宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い 作:最高司祭アドミニストレータ
重厚な扉が閉ざされ、あの騒がしい老提督たちが去った後のメインブリッジには、真空の宇宙にも似た、張り詰めた静寂だけが残されていた。
帝国軍第四独立機動艦隊旗艦《アマテラス》。その中枢に立つケイイチ・フォン・タチバナ上級大将は、円形の戦術テーブルの縁を、白くなるほど強く握りしめていた。
彼の視線は、虚空に浮かぶホログラム映像に釘付けになっている。
そこにはタチバナ艦隊を示す青い光点を、毒々しいまでに鮮やかな赤色の光点──犯罪シンジケート『ニーズヘッグ』の大艦隊が、球体状に包囲している絶望的な図面が映し出されていた。
(行っちまった…あいつら、本当に俺を置いて行っちまったよ…!)
タチバナの内心は、恐怖と裏切りへの絶望で半狂乱だった。
先ほどまでの威勢の良い啖呵はどこへやら、今にも膝から崩れ落ちそうになる身体を、腕の力だけで必死に支えているのが現実だった。
(「全責任を負っていただく」だって? ふざけんな! 俺だって一緒に逃げたかったんだよ! なんで俺が責任取らなきゃならないんだ! こんな赤い点の集合体、見てるだけで蕁麻疹が出そうだ!)
胃の腑が鉛のように重い。冷や汗が背中を伝い、最高級の軍服の生地をじっとりと濡らしていく。
だが彼の傍らに立つ“氷の副官”フィリア・アージェント大佐は、そんな主君の心中など歯牙にもかけない。彼女は手元のコンソールを流れるように操作し、冷徹な事務処理のように戦争の準備を整えていく。
「広域通信妨害、展開完了。対象宙域のノイズ濃度、98%に到達。敵艦隊間のデータリンク、及び超光速通信を遮断しました」
タチバナは、びくりと肩を震わせた。
ホログラム上の赤い光点群が、一瞬だけ揺らぎ、そして細分化された孤立した点へと変わる。
それは巨大な一つの怪物だった『ニーズヘッグ』の艦隊が、目隠しをされ、耳を塞がれた数千の個体に分断されたことを意味していた。
「彼らは今、暗闇の中で孤立しています。指示を」
(指示って言われても! 俺に何ができるんだよ! 頼むから帰してくれ!)
タチバナは心の中で泣き叫んだが、フィリアの視線が無言の圧力を伴って彼の横顔を刺す。逆らえばどうなるか、先ほどの背中への一撃が雄弁に物語っていた。
彼は震える右手をゆっくりと上げた。その指先が包囲網の一角、やや突出していた小規模な敵集団と思われる一群に向けられる。
「…」
言葉はなかった。声を出せば、恐怖で裏返ってしまうことが分かっていたからだ。
「はっ!」
だが、その無言の指差しは、周囲のオペレーターたち。タチバナの視界には入っていないが確かにそこに存在する歯車たちにとって、冷徹かつ迅速な攻撃命令として映った。
タチバナ艦隊と彼に付き従う味方艦隊が一斉に回頭する。巨大な質量が、一点に集中して加速を開始した。
(うわあぁぁっ! 動いた! ホントに突っ込んでいくよこいつら! 正気か!?)
タチバナは、まるでジェットコースターの最前列に無理やり座らされたような気分で、モニターを見つめた。
先行するのは、味方艦隊の中核を成す《ボレアス級-TE ミサイル駆逐艦》の群れだ。鋭角なシルエットを持つ鋼鉄の捕食者たちが、その背に背負ったミサイルハッチを一斉に開放する。
次の瞬間、宇宙空間に無数の光跡が走った。
帝国四大クランの一つ「ボンド・ファミリー」が設計した、対小型艦船用ミサイルシステム《スコール》。その名の通り、驟雨のごとき弾幕が、通信を絶たれ、状況を把握できていない『ニーズヘッグ』の分艦隊へと殺到する。
敵の『ニーズヘッグ』は最前列に多数の《FG300型 装甲フリゲート》を並べ、自慢の装甲でダメージを吸収しようと試みた。
しかし、通信妨害によって連携を絶たれた彼らは帝国正規軍のミサイルの雨の前に、文字通り「ただの的」と化す。
装甲型が次々と蒸発し盾を失ったことで、後方に密集していた《FG300型 多機能フリゲート》の群れや、横流しされた《ボレアス級-TE》までもが無防備な姿を晒し、なすすべもなく爆散。
ホログラム上で赤い光点が次々と明滅し、そして消失していく。
(消えていく…あんなにたくさんあった赤色が、どんどん消えていく…)
タチバナの背筋を、寒気が駆け抜ける。敵艦隊は、何が起きたのかすら理解できていないはずだ。通信が通じず隣の艦が爆発しても、それが味方の誤射なのか敵の奇襲なのか、あるいは内部の事故なのか判断する情報がない。
混乱の極みにある敵に対し、こちらのミサイルは正確にその弱点を食い破っていく。
包囲網の一角を形成していた約700隻の敵艦隊が、宇宙の塵となって消滅した。
(か、勝った…のか? これで終わりだよな? もういいだろ? 帰ろう? 今空いた穴から逃げようぜ!?)
彼は期待を込めてフィリアを見るも、鉄仮面の副官は微塵も動じていなかった。彼女の指先は、すでに次の獲物を示していた。
『第一目標、沈黙。素晴らしい戦果です。ですが、まだ包囲は解けていません。次です』
(鬼かお前はぁぁぁっ!!)
『精霊ですが何か?』
タチバナの心の叫びを無視し、フィリアは次なる座標データを戦術システムに入力する。
『敵はまだ、隣の友軍が消滅したことに気づいていません。側面は無防備です』
タチバナはガクガクと震える手で、再び虚空を指し示した。
それは指揮官としての意志ではなく、ただ「もう勘弁してくれ」と懇願するような手つきだったが、戦場の空気はそれを「間髪入れぬ連続攻撃の指示」と解釈した。
艦隊が、唸りを上げて回頭する。今度の主力は、《レイジャー級-TE 魚雷フリゲート》だ。船体の装甲を犠牲にし、巨大なエンジンと魚雷発射管のみを搭載した、狂気の特攻兵器。
(やめろ! そんなスピード出すな! ぶつかる! ぶつかるって!)
モニター上の青い光点が、常識外れの速度で赤い光点の集団へと突っ込んでいく。
対象の敵艦隊は側面から突然現れた死神の群れに、何の反応もできなかった。至近距離から放たれた高威力の宇宙魚雷が、敵駆逐艦の薄い側面装甲を紙のように引き裂く。内部から誘爆を起こし、連鎖的に爆発が広がっていく。
通信妨害によって悲鳴すら届かない暗闇の中で、二つ目の敵集団が崩壊していく。
ホログラムの赤い光点が、ごっそりと削り取られるように消えていく。
二つ目の敵艦隊が、完全に沈黙した。残骸とデブリが漂う宙域に、タチバナ艦隊の推進炎だけが青白く輝いている。
タチバナは戦術テーブルに手をついたまま、荒い息を整えるのに必死だった。
周囲からはオペレーターたちの興奮した報告の声が上がっているはずだが、彼の耳には届いていない。彼の脳内を占めているのは、ただ一つの感情だけだった。
(助かった…のか? いや、まだだ。まだ赤い点が残ってる…なんでだよ…なんでこんなに消しても、まだあんなにいるんだよ…!)
戦術ホログラムの中央で三つ目四つ目と、まとまった赤色の光点が次々と消失していく。それは犯罪シンジケート『ニーズヘッグ』という巨大な暴力の断片が、帝国の組織的な軍事力によって一方向的に磨り潰されていく過程を無機質に示していた。
タチバナは依然として、戦術テーブルの縁を両手で掴んでいた。あまりに強く握りしめ続けたため、指の関節は白くなり、感覚はすでに麻痺している。
彼の視線の先では、味方艦隊の《レイジャー級-TE 魚雷フリゲート》や《グリムリーパー級-TE 攻城フリゲート》が逃走を図ろうとした敵の大型輸送船を捉えていた。
レイジャー級からは魚雷が放たれ、船体の大半を砲身が占めるグリムリーパー級は至近距離から電磁加速砲を放つ。
味方の魚雷と電磁加速砲が直撃したのは、略奪した物資や戦闘用の弾薬を限界まで満載していた《AC721級 重量級支援駆逐艦》。
「戦いながら運ぶ」というその特性が仇となり、巨大なW-100型貨物倉庫が連鎖的な大誘爆を起こす。
宇宙空間に人工の太陽のような巨大な爆発の閃光が膨れ上がり、周囲にいた敵の《FG300型》や《レイジャー級》の残党を巻き込んで、花火のように木端微塵に吹き飛ばした。
(うわあああっ! AC721級がド派手に大爆発した!? あんな爆薬庫みたいな貨物船を、密集陣形の中に配置すんなよ! 誘爆の規模がデカすぎるだろ、こっちまで破片が飛んできたらどうするんだ! ていうか味方も一切容赦ねえな! 悪魔かお前らは! 怖い怖い怖い!)
(もういいだろ、もう十分だろ? 敵はもうバラバラに逃げてるじゃないか! 追い討ちなんてやめてくれよォ!? 怖いんだよこっちはョ!!)
タチバナの内心は、勝利の達成感などとは無縁の場所にいた。
視界の端で光が弾けるたびに、彼の心臓は嫌な跳ね方をする。旗艦《アマテラス》自体は一度も砲を放っていない。
安全な場所に留まり、ただ戦場を監視しているだけだ。だが自分たちが振るっているこの暴力が、いつ自分に跳ね返ってくるかという恐怖が彼の精神を絶え間なく削り続けていた。
(なんであんなに執拗に追いかけるんだ。味方の連中も、海賊相手に本気になりすぎだろ…。これ以上恨みを買ったら、俺が寝てる間に暗殺されるかもしれないじゃないか。もうお家に帰りたい…戦いなんて、画面の中だけで十分なんだ…ッ)
冷や汗が顎を伝い、襟元に落ちる。
傍らに控えるフィリア・アージェント大佐は、そんなタチバナの醜態を冷徹なまでに見過ごしていた。彼女は淡々とコンソールを操作し、戦域全体の掃討状況を確認していく。
「最終掃討、完了しました。周辺宙域において活動中の『ニーズヘッグ』所属艦艇はゼロ。全滅、あるいは完全に戦意を喪失して離脱したと判断します。お疲れ様でした、閣下」
その言葉を聞いた瞬間、タチバナは全身から力が抜け、膝が崩れそうになった。かろうじてテーブルにしがみつくことで体裁を保ったが、その表情は「冷徹な勝利を噛み締めている」ように見えたかもしれない。
(終わった…本当に終わったんだな。助かった。俺、まだ生きてる…)
「…そうか」
タチバナは震えそうになる声を無理やり押し殺し、短く応じた。
多言は無用だ。喋れば喋るほど、自分の喉が引きつっていることが露呈してしまう。
「ジャミングを解除します。分艦隊各指揮官からの回線を開きますか?」
(開きたくないけど、開かなきゃもっと面倒なことになるんだよな…はぁ、あのクソジジイ共の顔を見るのか…)
タチバナは無言で頷いた。
メインスクリーンが数回明滅し、分割された画面に四人の老提督たちの顔が映し出される。
彼らの表情は勝利の喜びに満ちているどころか、屈辱と不満に満ち満ちていた。
「…掃討を完了しました。タチバナ上級大将」
一人の老提督が、吐き捨てるように言った。画面越しでも伝わるほどの、露骨な敵意と軽蔑。
「閣下の無謀な突撃に付き合わされたせいで、我が艦隊の損傷も無視できません。海賊相手にこのような泥臭い真似をさせられるとは…帝国軍の品位も落ちたものです」
別の提督が、不服そうに鼻を鳴らす。
「閣下の策は単なる博打に過ぎなかった。今回は運良く当たったようですが、全責任を負わされる、こちらの身にもなってもらいたい…報告は以上だ。これ以上、貴公の傲慢な顔を見ている時間は我々にはない」
そう一方的に告げると、彼らはタチバナが返答する間も与えず、次々と通信を切断していった。
最後に残ったノイズ交じりの黒い画面を、タチバナは呆然と見つめた。
(なんだあいつらぁぁぁっ!!)
タチバナの内心で、怒りの火薬が爆発した。
(なんだその態度は!? こっちはあんたらに撤退を止められて、怖くて怖くて死にそうになりながら指揮したんだぞ!? 俺が一番怖かったんだぞ! それなのに、せっかく勝たせてやったのに、お礼も言わずに勝手に通信を切るだと!? 撃沈してやろうか! 今から《アマテラス》を回頭させて、あのクソジジイ共の尻の穴に主砲をぶち込んでやろうかぁぁっ!!)
心の中でどれだけ罵倒を重ねようと、現実にできることは何もない。
タチバナは握りしめていた拳を震わせながら、ただ立ち尽くすことしかできなかった。彼らに向かって「無礼だぞ!」と叫ぶ勇気すら、今の彼には残っていなかったからだ。
ブリッジのオペレーターたちは、提督たちの非礼な態度に憤っているようだったが、タチバナはそれを「勝利した後の静かな怒り」として演出するために、あえて沈黙を守った。
その時、最後の一枠に映像が戻った。
リン・シャオラン少将の回線だ。
画面の中に現れた彼女は、先ほどの提督たちとは対照的だった。
背景に見える彼女の旗艦のブリッジは整然としており、リン自身も一糸乱れぬ黒髪のまま、静かにこちらを注視している。
「…」
彼女は何も言わない。
ただ、その切れ長の瞳でタチバナを見つめ続けている。
あまりの沈黙に、タチバナは気まずさに耐えきれなくなり、重い口を開いた。
「リン少将、報告はないのか」
「…」
リンは、タチバナの言葉を受けてもすぐには答えなかった。一拍二拍と不気味なほどの間が空いた後、彼女はゆっくりと唇を開いた。
「任務、完了いたしました。タチバナ閣下」
その声は鈴の音のように清らかで、同時に感情の機微を完全に削ぎ落としたかのような冷たさがあった。
「戦果は、データで送りました通りです。閣下の仰った通りに、全てが片付きました」
彼女は、不服そうな様子など微塵も見せていなかった。それどころか、先ほどよりもさらに深い純粋無垢な微笑みを浮かべていた。
「次なる命をお待ちしております、閣下」
そう言って、彼女は優雅に深々と頭を下げた。
リンが画面から消えた後も、タチバナの背中には不快な粘り気を持つ寒気が残っていた。
(怖い。あのジジイ共より、この子の方が何倍も怖いよ…何を考えてるのか全然分かんない…俺、何か変なこと言ったか? 最後に変なスイッチ入れちゃったんじゃないか!?)
タチバナは、逃げるように視線をホログラムに戻した。
赤い光点はもうない。広大な宇宙に漂うのは膨大な数の残骸と、帝国軍の青白い推進炎だけだ。
「全艦隊、再編成完了。損傷軽微。…タチバナ、次の進路を」
フィリアの無機質な声が、決断を促す。
タチバナは、今すぐ安全な布団の中に潜り込みたいという衝動を抑え、掠れた声で命じた。
「首都惑星へ向かう。これ以上の滞在は無意味だ」
(一秒でも早く、この現場から離れたいんだ。これでもし、ニーズヘッグの増援なんて来たら、今度こそ俺の命は終わりだからな!)
「了解。全艦隊、回頭。航路計算、首都惑星へ。…ワープ・ドライブ、チャージ開始」
旗艦《アマテラス》の巨大な船体が旋回を開始した。その後を追うように、1,500隻の帝国艦隊が宇宙を切り裂くような推進炎を上げ、整然とした陣形で追従する。
タチバナは戦術テーブルから手を離し、椅子の背もたれに体重を預けようとした。だが膝の震えが止まっていないことに気づき、再び立ち上がることを選んだ。
窓の外では、加速する艦隊の速度に合わせて星々が線となって流れていく。その美しい光景も今のタチバナにとっては、自分を死地から遠ざけてくれる救いの導線にしか見えなかった。
(首都惑星。あそこなら、こんな物騒なミサイルや魚雷なんて飛んでこない。帰ったら、ユキノの奴に文句の一つでも言ってやる。こんな怖い仕事、二度と引き受けるもんかってな…!)
未来への絶望と、眼前の一時的な安堵。
その矛盾する感情を抱えたまま、タチバナを乗せた艦隊は、死の静寂が支配する宙域を後にした。