宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い 作:最高司祭アドミニストレータ
皇帝からの宣旨を受け、重すぎる元帥杖を手に「黒真珠の広間」を後にしたケイイチ・フォン・タチバナの足取りは、死地へ向かう兵士よりも重かった。
宮殿の高く広大な大回廊。窓から差し込む陽光が、床の大理石を眩しく照らし出しているが、タチバナの瞳にはそれが自分の墓石を飾る供花の色にしか見えなかった。
(終わった。完全に詰んだ。なんで俺は今、この手に銀色の棒なんて持ってるんだ? これ、誰かに『落としましたよ』って返して、そのまま実家に全力疾走で帰っちゃダメか?)
タチバナは、手の中の元帥杖を、忌まわしい呪いのアイテムでも見るかのような目で見つめていた。
元帥。全宇宙艦隊司令長官。
その肩書きが意味するのは、帝国の全軍事力の半分を動かす権利ではない。失敗すれば真っ先に首を撥ねられる、銀河で最も目立つ標的になったという事実だ。
「閣下、歩みが止まっています。感傷に浸るのは、自分の部屋に戻ってからにしてください」
背後から、一切の慈悲を含まないフィリアの声が届く。
タチバナはびくりと肩を震わせ、再び機械的に足を動かした。彼はマントの下で、恐怖で冷え切った指先を必死に握りしめた。
だが、回廊を曲がった先で待ち構えていたのは、冷酷な軍の高官たちよりも、タチバナにとっては厄介な「包囲網」だった。
「──タチバナ様!」
宮殿の大理石の床を弾くような、高く華やかな声が回廊に響き渡った。
タチバナの首筋に、冷たい汗がツーッと流れ落ちる。振り返らなくても、誰が近づいてきたのかは声色と、周囲の空気が一変したことで十分に理解できた。
(出た。俺の人生をハードモードからナイトメアモードに書き換えた元凶どもだ)
重々しい足取りを無理やり止めて振り返ると、そこには三人の女性将校の姿があった。
先頭を切って駆け寄ってくるのは、燃えるような情熱を思わせるピンク色の長い髪をなびかせた、アデライード・フォン・ローゼンベルク中将だ。帝国でも有数の家格を誇る大貴族の令嬢である彼女は、帝国軍の標準的な女性用軍服を身に纏っていた。
その硬質なグレーの生地は彼女の華やかな美貌と、何よりもその豊満な身体のラインを隠し切れてはいない。
息を弾ませて駆け寄ってくるたびに、軍服の胸元がはち切れんばかりに張り詰め、ボタンの隙間が悲鳴を上げているのが視覚的に伝わってくる。
タイトスカートから伸びる脚のラインも、彼女の健康的な色気を容赦なく主張していた。
(アデライード…こいつ、親友のカレンの付き添いみたいな顔して俺の前に現れたかと思えば、勝手に俺を『腐敗した貴族社会を変える理想の英雄』とか勘違いしやがって…)
タチバナの脳裏に、彼女とのこれまでの厄介な回想がよぎる。
彼女は基本的には明るく情熱的で、正義感に溢れた令嬢だ。タチバナが適当に吐いた建前や面倒事を避けるために取った行動を、すべて「帝国の未来を憂う気高き精神」だと誤解してしまった。
その結果、彼女は自らの実家であるローゼンベルク家の強大な政治力をフル活用し、タチバナをこの「帝国元帥」という断頭台の特等席へと押し上げるための根回しを、嬉々としてやってのけたのだ。
その後ろから、もう一人の令嬢がしずしずと歩み寄ってきた。
アナスタシア・フォン・ミラックス特務大佐。帝国創設にも関わった由緒正しき大公家の令嬢である彼女は通常の軍服とは異なる、純白を基調とした宮内省特務部隊の特別仕様の軍服を身に纏っていた。
蜂蜜色の柔らかなウェーブロングヘアーが、窓から差し込む陽光を受けて煌めいている。軍服とはいえ祭服のような優雅な意匠が施されたその純白の生地は、彼女の雪のような肌と圧倒的なまでに豊かな双丘を際立たせていた。
歩みを進めるたびに、布越しに柔らかく揺れるその圧倒的な質量は、見る者の目を釘付けにする破壊力を持っている。
(そしてこっちのアナスタシア。こいつはさらにタチが悪い。勝手に俺を『神が遣わした運命の王子様』とか認定して、頭の中で壮大な恋愛ストーリーを完結させてる、正真正銘の純愛モンスターだ)
タチバナは胃袋がギリリとねじ切られるような痛みを覚えた。
アナスタシアの行動原理はすべて「恋」だ。相手の都合など一切考えず、自分の愛を押し付けることこそが正義だと信じて疑わない。彼女もまた、ミラックス大公家の財力と権力を惜しみなく注ぎ込み、タチバナを皇帝の目に留まらせるための猛烈なアピールを行っていた。
彼女が自分を見る、あの狂信的な空色の瞳を思い出すだけで、タチバナは夜も眠れなくなる。
そして、その純白のハリケーンの後ろに、直立不動で控えている最後の一人。
アナスタシアの護衛騎士、クラリッサ・フォン・ミューゼル准将だ。
厳しく後ろで一つに束ねられた燃えるような赤髪のポニーテール。彼女は装飾の一切を排した、最も実用的な黒の軍服を着崩すことなく完璧に着こなしている。
無駄のないしなやかな体つきだが、軍服の上からでも分かる引き締まったウエストラインと、それに反比例するような女性的な丸みは、同性から見てもため息が出るほどの完璧なプロポーションだ。
その鋭い翠色の瞳は、タチバナを親の仇のように睨みつけていた。
(クラリッサの目が怖いんだが!? 完全に『このクズ男がうちの姫様をたぶらかしやがって』って顔してるだろ! 俺は何もしてない! むしろ被害者だ!)
タチバナは彼女の鉄拳制裁の恐ろしさを回想し、思わず半歩後ずさりしそうになった。
クラリッサは常に暴走するアナスタシアの尻拭いに頭を抱える苦労人だ。だが、彼女のストレスの矛先は、原因を作り出している(と彼女が勘違いしている)タチバナにも容赦なく向けられる。あの鍛え上げられた腕から繰り出される拳が、いつ自分の顔面に飛んでくるか分からない恐怖が、タチバナを常に脅かしていた。
「おめでとうございます、タチバナ様!」
回想から現実へと引き戻される。アデライードが、タチバナの目の前で花が開くような満面の笑顔を向けた。
「わたくしたちの…ローゼンベルク家の後押しが、こうして実を結びましたわ! これで貴方は、名実ともに帝国の頂点に立たれたのですわね!」
「いいえ、アデライード。これは神が定めたもうた運命…」
アナスタシアがうっとりとタチバナを見つめ、祈るように両手をその豊かな胸の前で組んだ。腕で寄せられたことで、純白の軍服の胸元がさらに強調され、はち切れんばかりの谷間のシルエットがくっきりと浮かび上がる。
「タチバナ様。わたくしたちミラックス家が陛下に進言した甲斐がありました。貴方こそが、この腐敗した銀河を浄化する、わたくしだけの運命の王子様なのですわ…」
タチバナはクラリッサの突き刺さるような殺気に背筋を凍らせながらも、表向きは一分の隙もない、優雅で孤高な英雄の微笑を浮かべた。
「アデライード、アナスタシア。わざわざの出迎え、感謝する。…貴公ら両家の尽力があったからこその、この栄誉だ…礼を言う」
言葉少なに、短く。
それが、傍らに控えるフィリアから徹底的に叩き込まれた「底知れない天才指揮官」を演出するための喋り方だ。表情筋をミリ単位で制御し、決して動揺を見せない。
だが、その内心は、猛烈な怒りと絶望で荒れ狂っていた。
(余計なことをォォォ!! お前らの実家が余計な根回しをしたせいで! 俺の平穏なニート生活の夢が完全に粉砕されたんだぞ!! 分かってんのか!? お礼なんて死んでも言いたくないわ! 俺はただ、安全な後方で可愛い女の子のお尻でも眺めながら、のんびり暮らしたかっただけなのに! 全力で恨んでやるからな、この世間知らずで思い込みの激しいお嬢様共め!!)
タチバナの心の絶叫など知る由もなく、二人の令嬢は頬を赤らめて歓喜した。
「まあ…! タチバナ様がわたくしにお礼を…!」
アデライードが感極まったように声を弾ませる。
「いいえ、タチバナ様。わたくしこそ、貴方の元帥としての初めての『夜の執務』を、どのようにお支えすべきか…すでに準備を整えておりますのよ?」
「あら、それは聞き捨てなりませんわね、アデライード」
アナスタシアの瞳に、独占欲にまみれた狂信的な光が宿る。彼女はタチバナの腕に、遠慮なく自分の豊かな胸を押し当てるようにしてすがりついた。軍服の硬質な生地越しにも、その暴力的なまでの柔らかさと体温が伝わってくる。
「タチバナ様の心身のお疲れを癒せるのは、運命の伴侶であるわたくしだけ…貴方の寝室のベッドは、わたくしが清めておきましたわ。そこで二人きりで、神聖な『夜の運動』を共に……」
「な、何を破廉恥なことを…! タチバナ様を毒するのはおやめなさい、アナスタシア!」
アデライードが顔を真っ赤にして反論するが、アナスタシアは悪びれる様子もない。
「毒? 心外ですわ。これは神の御前でも許される、純粋な愛の交わりですわよ?」
(…お前ら、場所を考えろ! ここは宮殿の廊下だぞ! 衛兵も騎士もみんな遠巻きに見てるだろ! 破廉恥なことを大声で言うな! 頼むからやめてくれ、俺が絶倫の変態みたいに思われるだろうが!!)
タチバナは、恥ずかしさと恐怖で頭が爆発しそうだった。
ふと横を見ると、案の定、クラリッサが「この世の汚物を見るような目」で自分を凝視していた。
彼女の手は軍服の腰のあたりで、暴走するアナスタシアを黙らせるための鉄拳を今にも振り上げそうなほど、力強く握りしめられている。
(間違いなく殺されるくらい怖いんだが!? クラリッサのあの拳、絶対に俺の顔面を狙ってるだろ! 『お前みたいなクズ男のせいで姫様が汚れた!』って思ってるだろ! 俺は何もしてない! むしろ胸を押し付けられてる完全な被害者だ! 助けてくれ!)
タチバナは、救いを求めるように背後のフィリアを見た。
彼女はこの醜悪な女の争いなど、道端のゴミでも眺めるかのような冷ややかな目で見ていた。やがて時間を確認すると、一切の感情を排した事務的な声で割り込んだ。
「失礼。アデライード中将、アナスタシア特務大佐。元帥閣下のスケジュールは、分刻みで埋まっております」
氷のようなフィリアの声が、口論を強制的に中断させる。
「閣下。次はシライシ中将のもとへ向かう予定ですが、よろしいですね?」
(…ユキノのところか)
タチバナは、別の種類の重い頭痛を感じた。
ユキノ・シライシ中将。自分の座乗艦を、いつ大爆発してもおかしくないような規格外の怪物に魔改造した、常軌を逸したマッドサイエンティスト。
彼女もまた、タチバナを狂信的に崇拝しているヒロインの一人だ。あの白衣の下に豊満な身体を隠した天才科学者が、またどんな恐ろしい兵器を「閣下へのプレゼント」として用意しているのか、考えるだけで胃液が逆流しそうになる。
「…あぁ。分かった。…失礼する」
タチバナは、なおも縋り付こうとするアデライードとアナスタシアの熱視線を無理やり引き剥がし、フィリアに促されるまま逃げるようにその場を歩き出した。
「ああっ、タチバナ様! 行かないでくださいまし!」
「待って! わたくしの祈りはまだ終わって…!」
背後から聞こえる彼女たちの切実な呼び声を、タチバナは意識から完全にシャットアウトした。
その足取りは依然として鉛のように重い。
(…はぁ。やっとあの二人から逃げられたと思ったら、次はユキノか。行きたくないんだが)
タチバナは誰もいない回廊の前方を見つめ、深く、深い溜息を吐いた。
銀河最年少元帥。
その華々しい称号の裏で彼は自分が作り上げた虚像という名の怪物を維持するために、新たな地獄へと足を踏み出していた。
背中にまとった重いマントの裾が、虚しく大理石の床を擦る。
彼の背中にはクラリッサの鋭い殺気と、二人の令嬢のねっとりとした執着が、抜けない棘のように深々と刺さったままだった。