にも入らない」
「これは……脅迫か?」
「何を人聞きの悪い、取引よ」
アリーゼが微笑んだ。しかしその笑顔には、氷のような冷たさがあった。
「貴方が詮索をしなければ、貴方の犯罪は秘密のまま。おわかり?」
「…………」
公爵は震える手でハンカチを取り出し、額の汗を拭いた。
「……わかった。スーリア・クロフォードについては、もう調べん」
「賢明な判断ね」
アリーゼは懐から煙草の箱を取り出し、一本を差し出す。
「一服いかが?」
公爵は差し出された煙草を見て、さらに顔を青ざめさせた。
それは彼が長年愛用している特別な銘柄――『ロイヤルクラウン』。王室御用達の高級品で、一般には出回らない貴重な品だった。
「こ、これは……わたしが愛用している」
「ええ、知ってますわ」
アリーゼは強引に煙草をくわえさせる。
シュッ――、その後彼女は煙草に火を点け、涼しく答えた。
「貴方が毎晩この時間に、この書斎で必ずこの銘柄を吸うことも含めてね」
公爵の手が震えていた。
自分の些細な習慣まで把握されている。どれほど長期間、詳細に見張られていたのか。
「貴様は、一体何者なのだ……」
「わたくしですか? わたくしは――」
彼女は、まるで芝居でもするかのように優雅に言い放った。
「
「……なにを、言っているのだ」
公爵は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
悪役令嬢? 父親? 一体何のことを――
カチンッ、と、アリーゼがライターの蓋を閉める。
「ただし、忘れないで。貴方が約束を破れば、次の日には女王陛下の元に詳細な証拠と共に全てが届くことになる」
まさに公爵には地獄だった。
レーヴェル公爵が一介の教師に完全に屈服させられるなど、悪夢のような光景。
「それでは、良い夜を……」
「待て!」
公爵が声を上げたが、アリーゼはもう窓から姿を消していた。
――まるで最初からそこにいなかったかのように。
沈黙が書斎を支配した。公爵は椅子にへたり込み、顔が真っ青になっている。
「一体、何が起きているというのだ」