宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い 作:最高司祭アドミニストレータ
ゲートウェイ・ステーションの中央部に置する帝国軍方面司令部。その最上層には、選ばれた貴族階級の将校のみが入室を許される「貴族サロン」が存在する。
重厚な自動ドアが開くと、そこには戦場の硝煙とは無縁の、過剰なまでの贅飾に彩られた空間が広がっていた。
床には毛足の長い深紅の絨毯が敷き詰められ、壁面には帝国の歴史を物語る巨大な絵画が並ぶ。クリスタルガラスのシャンデリアが放つ光は、室内に漂う高級ワインと葉巻の香りを、より一層濃厚なものに仕立て上げていた。
(…帰りてぇ。一秒でも早く、ここから脱出してぇ)
ケイイチ・フォン・タチバナ上級大将は、背中に羽織った黒いマントの重みに耐えながら、内心で激しく呻いていた。
彼の周囲には、帝国の名門家系の名を冠した若き貴族士官たちが、ワイングラスを片手に集まっている。
彼らの軍服は一分の隙もなく整えられ、その立ち居振る舞いは洗練されているが、タチバナに向ける視線は、決して友好的なものではなかった。
「…お初にお目に掛かります、タチバナ閣下。ニーズヘッグの包囲網を寄せ集めの艦隊で粉砕したというお話、帝都まで届いておりますよ。実に実に鮮やかな『手品』ですな」
一人の若い中将が、口元に傲慢な笑みを浮かべてタチバナに歩み寄ってきた。彼の言葉の端々には、タチバナの戦果を「運」や「卑怯な策」として断じようとする、どす黒い嫉妬が滲み出ている。
「戦術教本を無視した各個撃破。私のような凡庸な士官には、とても思いつきもせぬ博打です。閣下は部下や味方の命をチップにして、ずいぶんと大きな勝負に出られたようだ」
周囲の士官たちから、くすくすと抑えた笑い声が漏れる。彼らは、タチバナが自分たちと同じ、あるいはそれ以上の特権を持ちながら、自分たちの想像もつかない戦果を挙げたことが面白くないのだ。
だが、タチバナは彼らの皮肉に言い返すことすらできなかった。
(ははっ、分かりやすい嫉妬心どうもありがとう! お前らの言う通りだよ! 俺だってあんなの博打だと思ってたし、チップにされたのは俺の寿命の方だよ! 怖すぎて今でも尿管が縮み上がってんだよこっちは!)
タチバナの内心は逆ギレに近い状態だったが、表に出る表情は、彫刻のような冷徹な静寂を保っていた。
彼は無言のまま、手に持ったグラスの琥珀色の液体を見つめる。一言でも喋れば、その瞬間に声が震え、この場にいるハイエナのような連中にボロを見せてしまう。
その沈黙が、皮肉を言った中将の焦りを誘う。
「…無言、ですか。英雄ともなれば、我らのような『凡人』と言葉を交わすのも億劫というわけですかな?」
「閣下は今この瞬間も次なる戦域の状況を、数万のパターンでシミュレーションされておいでです」
タチバナの代わりに口を開いたのは、傍らに控えるフィリア・アージェント大佐だった。
彼女は感情の欠片もない紫水晶の瞳で中将を射抜き、淡々と、しかし決定的な拒絶を突きつける。
「不毛な雑談で閣下の思考を妨げることは、帝国軍の資産を浪費することと同義です。…下がってください」
(ナイスフィリア! もっと言ってやれ! そのままこいつらを全員追い出して、俺を布団まで運んでくれ!)
中将は顔を真っ赤にして憤慨したが、タチバナの隣に立つフィリアの放つ、人間離れした威圧感に気圧され、舌打ちをして身を引いた。タチバナは、心臓の鼓動がうるさいほど鳴っているのを感じていた。
今の自分は、薄い氷の上に立っているに過ぎない。この「英雄」というメッキが剥がれれば、目の前の連中は寄ってたかって自分を食い殺そうとするだろう。
そして、脳裏を掠めたのはブリッジでの光景だった。
あの無口な黒髪の美女、リン・シャオラン少将。
彼女が浮かべた、純粋無垢でありながら、同時に底知れない狂気を感じさせたあの微笑み。
(リンが怖いんだが!? あの子、絶対におかしいって! みんな俺を英雄だとか天才だとか勘違いしてるけど、あの子だけは『別の何か』を見てる気がして、もう生きた心地がしないよ!)
タチバナは、自らの立場を呪った。
(…間違いなく殺されるくらい怖いんだが!? リンだけじゃない、あいつらがどんな顔をして俺の寝室に突っ込んでくるか想像しただけで、下腹部のあたりが凍りつくよ! 俺はただ安全にのんびりと美女を眺めて暮らしたいだけなのに、なんで命懸けのハーレムごっこをさせられてるんだ…!)
タチバナは改めて思い知らされる。この隣にいる無表情な女が、単なる軍人ではないことを。
彼女は、タチバナの家に代々伝わるとされる聖剣に宿っていた「精霊フィリア」なのだ。
数年前、彼が偶然その剣を抜いてしまったその日から、彼女はこうして実体を持って彼の前に現れ、彼のクズな本性を一から十まで把握し、その思考をテレパシーで一方的に読み取っている。
タチバナの額に、うっすらと脂汗が浮かぶ。彼はその汗を拭うこともせず、ただ孤高の指揮官を演じ続ける。
この貴族サロンという檻の中にいる人間たちは、タチバナの沈黙を「戦場の修羅を潜り抜けた者だけが持つ、言葉の重み」だと勝手に解釈している。だが、実態は「恐怖で顎が固まって喋れないだけ」という情けない代物だ。
窓の外に広がる、ゲートウェイ・ステーションの喧騒。
そこには平和を享受する民間人の船が数多く行き交っているが、この豪華なサロンの中に漂う空気は、どんな戦場よりも酸欠に近い。
「……閣下、そろそろお時間です」
フィリアの短い促しに、タチバナは心底安堵した。彼は一度もワインに口をつけることなく、優雅に踵を返した。
マントが翻る音が、サロン内のざわめきを一瞬だけ遮る。
(もう二度と来るか、こんな場所。早く《アマテラス》に戻って、鍵をかけて引きこもらせてくれ。…あぁ、もう嫌だ。首都惑星に行ったら、これより酷いのが何百人も待ち構えてるんだろ…? 死にたい、いや、死にたくないから逃げたい!)
タチバナは、一分一秒でも早くこの場を離れるべく、しかしあくまでも堂々と、出口へと向かった。
彼の背中に突き刺さる嫉妬の視線も、今はただの雑音でしかなかった。それよりも、自分の周囲に形成されつつある、狂信と羨望に満ちた「英雄」という名の包囲網の方が、彼にとっては致命的な脅威だった。
タチバナの精神は、すでに限界を迎えようとしていたが、帝国の歴史という名の歯車は、無慈悲にも彼をさらなる高み、あるいは奈落へと押し流そうとしていた。
「…閣下、歩幅がわずかに乱れています。深呼吸を」
フィリアの小声での指摘に、タチバナは「分かってるよ!」と内心で叫びながら、再び呼吸を整えた。