宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い 作:最高司祭アドミニストレータ
帝国宮殿の奥深く、陽光の差し込まない隔絶された区画に、統合情報戦略局の施設は存在していた。
ケイイチ・フォン・タチバナは、重い足取りでその薄暗い廊下を進んでいた。案内するフィリア・アージェント大佐の背中を追いながら、タチバナの胃は先ほどの令嬢たちとの遭遇とは全く別の理由で、キリキリと痛み始めていた。
分厚い電子ロックの扉が、音もなく左右に開く。
冷房の効きすぎた室内には、無数のサーバー群が低い稼働音を立てており、壁一面に設置された大型モニターが青白い光を放っていた。
その部屋の中央で、一人の女性が立って彼らを待ち受けていた。
「お待ちしておりました。タチバナ元帥閣下」
抑揚のない、温度を感じさせない声。
統合情報戦略局局長、ユキノ・シライシ中将。
透き通るような白い肌と、銀糸のように美しいセミロングの髪を持つ彼女は、一見すると儚げな印象を与える美女だ。だが、その顔の半分を覆う分厚い眼鏡の奥の瞳が何を考えているのか、タチバナには全く読めなかった。
彼女はカッチリとした漆黒の軍服を着ているが、その上からシワだらけの白衣をだらしなく羽織っている。薄暗い照明の中でも、軍服の硬質な生地が彼女の豊かに実った胸元のボリュームを強調し、白衣の隙間からは腰からヒップにかけての美しいラインがはっきりと見て取れた。
男の目を惹きつけるには十分すぎるプロポーションだが、今のタチバナに欲情する余裕は微塵もなかった。
(出たよ、本物の狂人が。こいつは絶対に俺を人間だと思ってない。モルモットかなんかだと思ってるんだ)
タチバナは内心で激しく警戒のサイレンを鳴らした。
ユキノ・シライシ。彼女こそが、タチバナの座乗艦である《アマテラス》を、いつ大爆発してもおかしくないような制御不能の怪物に魔改造した張本人だ。
帝国最高の天才科学者と謳われているが、その思考の全ては「タチバナの生態研究」と「タチバナの遺伝子情報の収集」という、極めて粘着質で異常な方向へと向けられている。
「この度のご昇進、心よりお祝い申し上げます。閣下の天才的な脳細胞が、ついに帝国全土に正しく評価された証明ですね。私としても、研究対象の価値が上がったことは喜ばしい限りです」
ユキノは淡々と祝言を述べるが、その分厚い眼鏡の奥の瞳には、薄暗い部屋のモニターの光を反射して、ぞっとするような熱が帯びていた。
「あぁ。大儀だったな、シライシ中将」
タチバナは極力感情を交えずに、短く答えた。余計な言葉を発すれば、彼女にまた何を分析されるか分かったものではない。
「本日は元帥閣下のために、私から特別な計画のプレゼンテーションをご用意いたしました。今後の閣下の活動をより完璧にサポートするためのものです…どうか、こちらへ」
ユキノは白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、部屋の中央にある大型モニターの方へと歩き出した。タイトな軍服のスカートに包まれたヒップラインが艶かしく揺れるが、タチバナはただ面倒くささだけを感じながら、フィリアに無言で促されて重い足を引きずった。
モニターの電源が入り、画面いっぱいに膨大な数字の羅列と、複雑に絡み合ったグラフが表示された。
ユキノが手元のコンソールを操作すると、次から次へと専門用語で埋め尽くされたスライドが切り替わっていく。
「現在の閣下の脳波パターンにおけるアルファ波の出現頻度と、交感神経の緊張状態の相関性についてですが、過去三ヶ月のデータを抽出した結果、非常に興味深い特異点が見られました。これにより、閣下の細胞分裂のサイクルに微細な──」
ユキノは早口で、抑揚のない声のまま淡々と解説を続けている。タチバナは画面に映る数列を眺めながら、こっそりと欠伸を噛み殺した。
(…なんだこれ。全然意味が分からん。どうせまた、俺の船にわけのわからない違法兵器を積むための予算申請とか、そういう類の話だろ? 長いし、つまらないし、専門用語ばっかりで眠くなってくる。いっそのこと、元帥の権限でこいつをクビにしてやろうか。そうすれば《アマテラス》の爆発の危険に怯えずに済むし…)
タチバナがそんな不敬な──しかし彼にとっては切実な──ことを考えながら適当に聞き流していた、その時だった。
画面に表示されていたグラフが、突然、見慣れた映像へと切り替わった。
「…ん?」
タチバナは思わず目を瞬かせた。
映し出されているのは、薄暗い部屋のベッドで、口を半開きにしてだらしなく眠りこけている男の姿だった。赤外線カメラ特有の緑色がかった映像だが、それが誰であるかは一目瞭然だ。
(ちょっと待て。これ、俺の部屋じゃないか!? 俺の寝顔じゃないか!? なんでこんな映像がここにあるんだ!?)
タチバナの心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がった。
映像の隅には、リアルタイムの心拍数、呼吸数、体温、さらには寝返りを打った回数までが克明に記録された数値が踊っている。
「睡眠時における無防備な状態の生体データは、偽りのない真実を示します。閣下の寝顔は、非常に高い観察価値を有しています」
ユキノは一切悪びれる様子もなく、淡々と解説を続ける。
だが、タチバナの驚愕はそれだけでは終わらなかった。画面が再び切り替わると、今度は細かい文字のリストが表示された。
(なっ…!? これは、俺がこっそり個人的なアカウントで買った、高級スイーツのお取り寄せ履歴!? なんで知ってるんだ!? 俺が実家の部屋の地下にこっそり隠している、お気に入りのアイドルの限定フィギュアの購入履歴まであるじゃないか!)
完全にプライバシーが侵害されている。軍の機密でも何でもないタチバナの個人的でクズで情けない日常生活の全記録が、この女のデータベースに完全に把握されていたのだ。
「これらの行動パターンと嗜好性のデータを総合し、私の持つ生体データと照合いたしました。その結果が、こちらのグラフです」
ユキノがコンソールを叩くと、画面に二つの波形グラフが重なり合うように表示された。そして、画面の中央に大きく『遺伝子適合率:99.9%』『生活リズム同調率:完全一致』という文字が浮かび上がった。
(…ちょっと待て。新兵器のプレゼンじゃねえ。これ…俺との結婚生活のプレゼンじゃねえか!?)
タチバナの脳内で、危険を知らせる最大級の警報が鳴り響いた。
これは軍事報告ではない。マッドサイエンティストによる、完全に狂った求婚の儀式だ。
「ご覧の通り、閣下と私の遺伝子情報の組み合わせは、生物学的に見てこれ以上ないほどの完璧な最適解を弾き出しました」
ユキノは振り返り、タチバナを見た。
先ほどまでの抑揚のない声に明確な、熱っぽい執着が混じり始めていた。分厚い眼鏡の奥の瞳が、血走っているようにすら見える。
「完璧なデータです。何一つ反論の余地はありません。というわけで私と結婚しましょう、タチバナ元帥閣下」
ユキノは白衣の裾を翻し、タチバナに向かってにじり寄ってきた。
軍服の上着がはち切れんばかりに膨らんだ豊満な胸が、荒い呼吸に合わせて激しく上下している。彼女は完全に自分の世界に入り込んでいた。
「この宇宙において、閣下の優秀な遺伝子を後世に残すことは帝国軍、いえ、人類の至上命題です! 私の子宮と閣下の遺伝子さえあれば、完璧な次世代の指揮官を生み出すことができます。データによれば、最低でも五人は子供を作るべきです。さあ、今すぐ私のベッドへ──」
「ばっ、バカなことを言うな!」
タチバナは恐怖のあまり後ずさろうとしたが、ユキノの動きの方が早かった。
彼女はタチバナの両手を、ガシッと強い力で掴み込んできた。
「離せ! 何をする気だシライシ中将!」
タチバナは慌てて両手を引き抜こうとしたが、ユキノの手は万力のようにビクともしなかった。
華奢で、研究室に引きこもっているはずの女の腕力ではない。タチバナの遺伝子を手に入れようとするヤンデレ特有の、恐るべき執念が生み出した火事場の馬鹿力だった。
「逃がしません…! 閣下の細胞の一つ一つまで私が完全に管理し、愛して差し上げます! さあ、私と一緒に完璧な家族計画を…!」
「やめろ! 俺はモルモットじゃない! 離せって言ってるだろ!」
タチバナとユキノの間で、両手を掴み合ったままの物理的な押し合いが始まった。
だが、情けないことに、恐怖で完全に腰が引けているタチバナは、目を血走らせて迫ってくるユキノの力に押され、ジリジリと後退させられていく。
(うそだろ!? なんで俺、こんな華奢な女に押し負けてるんだ!? 筋力どうなってんだよこいつ! 怖い怖い怖い! このままじゃマジで奥の部屋に引きずり込まれて、遺伝子を搾り取られるぅぅぅ!)
タチバナが顔を真っ赤にして必死に抵抗している横で、首席副官であるフィリアは、助け舟を出す気配など微塵も見せず、ただ冷ややかな目でその光景を観察していた。
『呆れました。女性一人に押し負けるとは。帝国元帥の腕力も、たかが知れていますね』
フィリアからの、一切の容赦がない冷徹なテレパシーが脳内に突き刺さる。
タチバナは涙目になりながら、心の中でフィリアに怒鳴り返した。
(見てないで助けろよ! こいつヤバいって! 力の入り方が普通の人間じゃないんだよ! 俺の純潔が奪われる! 早く引き剥がしてくれぇぇぇ!)
『軍規違反の事実はありません。これもまた、元帥閣下と部下との、重要なコミュニケーションの一環かと存じます。せいぜい、優秀な遺伝子を残すために奮闘してください』
(この鬼悪魔血も涙もない精霊めぇぇぇっ!)
誰も助けてくれない。
目の前には白衣を乱し、豊満な胸を押し付けんばかりに迫ってくる、目の据わった天才科学者。
このままでは、本当に取り返しのつかないことになる。
タチバナの生存本能が、ついに限界を超えた。
「ふざけるなぁぁぁっ!!」
タチバナは恐怖と屈辱から生み出された火事場の馬鹿力を振り絞り、渾身の力でユキノの手を強引に振りほどいた。
バシンッと鋭い音が鳴り、ユキノが体勢を崩して数歩後ずさる。
その隙を、タチバナは見逃さなかった。
彼は一目散に部屋の出口へとダッシュした。マントが大きく翻り、床を蹴る軍靴の音が無様に響く。
「ま、待ってください閣下! まだプレゼンは終わっていません! 私の愛の証明が…!」
背後からユキノの切羽詰まった声が追ってくるが、タチバナは振り返ることなく、自動ドアのスイッチを叩くように押した。
「聞く耳持たん! 今日は…今日は父さんが、家族だけで俺の元帥祝いの食事会を開いてくれるんだ! パパの手料理を食べる準備があるから、俺はもう帰る!!」
タチバナは統合情報戦略局の廊下に向かって、子供のような言い訳を叫び捨てた。
これで相手が諦めてくれるだろうと思ったのが、タチバナの甘さだった。彼のその言葉は、ユキノの狂信的な愛情に冷や水を浴びせるどころか、さらに危険な燃料を注ぎ込む結果となってしまったのだ。
「家族だけの食事会!? それは素晴らしいタイミングです! 絶好の機会ではありませんか!」
「なっ!?」
背後で、信じられないほど弾んだ声が響いた。
タチバナが思わず振り返ると、ユキノが白衣の裾を激しく翻し、常軌を逸したスピードで追いすがってきていた。分厚い眼鏡の奥の瞳は、歓喜と狂気で完全に血走っている。彼女はタチバナの漆黒の軍服の裾をガシッと掴むと、恐るべき執念で引き寄せた。
「ちょうど良かったです! じゃあお義父様に『息子さんを私にください!』が直接言えますね! さあ、私を実家に連れて行ってください! 遺伝子情報の提供は、ご挨拶の後でも構いませんから!」
「お義父様と呼ぶな!!」
タチバナは半狂乱になって叫んだが、白衣の下で豊満な胸を揺らすユキノの腕力は凄まじく、床を滑る軍靴が虚しく音を立てる。
先ほど振りほどいたはずの力が、今度は何倍にもなってタチバナを捕らえていた。彼女は完全に「タチバナの妻」として実家へ乗り込む気でいるのだ。
(うわあああっ! 冗談じゃない! こんなヤバい女を実家に連れて行ったらどうなる!? 人の良いパパのことだ、『ケイイチにこんな綺麗な彼女が!』って泣いて喜んで、そのまま騙されて籍を入れられちまう! 俺の平穏な実家生活が、このマッドサイエンティストの実験場にされちまうんだぞ! 誰か、誰か助けてくれぇぇぇっ!)
純潔の危機どころか、唯一の安息の地である実家の平和まで脅かされ、タチバナが涙目で天井を仰ぎ見たその時だった。
トンッ、と。
ごく軽い、事務作業でもこなすような乾いた音が響いた。
「あっ、閣下の、優秀な遺伝子…が…」
ユキノの焦点が唐突に定まらなくなり、彼女の華奢な身体からふっと力が抜ける。そのまま糸の切れた操り人形のように、タチバナの足元へと崩れ落ちた。
タチバナが呆然と見下ろすと、そこにはいつの間にか背後に立っていたフィリア・アージェント大佐の姿があった。彼女は、ユキノの首筋に手刀を振り下ろした右手を、何事もなかったかのようにゆっくりと下ろすところだった。
『スケジュールが遅延します。それに、この手の妄想癖を放置すると、後々のデータ処理に支障を来しますので。物理的にシャットダウンしました』
「ふっ、遅かったじゃないか。死刑だ」
脳内に直接響く、温度の欠片もないテレパシー。
フィリアは床に倒れ伏したユキノを無表情で見下ろすと、タチバナに向かって冷徹に言い放った。
「さあ、帰還しますよ。ご実家の『お義父様』がお待ちです」
「お前までお義父様って言うなあああ!」
タチバナは心の中で激しく絶叫しながらも、今は追撃者が気絶しているこの隙を逃すわけにはいかなかった。
彼は倒れたユキノを振り返ることもなく、全速力で廊下を駆け抜けた。