宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い 作:最高司祭アドミニストレータ
勝利に沸く艦隊の熱気とは裏腹に、ケイイチ・フォン・タチバナ上級大将の心は、絶対零度の宇宙空間よりも冷え切っていた。
第四独立機動艦隊旗艦《アマテラス》は、重力制御装置の唸りを低く響かせながら、帝国軍前線基地「フォワード・オペレーティング・ベース」の巨大な係留アームに固定されようとしていた。
ドッキング・ベイの金属的なロック音が、船体を伝わってタチバナの足裏に響く。
それは本来、安堵をもたらすはずの音だった。死地からの生還を告げる、安全地帯への到着の合図。
だがタチバナにとってそれはまた別の種類の、より陰湿な胃痛の始まりを告げるゴングにしか聞こえなかった。
(…着いた。やっと着いた。地面じゃないけど、動かない場所にやっと着いたんだ…)
タチバナは私室の窓から、目の前に広がる光景を見下ろしていた。
そこは煌びやかな首都の宇宙港とは似ても似つかない、武骨極まりない軍事拠点だった。装甲板を剥き出しにした無機質なモジュール群、絶えず明滅する誘導灯。そして、忙しなく飛び交う作業船の群れ。
華やかさは皆無だが今のタチバナにとっては、あの光の光点が埋め尽くす戦術マップよりは、幾分かマシな景色だった。
「酷い有様だな」
タチバナの口から、乾いた呟きが漏れた。彼の視線の先には、ドックへと曳航されていく味方の艦船があった。
主力である《ボレアス級-TE ミサイル駆逐艦》の一隻だ。その鋭角な船体側面は、敵のビーム兵器によってどろりと溶け落ち、装甲が醜く抉れている。内部の配線が内臓のように垂れ下がり、黒い煤が船体の半分を覆っていた。
さらにその奥には、艦首を吹き飛ばされた《レイジャー級-TE 魚雷フリゲート》が、まるで死んだ魚のように無言で漂っている。
(うわぁ…あんなの、中に乗ってた奴らはどうなったんだ? 考えるだけでゾッとする。俺の乗ってる船がああなってた可能性だって、十分に高かったんだぞ…!)
タチバナは、自分の首筋を無意識にさすった。生々しい破壊の痕跡。それは、「英雄的勝利」という美辞麗句の裏にある、残酷な現実だった。
もしフィリアの指示が数秒遅れていたら。もし敵の照準がわずかにずれていたら。
今頃この豪華な個室ではなく、冷たい真空の中で凍りついた肉塊になっていたのは自分だったかもしれない。
(怖い怖い怖い! もう見たくない! なんで俺はこんなものを見なきゃならないんだ! 母さん父さん、俺はもう十分社会勉強したよ! もうお家に帰してくれよぉぉぉ!)
タチバナは窓から離れたかった。布団の中に潜り込んで、外界の全てを遮断したかった。
しかし今の彼は、「全軍を勝利に導いた冷静沈着な指揮官」を演じ続けなければならない。背後には常に、監視カメラよりも質の悪い“氷の副官”の気配があるのだから。
彼は逃避したい衝動を必死に抑え込み、視点を破壊された艦船からそれを修復しようとする者たちへと移した。
ドックの周囲には、鮮やかなインダストリアル・イエローに塗装された作業艦たちが、群がる虫のように忙しく動き回っている。
全長250メートル級の《X8級 小型作業艦》だ。
その箱のような船体からは、無数の小型作業ドローン《ワーカー・ビー》が射出され、損傷した駆逐艦の装甲に取り付いていた。青白い溶接の光が、宇宙の暗闇の中でスパークする。
少し離れた場所では、より巨大な《X10級 中型作業艦》が、その特徴的な「中央作業ベイ」を開放している。巨大なロボットアームが、ひしゃげた装甲板を慎重に取り外し、新品のパーツへと交換していく様は、巨大な外科手術を見ているようだった。
(…いいなぁ。あっちの仕事の方が、絶対いいよなぁ)
タチバナの思考は、現実逃避の方向へと滑っていく。
(作業艦の艦長なら、敵と撃ち合う必要なんてない。後方で壊れた船を直して、資材を運んで、定時になったらご飯を食べて寝る。最高じゃないか。なんで俺はあっちに乗れなかったんだ? なんで俺は一番目立つ旗艦の、一番偉そうな椅子に座らなきゃならないんだ…?)
溶接の光をぼんやりと見つめながら、彼は本気で転職──というよりは降格──を願っていた。
上級大将という地位も英雄という名声も、今の彼にとっては首を絞めるロープでしかない。欲しいのは「安全」と「無責任」と「温かい食事」。それだけだった。
その時、背後のドアが、音もなく開いた。タチバナの心臓が跳ね上がる。足音のリズムだけで、誰が入ってきたのか分かってしまう自分が恨めしい。
「補給物資の搬入、及び損傷艦の入渠手続き完了しました」
フィリア・アージェント大佐の声には、相変わらず温度というものが存在しなかった。彼女はタチバナの背後に歩み寄ると、手にしたタブレット端末を淡々と読み上げる。
「本基地の司令官より、通信が入っています。貴官の『神懸かり的な戦術による勝利』を祝し、ささやかな晩餐会を催したいとのことです。基地の全高級士官が列席し、貴官の武勇伝を拝聴したいと熱望しています」
(はぁぁぁぁっ!?)
タチバナは、顔面が引きつるのを止めることができなかった。晩餐会? 武勇伝?
冗談じゃない。
(勘弁してくれよ! 知らないおっさん達に囲まれて、愛想笑いしながら飯を食う? しかも『武勇伝』だって? 俺に何を喋れって言うんだよ! 『怖くて震えてたら勝手に勝ってました』なんて言えるわけないだろ! ボロが出る! 絶対にボロが出る!)
ただでさえ胃が痛いのに、これ以上ストレスを溜め込んだら、本当に胃に穴が開く。タチバナは必死に回転しない頭を回し、もっともらしい断りの言葉を探した。
彼はゆっくりと振り返り、フィリアを見据えた。その表情は疲労を滲ませつつも、ストイックな軍人のそれを完璧に模倣していた。
「断れ」
短く、低く、言い放つ。
「兵たちが傷つき、多くの艦が修理を待っているこの状況で、私だけが美酒に酔うわけにはいかん。…それに、まだ次の作戦行動のシミュレーションが残っている」
(よし! 完璧だ! 『部下思いの指揮官』と『仕事熱心な天才』を同時にアピールしつつ、面倒な飲み会を回避する! 我ながら天才的な言い訳だ!)
フィリアはその美しい無表情をわずかに──本当にミリ単位で──動かしたように見えた。それは呆れなのか、それともタチバナの保身スキルへの感心なのか。
「承知しました。そのように伝えます。『タチバナ閣下は、勝利の余韻に浸ることなく、すでに次なる帝国の未来を見据えておられる』と。…基地司令も、感動で涙することでしょう」
(うわぁ、やめてくれ。そんな大げさに伝えたら、ハードルが上がるだけじゃないか…でもまあ、飲み会がなくなるならそれでいいか…)
フィリアは一礼し、踵を返そうとする。だが、去り際に立ち止まり、背中越しに言った。
「お食事は、ここにお持ちします。…今回のメニューは、基地司令が用意していた最高級の合成ステーキです。冷めないうちにどうぞ」
ドアが閉まる。
再び、静寂が戻ってきた。
タチバナは、ふぅーっと、肺の中の空気をすべて吐き出すような長いため息をついた。膝の力が抜け、近くのソファになだれ込むように座り込む。
「ああ怖かった…マジで怖かった…」
独り言が、部屋の空気に溶けていく。
しばらくして、自動配膳カートが静かに滑り込んできた。銀色のドームカバーが外される。そこには確かに見た目だけは立派なステーキと、色鮮やかな付け合わせが並んでいた。
帝国軍の前線基地で出せる、精一杯の贅沢なのだろう。
タチバナはフォークを手に取り、肉を一口分切り分けた。
口に運ぶ。
…味は悪くない。合成肉特有の臭みもなく、ソースも濃厚だ。
だが、タチバナの喉は、それを異物のように拒絶しそうになった。
(…味がしない)
高級なはずの料理が、まるで砂を噛んでいるようだ。
恐怖と緊張で麻痺した味覚は、どんな美食も受け付けない。
(オムライスが食いたいなぁ…)
ふと、実家のキッチンの光景が脳裏に浮かんだ。エプロン姿の父、厳一朗が、鼻歌を歌いながらフライパンを振っている。
『ケイイチ、今日はお前の大好きなふわとろオムライスだよ』
その笑顔。温かい湯気。ケチャップで描かれた下手くそなスマイルマーク。何の心配もなく、ただ「美味しい」と言って笑っていられた、あの頃の食卓。
今の自分は、どうだ。
数千、数万の命を奪った直後に、一人で高級ステーキを食べている。
外では、自分が壊した敵艦の残骸と、傷ついた味方の艦が漂っている。
英雄? 天才?
違う。ただの、家に帰りたいだけの、臆病な子供だ。
「冷たいな、これ」
本当は温かいはずの料理が、ひどく冷たく感じられた。
タチバナはフォークを置いた。
食欲は完全に失せていた。
窓の外では、《X10級 中型作業艦》のアームが、巨大な装甲板を持ち上げているのが見えた。
その作業の様子を、タチバナは飽きもせず、ただぼんやりと眺め続けた。
あの作業船のパイロットになれるなら、今の全財産を差し出してもいい。
本気でそう思いながら、彼は孤独な夜を過ごした。
翌朝にはまた「完璧な英雄」の仮面を被り、この基地を出発しなければならない。
首都惑星への道は、まだ遠い。