宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い 作:最高司祭アドミニストレータ
銀河帝国の心臓、首都惑星。その中枢に鎮座する帝国宮殿内「黒真珠の広間」は、物理的な重量を感じさせるほどの重圧に包まれていた。
高く聳える天井から吊るされた無数のクリスタルシャンデリアが、冷徹な光を大理石の床に投げかけている。
その中央を真っ直ぐに貫くのは、乾いた血の色を連想させる深紅の赤絨毯。その先に待ち構えるのは帝国の頂点、皇帝が座す玉座である。
(死ぬ。間違いなく死ぬ。ここが俺の処刑場だ)
ケイイチ・フォン・タチバナ上級大将は、一歩を踏み出すたびに、自分の寿命が数年単位で削り取られていくような感覚に陥っていた。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、顎を微かに上げ、一点を見据えて歩くその姿は、周囲の者たちの目には「若き英雄の堂々たる進軍」と映っているだろう。
だが、実態は違う。あまりの恐怖に全身の筋肉が硬直し、ロボットのようにしか動けないだけだ。最高級の儀礼用軍服の中では、不快な冷や汗が滝のように流れ、シャツを肌に張り付かせている。
(頼むから、誰か足を引っ掛けないでくれよ。こんなツルツルの床で転んでみろ、末代までの恥だぞ。っていうか、今すぐ心臓発作でも起こしてこの場から逃げ出したい…!)
タチバナの視界の両脇には、帝国軍の最高幹部たちが居並んでいた。元帥、上級大将、そして先日の戦いで自分に不服を申し立てた老提督たち。彼らが纏う空気は、祝祭のそれではなく、獲物を狙う猛獣の檻に近い。
赤絨毯を進むタチバナの耳に、抑えられた、しかし執拗な呟きが届き始めた。
「フン、黒髪の小僧か。運が良かっただけの分際で、随分と大きな顔をして歩くものだ」
「ローゼンベルク家やミラックス家の後ろ盾があるからといって、調子に乗るのも大概にしてもらいたいな。戦術教本も読めぬ博打打ちが、帝国の名誉を汚している」
「ニーズヘッグの四千を各個撃破? 噴飯ものだ。敵が無能だったか、あるいは何か裏の取引でもあったのではないか?」
彼らはタチバナに聞こえないように、しかし周囲の同格者には伝わるように毒の籠もった言葉を吐き捨てている。
彼らにとって、二十代の若造が自分たちを飛び越えて軍の頂点へ登り詰めようとしている現実は、自らの人生を否定されるに等しい屈辱なのだ。
(小さければ聞こえないと思ったら大間違いだ! 皇帝には聞こえなくても、俺にははっきり聞こえてるんだよこの野郎!)
タチバナの内心で、どす黒い怒りが爆発した。
(お前ら、あの赤い点の海を直接見たのか!? 四千二百隻だぞ!? こっちは寄せ集めの千五百! そんな状況で、『運が良かった』なんて言葉がよく出るな! だったら今すぐ代わってやるよ! 今からでも遅くない、あの海賊の残党を追いかけてお前らだけで戦ってこいよ! 陰口叩いてる暇があったら、俺の代わりにこの胃の痛みを受け止めてみろクソジジイ共!!)
だが、その激しい罵倒が口から漏れることはない。
傍らに控える──いや、実際にはタチバナの斜め後ろ、影のように付き従うフィリア・アージェント大佐の存在が、それを許さないからだ。
『視線を逸らさないでください。呼吸を整え三歩先を見て、優雅にかつ傲慢に歩きなさい。あなたの思考はすべてノイズとして処理しています。余計なことを口にすれば、次は指先での圧迫だけでは済みませんよ』
脳内に直接響く、温度を欠いたテレパシー。
タチバナは、その声に「分かってるよ!」と心の中で毒づきながら、必死に英雄の仮面を維持した。
ついに、赤絨毯の終端に辿り着いた。
数段の階段を上がった先、巨大な玉座に座る皇帝。その瞳には帝国の繁栄への喜びも若き英雄への期待も、何一つ宿っていない。あるのはすべてを見飽きた隠者のような、底知れない退屈だけだ。
タチバナは練習通りに完璧な所作で片膝をついた。
頭を垂れる。視界に入るのは、磨き上げられた皇帝の軍靴と、自分の震える拳だけだ。
「ケイイチ・フォン・タチバナ」
皇帝の、掠れた低い声が広間に響き渡った。
「卿の功績、誠に見事であった。有象無象の海賊共を塵へと変え、帝国の威信を知らしめたその手腕。朕は卿のような若き才能をこそ、軍の要に据えたいと願う」
(嫌な予感がする。心臓が止まりそうだ)
「よって、ここに宣旨を下す。ケイイチ・フォン・タチバナ。卿を帝国元帥に任じ、宇宙艦隊司令長官の職を授ける。励むが良い。帝国の剣となり、我が版図をさらに広げるのだ」
左右に並ぶ侍従の一人が、紫色のクッションに載せられた、精巧な彫刻が施された銀色の杖──元帥杖を差し出した。
タチバナは、重い鉛を持ち上げるような心地で、両手を差し出した。
受け取った瞬間、ずっしりとした物理的な重みが掌に伝わる。
それは名誉の重みではない。この瞬間から自分の肩に伸し掛かる、途方もない責任と、それに付随する殺意の総量だ。
(宇宙艦隊司令長官? 帝国元帥? 俺が?)
タチバナの脳内で、計算が始まった。
これまでの戦い、自分に与えられた兵力は異例の三百隻編成が五つ、計千五百隻だった。それでも自分にとっては、世界の終わりのような数だった。
帝国軍の全戦力は、概ね三万隻。そのうちの半分。
一万五千隻。
それを自分が動かさなければならない。
(一万五千隻? 通常、一個艦隊は百隻だぞ。三百隻ですら特別なのに、その十倍、五十倍の数を俺一人に任せるっていうのか!? 耄碌したか皇帝この野郎!! 何考えてんだ! そんな数の命を、俺みたいなビビりに背負わせてどうするつもりだ! 責任取れるわけないだろ! 負けたら確実に公開処刑じゃないか!!)
タチバナの頭の中は、白一色のパニックに染まった。
銀河を支配する軍事力の半分を、一人の臆病者に委ねる。この決断がどれほど狂気じみたものであるか、ここにいる誰よりも、タチバナ自身が一番理解していた。
だが、皇帝の退屈そうな瞳は、すでに彼から逸らされていた。
「ありがたき、仕合わせに存じます」
喉から絞り出したのは、擦り切れたような細い声だった。
周囲の提督たちからは、いよいよ隠しきれない舌打ちや、激しい嫉妬の溜息が漏れ聞こえてくる。彼らの視線は、もはやタチバナを同胞として見ていない。いつ背中から刺してやろうかという、暗殺者のそれだ。
タチバナは立ち上がり、元帥杖を握りしめて再び赤絨毯を歩き出した。
皇帝に背を向け、広間の出口へと向かう帰路。
先ほどよりもさらに濃厚になった殺気と、冷笑の嵐の中を。
『完璧な所作です、タチバナ元帥。顔色は土気色を通り越して真っ白ですが、逆光のおかげで「神秘的なまでの静謐さ」を演出できています。そのまま、出口まで歩きなさい』
フィリアの皮肉めいた声すら、今のタチバナには遠く聞こえた。
一万五千隻の巨大な鉄の群れ。
それを自分が、文字通り「死の淵」へと追いやらなければならない未来。
そして、その指揮権を奪おうと、あるいは自分の失脚を狙おうと、手ぐすね引いて待っている怪物のような提督たち。
(終わった…本当に終わったんだな。俺の人生、ここで完全終了だ…これなら、ニーズヘッグに撃沈されてた方が、まだ安らかに死ねたんじゃないか…?)
広間の重厚な扉が、左右からゆっくりと閉ざされていく。隙間から見える、帝国の重鎮たちの憎悪に満ちた顔が、一枚、また一枚と消えていく。
大きな音がして、扉が完全に閉まった。タチバナは、誰もいない廊下に出た瞬間、元帥杖を杖のようにして床につき、その場に崩れ落ちそうになった。
「フィ、フィリア…」
「はい。何でしょうか、元帥閣下」
「吐いても、いいか?」
「却下です。掃除が面倒ですから。さあ、立ってください。元帥府の設立式典まで、あと二時間しかありませんよ」
タチバナは、自らの掌にある冷たい銀の杖を見つめた。
それは彼にとっての栄光の象徴などではない。
自分を縛り、そしていつか自分の首を撥ねるための、美しく磨き上げられたギロチンの刃にしか見えなかった。
こうして、銀河最年少の元帥がここに誕生した。
それが帝国滅亡の序曲となるのか、新たな伝説の幕開けとなるのかを知る者は、まだ誰もいない。
ただ一人、絶望に咽び泣く英雄を除いては。