宇宙の平和より俺の命を大切にして何が悪い   作:最高司祭アドミニストレータ

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実家

 一連の恐怖と絶望から逃げ出し、ケイイチ・フォン・タチバナがようやくたどり着いたのは、首都惑星の高級住宅街にひっそりと佇む、彼の実家であった。

 重厚な門扉をくぐり、見慣れた玄関のドアの前に立つ。

 ここには、自分を暗殺しようとする嫉妬深い貴族も、死地に追いやろうとする無茶な命令も、遺伝子を狙う狂った科学者もいない。いるのはただ一人、究極の専業主夫にして、世界で一番自分のことを愛してくれている父親、厳一朗だけだ。

 

 

(やっと帰ってきた。長かった。今日一日、何度死にかけたことか…)

 

 

 タチバナは涙がこぼれそうになるのを必死に堪えながら、玄関の生体認証パネルに手を触れた。

 電子音が鳴り、ドアが静かに開く。

 温かい光と、食欲をそそる手料理の匂いが鼻腔をくすぐるのを期待して、タチバナは一歩を踏み出した。

 

 

「お帰りなさいませ、タチバナ閣下。本日は大変な重務、本当にお疲れ様でございました」

「──っ!?」

 

 

 タチバナの心臓が、本日何度目か分からない限界突破の跳ね方をした。

 出迎えたのは、エプロン姿の父親ではなかった。

 

 玄関ホールの広い空間に、三つ指をついて完璧な礼の姿勢をとる、三人の若い女性たち。

 彼女たちは帝国軍の上級大将付きとして配属されている、タチバナの専属侍女たちだった。落ち着いた栗色の髪を後ろで束ねたアンナ・ホーキンス。太陽のような金髪をおさげにしたベッキー・スターリング。そして、漆黒の長い髪を静かに垂らしたクロエ・フォスター。

 

 

(なんで!? なんで軍の侍女が、俺の実家にまで上がり込んでるんだよ!? ここは俺のプライベート空間だぞ! 軍の仕事は宮殿と基地で終わりじゃないのか!?)

 

 

 タチバナは内心で激しく絶叫した。

 

 彼女たちが身の回りの世話をしてくれること自体は、本来ならば喜ばしいことだ。三人とも、軍服ではなく実用性と美しさを兼ね備えた侍女服を完璧に着こなしており、その下にある豊満な身体のラインは、男であれば目を奪われずにはいられない魅力に溢れている。

 

 だが、タチバナにとって、彼女たちは決して「癒し」の存在ではなかった。

 なぜなら、彼女たちのタチバナに対する献身の根底には、常軌を逸した「変態的」な愛情と執着が渦巻いていることを、彼自身が身をもって知っているからだ。

 

 

「さあ閣下、重いマントと上着をお脱ぎください。すぐに温かいおしぼりとお着替えをご用意いたしますわ」

 

 

 アンナが慈愛に満ちた笑顔を浮かべてタチバナに接近してきた。

 

 彼女は「世話焼きで包容力のあるお姉さん」という枠を完全に逸脱し、タチバナの公私すべてを管理し、自分の庇護下に置こうとする恐るべき母性支配の持ち主だ。

 

 

「あ、あぁ…自分で脱げるから、いい…」

「いけません。閣下は今日、元帥という大役を任され、心身ともに極限までお疲れのはず。ここから先は、ご自分の手足など一切動かす必要はございません。すべて、このアンナにお任せください」

 

 

 アンナはタチバナの抵抗を腕力で押しのけ、彼の軍服の上着に手をかけた。彼女の豊満な胸が、タチバナの腕や肩に意図的としか思えないほど密着してくる。その柔らかい感触にドキリとするよりも先に、タチバナは「まるで何もできない赤子のように扱われている」という屈辱と恐怖に震え上がった。

 

 

(近い近い近い! アンナ、世話を焼いてくれるのはありがたいが、距離感がおかしい! これじゃ俺、完全に介護されてるお爺ちゃんか何かじゃないか!)

 

 

 アンナが上着とマントを脱がせると、タチバナの死角から、音もなく黒い影がスッと伸びてきた。

 

 クロエだ。

 彼女は極端に口数が少なく、気配を消すことに長けている。タチバナが何を望むかを事前に察知し、言われる前に完璧に準備を整える優秀な侍女だが、その行動はしばしばストーカーの域に達している。

 

 クロエは、アンナが脱がせたばかりのタチバナのマントと上着を、素早く、しかし恭しく両手で受け取った。

 タチバナが視線だけでそちらを追うと、クロエは回収した衣服を胸に抱きしめ、自分の顔をその生地に深く埋めていた。そして、耳まで真っ赤に染めながら、スゥーッと深々と息を吸い込む奇行に走っていたのである。

 

 

(嗅いでる! あいつ、絶対に俺の服の匂いを嗅いでる! なんで顔を赤くしてんだよ! 汗臭いだけだろ! 怖い怖い怖い! 俺のプライバシーも尊厳も、この家には残されてないのか!?)

 

 

 タチバナが内心でドン引きしている横から、今度は底抜けに明るい声が飛んできた。

 

 

「タチバナ閣下ー! お帰りなさいませー! ベッキー、閣下のために腕によりをかけて、いーっぱいご飯作りましたからね!」

 

 

 ベッキーが、満面の笑みで厨房の方から姿を現した。

 彼女は「美味しいものを食べさせること」こそが愛の証明だと信じて疑わない、純粋な食いしん坊だ。だが、その純粋さゆえに、彼女が提供する食事の量は常に常人の致死量を凌駕している。

 

 

「今日は特別なお祝いですから、和洋中、全部で五十品目用意しました! さあ、遠慮せずに、お腹がはち切れるまで食べてくださいね! 残したらベッキー、泣いちゃいますから!」

(五十品目!? 俺を殺す気か! フードファイトでもさせるつもりか!? どんなに美味くても、胃袋が破裂して死ぬわ!)

 

 

 三人の侍女たちによる、常軌を逸した「おもてなし」の連携攻撃。

 タチバナは、安息の地であるはずの実家が、完全に彼女たちの支配領域と化している現実に直面し、膝から崩れ落ちそうになっていた。

 

 その地獄のような玄関ホールに、奥のダイニングからパタパタと軽い足音が響いてきた。

 

 

「ケイイチ! 帰ってきたのか!」

 

 

 姿を現したのは、フリルのついたエプロンを身に着け、お玉を片手に持った中年男性。タチバナの父親、厳一朗だった。

 彼はタチバナの顔を見るなり、目尻を下げて満面の笑みを浮かべた。

 

 

「聞いたぞケイイチ! お前、帝国元帥に任命されたんだってな! しかも宇宙艦隊司令長官! すごいじゃないか! さすがは俺と母さんの自慢の息子だ!」

 

 

 厳一朗の思考は、息子のクズな本性や、軍の異常な人事、そしてタチバナが今日一日どれほどの死の恐怖を味わってきたかなど、一ミリも理解していなかった。彼はただ純粋に、息子の出世を「社会勉強の成果」として手放しで喜ぶ、究極の親バカであった。

 

(今日1日で何回命を落としかけたと思ってるんだ。元帥なんて、一番最初に首を撥ねられる処刑の特等席だぞ。…でも、その無邪気な笑顔を見ると、なんかもう、どうでもよくなってくるな…)

 

 

 タチバナは父の純粋な愛情に触れ、張り詰めていた緊張の糸がわずかに緩むのを感じた。

 だが、その平穏な家族団欒の空気は、周囲を固める侍女たちの存在によって、すぐに打ち砕かれた。

 

 

「さあ、お父様もこうしてお待ちです。閣下、ダイニングへ参りましょう」

 

 

 アンナがタチバナの右腕を優しく、しかし絶対に逃げられない力でホールドする。

 左腕には、ベッキーが「早く早くー!」と弾んだ声でしがみついてきた。

 

 

「あぁ。分かった。行くから、引っ張るな…」

 

 

 タチバナは、両脇を豊満な美女二人に固められるという、他の男から見れば羨望の的となる状況に置かれながら、文字通り宇宙人に連行される地球人のような足取りでダイニングへと引きずられていった。

 

 ダイニングルームの巨大な食卓には、厳一朗とベッキーの合作による、物理法則を無視したかのような異常な量の料理が山高く積まれていた。

 タチバナは、自分が座るべき主賓席へと強制的に案内された。

 

 右隣には、甲斐甲斐しく取り皿を用意するアンナがぴったりと寄り添っている。

 左隣では、ベッキーが「次はこれ食べてください!」と、山盛りの肉料理をタチバナの皿に押し付けてくる。

 ふと背後に気配を感じて振り返ると、クロエが無言で立ち尽くし、タチバナのうなじのあたりをじっと見つめている。耳が真っ赤に染まっているのが分かり、タチバナは首筋にゾクゾクと悪寒を感じた。

 

 そして、極めつけは正面の席だ。

 そこには、タチバナをここまで連行してきた張本人、首席副官のフィリア・アージェント大佐が、一切の感情を排した無表情で着席し、静かに紅茶を啜っていた。

 

 

(…なんだこの配置。針のむしろなんてレベルじゃない。俺に対する精神的な包囲網が完成してるじゃないか…!)

 

 

「さあケイイチ、遠慮せずにどんどん食え! 今日はお前の大好きなオムライスも、特大サイズで作ったからな!」

 

 

 厳一朗の陽気な声が、異様な空間に響き渡る。

 家族の平穏な食卓を求めて逃げ帰ってきたタチバナを待っていたのは、三人の変態侍女と氷の副官に完全包囲された、逃げ場のない狂宴の幕開けであった。

 彼の胃痛は、食事を口にする前からすでに限界を迎えようとしていた。

 

 右からはアンナがフォークとナイフを差し出し、左からはベッキーが山盛りの肉料理を押し付け、背後からはクロエの熱を帯びた視線が首筋に突き刺さる。そして正面には、冷徹な紫水晶の瞳でタチバナを観察するフィリア。

 タチバナは、目の前に置かれた巨大なオムライスから立ち昇る湯気を見つめながら、ついに耐えきれず、テーブルにドンと軽く拳を落とした。

 

 

「…頼む。食事くらい、一人でゆっくり食わせてくれ。お前たちは、そこで壁際に並んで待機してろ」

 

 

 タチバナは、可能な限り威厳を保った──つもりの、しかし実際には懇願に近い低い声で命じた。

 侍女たちは一瞬だけ不満げな表情を浮かべたが、上級大将たる主君の命令に逆らうことはできない。彼女たちは「かしこまりました」と口を揃え、音もなく後退すると、ダイニングルームの壁際に等間隔で並び、直立不動の姿勢をとった。

 

 

(…はぁ。これで少しは息ができる)

 

 

 タチバナは内心で大きな溜息を吐き、ようやくオムライスにスプーンを入れた。

 ふわふわの卵とケチャップの味が口の中に広がる。父の手料理は間違いなく美味しい。だが、背後から突き刺さる三対の強烈な視線が、味覚の半分を麻痺させていた。

 

 タチバナは、横目で壁際に控える三人の侍女をチラリと見た。

 彼女たちは、上級大将付きの専属侍女として、帝国の厳しい審査をクリアした超エリートたちだ。仕事の能力は非の打ち所がなく、スケジュール管理から衣服の修繕まで、文字通り完璧にこなす。

 だが、その完璧な仕事ぶりの裏に隠された「本性」を、タチバナは知っている。

 

 

(アンナの奴、いつも俺を赤ん坊か何かみたいに扱い上がって……。ちょっと咳をしただけで『お薬を飲みましょうね』って、胸に顔を埋められそうになるんだぞ。母性っていうか、もはや完全な支配欲だろ。ベッキーはベッキーで、俺が少しでも痩せたら世界の終わりのような顔をして、致死量のカロリーを無理やり口にねじ込んでくる。食事は味わって食うもんだろ、兵糧攻めじゃないんだぞ…)

 

 

 タチバナの視線が、最後にクロエへと向かう。

 彼女は相変わらず無表情で俯き加減だが、タチバナが視線を向けた瞬間に耳が真っ赤に染まるのが見えた。

 

 

(クロエが一番タチが悪い。言われる前に何でも準備してくれるのはありがたいが、俺がシャワーを浴びている間に脱ぎ捨てた下着の位置が、微妙に変わっていたことが何度あったか…絶対匂い嗅いでるだろ。というか、なんで俺の部下には変態しかいないんだ!?)

 

 

 恐怖と屈辱で胃がよじれそうになる。

 彼女たちの自分への矢印は、間違いなく「忠誠」と「愛情」であるはずなのだが、そのベクトルが常軌を逸しているため、タチバナにとっては暗殺者の刃よりも恐ろしいプレッシャーとなっていた。

 

 

「どうしたケイイチ、手が止まってるぞ? まだまだたくさんあるんだからな。遠慮はいらないぞ」

 

 

 向かいの席に座る厳一朗が、エプロン姿のままニコニコと笑いかけてくる。

 帝国経済の頂点に君臨する巨大財閥のトップを妻に持ちながら、自分は一切の権力に興味を示さず、ひたすら家庭の平和と息子の世話に全振りしている究極の主夫。

 

 タチバナは、そんな父の呑気な笑顔を見て、スプーンを口に運びながら自嘲気味に思った。

 

 

(俺のこのダメなところは、完全に親父譲りだな。面倒なことはしたくない、責任は負いたくない、ただ安全な家の中で美味しいご飯を食べてゴロゴロしていたい…俺だって親父みたいに、権力なんて全部誰かに丸投げして、専業主夫になりたかったんだよ…!)

 

 

 だが、タチバナの願いとは裏腹に、彼は今日、全宇宙艦隊の半分を統べる帝国元帥などという、銀河で最も責任が重く、最も命を狙われやすい地位に就かされてしまったのだ。

 

 

「…ふふっ」

 

 

 不意に、正面から微かな笑い声が聞こえた。

 タチバナが顔を上げると、フィリアがティーカップを片手に、その端正な顔の口角をミリ単位で上げていた。彼女が感情らしきものを表に出すのは、極めて稀なことだ。

 

 

「何がおかしい、フィリア」

 

 

 タチバナが小声で睨みつけると、フィリアはティーカップを静かにソーサーに戻し、冷ややかな視線を彼に向けた。

 

 

「いえ。元帥閣下は、本当にご家族と『優秀な部下』たちに深く愛されておいでですね。その重すぎる愛情に押し潰されそうになっている閣下のお姿を拝見していると、同情を禁じ得ません」

 

 

 それはテレパシーではなく、明確に声に出した皮肉だった。

 壁際に立つ侍女たちは、フィリアの言葉を「純粋な称賛」と受け取ったのか、少し誇らしげに胸を張っている。厳一朗に至っては「そうだろう、そうだろう!」とご機嫌だ。

 

 

(この鬼女! 絶対に助ける気なんてないだろ! 俺が怯えてるのを楽しんでるだけじゃないか!)

 

 

 タチバナは内心で激しく毒づいたが、ここで言い返せばさらなる墓穴を掘ることになる。彼は黙ってオムライスを口に押し込み、ただひたすらにこの針のむしろのような食事会が終わるのを待つしかなかった。

 

 やがて、異常な量のもてなしが終わり、タチバナはようやく自分の私室へと逃げ込むことに成功した。

 重厚な扉を閉め、電子ロックをかけた瞬間、彼は糸が切れたようにベッドの上へと倒れ込んだ。高級なマットレスが、疲労困憊した体を柔らかく受け止める。

 

 だが、安堵の時間は一秒も続かなかった。

 部屋には、タチバナに追従してきたフィリアが、すでに音もなく立っていたからだ。

 

 

「もう嫌だ…」

 

 

 タチバナはベッドに顔を埋めたまま、情けない声を絞り出した。

 英雄の仮面も、威厳ある上級大将の態度も、ここにはない。あるのは、理不尽な現実に打ちのめされた、一人の臆病な青年の素顔だけだった。

 

 

「もう嫌だ! 元帥なんて絶対に嫌だ! あんなの、一番最初に首を撥ねられる処刑の特等席じゃないか! 一万五千隻の指揮なんて取れるわけがない! 明日にでも辞表を書いてやる! パパの家の地下室に引きこもって、二度と表に出ないからな!!」

 

 

 子供のように喚き散らすタチバナを見下ろし、フィリアは氷のように冷たい声で言い放った。

 

 

「見苦しいですよ、タチバナ。今更何を言っているのですか」

 

 

 その言葉に、タチバナは顔を上げてフィリアを睨んだ。

 

 

「お前が全部仕組んだんだろうが! お前が勝手に俺の戦績を水増しして、勝手に皇帝にまで報告を回したから、こんなことになったんだ!」

「私が仕組んだ? 記憶を改ざんするのはやめてください。そもそも、あなたが私に何と命じたか、忘れたとは言わせませんよ」

 

 

 フィリアの紫水晶の瞳が、タチバナの心臓を物理的に貫くような鋭さを帯びた。

 

 

「『面倒なことはしたくない。前線になんて立ちたくない。でも、安全な後方で楽をして英雄扱いされたい』。…そう愚痴をこぼしたのは、他でもないあなた自身です」

「うっ…」

 

 

 タチバナは言葉に詰まった。確かに、彼はそう言った。

 

 

「私は、あなたのご要望に完璧にお応えしただけです。あなたが楽をして英雄になれるよう、私が完璧なシナリオを用意し、すべてを裏で処理し、力を貸して差し上げた。その結果が今のあなたの地位です。自らの望みが叶ったというのに、文句を言われる筋合いはありません」

 

 

 正論だった。ぐうの音も出ないほどの、完璧な正論だ。

 

 

(…っ! 確かに俺が言ったよ! でも、お前の用意するシナリオがハードすぎるんだよ! 楽をして英雄になるどころか、毎日が綱渡りの死の淵じゃないか!)

 

 

 タチバナは内心で激しく反論したが、それを口に出すことはできなかった。自分のクズな動機と保身がすべての発端である以上、フィリアを責める資格は彼にはないのだ。

 

 

「明日には、新たな『元帥府』の設立と、それに伴う人事の発表が控えています。皇帝陛下のご期待に応えるためにも、これ以上不様な姿を晒すことは許されません」

 

 

 フィリアの氷のような声が頭上から降り注ぐが、タチバナはベッドのシーツを強く握りしめたまま、顔を上げる気力すら湧かなかった。

 

 

「ほっといてくれ。俺はもう寝る。現実逃避させてくれ」

「駄目です。そのまま寝ては、最高級の儀礼用軍服がシワになります。軍の財産を粗末に扱うことは規律違反に該当します」

 

 

 言うが早いか、フィリアはベッドに突っ伏しているタチバナの襟首を掴み、まるで羽虫でも扱うかのように、仰向けにゴロンとひっくり返した。

 

 

「わっ!? 何をする気だ!」

「お着替えです。自分で動く気力もないのでしょう? 侍女たちに任せれば、明日の朝まで着替えが終わらない可能性がありますからね」

 

 

 フィリアの紫水晶の瞳には、一切の感情も、主君に対する敬意もなかった。彼女は流れるような、しかし一切の妥協を許さない暴力的なまでの腕力で、タチバナの軍服のボタンを引きちぎらんばかりの勢いで外し始めた。

 

 

「や、やめろ! 自分で脱げる! っていうか、まだシャワーも浴びてないぞ! 汗と冷や汗でドロドロなんだよ!」

「黙っていなさい。抵抗すると腕の関節が外れますよ。疲労限界の閣下に入浴などという非効率な真似をさせる時間はありません」

 

 

 タチバナの情けない抵抗など、人間離れしたフィリアの力の前に無力だった。彼は文字通り赤ん坊のように手足をバタバタとさせることしかできず、あっという間に儀礼用軍服を剥ぎ取られ、シャツを破られ、ズボンを引き下ろされた。

 

 

「きゃあ!?」

 

 

 突然、一糸纏わぬ全裸にされたタチバナの口から、およそ帝国元帥とは思えない、甲高い女のような悲鳴が漏れた。

 彼は慌てて両手で股間と胸を隠し、ベッドの隅へと体を丸める。

 

 

「な、何すんだよ! 羞恥心ってものがないのかお前は!」

「見苦しいですね。安心してください、タチバナ。貴方のその貧弱で無価値な肉体など、私の視覚情報処理においては単なる有機物の塊としてフィルタリングされています。観察する価値すらありません」

「貧弱で悪かったな! フィルタリングするなら最初から目を逸らせ!」

 

 

 タチバナが顔を真っ赤にして涙目で抗議するが、フィリアは全く意に介さない。彼女は無表情のまま、丸まったタチバナを見下ろすと、右手の指先を軽く鳴らした。

 

 パチン、という乾いた音が部屋に響いた瞬間。

 タチバナの身体を、淡い銀色の光が優しく包み込んだ。

 

 

「え…? なんだ、これ」

 

 

 光の粒子が、タチバナの肌の表面を撫でるように滑っていく。それは物理的な感触を伴わない不思議な現象だったが、光が通過した場所から、一日中かき続けた不快な脂汗のベタつきが嘘のように消え去っていくのが分かった。

 

 それだけではない。極度の緊張と恐怖で強張っていた筋肉の強張りも解け、まるで高級ホテルのバスルームで長風呂から上がった直後のような、完璧な清潔さと爽快感が全身を満たした。タチバナの身体からは、微かに石鹸のような清潔な香りすら漂っている。

 

 

(…すげぇ。一瞬で綺麗になった。そうだった、こいつ『精霊』なんだった…便利な力を持ってるじゃないか)

 

 

 タチバナがその超常的な現象に呆けていると、フィリアは容赦なく寝間着の袖を彼の腕にねじ込んできた。

 

 

「これで物理的な不潔さは浄化されました。さあ、早く腕を通しなさい」

「だから自分で着れるって言ってるだろ! 引っ張るな、腕が千切れる!」

 

 

 淡い光の余韻に浸る暇もなく、タチバナは再び乱暴な腕力でパジャマを着せられていく。

 

 

(…屈辱だ! 帝国元帥が、副官に全裸にされて悲鳴を上げて、魔法で洗われて無理やりパジャマを着せられてるなんて、銀河のどこを探しても俺だけだろ! しかも美少女と二人きりのベッドの上なのに、一切のエロさがねえ! ただの乱暴な強制労働じゃないか!)

 

 

 完全に寝間着姿にさせられたタチバナの上へ、フィリアは掛け布団をバサリと投げ落とした。シーツの端がタチバナの顔面にペシャリと覆い被さる。

 

 

「…っ、息が…!」

 

 

 布団から顔を出し、酸素を求めて咳き込むタチバナを見下ろしながら、フィリアはどこか冷ややかな満足感を漂わせた。そして、彼女の薄い唇から、微かに抑揚のないメロディが漏れ始めた。

 

 

「ねーんーねーんーこーろーりーよー、哀れな元帥よー。震えて眠れー、明日は地獄ー…」

「お前それ絶対わざとやってるだろ! 俺を馬鹿にしてるよな!?」

 

 

 一切の感情を排した、機械音声のような冷徹な子守唄。それは安らぎを与えるどころかタチバナの神経を逆撫でし、恐怖を増幅させるための呪いの歌でしかなかった。

 

 

「おや。疲労困憊の閣下に安らかな眠りを提供するための、私なりの配慮ですが? 届かなかったようで残念です」

 

 

 フィリアはミリ単位で口角を上げ、白々しく言い放つ。彼女は回収した儀礼用軍服を片手に抱え、私室のドアへと向かって歩き出した。

 

 

 これでようやく一人になれる。今日という悪夢のような一日が、終わる。

 タチバナが布団を頭から被り、ひたすらに引きこもろうとしたその時、ドアノブに手をかけたフィリアが、背中越しのまま静かに口を開いた。

 

 

「まあ元帥になったからといって、必ずしも後方勤務ではないのですがね」

「…は?」

 

 

 タチバナの動きが、ピタリと止まる。

 

 

「元帥とは全宇宙艦隊の司令長官。戦線が拡大すれば、士気向上のために総大将自らが最前線の旗艦に座乗し、皇帝陛下の御名のもとに前線を指揮する義務が生じることもあります」

「ま、待て。俺はもう安全な後方に引っ込んで、書類にハンコを押すだけの仕事になるって、お前言わなかったか…?」

 

 

 フィリアはゆっくりと振り返り、この日一番の、底冷えのする冷酷な微笑を浮かべた。

 

 

「大丈夫です。前線に出ることは少なくなりますから…たぶん」

「たぶんって何だ!? なんでそこに含みを持たせた!? おい、フィリア! 待て、ちゃんと説明しろ!!」

 

 

 タチバナの悲鳴を置き去りにするように、重厚な扉がガチャンと無慈悲な音を立てて閉ざされた。部屋の照明が自動で落とされ、漆黒の闇がタチバナを包み込む。

 

 暗闇の中、逃げ場のない現実と、再び最前線の死地に立たされるかもしれないという絶望を突きつけられたタチバナの魂の叫びが、静まり返ったタチバナ家の邸宅に響き渡った。

 

 

「ふざけるなァァァ!!」

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