宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い 作:最高司祭アドミニストレータ
ラグランジュ・ネットワークの基幹ゲートを幾つも潜り抜け、帝国軍第四独立機動艦隊は、ついにその旅の終着点へと辿り着いた。
旗艦《アマテラス》のメインブリッジに設置された巨大な展望窓の向こう側、漆黒の深淵の中に、銀河の覇者たる帝国の心臓──首都惑星が、その圧倒的な威容を現していた。
それは、もはや自然の天体というよりは、高度な文明が作り上げた巨大な工芸品のようだった。
惑星表面の夜側は、大陸の形をなぞるように黄金の光が網目状に広がり、昼側は高度に制御された気象システムによって常に理想的な雲の配置が保たれている。
(…やっとだ。やっと、あの大陸が見える場所まで戻ってきた)
ケイイチ・フォン・タチバナ上級大将は、窓際に立ち、吸い込まれるような惑星の青を見つめていた。
その表情は、ブリッジのクルーたちからは「帝国の安寧を確認し、安堵する慈悲深き英雄」のそれに見えたに違いない。だが、彼の内面で渦巻いているのは、もっと切実で、情けないほどの生存本能だった。
(助かった……! ここまで来れば、あの『ニーズヘッグ』の凶悪な海賊共だって手は出せない。ゲートウェイ・ステーションの嫌味な貴族共も、帝都の防衛網を突破して俺を暗殺しようなんて思わないはずだ。あぁ、神様、仏様、皇帝陛下…ありがとうございます。俺、まだ生きてるよ!)
タチバナの視線は、惑星の軌道上に展開する防衛システムへと向けられた。
そこには、タチバナがこれまで見てきたどんな要塞や軍事基地をも子供騙しに見せるほどの、凄まじい「暴力の壁」が築かれていた。
直径数十キロメートルに及ぶ超大型防衛プラットフォーム群。それらは、惑星を包み込む幾重ものリングを形成。
その表面には、一撃で小惑星を砕くほどの口径を持つ巨大な電磁加速砲やイオン砲が、ハリネズミのように無数に突き出している。
その巨大な構造物の影を、哨戒任務に就いている艦船が横切っていく。
帝国軍の主力である《ボレアス級-TE ミサイル駆逐艦》の艦隊が、まるで小魚のように小さく見える。さらには、タチバナ艦隊では最強の火力を誇る《ルドゥタブル級 ミサイル巡洋戦艦》でさえ、この巨大な防衛プラットフォームの側を通り過ぎる際には、まるでもやしのように細く、頼りなく感じられた。
(最強だろ、これ。この防衛網の中にいれば、俺は世界で一番安全な場所にいることになる。ムフフ)
タチバナは喉の奥まで込み上げてきた安堵の溜息を、なんとか「威厳ある吐息」へと変換して排出した。
窓の外を流れる景色は、今や平和の象徴だった。帝都の管制センターから送信されてくる着陸誘導信号が、ブリッジの各コンソールで穏やかな電子音を奏でている。戦場での、あの耳を劈くような警報音とは無縁の世界。
だが、そんな彼の束の間の平和を、一足の軍靴の音が無慈悲に踏みにじった。
「タチバナ。見惚れている時間は終わりました。現実を見てください」
耳元で、温度の低い声が響いた。
首席副官、フィリア・アージェント大佐。
彼女はいつの間にかタチバナの真後ろに立っており、その手には、皇帝直属の宮内省から発行された、金色の縁取りがなされた電子書簡が握られていた。
タチバナは、反射的に首筋を撫でた。そこは、彼女に「物理的に」小突かれた場所だ。
「分かっている。皇帝陛下への拝謁だろう? 勲章の一つも貰って、しばらく休暇の許可を貰えれば、それで満足だ」
(頼むから休暇をくれ。一年、いや十年。その間に俺の名前なんてみんな忘れてくれれば最高なんだが…!)
タチバナは精一杯の虚勢を張り、ポーカーフェイスを維持した。
だがフィリアの返答は彼の予想を遥か斜め上、あるいは奈落の底へと突き落とすものだった。
「休暇? 何を言っているのですか。貴方の『八面六臂の活躍』と、ニーズヘッグの包囲網を嘲笑うかのような『神速の采配』は、すでに皇帝陛下の御耳に届き、帝国全土を熱狂させています。陛下は貴方を一刻も早く、帝国軍の最上位に据えたいと望んでおられます」
(…はい?)
タチバナの思考が、一瞬、フリーズした。
今、この女は何と言った? 最上位?
「…フィリア、それはどういう意味だ。俺はまだ二十代だぞ。上級大将だって、この間なったばかりだ」
「年齢など、陛下の前では些細な数字に過ぎません。タチバナ、貴方に皇帝陛下より勅命が下っています。首都惑星への降下後、直ちに宮殿へ向かいなさい。そこで貴方は全宇宙艦隊の司令長官に任命され、『帝国元帥』の位を授与されることになります」
(…げ、げんすい?)
タチバナの脳裏に、真っ白な吹雪が吹き荒れた。
元帥。
それは、帝国軍における最高位。
死んだ後に名誉として授与されるか、あるいは六十を過ぎた歴戦の猛者だけが、その生涯の果てに辿り着く「上がり」の場所。
それを、二十代の自分に?
(ふざけるな…! 冗談じゃない! 元帥なんて、それこそ最前線で何十万、何百万という兵隊を指揮しなきゃならない立場じゃないか! 責任の塊だ! 何かあったら、真っ先に責任を取らされて処刑される、特等席じゃないか!)
タチバナの膝が、マントの下でガクガクと震え始めた。
彼は窓の外の巨大な防衛プラットフォームを見た。
つい先ほどまで「世界で一番安全な壁」に見えていたそれは、今や自分を逃がさないための「巨大な檻の柵」へと変貌していた。
「元帥だと? 俺が? 笑わせるな。そんな重責、俺に務まるはずがないだろう」
(本当だ! 無理だ! 勘弁してくれ! 俺はただの臆病者なんだ! 天才なんて嘘だ! あれは全部、お前が裏で糸を引いてただけだろうがぁぁぁ!)
「…タチバナ、言葉が過ぎます」
フィリアはタチバナの震える手を、そっと逃げられないほどの力強さで握った。
彼女の瞳は祝福の色など微塵もなく、ただ冷徹に主君の運命を確定させていた。
「貴方は、帝国の英雄として、陛下のために、そして民のために、その身を捧げるのです。元帥府の設立準備も、すでに私が済ませておきました。貴方はただ、そこに跪つけばいい。あとは私が全てを『最適化』します」
(お前の『最適化』が一番怖いんだよ! お前が俺を飾りにすればするほど、俺の首の周りに縄が巻き付いていくのが分からないのか!?)
タチバナは、叫び出したくなる衝動を必死に抑え込んだ。
ブリッジのクルーたちは、タチバナとフィリアが「歴史的な一歩について静かに語り合っている」と信じ、崇拝の眼差しを向けている。その視線の一つ一つが、今のタチバナには鋭い針のように突き刺さる。
惑星の引力に引かれ、《アマテラス》は着陸態勢に入った。
大気圏突入の衝撃を抑えるための慣性制御装置が働き、船体が微かに振動する。
それは、タチバナという一人の臆病な男が、帝国最高の英雄という名の断頭台へと運ばれていく、終わりの始まりの音だった。
(死ぬ…俺、絶対に殺される。元帥なんてなったら、他の嫉妬深い提督たちに毒を盛られるか、あるいはもっとヤバい敵と戦わされるに決まってる。あぁ神様、助けて。俺、もうダメかもしれない…)
首都惑星の空はどこまでも澄み渡り、彼を歓迎するように青かった。その美しさは、タチバナにとっては処刑場の冷たい大理石の床と同じ、無機質な拒絶の輝きでしかなかった。
「さあ行きましょう。未来の元帥閣下」
フィリアの囁きは、もはや悪魔の契約のように彼の耳にこびりついて離れなかった。