授業が全て終わり、生徒たちが次々と教室を出ていく。セリアは席に残っていた。
取り巻きの二人、エミリーとヴィクトリアが心配そうに近づいてくる。
「セリア様、お帰りになられないのですか?」
「二人は先に帰ってなさい」
ヴィクトリアの優しい声に、セリアは扇子を閉じて決意に満ちた表情を浮かべる。
「わたくしはあの教師と話がありますわ」
「教師って、あの無礼者の女ですわよね? あんな奴は放っておくべきです!」
セリアの言葉に反応したのは、元気なエミリーであった。
「どこまでも上から目線で口も悪くて、そのくせ色々と適当で、教師どうこうというよりも人間性が嫌いです!」
「エミリー、淑女たる者どんな相手でも言葉は選びなさいな」
いつも冷静なヴィクトリアやメイドのミアとは違い、彼女は感情を出すタイプだ。
だから、こうしてヴィクトリアが叱咤することも珍しくないのだが。
「でも……」
「でもではありません、セリア様の前ですよ」
「むぅ」
そう宥めながらも、ヴィクトリアは考える。
(ま、あの教師に思うところがないわけではないけれど)
心の中では、エミリーの発言に同意していた。
あのアリーゼという教師は、とても教育者として認められた人材とは思えない。
「セリア様! あの教師に直談判しに行くならわたしもっ!」
「いいえ、貴女とヴィクトリアは先にお帰りになって。ミア、お二人を送って差し上げなさい」
「はっ」
セリアがミアを呼んだ瞬間、彼女はエミリーの目の前に立ち塞がる。
「お二方、行きましょう」
―― ―― ――
三人が去った後、セリアは一人教室に残された。
窓から差し込む夕陽が、彼女の銀髪を橙色に染める。
(さて……)
セリアは深呼吸をすると、職員室へと向かって歩き出した。
廊下を歩くセリアの足音が、静まり返った学院に響く。
「絶対に、許しませんわ」
銀色の髪を揺らしながら進む彼女の姿は、まるで戦いに向かう騎士のよう。
職員室の扉の前に立つと、セリアは一度深呼吸をした。そして、勢いよく扉を開けた。
「いい加減にしてくださいまし」
職員室には、アリーゼが一人、紅茶を飲みながら書類整理をしていた。他の教師たちは既に退勤したようで、静寂が支配している。
「ん?」
アリーゼは顔を上げず、書類に目を通しながら応える。その態度が、セリアの怒りをさらに煽った。
「どうしてそんなにいつも適当なんですの!」
セリアは机を挟んでアリーゼの正面に立ち、扇子で机を叩いた。
――パシン、という音が響く。
「適当にみえるの?」
アリーゼはようやく顔を上げた。
その表情は相変わらず余裕に満ちていて、どこまでもセリアの怒りを楽しんでいる。
「見えるに決まってますわ」
セリアは腕を組み、見下すような視線を送った。
「貴女の授業は……確かに知識はあるようですけれど、態度があまりにも不真面目すぎる! この由緒正しきアクアドール学院の教師として、恥ずかしくないんですの?」
「別に、あの程度もわからないお嬢様に問い詰められるほどの恥はないもので」
アリーゼの言葉に、セリアの顔が真っ赤になった。
「あの平民が答えられたことすら、貴女には理解できなかったのよね?」
アリーゼの言葉が、セリアの心を抉る。
「どういう気持ち? いつも驕り高ぶってる高貴なお嬢様が醜態をさらした気分は」
「っ」
先程のことを指摘され、セリアは言葉に詰まる。
「……いい加減にしなさい、わたくしを誰だと心得ますの」
「あら、またレーヴェル家がどうのって話?」
「貴女はレーヴェル家の偉大さを理解していない!」
セリアの声に傲慢さが交じり、彼女は両手を広げた。
「この国の経済の三割を支配し、王室への最大の出資者。軍の半分はレーヴェル家の資金で動いているのよ」
「ふーん」
アリーゼは興味なさそうに紅茶を一口飲む。
セリアは一歩前に出た。その瞳には、貴族の傲慢な光が宿っている。
そして、にやりと悪魔のような笑みを浮かべた。
「父上が一言命じれば、どんな人間でも社会的に抹殺できる。ご存じ? 我が家に逆らった承認が一夜にして破産した話を」
セリアは指折り数え始めた。
「レーヴェル家を批判した新聞社は廃刊。父上の意に沿わない判決を下した判事は失脚」
セリアの声が、氷のように冷たくなった。
「そして。私に無礼を働いた教師は、『不祥事』で学院を去りましたわ」
「…………」
アリーゼは黙って聞いている。その表情からは何も読み取れない。
「つまり、教師一人を地獄に落とすなんて朝飯前なのですわ」
セリアは優雅に髪をかき上げた。
「貴女の家族、友人、大切な人……全員不幸にできますわ。仕事を失い、社会から排除され、最後には――」
「自殺する、と?」
アリーゼが静かに、答えを先取りする。
それにセリアは鼻を鳴らし、胸の下で腕を組んだ。
「ええ、勝手に死にましたわ。レーヴェル家の取引を断った商人。借金を背負わされ、家族に見捨てられ、破滅しましたわ」
「……そう」
突然、アリーゼが俯いた。
表情が陰に隠れて見えなくなる。
セリアは勝利を確信した。この傲慢な教師もついに恐怖を感じたのだと。
教師に近づくと、机の上に置かれていた紅茶のカップを手に取った。
誰のために入れたのかもわからない、もう一つのカップを。
「何をするの?」
アリーゼが顔を上げないまま問う。
「少し、冷やしてあげようと思って」
セリアの手が傾き始める。
――ばしゃっ。
紅茶がアリーゼの銀髪を濡らしていく。茶色い液体が、白い襟元に染みを作った。
「…………」
アリーゼは動かない。ただ俯いたまま、紅茶が滴り落ちるのに任せている。
「ふふ」
セリアは満足そうに微笑んだ。
「そうやって俯いてる方が、無様で可愛げがありますわよ」
しかし、次の瞬間。
アリーゼがゆっくりと顔を上げた。
その表情は――
泣いてもいなければ、怒ってもいない。ただ、深い静寂が宿っていた。
「わかっていてなぜ」
セリアが問いかけようとした、その瞬間。
「なら、ひとついい?」
アリーゼの言葉が、静かに職員室に響いた。
「なんですの?」
「もしも女王陛下が身を隠し平民として暮らしていたら、陛下の価値は下がるの?」
「は?」
セリアの声が上ずる、予想もしない質問だった。
いや、質問というには重すぎる……ずっと深い問いかけ。
「もし身分の高い者が陛下の忠義を忘れ、陛下を陥れようとしたら?」
アリーゼは一歩前に出た。
その足取りは、先ほどまでの控えめな様子とは打って変わって堂々としている。
まるで別人のような――いや、これが本来の彼女なのか。
「何を、そんな仮定の話を……」
セリアの声が震える。
なぜだろう。ただの平民の言葉に、なぜこんなにも動揺するのか。
扇子を握る手に、知らず知らずのうちに力が入っていた。
「そうね、仮定の話はやめましょう」
アリーゼは肩をすくめると、椅子に深く腰を下ろした。
余裕の笑みを浮かべながら、まるで勝負はついたとでも言うように。
「貴女に、その高貴な魔術を使う資格があるのかしら」
「何ですって?」
セリアの顔が怒りで紅潮する。扇子を握る手が震え、今にも机を叩きそうになる。
「確かに女王陛下は魔術師としても素晴らしいわ。優しいけど力強く、温かみがあるのにどこか恐ろしい。その魔術の矛盾はまさしく魔術師の理想ね」
アリーゼは紅茶を一口啜る。
その仕草はあくまで優雅で、まるで午後のお茶会でも楽しんでいるかのよう。
だが、次の瞬間――
「でも、貴族の魔術はクソよ」
その一言が、静寂の職員室に重く響く。セリアは息を呑んだ。
目の前の教師が放った言葉は、まるで彼女の世界そのものを否定するような――
「優しさもなく、温かみもない。汚れた人間が使う汚れた魔術。陛下の高貴さと相反するように、貴族どもの魔術は私利私欲にまみれ、汚れた人間の道具に成り下がったわ」
アリーゼの声には、静かな怒りが滲んでいた。
それは表面的な感情ではなく、長年積もった何かが噴き出すような、深い憤り。
「元来貴族社会とは腐っているものよ。立場にあぐらをかいて賄賂だの政治的暗躍、汚職に平民への搾取」
紅茶のカップを置く音が、カチリと鳴る。
アリーゼの手は震えていない。ただ、その瞳には冷たい炎が宿っている。
「そのくせ、自分たちは陛下の御前で高貴に振る舞う。陛下の信頼をどこまでも裏切り、どこまでも傲慢にね」
セリアの顔から血の気が引いていく。否定したい。反論したい。
だが、言葉が出てこない。なぜなら――その言葉の真実性を認めざるを得ないから。
「そ、そんな妄言を」
やっと絞り出した声は、震えていた。
セリアは扇子を強く握りしめ、なんとか威厳を保とうとする。
「ふざけないでください! 今のはわたくしだけでなく貴族すべてへの冒涜ですわ!」
「そうかしら、事実を述べるのは冒涜とは違うんじゃない?」
「貴女の発言のどこが事実だというのです! 悪いイメージだけで難癖をつけているだけではありませんか!」
「……そうね。なら、貴女の事実を元に説明するわ」
アリーゼが立ち上がる。その動作は静かで、しかし確実な威圧感を伴っていた。
「クソガキ……いえ、レーヴェル家の長女セリア・レーヴェル」
正式な呼び名。それが、より一層の重みを持って響く。
「あ、貴女がわたくしの何を知って……」
「四年前の冬」
アリーゼの声が、静かに過去を暴き始める。
「貴女は一人の使用人を自殺に追い込んだ」
「っ!」
セリアの身体が凍りついた。扇子が手から滑り落ち、カタンと音を立てて床に転がる。
「その名はエレナ・ルーパ、歳は19。メイドとして屋敷で働いていたが、自分より目立っているという不明瞭な動機で毎日罵倒、熱湯をかけ、屋敷内で彼女を孤立させた」
「なんで、そのことを」
「三年前、若い女性教師に牙をむいた」
アリーゼは一歩、また一歩とセリアに近づく。
逃げたい。だが足が動かない。まるで過去の亡霊に囚われたように。
「教師の名はマテリア・フォスター、当時23歳。彼女は魔術師として期待されたが、平民の生まれであることが貴女の逆鱗にふれた」
「ぁ……あ……」
「彼女に無実の罪を着せ、魔術の世界から永遠に追放した」
セリアの膝が震える。忘れようとしていた記憶。封印していた過去。
それが今、目の前で容赦なく暴かれていく。
「二年前の春」
アリーゼは容赦なく続ける。
まるで裁判官が罪状を読み上げるように、淡々と、しかし確実に。
「商人の娘、リリア・マーチャント、当時15歳。学院の奨学生として入学したが、成績優秀で王子たちの目に留まった」
セリアの顔が青ざめていく。
「貴女は彼女の私物に盗品を忍ばせた。窃盗犯に仕立て上げ、彼女は退学処分」
「やめて……」
か細い声が漏れる。だがアリーゼは止まらない。
「一年半前の秋」
また一歩、近づく。セリアは後ずさりしたいが、机が背中に当たり逃げ場がない。
「騎士見習いのトーマス・ベイカー、17歳。貴女に恋文を送った罪。恋文が届いた夜に何者かが襲撃。片手と片眼を失い騎士の道を断たれた彼は、今も片目で農作業をしている」
「わたくしは、そんなこと……」
「半年前の真冬」
最後の一撃が、静かに放たれる。
「孤児院の少女、名前はサラ。たった8歳。貴女の馬車の前を横切っただけで『不敬罪』」
「あ……ああ……」
「この子のその後は、言わなくても知ってるわね」
セリアは崩れ落ちそうになる。
机の端を掴んでなんとか立っているが、全身が小刻みに震えている。
「これが貴族の高貴? 権力と地位を使った、ただの暴力じゃない」
アリーゼの声が、静かな怒りを帯びる。
「エレナも、マテリアも、リリアも、トーマスも、サラも――みんな貴女の『高貴さ』の犠牲者よ」
「わたくしは……」
セリアの声は掠れ、言い訳すら形にならない。
だが、アリーゼはまだ終わっていなかった。
「そして五年前、貴女の一番の罪」
空気が変わった。
先ほどまでの怒りとは違う、より深い何かが部屋を満たす。
「貴女は最愛の弟を守れなかった」
「っ!」
セリアの身体が硬直する。瞳孔が開き、呼吸が止まった。
それは、誰にも話したことのない――話せなかった、最も深い傷。
「リオ・レーヴェル、当時九歳。優秀な才女だった貴女とは違い、何をやっても平凡で魔術の適性も皆無だった彼は……『レーヴェル家の者としてふさわしくない』と現在の公爵が彼を追放、奴隷商人に元貴族として売り渡した」
「あ……」
「そして、貴女は父に恐怖してなにもできなかった」
セリアの膝が完全に崩れた。床にへたり込み、両手で顔を覆う。
「り、お……」
弟の名前が、壊れた人形のように口から漏れる。涙が止まらない。
あの日、泣きながら自分にすがりついた小さな手。『お姉様、助けて』という声。それでも、父の前で何もできなかった自分。
「理解したかしら、高貴な魔術を使う貴族さん?」
アリーゼは冷たく見下ろす。だが、その瞳の奥には別の感情が――悲しみが宿っていた。
「貴女は誰も助けられず、誰も貴女を理解しない。自分の罪から目を背けて傲慢に笑い、心の中ではいつも何かに怯える軟弱者」
一歩、また一歩。アリーゼはセリアの前にしゃがみ込む。
「現実を理解しなさい、セリア・レーヴェル」
その声は、断罪でありながら、どこか慈悲のようでもあった。
「貴女に魔術を語る資格はないわ」
職員室に、セリアの嗚咽だけが響き、夕日が沈みかけ、部屋は薄暗くなっていく。
崩れ落ちた悪役令嬢と、それを見下ろす謎の教師。二人の影が、長く床に伸びていた。