宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い 作:最高司祭アドミニストレータ
前線基地を出立した帝国軍第四独立機動艦隊は、銀河の動脈とも言うべきラグランジュ・ネットワークの基幹ルートを通り、帝国の中枢宙域へと足を踏み入れていた。
旗艦《アマテラス》の展望窓に映し出されたのは、数日前の殺風景な前線基地とは比較にならない、光と文明の奔流だった。
帝国中央都市──ゲートウェイ・ステーション。
五百年前に帝国が建国されて以来、星々を結ぶ結節点として膨張を続けてきたその超巨大宇宙都市は、もはや一つの人工惑星と呼ぶべき規模に達している。
中心部を成す巨大な多層リング居住区からは、クモの脚のように無数のドッキング・アームが虚空へと伸び、そこには数千、数万という艦船が、呼吸を繰り返す細胞のように絶え間なく出入りしていた。
(デカすぎるだろ。何度見ても、正気の沙汰とは思えない大きさだ)
タチバナは、自室の重力制御された快適な椅子に深く沈み込みながら、窓外の光景に圧倒されていた。
ステーションの表面を覆う無数の窓から漏れる生活の光。そして、巨大なホログラム広告が投影する原色の色彩。それらは、数光年先からも視認できるほどの輝きを放ち、周辺宙域を永遠の昼へと変えている。
視線を下げれば、軍用ドックとは別の民間用ゲートに向かって、無数の輸送船が列をなしているのが見える。
全長250メートル級の《X8級 小型作業艦》が、資材を積み込んだコンテナを牽引してゆっくりと横切りる。その側には帝国の繁栄を支える《CAS066級 汎用巡洋艦》の民間型が、優雅な機動で追い越していく。
(あの中に混じって、どこか遠い辺境の星まで逃げ出せたら、どんなに楽だろうな。そこで名前も変えて、ただのしがない事務員か何かにでもなってさ)
タチバナの思考は、いつものように後ろ向きな現実逃避へと滑り落ちる。
ここゲートウェイ・ステーションは、富と情報が渦巻く欲望の坩堝だ。最新のファッション、刺激的な娯楽、全銀河から集まる山海の珍味。
かつてのタチバナであれば、それらを享受することに喜びを見出したかもしれないが、今の彼にとって、この都市の活気はただの毒でしかなかった。
なぜなら、この都市の「喧騒」の半分は、自分という存在によって作り出されているからだ。
「っ」
タチバナは、ステーションの居住区壁面に投影された、高さ数百メートルに及ぶ巨大なホログラム映像を見て、喉の奥で短い悲鳴を上げた。
そこに映し出されているのは、自分の顔だった。
完璧なライティングと計算された角度で撮影された凛々しく、かつ憂いを含んだ帝国軍上級大将の肖像。その下には、扇情的なフォントで巨大な文字が踊っている。
『帝国の至宝、ニーズヘッグを粉砕! 天才指揮官ケイイチ・フォン・タチバナ、凱旋!』
(やめろ…やめてくれ。そんなにデカデカと俺の顔を映すな。目立つじゃないか。標的になるじゃないか!)
タチバナは、窓の遮光シールドを閉めたい衝動を必死に抑えた。
もし今シールドを閉めれば、ブリッジの記録に残る。そして、それをフィリアが見れば「閣下はご自身の功績を誇示することを厭われるほど、謙虚な精神をお持ちです」などと、またあらぬ方向へ美談を仕立て上げられるに決まっているのだ。
実際、メディアセンターから発信されるニュースは、タチバナを聖人か何かのようにもてはやしていた。
三倍の戦力差を覆した各個撃破の戦術。通信妨害を逆手に取った情報戦の妙。それらは「稀代の天才による芸術的采配」として、ステーション中のサイネージで繰り返し流されている。
(芸術? 冗談じゃない。ただ怖くて固まってただけだ。各個撃破なんて、あの女に背中を小突かれて、戦わざるを得なくなった結果だろうが! なんで勝手に『無敵の英雄』なんて設定を上乗せしてくるんだよ。これじゃ、次の戦場で負けたら、それこそ生きて帰れないじゃないか…!)
タチバナは、自分の名声が高まれば高まるほど、死の足音が近づいてくるのを感じていた。
今の彼は、高く積み上げられたジェンガの最上段に座らされているようなものだ。誰かが一突きすれば、そのまま真っ逆さまに転落し、地面に叩きつけられる。その恐怖が、絶え間なく彼の内臓を締め付けていた。
この都市に集まる数千万の人々は、自分を「守護神」のように崇めているのだろう。だが、その期待に応える実力など、自分には微塵もない。
もし今、ニーズヘッグの生き残りがテロでも起こして、この《アマテラス》を狙ってきたら?
もし、嫉妬に狂った他の貴族派の暗殺者が、ドッキングの隙を突いて潜入してきたら?
被害妄想は、ステーションの明かりが強くなるほどに肥大していく。そんな彼の神経を逆撫でするように、部屋の通信パネルが明滅した。
「フィリア、入ります」
返事をするよりも早く、ドアが開く。入ってきたのは、いつもと変わらぬ、しかしどこか普段よりも「公的」な空気を纏ったフィリア・アージェント大佐だった。
彼女は手に、帝国軍の正式な儀礼用マントを抱えていた。
「ゲートウェイ・ステーションの方面司令部とのドッキングまで、あと三十分です。閣下には、ステーション代表者、及びそこに滞在中の大貴族派の重鎮たちへの拝謁が義務付けられています」
(やっぱり来た。一番やりたくない仕事が)
タチバナは、死刑宣告を受けた囚人のような顔でフィリアを見た。
彼なりに「重責に表情を引き締めた英雄」の顔を作ったつもりだったが、その瞳の奥の怯えまでは隠しきれていなかった。
「挨拶、か。面倒だな。戦闘の報告書なら、すでにデータで送ってあるはずだが」
「形式を重んじるのが帝国という組織です。特に、閣下の今回のご功績は、中央の重鎮たちにとっても無視できないほど巨大なものです。彼らは、貴官の顔を直接拝み、その口から『勝利の確信』を聞きたがっています」
フィリアは、タチバナの横に立ち、鏡を見るように促した。
彼女は慣れた手つきで、タチバナの肩に深紅の裏地を持つ黒いマントをかけた。そのマントの重みが、タチバナには物理的な鎖のように感じられた。
「…勝利の確信、か。そんなもの、一度も持ったことはないがな」
(本当だ。一秒先だって生きてる自信なんかないよ、俺は!)
「その謙虚さが、閣下の深謀遠慮を際立たせます。ですがステーションの貴族サロンでは、その言葉は胸にしまっておいてください。彼らが望んでいるのは、覇気に満ちた英雄の姿です」
フィリアはタチバナの襟元をミリ単位の精度で整えると、その紫水晶のような瞳で彼を射抜いた。
「閣下。今回、ステーションに滞在しているのは、軍務省の権力者だけではありません。ローゼンベルク家をはじめとする、帝国を動かす大貴族たちの代理人も列席しています。ここで彼らの心を掴んでおくことは、将来の『元帥就任』、さらにはその先の頂点への道において、不可欠な一歩となります。…失敗は、許されませんよ」
(元帥…頂点…またその話か。頼むから、俺をこれ以上高いところへ押し上げないでくれ。空気が薄くて、窒息しそうなんだ)
タチバナはマントを翻して部屋を出るフリをしながら、心の中で泣き叫んでいた。
ステーションの眩い光。熱狂する大衆の声。そして、獲物を狙う猛獣のように自分を待ち構える、政治家や貴族たちの視線。
それら全てが、彼を押し潰そうとする巨大な重圧となって襲いかかる。
ゲートウェイ・ステーション──。
帝国の繁栄と活気を象徴するその宇宙都市は、タチバナにとって、どんな戦場よりも過酷で、どんな宇宙の深淵よりも恐ろしい、巨大な檻に他ならなかった。
加速する《アマテラス》の周囲を、警護のために展開した《CAS066級 汎用巡洋艦》の編隊が囲む。
ステーションの展望窓に張り付いた市民たちが、歓声と共に迎える。
タチバナはその歓声さえもが、自分を逃がさないための包囲網の一部であるように感じていた。
「…行きましょう、閣下。帝国の未来が、貴方を待っています」
フィリアの促す声に、タチバナは重い足取りで一歩を踏み出した。
その歩みは、周囲には自信に満ちた英雄の歩調として映るが、その実態は背後から突き立てられた見えない刃に追い立てられた、哀れな逃亡者の足取りに過ぎなかった。